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エホバの証人の個人研究ノート(終わり) このページをアンテナに追加 RSSフィード

2016-11-21

「エホバ」か「ヤハウェ」か問題。正しい読みは「ヤハーヴ」つまり「父なる神」という意味だ。

さて僕が長年研究している聖書。エホバの証人を悩ます。神の名前問題。ヘブライ語聖書は「yhwh」と呼んでいるのに、イエスは、まったく神の名前を使わないという問題だ。

父というのは「アーヴ」と発音する

父というのは「アーバ」「アーヴ」と発音する。また「w」は「v」とも発音される。

神というのは「ヤー」と発音する

神というのは「ヤー」「ヤハ」と発音する。「yh」に該当する部分だ。

つまり「yhwh」は「父なる神」に該当する

イエスやパウロは神の名を語らなかったのではなく「父なる神」=「yhwh」という考えで、語ったり聖書を書いたりしているということだ。

新約聖書から神の名は消えてはいないということだ

つまり、ギリシャ語聖書(新約聖書)から神の名が消えているように見えるのは、イエスが「父なる神」と語ったからであって、ヘブライ語聖書(旧約聖書)から、断絶しているわけではないということだ。

イエスは確かに神の名を語り、弟子たちに伝えた。そして、パウロは「父なる神」という表現で、神の名を表現しているんだ。

イエスはイスラエルで消滅していた神の名を復元し、弟子たちに伝えた

イエスは、イスラエルの間違った伝統によって消失していた神の名を弟子たちに伝えた。

エホバの証人は、神の名についての、主張において的を得ているが、聖書解釈において、無理をしてしまったように感じている。

「父なる神」「エホバ」「ヤーウェ」はすべて同じ意味

だから、クリスチャンが「父」「父なる神」と呼ぶことと「エホバ」「ヤーウェ」「アーヴ」と呼ぶことは、どれも意味的に等しいということだ。キリストはきっと「アーヴ」と呼んでいたのいたのでしょう。

現代人にとっては、「父」という意味が、その中に含まれていさえすれば、どんな呼び方でもよいのではないでしょうか。

2016-04-12

ノアの洪水は、もっと古い時代に起こったことだと考えればよい

 多くの神話が洪水伝説を持っている。だから、大洪水が起こったということが、人類の記憶として残っているのだと思う。

 海水面が現在より高く、アフリカの北部の陸地が、水に浸かっていた時代もある。そういう時代に、大きな台風や津波がきたら、そうとう恐ろしい災害が起こるだろうし、印象も強い。津波が来るときに、警告したのに避難しなかった人が犠牲になった可能性もある。

 モーセが律法書で書いた人類の誕生時期は単純に間違っていると思われます。モーセは、おそらく、文字が書かれ始めた時代を、人類の誕生時期だと考えたのでしょう。

 資料は過去にさかのぼればさかのぼるほど、正確性は失われ、歴史は伝承となっていきます。伝承は、真実を含んでいますが、それは、寓話的に表現されるものになります。伝承は、単なる作り話ではなくって、真実を含んだ寓話なのです。

 聖書の価値は、絶対的な真実性ではなくって、同時代における相対的な真実性です。

 あなたには、自分が1才〜2才の記憶がありますか。おそらく覚えていないでしょう。でも、親からあなたが、どのように振舞ったかを聞くはずです。それが、自分自身に関する伝承です。

 昨日のことは覚えているはずです、けれども、昔のことになればなるほど、正確性は失われ、寓話的な要素が強まります。

 どうか、創世記を読むときに、徹底的に馬鹿にして読むのはおやめください。歴史の記述というのは、伝承に連なっているものであり、そういうものなのです。

2016-02-22

ヘブライ語聖書の「エホバ神」が、ギリシャ語聖書の「父なる神」に該当するという仮説

 パウロは、よく「父なる神」という表現をよく行います。

わたしたちの父なる神と主イエス・キリストからの過分のご親切と平和があなた方にありますように。

(コリント人への第一の手紙)

 一方ヘブライ語聖書には、「父なる神」という表現はでてきませんし、神のことを「父」と呼ぶ箇所があるとしても、回数は少ないです。けれども、「エホバ神」という表現は、それなりにでてきます。創世記では、21回でてきます。

これは,天と地が創造されたとき,エホバ神が地と天を造られた日におけるその歴史である。

(創世記 2:4)

 もし、イエス・キリストが、神の名は「父=アバ」であると、弟子たちに伝えたならどうでしょうか。そう考えるとパウロが「父なる神」という表現を使い始めた理由も納得できます。それは、ヘブライ語聖書における「エホバ神」という意味で、使っているということです。

