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2006-04-06 理工学部の改革を数学者の視点から見る

理工学部の改革を数学者の視点から見る

(『数学教育学会』vol.46, No.3-4 (2005)より)

理工学部は2008年に設立100周年を迎える。それを機会に大きな改革に取り組 んだ。次は日本数学教育学会誌(2006年)に書いた記事で、私の目から見た理 工学部改革の総括である。

1. 数学至上主義
2. 早稲田大学理工学部小史
3. 理工学部の現状
4. 改革の内容
5. 応用数理学科の新設
6. 動くものだけが生き残る

1.数学至上主義

江戸時代の数学(和算)の特徴の一つはそれが芸道であったということだろう。 江戸時代というのは明治維新以来喧伝されてきたのとは異なって、文化度の高 い、豊かな世界であったことが徐々に知られてきているように思われる。どの 地方(藩)も学問・芸術の振興に熱心で、高名な学者を競い合うように招聘し たのと同様、富裕な農民・町民層は書家、絵描き、俳人などを招いて芸道の精 進に励んだものである。たとえば『奥の細道』はワビ・サビを主題とした芸術 作品であって、芭蕉自身がそこに描かれたような、ワビしい旅を続けたという わけではない。

同様に和算家たちも、暦学などの専門家を除けば、贔屓の旦那衆を頼って歴遊 し、算学を教えて生活していたのである。そういう和算家がどういう目的をもっ て数学を研究したかといえば、それは琴棋書画における芸術至上主義と同じく、 数学のための数学、つまり数学至上主義であったろう。和算がこうした傾向を 持つのは、他の学芸との交渉がほとんどない、外的刺激を受けない小世界とし て存在したという状況からすれば、当然の成り行きであって、端的に言えば、 幕末時には同じタイプの問題に使われる円の個数が増えていくだけという、袋 小路に陥っていたと言えるだろう。

一方、西洋の数学も数学至上主義と無縁とはいえない。たとえばフーリエを実 用主義者として批判したヤコービの「人間精神の名誉のために」という言葉は 数学至上主義を標榜するモットーであろう。(しかし、フーリエが登場するま で、当時数学にはもうやることは残されていないと考えられていたことを忘れ てはならない。カントルがフーリエ解析の研究から集合論に入ったことを考え れば、実用主義者フーリエがいなければ集合論すら誕生しなかったことにな る。)したがって現代の数学は実用主義と芸術主義との並立、ないしは調和、 ないしは相克の上に成り立っていると言える。日本の数学者に限って言えば、 しかしながら、どちらかといえばこれまで和算的数学至上主義の傾向が優位な ように思われる。私自身を振り返ってみても、専攻する学問(整数論である) 以外には関心が持てなかった若い頃は、整数論の美しさ、深遠さ、難解さとい うような言葉を有難がっていたような記憶があるが、数学史を勉強し、あるい は近辺の数学や物理学などを勉強したりするうち、応用数学と純粋数学とは車 の両輪であって、どちらに偏っても数学全体を見ているとはいえない、数学界 が健全とはいえないという考え方に変わっていった。特に最近は私学の理工学 部長という立場になって、この考え方は確固としたものになった。

2.早稲田大学理工学部小史

早稲田大学理工学部は2008年に設立100周年を迎える日本で最古の理工学部で ある。創立者大隈重信は、日本の将来は科学技術の振興にかかっていると考え て、建学の当初から理学科を設置したのだが、学生が集まらず2年で閉鎖した。 (当時、大隈重信の養子で初代学長を勤めた大隈秀麿はプリンストン大学の数 学科の卒業生で、みずから数学の授業を受け持ったというのは数学関係者には 興味のある情報かもしれない。)大隈重信は理科の閉鎖を「千歳の痛恨事」と 嘆いたという。しかし、雌伏すること20余年、財政上の支援者を得てようやく 念願の理工科の設立にこぎつけた。応用(工学)を目指す者はまず基礎(理学) を大切にしなければならないとして、理工科(現理工学部)を作ったのである。

工学には基礎理論(たとえば数学)など不要で、技術さえ身につけばよいのだ、 あるいは、発明・発見には理論は無用だと考える風土が、今でも工学系には根 強くある。従って基礎理論と応用の調和という考え方は、当時としても現在で も、決して自明な主張というわけではない。

