右翼と左翼
- 作者: 浅羽通明
- 出版社/メーカー: 幻冬舎
- 発売日: 2006/11/01
- メディア: 新書
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- 新書は読みやすいから新書なんだろうなぁー
- 世界史を知らなかったので、近代ヨーロッパ思想の基本的な流れを確認できた
- 経済・産業・思想の近代化がどのように関係しあいながら現代へとつながってきたのだろうか。現在では当たり前になった核家族化とは、思想によるところ自由・平等、産業によるところ効率化、経済によるところ庶民の中流化、それぞれが絡み合って生じた結果(の一つ)なのだろうな
- 理論と情という対立なのか
- すべては立場による対立なのか。論理思考による理想があって現状と対立しながら理想に向かっていくものだと思っていたが、現実社会というのはそうではないのだね
- 外側から観察する嫌な奴という立場が文系ヲタには存在する
読後感想
- 全体の流れ
- 左(=マルクス主義)を歴史的ポジションとして説明し、「右−左」論の本質を説明。
- 日本の「右−左」論は、「顕教−密教」であるとする久野収の戦後日本のダブルスタンダードを鍵として説明。
- 最後には、「右−左」を軸として、日本現代史を読み解く試みをしている。このあたりまでくると言いたい放題で、書いていて楽しくなっちゃった感がある。
第一章を読むにあたって感じたこと。
右と左というのは、ニセ科学の二項対立と同じなのかと思った。社会現象などを分かりやすく単純化するには対立軸を描くのが基本だ。
日本において、左(を主張してきた人達)というのは巧妙に姿を変えている気がする。最近の例では、atという雑誌。*1
現代人の漠然とした印象で、右と左をわけたと表をみて感じたこと。
- 権利と財産を分離するのが左?
- 「公」というのは、封建制の下での「公」なの?
- 同じ立場にありながら対立する信条・主義に印をつけたということか、なんにしても御自分主義はなはだしいな。
- すでにリベラルな考えが定着していて、反体制的なマスメディアの論調をニュートラルだと思い込んでいる人達が、それなりに多く居そうだ。
スペシャルオリンピック(SO:日本支部の会長は細川さんの奥方)ってのを知って、そういう甘美なスローガンが好きな人達って、ヌルイ人権主義が好きなんだなぁーって。
左というのは、力無き者たちによる革命なので啓蒙活動によって同士を増やさなければ、体制に対抗できなかったわけだ。だからこそ甘美なスローガンにどうしても繋がってしまう。*2
この章のおわり(p48)にて、「深く知識を蓄えているように感じさせない」という感想を(ぼくが)記しているが、これは半分正解で半分ハズレだったようだ。著者の浅羽さんは社会学者であり、この本は一般的な書籍を読みまとめることで知を組上げようとする試みのようだ。すんげぇーとうならされる。
第一章を通じたまとめ
まず、物事を抽象化するには、本質にいかに迫るかという方法が必要になる。大概の場合の科学的アプローチとしては、
- 空間を固定して前後の時間における対象と比較する
- 時間を固定して異なる場所における対象と比較する
ということから不変・不偏なものを取り出すという手法を用いる。この本においても「中世ヨーロッパの近代化時代」において利用している。既に歴史のものとなっている事柄を分析するには向いているらしく、非常にわかりやすくブレがない。
(第一章においては、空間を現代日本に固定して解析を試みている。)
第二章を読んでいるときの感想
民主主義とか社会主義とかの政事体制は、対-王制という構図が明確になるフランス革命が起点となっているのだろうか。また、いわゆる左派の場合、民意としてマスが必要になるので、多くの民衆に思想をプロパガンダする必要がある。
特権(既得権)に対する、脊髄反射は洋の東西・今昔を問わないものだな、それは根本に貧乏根性があるからだろうか。これは現代の資本家(株主・地主・経営者・政治家)に対応することを暗に示したいのだろうか(最近流行のホワイトカラーエグゼンプション)
かといって、虐げられている側のプライドとしての選民主義的態度も気持ち悪いもんだ(ユダヤとか)。
第三章 とくになし
第4章を読んでいるときの感想
近代以前、ナショナリズムは希薄だった(p104)
この項はスゴイ。他の時代や地域へも拡張できる。フランス革命以後の流れというのは、近・現代史の流れに一定の符合を持つ。
自由への系譜は、身分格差解消→政事格差解消→経済格差解消と広がっていったように感じる。(官僚主義・保護規制の目立つ)日本が社会主義国家だと言われる理由がわかった。
ぼくがこれまでで勘違いしていたことがわかった
-
- 誤: まず理想とすべきモデルがあって、社会は自然とそれに向かうものだ。
- 実: 各々の人間が自分の立場が有利となる主張を毎度毎度にしているにすぎない。
- 自然真理 vs. 現象派 といったところだろうか。
インターナショナル(国際)という言葉には、(左特有の)夢や理想がのっかった言葉だったのだ。だから時代の若者たちはインターナショナルとか海外とかに憧れを抱いたのだろうか。
ブルジョワ階級に庶民が対抗出来る術は、消費者としてのパワーだけだろうか?