 パウロは、意識的に、神のことを「父」と呼び、イエス・キリストのことを「主」と呼びます。これは、イエス・キリストも同じで、神のことを「父」と呼び、自分のことを弟子たちに「主」と呼ばせます。

 イエスの敵であった、当時のユダヤ人の宗教指導者たちも、イエスが、神のことを「父=アバ」と呼んでいたことを伝えています。

彼が安息日を破っているだけでなく,神を自分の父と呼んで,自分を神に等しい者としているという理由であった。

(ヨハネ 5:18)

 つまり、神を父と呼ぶことは、1世紀当時のユダヤ人の慣習の中にはなくって、イエスが始めたことだということです(神の名を呼び求めていた古代イスラエルの慣習の復元として)。そして、パウロは、それを踏襲しています。

 ヘブライ語聖書の「YHWH」をすべて「父」という言葉に置き換えて一度、聖書を読んでみてください。そして、そうして読んでみたときに、ギリシャ語聖書との一貫性についても、確認してみてください。

2016-02-20

イエスが知らせた神の名は、「エホバ」ではなく「アバ」

 イエスは、「テトラグラマトンYHWH」をなんと発音していたかという疑問がありますが、それは、おそらく「アバ」でしょう。「エホバ」ではなくって、「アバ」です。初期クリスチャンも、イエスにならって「アバ」と呼んでいたはずです。

そしてさらにこう言われた。「アバ,父よ,あなたにはすべてのことが可能です。この杯をわたしから取り除いてください。

(マルコ 14:36)

 パウロも同じように。

あなた方は,再び恐れを生じさせる奴隷身分の霊を受けたのではなく,養子縁組の霊を受けたのであり,わたしたちはその霊によって,「アバ,父よ!」と叫ぶのです。

(ローマ 8:12)

 アバとは「父」という意味です。それで、以下の文脈でイエスが言おうとしていることがわかります。

義なる父よ,確かに世はあなたを知っていませんが,わたしはあなたを知っており,これらの者たちも,あなたがわたしをお遣わしになったことを知っております。そしてわたしはみ名を彼らに知らせました。

(ヨハネ 17:25-26)

 福音書以降で、神の名がまったく現れないように感じるのは、実は、神の名が使われていないのではなく、その名前が、「アバ」つまり「父」に置き換えられているからです。

 福音書以降では、「父」という表現がたくさんでてきます。これは、ヘブライ語聖書との、大きな差異です。

 発音が、失われた神の発音は、イエス・キリストが「アバ」として、復活させました。それゆえ、イエスは、「アバ」と神に呼びかけます。

 神は、名前で呼びかけられなくなったわけではなく「アバ」という名前で、呼びかけられています。ヘブライ語聖書で、ダビデが「YHWHよ」と呼びかける場所は、ギリシャ語聖書においては「アバよ」となります。

 キリストは、ダビデが神に呼びかけた感覚を、そのまま継承しており、その表現において「アバ」と呼びかけます。

2014-10-27

祭りとは何か

 先週は、祭壇とは何かということについてお話しました。簡単に結論だけいうと、神が食事をするためのテーブルだというものです。

 では祭りとは何でしょうか。僕たちエホバの証人にとって祭りは、どこかバビロンチックで忌避すべきものというイメージが強いかもしれませんね。

 しかし、イスラエル人は、祭りを行っていましたね。つまり、祭り自体が悪いものというわけではなくって、問題視されるとすれば、偶像崇拝と結びつく祭りです。

 では、偶像崇拝と結びつかない祭りとは、いったいどんなものなのでしょうか。そのことの理解が深まれば、子供たちが楽しむことができる祭りを企画することができます。

 子供たちは、食べ、集まり、声を出し、楽しみたいのです。もし僕たちが、子供たちから、このような時間を奪っているのであれば、代わりの物を準備する必要があると思います。その努力なくして、奪うだけというのはいけません。

祭りのひとつの種類は、神とともに集まり、食べ、楽しみ、にぎわうということ

 祭りのひとつの種類は、神とともに集まり、食べ、楽しみ、にぎわうということです。ひとつの種類と保留をつけるのは、過ぎ越しの祭り(無酵母パン)の祭りは、少し趣旨が異なるからです。

 ひとつの例として、ネヘミヤが城壁を完成させた年の7月1日の祭りの描写を見てみましょう。祭司エズラは、このように語ります。祭りのひとつの意味が、この言葉に要約されていると思います。