世間的にはそのように標榜したとしても、実際に理学系の学科ができたのは 第2次大戦後のことで、数学科が最初であった。

理工科設立当初2学科であったものが、時代の要請に応じて増設され、13学科 となって現在に至っている。しかし、早稲田の理工学部はかくあるべしという、 思想、デザインに従って設置が進められたということはなく、建築に譬えれば、 そのときそのときの需要に従ってアドホックに増築されていったというのが本 当のところだろう。私学の工学系学部にどうして数学科や物理学科が必要なの か、議論の末生まれ出たものではなく、総合大学としての体裁を整えるために 必要だったというのが真相ではなかろうか。諸先輩から数学科設置の理念といっ たものを聞かされた記憶はない。日本の国力の増大期にあって、直接応用に関 係しない学科を持つだけの余裕が出てきたということでもあろう。

理工学部設立以来の最大の出来事は、今から40年余り前に、大学創立80周年の 記念事業として、本部のある西早稲田キャンパスから現在の大久保キャンパス へと移転したことである。それまでの夜間学部(第二理工学部)と昼間学部 (第一理工学部)を合併して学生数を増やし、大人数教育を実現することによ る財政的な自立の実現を謳い文句とした。大人数教育に対する強硬な反対があっ たが、現在までも語り伝えられる激論の末、新キャンパス移転を強行した。も し移転していなかったら、現在も西早稲田キャンパスに逼塞していることにな る。この事実だけを取ってみても、大久保移転は当時の執行部(難波正人学部 長(機械工学科):心労のため3期目の任期途中で急逝された)の英断であっ たと私は評価している。これに加えて、高度成長期の産業界に多数の人材を送 り込んだ実績が現在の早稲田の理工学部の名声を支えていることを考えれば、 評価は一段と高いものになるだろう。

3.理工学部の現状

90年代、バブルがはじけた後、日本は失われた10年と呼ばれる時期が続いた。 不思議なことに日本の沈滞と時期を同じくして、早稲田大学も、ライバルの慶 応義塾大学に遅れを取っていると、週刊誌からさんざん叩かれるようになって いた。かつては許され、評価された大人数教育も批判の対象になってきた。老 舗とされる組織に安住するうちに、いつの間にか時勢に取り残されるというの は良くある話だが、その一つの例であった。中に居て、研究室と家を往復する だけの人にとっては、何がそんなに問題なのだろうといぶかしく思えたに違い ない。

「火宅の喩え」という言葉がある。外は火事が迫っているのに、家の中では子 供たちが気付かずに楽しそうに遊んでいる様子が法華経に描かれていて、これ が火宅の由来だが、正に当時早稲田は火宅状態にあった。

2001年、前学部長のときに、理工学部は自主的に外部評価を受けたのだが(そ の委員の一人が当学会長の藤田宏さんであったということは何かの機縁であろ う)、

1. 木(=学科)は立派に育っているが、森が育っていない。雑居ビルのようである。
2. 学科間の壁が高すぎ、学部の規模が大きいことのメリットを享受していない。
3. 司令塔(学部長室)が十分機能していないため、将来構想が打ち出せないでいる。

と真に厳しい指摘をいただいた。とくに数学科(数理科学科)については「分 野の性格上、外との交流は困難」と公言する独善振りには目に余るものがある とされた。これは早稲田に限ったことではないと思うが、急所を突いた指摘と 言うべきであろう。

4.改革の内容

私が学部長に就任したのは2002年9月のことだが、前学部長の時代から懸案と された制度疲労を正し、沈滞を打破する手段を編み出すことを目的として、3 年近く議論を重ねた結果、2007年4月をもって、次のような編成で臨むことが 決まった。

1. 理工系組織全体をまとめて一つの学術院(faculty)とする。
2. 学術院内に基幹理工学部・研究科、創造理工学部・研究科、先進理工学部・研究 科の3学部・3研究科(school)を設け、学部と大学院は一体化させる。
3. 二つの研究所を統合して、一つの研究所(理工学術院総合研究所)とする。

