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足立恒雄のページ

2006-06-01 私の趣味

私の趣味

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私は移り気なので、いろんなものに凝った経験がある。何かに同時に凝るので はなく、10年位を周期に次々趣味が替わっていくのである。森毅さんが名著 (私が書いたというほどの意味だが)『無限の果てに何があるか』(光文社カッ パサイエンス)の表紙の袖に「ダビンチもどき」と題して、

どんなことにもむやみと凝る男である。そのうえに、何をやっても、それなり に有能であるところが困る。なんの話を聞いても、わかった気にさせられる。 これで、万能の人になどなられたらたまらぬところだが、救いはその凝る対象 が変わることだ。でも不思議に、数論とそれをめぐる歴史にだけは、いつまで も凝っている。一応は、早大教授として看板をあげて商売しているからだろう か。ぼくのように大学をやめたら、どうなるだろうかと、たのしみにしている。

と書いてくれた。親交があるというほどでもないのに(相手は大先輩である)、 これだけ見抜くというのは、さすがだと感心したものである。

その森毅さんの随筆に「京都の学生、東京の学生」というのがあった。東京の 学生(東大生のこと)はマージャンをやっていても、本分は学生であることを 常にわきまえているが、京都の学生(京大生のこと)はマージャンをやってい るときはプロの雀士のようなつもり、碁を打っているときにはプロの棋士のよ うなつもりでいる、というような趣旨だった。それで行くと、私は典型的な 「京都の学生さん」である。

これまでに凝ったといえる趣味を挙げると、仏教、碁、英語で小説を読むこと、 ゴルフなどが思い出される。(酒は趣味に勘定していない。もう既に50年近くも飲 んでいるから趣味とは言えないだろう。)仏教が趣味というのも変かもしれな いが、今振り返ると、趣味だったのだな、ということがわかる。碁は5 段になっ たし、50歳で始めたゴルフは78というスコアを3回出した。(レギュラーティ からだけどね。)

しかし、理工学部長という職に就いてゴルフはきっぱり止めた。学部長なんて 名誉職だろうくらいに世間の人は思っているだろうが、ゴルフなどできるはず がないほど多忙な職である。(言うまでもないことだが、私が「ゴルフをする」 というときは、年に数回ラウンドするという意味ではない。普段それなりに練 習を積んで、その上でラウンドするという意味である。そうでなければゴルフ をやっているとは言えない。)しかしながら、もう少しで任期が切れるという 近頃になって、「書」を趣味にしたいという気持ちが沸いてきた。学部再編と いう大事業も一応きりがついて、精神的な余裕が出てきたということもあるの だろう。

書をやろうという気になったのは、理工学部の学生諸君に向けて年に1度発行 される『塔』という新聞に題字を書いてくれという依頼を受けたのがきっかけ だった。題字はいつも同じ活字なのだが、私が奇妙な、字とも言えぬ字を書く のを知っていて、「ちょっとご機嫌を取ろう」ということだったのかもしれな い。

ところが私は筆で字を書くというのには、とにかくこだわりがある。(要する に書けない。)しかし、せっかく「書かせてあげよう」というのに「書けない」 というのも言えない。というのも、これにはフカーイワケのあることなのだ。

私の5歳年長の兄は書家だった。だった、というのは、49歳で、書家としては これからというときに惜しくも亡くなったからである。18歳で日展に入ってか ら、数年連続して入選した位だからそれなりのものだったのだろう。初入選の とき、地元の新聞に「天才」だったか、「神童」だったか、そんな見出しで紹 介されたこともあって故郷では有名人だった。

その兄に私は子供の頃から「お前は字が下手だ。才能がない。しかし、素人が 上手そうに字を書くのほどいやらしいものもない。どうせうまくなれないのだ から、人からうまいとも下手とも言われなくて済むような字を書くようにしろ」 と言われ続けていた。だから私は、何とかして、人からうまいとか下手とか言 われないように気をつけて、取り敢えずは、できるだけ書かなくて済むように、しかしどうし ても筆を持たねばならないときには、簡単に言えば、努めてメチャクチャな字 を書くようにしてきたのである。

その私に向かって「新聞の題字を書いてくれ」だと? 断るのは簡単だったが、 兄貴が「恒雄、メッチャクチャな字を書いて困らせてやれ」と耳元で囁いてい るような気もした。そして書いたのが冒頭の字である。

この字は清代の文人呉昌碩の小篆を手本に、例のメッチャクチャ精神で思い切 りデフォルメしてできたものである。出来上がってみると、書とは言えないが、 屋根に煙突があって、ペンペン草が生えている、古代としては高い塔がイメー ジされたデザインのようにも、見れば見えないものでもない。

要するに、塔という字を書くために、色々な書家の字を見ているうちに、少し 勉強してみたくなったというのが、書を始めたきっかけである。

どういう字を習おうか思案したのだが、昔々、欧陽詢の『九成宮 醴泉銘』を臨書して兄貴に見せたら、「こんなものを見て、九成宮の臨書だと はだれも気付かない」と言われて傷ついた記憶が甦って、とても欧陽詢だ、虞 世南だ、などといった唐代の神がかったほど偉大な書家の書を習う気にはなれ ない。もう少し時代が下がって、たとえば蘇軾だってとても、とても。トテモ、 トテモ、・・・。

次々と書道史上の名跡を見ているうちに、『張猛龍碑』、『龍門造像記』に代 表される北魏の石碑群に行き当たった。「これだ! こういう字がボカア好き なんだ!」

これら北魏の書は、簡単に言えば、精緻、端正、冷厳の代名詞『九成宮醴泉銘』 と対極にある、アンバランスのバランス、吹き出ずるがごときエネルギー、を 売りにする書である。そうだ、こんなケレン味のある書なら、真似がし易いに 違いない、私にぴったりだ、と思いついて、臨書を朝の日課とすることにした。

しかし、これなら何とか、と思ったのがトーシローの浅はかさで、似ても似つ かぬドローンとした字にしか成らない。とにかく、とても人に見せられるよう な代物ではない。やっぱり古代人の字は真似ができないな、元々精神構造が違 うのだからな。直接の臨書はあきらめよう。

西川寧、上條信山という日本の大家が臨書した書を手本にすれば、現代人の書 いたものなのだから何とかサマになるのではないか、・・・。しかし、これも どうも、としか言いようがない。

「四十の手習い」という言葉はあるが、「六十の手習い」てえのは、ないのか な?

そうは言っても、始めたからには石に齧りついてでも。石の上にも三年というが、いく ら歳でも、凡才でも、五年も頑張れば、自分でもマアマアと思えるようになる のではないだろうか。(この話の続きは五年後に。)