Hatena::ブログ(Diary)

足立恒雄のページ

2005-04-10

田中 王堂のこと(初出『エピソード 稲門の群像 125話』:1992年)

田中王堂(1867〜1932)の墓が所沢の近くにあるということは判沢弘さんの著書『土着の思想』で知っていた。王堂は所沢では余り有名ではないのか、少し苦労したが、結局、西武池袋線所沢駅から車で15分ばかりのところにある三富山多福寺という臨済宗の寺に葬られていることが判った。三富(さんとめ)とは上富、中富、下富の総称で、王堂は中富に生れたが、菩提寺の多福寺は三芳町上富に所在する。

王堂の墓は多福寺の境内にあって別格の扱いを受けている立派なものであった。前面の墓碑銘には「個人にとっても又社会にとっても幸福なる生活は唯一の欲望と他の欲望と、或いは一の活動と他の活動との正当なる関係を正当に確取するより外にない 王堂」と刻まれている。

ドイツ観念論的思考方法(マルキシズムを含めて)が制圧していた当時の思想界にあって、王堂はプラグマティズム自由主義個人主義を唱えて「早稲田学派」を率い、気を吐いた。校庭の銅像に象徴される勤勉、節約、貯蓄の塊という二宮尊徳観を、王堂は、経済学者としては凡庸であるとして退け、ドグマにとらわれないプラグマティズムの先覚者という側面を見出して大いに称揚した。

生きた魚には骨も皮も付いているのであって、刺身の形で泳いでいるわけではない。木も四角い柱の形で生えているのではない、「人道は作為の道にして自然の道にあらず」。一方、獣は自然のままに生きている。これこそ人と獣の違いだと尊徳は喝破した。また、釈迦孔子も人の子、それぞれの説は必然的に偏ったものなのであるから、その教えに盲目的に囚われるのは馬鹿気ている、良いところだけを取れば良いのだとも尊徳は述べている。こういう自由な思考を王堂はもっとも大切にした。二宮尊徳の江戸時代の人とも思えぬ新鮮さを発掘し得たのも王堂ならではと言える。墓碑銘は二宮尊徳と王堂の精神的な絆を明瞭に示すものであると思う。

裏面には、

徹底せる個人主義者自由思想家として最も夙く最も強く正しき意味に於て日本主義を高唱し我国独自の文化の宣揚と完成とに一生を捧げたる哲学者王堂田中喜一此処に眠る 昭和七年五月九日逝去 享年六十六

と記されている。墓石にはこの文章を記した人の名前はないが、これは石橋湛山の撰文である。

墓は堂々としているが、私が拓本を取るために二度目に訪れたのは王堂の命日直後であったにもかかわらず、近ごろ王堂の墓を人が訪れた形跡はなかった。早稲田学派の指導者であった王堂の系譜の哲学者が早稲田にはいず、王堂をほとんど唯一の師と仰ぐ石橋湛山の研究家も早稲田にはほとんどいない現状をなんとなく暗示しているような風情であった。

難しい純理だけを追求する学問をやっていては、しょせん国立大学や研究所の補完か後追いでしかない。王堂や湛山を初めとする「世に生きる」実学を目指すという建学の精神をもう一度見直すべきときのように私には思われる。