図1 理工学術院
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機能的、機動的な運営をするために、各機関に可能な限り権限を委譲すること にした。学術院長室は全体の調整のほかに、企画戦略の立案という重要な仕事 を担うことになっている。私学にとっては外部資金の導入は至上の重要課題だ が、年間100億円を目標にして企画戦略を練ることにしている。この機能がう まく作動すれば、近い将来、博士後期課程の授業料を無料にすることもできる だろう。

これまで13学科1領域だったのが、全体では17学科2領域+英語センターへと 膨張することになった。建学の精神を受け継ぎ、また学際の重要性が増してい る現状に鑑み、それぞれが理工学部を名乗ることにした。

学科改革の一例を挙げれば、最も古い伝統を持つ機械工学科は、学問は基礎か ら積み上げていくのが正道であるとして大学院との一貫教育を標榜する基幹志 向派と、PBL(プロジェクト・ベイスド・ラーニング)を目指す学際領域派と が分裂して、別々の学部に所属することになった。

早稲田に医学部がないことはよく知られているが、現在の医療に工学が果たす 貢献度を考えると、医学部を作るよりは医工の連携を目指す方が早稲田の精神 にかなっているという認識に基づき、生命医科学科を新設した。その後、東京 女子医大とともに国有地の売却を受け、そのキャンパスに生命・医工系を集結 し、近い将来に新学部を設置することを考えている。

早稲田の理工学部は高度技術者の育成を校是としてきたが、さらに各界のリー ダーを育てることを新しいミッションとして加えたいと考えている。中国では 政界の指導者の多くが理工系の卒業者であることはよく知られている。工学系 の人間の持っているプラグマティズムは、ドグマに陥りやすい観念論に対して、 少なくとも政治経済を含む実社会においては優位に立つというのが私の見解で あり、新しいミッションを提案する理由である。

プラグマティストという言葉には色んな意味があるが、ここでは、結果や経緯 を見ながら目的に向かって方針、方向を修正していくことができるという思想 を持つ人を指し、一方最初に抱いた自らの理想をあくまで追求し、妥協を拒む 姿勢を貫くタイプの人を観念論者と呼んでいる。工科系の人にプラグマティス トが多く、理科系や文科系の人に観念論者が多いのはみなさんも認めてくださ るだろう。実際には、その場その場で方針が変わり、一貫性を持たないという 欠点を持った工科系の人を見かけるが、すべての主義主張には正の部分と負の 部分があるのは当然で、受けた教育や資質が良い形に発露するように自覚的に 努力する必要がある。

各界のリーダーを育てるという目的のため、また理工系の学問文化を分厚くす るための方策として、工学を芸術に生かす表現工学科と技術を経営、政策に生 かす知財・産業社会政策領域を設置することにした。領域というのは3年生段 階で進学できるコースである。一般教育というと哲学、経済、文学、政治など 人文社会系の学科目を並列的に漫然と並べているのが通例だが、2007年度から は表現、知財、科学技術政策を中心として一般教育科目群を構造化することに した。人として生きていくために哲学通史、文学論等が要らないとはだれも考 えないが、理工学部の中で専任教員を置く必要はない。全学的な施設、あるい は他学部に設置された科目を利用すればよいのである。


図2 先端領域をカバーする3学部17学科
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5.応用数理学科の新設

工科系色の強い理工学部の中においては弱体な数学という学問領域の地盤を強 固なものにするというのが数学者としての私の使命であると考えている。

国立大学の理学部であれば、研究機関として数学者の集団の存在がアプリオリ に認められており、存在意義をアピールする必要は少ないかもしれないが、学 生の授業料を財政基盤とする私立大学においては、護送船団方式が通用した時 代から競争の時代に変わってきたこの時期に、孤立した変人奇人クラブでは将 来はない。