革命による、自由と平等の実現という点においてチェ・ゲバラが憧れの対象となっていることを理解できる。
第5章を読んでいるときの感想
ここまでで、本質を語ってしまったので、これ以降は退屈なのだろうか。
もとより主情的な「右翼」は、みづからが自爆的に死ぬロマンティックな行動で人々の心情に訴えようとし、どちらかといえば主知的な「左翼」(小林多喜二など)は、思想と組織(共産党など)が命じる氏名を、拷問や諸兄の危険も厭わず、機械の部品のごとくクールに果たそうとします。(p153)
面白い表現。
第6章を読んでいるときの感想
密教と顕教の比喩を用いて解説している。政は社会の暗部であるからして、神聖なる天皇には政治的決定権は無いですよと。そういう認識が政府主導部にはありました、だってさ。(p162)
自由党なども、社会主義、共産主義運動を妨害するため、暴力団らを右翼へと組織し、たとえば六〇年安保の市民デモへ日本刀を抜いて殴りこませるといった工作をしたのです。(p183)
「ヤ」の政治的利用。
今から思えば、防衛問題と同様、ここでも、「左」はトスを上げ、「右」はそれを受けて官僚など実務部隊により実行するという役割分担、棲み分け図式が見られますね。最大の左翼政党日本社会党などは、高度経済成長による儲けから、官庁や大企業の労働組合「総評」への分け前をがっちり要求するロビイストとして、自民党へぶらさがる諸団体同様、利益分配政事の一翼を担ってゆくのでした。(p186)
このページの痛烈な評価は面白い。
そこで新左翼の人々は、日本人の大多数を幸せにしつつあった高度経済成長の欠陥を、以後あげつらい続けました。公害の被害者、身障者や精神病患者、在日や被差別部落といった究極の弱者、被害者、被差別者を見つけては、社会全体のあり方が原因だと訴えたのです。しかし、こうした人々さえ、既に説明したように高度経済成長がもたらした豊かさと、社会党ら「革新」政党の突き上げで自民党と官僚が立案した社会政策によって、それなりの救済を与えられつつあったのでした。(p190)
この辺が現在のゆがみの素地であるか。
ここでの高度経済成長による民衆全体の豊かさが、「上げ潮」というやつで、これによって自分たちが(本質的に)直面している問題を見えなくしてしまっている。自由主義に傾いている場合でも民衆の生活が向上しているので気づく必要はない。社会主義に傾いている場合でも自己利益を追求すべき資本家にも十分な利ザヤが生じるために問題に気づかない。結局のところ経済の台頭のみが残ってしまったのではないかと思う。
(p194)
- 作者: 島田雅彦
- 出版社/メーカー: 新潮社
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(p194)
- 作者: 磯田光一
- 出版社/メーカー: 集英社
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アイデンティティを求めての参加(p196)
豊かさの反動か、キッツいなー(この人の批評は)
島田とほぼ同世代のコラムニスト中森明夫氏は、九〇年代末、社会主義、共産主義はなくなっけど、社会趣味、共産趣味は生き残っているという名言を吐きました。(p197)
他人との折り合いの悪さや肥大した自意識から、居場所を狭め承認欲求を抱えてアイデンティティを模索する若者はいつの時代にもいます。殊に豊かさが大衆的に教授される世の中では、かつてなら特権階級のものだったこうした苦悶もまた大衆化します。雨宮のごとき少年少女は日々生まれ、自らが自らである証を実感したくて、サブカルチャーを追い、さらには新宗教カルトや過激で異形な政治活動にも魅惑されてゆくのでしょうか。
- 作者: 雨宮処凛
- 出版社/メーカー: 太田出版
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(p197-198)
- 作者: 沢木耕太郎
- 出版社/メーカー: 文藝春秋
- 発売日: 1982/09
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酷い言い様。
「右翼」「左翼」はもう、サブカルチャーですらない、「むかつき」とか「へたれ」とかいった生理的反応や傾向と同列に語られる何かへ近づいているのかもしれません。(p200)
斬りっぷりの良さがかっこよいですね。
第7章を読んでいるときの感想
(p204)2ch.における良い人願望というやつか。
結局、どちらもこれまで形成してきた「自分」を防衛したいという、なんとも受身でごく私的な「思想」への受容なのでした。(p206)
例の「傷つきたくないから傷つけない症候群」と同じ病因だな。
阿部晋太郎=しょぼいパンダ
労働者に対する雇用側の発言(WEとかのような搾取型の提言)は、むしろ反発を煽るための、新社会体制への布石かと思わせる。
経済軸、外交軍事軸での「右」「左」が既述のように、損得勘定で判断するべき散文的な政策の分類と化しているのも、これでは無理もないでしょう。(p227)
(いわゆる左翼のやつらが引っ張り出してきた理論的な話として、引き合いに出されている)
さらには、人権保障も議会制民主主義も実現し、平和で安全、物質的に豊かな福祉国家で一見、幸福そうに生きる人々も、「本当は」高度資本主義のシステムによって高度に管理され画一化された家畜かロボットのような生を営まされているのであって、「本当の」人間らしい生き方から遠いものとされ(自己疎外)ているという、どこか余計なお世話っぽい考え方が唱えられました。(p228)
これもまたキッツいなー。確かにゆうだけになってしまって、実行されなければうざい岳だよなー。
こうした哲学的新左翼は、かつてのマルクス主義における共産主義のごとき、彼らが批判する現代社会の代案となる具体的なユートピア構想をほとんど有していません。その結果、どうしても現実批判のための現実批判を延々と展開してゆくばかりとなって、祈れども顕現しえぬ神やいつか到来する千年王国を待ち望む一種の神秘宗教のごときものと化してゆきます。フーコー以下、アドルノ以下の哲学者たちの多くがユダヤ系であるのも決して偶然ではないでしょう。(p229)
これは酷い。
文化相対主義(p230)
フーコーの手法については、一度、読んでおいたほうがよいな。
エピローグ 特になし
面白そうだと思ったほかの人たちの感想。
*1:現代農業特集みたいな記事が目に付いたが、中身が思想に凝り固まっていて物騒な感じだったので、編集後記のようなものを見てみたら、ライターや編集がソッチ系な感じだった
*2:さらに言うと「甘い言葉=気持ち悪い」という個人的な印象は、本来の同士ではなく権力拡大のための道具としての同士募集というマルチまがいに似た印象が原因となっているのだろう