次いで彼は[民]に言った。「行って、肥えたものを食べ、甘いものを飲み、何も用意ができていない者にはわけまえを送りなさい。この日はわたしたちの主にとって聖なる[日]だからです。気を

悪くしてはなりません。エホバの喜びはあなた方のとりでだからです。

(ネヘミヤ8:10)

 肥えたものを食べ、ない人には分け与えなさいといっていますね。そして、すべての民で喜びましょうといっていますね。

 集まり、食べ、楽しみ、にぎわっています。これが、祭りのひとつの形です。

 もちろん羽目をはずして泥酔とかは、いけませんよ。でも、祭りとは、集まり、食べ、楽しみ、にぎわい、喜びを基調としています。もしかしたら、親たちは、抑圧こそが聖なるものの条件と考えるかもしれません。

 しかし、それは聖書の一面的な見方で、肥えたものを食べ、甘いものを飲むことも、聖なる日と結びついています。神は、ただ抑圧だけを、かける方ではないのです。

2014-10-21

祭壇とは何か

 聖書を読んでいると「祭壇」という言葉がでてきます。僕たちは、「祭壇」という言葉で何を思い浮かべるでしょうか。

 たとえば、祭壇といえば、ピラミッドのようなものがあって、その上で、いけにえに犠牲がささげられるような、そういうイメージがあるかもしっれません。少なくとも、儀式的なイメージを持ってしまうと思います。

 聖書中で祭壇とはなんでしょうか。答えを書いてしまうと、それは「神の食卓」です。

祭壇は神の食卓である

 創世記にでてくるヤコブは、ところどころで、石を積み上げて、祭壇を作ります。何か偶像っぽいイメージがしませんか。祭壇という言葉と石という言葉を聞くと。

 でも、これは実は、神の食事ための石のテーブルなんですね。それを、表現している、聖句をみてみまっしょう。

そこでヤコブは,[神]が自分と話をされたその場所に柱すなわち石の柱を据え,その上に飲み物の捧げ物を注ぎ,また油をその上に注いだ。

(創世記 35:14)

 飲み物と動物の油を、石の柱の上に注いでいますね。つまり、これは、神の食卓を表現しています。

神とともに食べるという概念を心に留めておく

 実は、食べるということは、神にとっても、イエスにとっても大切なことです。ヤコブとラバンの場合もそうでしたが、ともに食べることによって和解をしました。

 神とともに食べるということは、人と神との和解をも表現しているからです。それゆえ、パンとぶどう酒を与え、ともに食事をするということが、神との和解を意味しています。

パンは一つですから,わたしたちも,たとえ大勢いるにしても,一つの体なのです。わたしたちは皆,その一つのパンに共にあずかっているからです。

(コリント第一 10:17)

2014-07-24

主とエホバ

 イスラエルの神エホバは、自分の子を地上に送った。イエスは、神の名について語り、父と呼んだ。

 イエスは、『律法と預言者たち』の中で「エホバ」と書かれている方を父と呼び、「主」と書かれている人物を自分に当てはめた。

 イエスは一貫して「エホバ」と書かれている方を「父」と呼びました。自分については「主」「師」「先生」「メシア」「人の子」「神の子」などと呼ばれていました。

わたしの主に対するエホバのお告げはこうです。

「わたしがあなたの敵をあなたの足台として置くまでは,

わたしの右に座していよ」。

(詩篇 110:1)

 ダビデが「主」と呼んでいるのは、第一義的には、サウル王のことです。預言的な意味としては「イエス・キリスト」を指しています。

 カトリックの人やプロテスタントの人が語る見方とは、僕は観点が異なっています。彼らは、「エホバ」に該当するものが、「主イエス」だといいます。

 でも僕は違うと思います。「エホバ」に該当するものは「父」です。「主」に該当するものが「イエス」です。

カトリック、プロテスタントの見解

エホバ → 主イエス

僕の見解

エホバ → 父

主 → イエス

 この対応関係が大切なんじゃないかなと思います。

2014-07-15

杭と十字架

 杭と十字架について、僕が考えていることを話したいと思います。この区別は重要なのでしょうか。それともそれほど意味がないのでしょうか。

杭が象徴しているのは、神に対してのろわれたものであるということ

 そもそも処刑の道具として、一本の杭であったのか、二本の杭(十字の形)であったのかということは、重要なことではないと思います。重要なことは、一本であろうと、二本であろうと、杭にかけられて処刑されたということです。