ダランベールは『百科全書』の序論として諸学の王座にある数学の重要性を縦 横に論じている。おそらくは数学がそのような(百科事典の序論に論じられる ほどの)重要性を持っているとみなされる時代は二度と来ないと思うけれども、 ダランベールやオイラーが数学と呼んでいるのは、今で言えば純粋数学と応用 数学を包含する広い範囲の学問領域であるということも事実である。こういう 広い視野で数学を捉えるならば、私学である早稲田の理工学部でその存在意義 を認められることは決して夢や絵空事ではない。このように考えて、友人たち が応用数理学科を立ち上げるのに手を貸した。ただし、数学科と応用数理学科 が車の両輪として、常に行動を共にすること、たとえば教室会議は合同とする ことを絶対の条件とした。

応用なくしては、数学は和算のように袋小路に入り込んで、伝統芸能としてし か生きていけなくなるだろう。応用数学というけれども、実際には既成の数学 の応用ではなく、現象を踏まえて新しい数学を作るのが理想である。純粋と応 用の違いは、物質界の現象を背景としているか、していないかの違いに過ぎな い。数理を実在の根源に見るという基本においては応用も純粋もない、同じ学 問であると私は信じている。

理工学部の中にも数学など無用と考える人がいる一方で、数学を基礎に据えて 学問体系を構築すべきだと考える人たちも少なくはなかった。こういう考えの 人たちが基幹理工学部を構成することになった。物理学科、応用物理学科や化 学科、応用化学科は先進理工学部に所属するという事実を知れば、今回の学部 分割の原理のユニークさが見えてくるだろう。

英語教育も改革が必要であった。かつては英文学の先生が片手間に英語を教え ていたものである。(「数学者が片手間に数学教育をする時代は終わった」と 言われないようにしたいものである。)文学が人格を形成する教養として重要 であることを否定する人はいないだろう。しかし、原文で英文学を楽しむこと のできる人がどの程度いるのだろうか。そうした人たちは自分で英語力を磨い たのであって、学校の英語で十分だったのではない。それよりは、英語で議論 をしたり、論文を書いたりする技術を習得する方が、外国で発表したり、学術 的な集会に参加する機会の多い理工系の卒業生にとっては有効である。

標語的に言えば、「理工系にとっては、英語は語学ではなく、パソコンと同じ く道具である」という考え方にもとづき、共通教材を作り、パソコンで常時習 えるようにし、卒業にも、また大学院進学にも一定の条件(TOEFLの点数によ る)を課することになった。そのために教員の入れ替えも必要で、それなりの 摩擦も生じたが、最終的には解決し、国際性を標榜する他大学の学生に比肩で きるまでに成果を挙げつつある。

その他にも、二つの研究所を同じフォーマットで運営できるように、一つの研 究所に統合したことや、100人近い技術職員の組織の抜本的な改革など語るべ きことは多いが、数学教育とはあまり関係がないから省略する。

6.動くものだけが生き残る

「改革は組織を活性化する」という言葉が真実であることを述べて締めくくり としたい。私が仲間と共に学部の再編を提唱したとき、機動的に動けるように、 小さな組織に分割することを目的としただけであった。それが、一旦3学部へ の再編が実現するとなると、それまで様子を見ていた人たちが、離合集散して、 新しい学科作りが始まった。古い体質の学科が、ついには解体に至るというド ラスティックな事態も生じた。さらに職員組織の改組、研究所の再編が続いた。 かくして「組織の改革によって何かが起こるだろうとは予想できても、どんな 結果が待っているかまでは予測できない」という貴重なカオス的教訓を得るこ とになった。

100年先を見据えて構想を練るべき、などと格好の良いことを言う人がいるが、 それは反対のための修辞であって、建設的な提言を考えてのことではない。 1968年の様子を明治維新時の人間が予想できたはずはないのである。

われわれの改革が良い選択であったかどうかは、後世が評価することであるか ら、これに関して何かを言う必要はないが、100年先を考えるよりは、むしろ、 必要に応じて改革が容易にできる組織を作ることの方が大切である。それを可 能にしたのが、一つの学術院という枠組みであった。この中でなら、学部を作 ろうが、壊そうが、大学内では他の組織から文句をつけられる筋合いはないか らである。

現在日本がどのようにして苦境を切り抜けつつあるかを見ればわかる通り、激 動の時代に生き残るためには、旧来の殻に閉じこもるのではなく、みずから変 革へと動かねばならないだろう。結局は「動くものだけが生き残る」というの が、最後の最後に私の言いたいことである。