 ですから、訳としては、1本とか二本にこだわる必要はなくって、杭というニュアンスが伝わる言葉がよいと思います。処刑された刑具はその当時もちいられていた刑具であったと考えるのが自然でしょう。

 細部にこだわると、大切な内容が吹き飛んでしまいますね。大切なことは、杭にかけられるということが、神にのろわれたものであるということを象徴しているということです。

「また,ある人に死の宣告に価する罪があってその者が死に処せられ,あなたがこれを杭に掛けた場合,その死体は夜通し杭の上にとどめられるべきではない。その日のうちに是非とも葬るべきである。[杭に]掛けられるのは神にのろわれた者だからである

(申命記 21:22-23)

 イエス自身に罪は何もなかった。しかし、強盗と並べられて、極悪人のようにみなされ、さらし者になって死んだ。イエスは「神よ、どうしてお見捨てになったのですか」と叫んで死にました。

 イエスは、まさに、神にのろわれた者として死んだのです。

 ですから、刑具の細部の形にこだわる必要はなくって、おおむね、当時使われていた処刑具で処刑されたと考えていればよいと思います。

 大切なことは、杭にかけられるということが「神にのろわれた者」を象徴しているということです。この内容の部分のほうに着目するのがよいと思います。

2014-04-01

「主」は何を指しているか

 イエスの時代には、神の発音はすでに失われていました。古代ヘブライ語は、子音しか含まないので、母音の発音は、一度失われてしまえば、復元できません。

 イエスや弟子たちが故意的に神の発音を隠したわけではなく、1世紀には、ユダヤ人の間で神の発音は失われていたのでした。神の名を呼ぶことは罪とみなされました。

 それゆえ当時の人々は、ヤハウェで表される神のことを、ただ「神」と呼んでいました。律法書や預言書を朗読するときは、ヤハウェの部分を、アドナイと呼んでいたようでした。これは主を意味します。

 聖書朗読をするときに、アドナイがでてくれば、それはほとんどの部分では、ヤハウェのことでした。

 イエスや弟子たちは、ヤハウェのことを「神」または「父」と呼びます。またイエスのことは「主」と呼んでいました。イエスは、聖書を朗読するときは、当時の習慣に従って、ヤハウェのことを主といいますが、自分で語るときは、常に、ヤハウェを「神」または「父」と呼びます。

 イエスは、頭の中では、完全に、ヤハウェと自分(主)を常に区別をしています。僕は、イエスが生きていた当時は、ヤハウェを表す主と、イエスを表す主は、混同されてはいなかったと想像しています。

わたしのに対するエホバのお告げはこうです。

「わたしがあなたの敵をあなたの足台として置くまでは,

わたしの右に座していよ」。

(詩篇 110:1)

 イエスが弟子たちに自分のことを主と言わせているのは、詩篇のこの聖句の中で主となっているほうの主であって、エホバのほうではありません。

 つまり、僕の仮説は、当時、ヤハウェを意味する主と、イエスを意味する主の間の区別ができていたということです。弟子たちも区別ができていたが、後世に至るにつれて、混同が生じたものではないかということです。

 ヤハウェという呼び方はすでに使われてはいなかったが、何らかの形で当時の人々は区別できていたんじゃないだろうかという仮説です。

 もしそうであるならば、区別を復元するという試みは、案外無意味なものではない気が僕はしています。その点でいえば、新世界訳聖書は読みやすいです。

2014-03-28

神の存在する場所について

 神はどこにいるかという質問に対して、どこどこだと答えることはできないと思う。「天に」と答えることもできるし、「あらゆる場所に」と答えることもできる。

 神は、物理量ではなく、霊であられるので、その存在のあり方は、人が神をどのように表現するかで変わってくる。

 神の権威について、表象するときは、天という表現が使われることが多い。

ご覧ください,天も,いや,天の天も,あなたをお入れすることはできません。

(列王第一 8:27)

 ソロモンが立てたエルサレムの神殿に関しては、心がそこにあるといいました。

そして今,わたしは,わたしの名が定めのない時までもとどまるこの家をまさしく選んで神聖なものとする。わたしの目とわたしの心は確かにいつもそこにあるであろう。

(歴代第二 7:16)

 アブラハムに対しては、共にいるといいました。つまり、近くにいるという意味ですね。

「わたしはあなたの父アブラハムの神である。恐れてはいけない。わたしはあなたと共にいるからである。

(創世記 26:24)

 神は、天の天におられますけれど、わたしたちのひとりひとりのそばにもおられます。わたしたちが、権威を表象するときは天に、身近さや愛を感じたいときは、そばにおられます。