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足立恒雄のページ

2007-02-01 書の近作

書の近作

「私の趣味」で書いたように、昨年(2006年)の夏以来、 書に凝っている。最初は北魏の楷書を書いていたが、そのうち 北魏の碑を臨書した(西川寧、孫伯翔などの) 現代作家の作品をお手本に習い始めた。習っているうちに、北魏の 楷書というのは、私が当初思っていたような書道史上の傍流的存在 ではなくて、多くの書家に強い影響を与えてきた、芸術的 価値の高いものなのだということがわかってきた。 北魏の書の稚拙な見てくれに隠された、すさまじいエネルギーに 魅惑されて、なんとか自分のものにしようと臨書し、 自分の書の土台作りをした偉大な書家がたくさんいるらしい のである。ホームページの 「私の趣味」に「こんな書なら真似しやすいに違いない」などと 書いたのは無知丸出しの良い証拠である。

そうこうするうちに趙之謙(1829-1884)に巡り合った。 この人の、念力がたぎり立つようなド迫力の書も 北魏の碑を土台に創造したものだという。 結論を言うと、 趙之謙こそ、私がこれから勉強して、 一歩ずつ近づき、理解し、 少しでも似ていると言われたい と考えている究極の書家である。

暮には趙之謙の「張衡霊憲四屏」(隷書)から 5文字を集字して臨書し、 年賀状に使った。年賀状の候補が二枚あったのだが、それらを 下に掲げる。まだまだ「趙之謙の臨書です」と 人様に見せるような段階ではないのは よくわかっているのだが、何でも自慢したがる悪い癖で、 厚顔無恥にもホームページに公開する次第である。

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というのも、昔なじみの書家(日展に6回も当選した 方ですぞ)から「それにしても趙之謙スゴイ!やはり貴方 はただものでないと痛感」という年賀状のお返しをもらったり、 習字の先生をしている義姉(書家だった亡兄の奥さん) から「素晴らしい!! 一見、まことの趙之謙かと思いました」と いう水茎の跡も麗しい巻紙の手紙をもらったりして、 すぐ調子に乗りやすい性格で、うれしくなって みせびらかしたくなったのである。(幾つになっても 調子者だね!)しかし、姉の手紙には 「ようく眺めていると少し重苦しい感があり、粘土を 使いすぎた焼物のような野暮ったさが見られます」と 続いているのだが、一瞬でもプロの目を 誤魔化せたということで十分満足した。

中には「之謙に勝るもの」と書いてきて下さった 方(40年も書に打ち込んでおられる偉い数学者)もいたが、 清朝随一の書家に勝ると言われても、・・・。 誉められたというよりは、おちょくられた ということだろう。いくら私でも真に受けたりは しません。しかし、心優しい皆さんに おだてられて、前に倍して精進するようになった。 教育の真髄は誉めることである、という金言を 身をもって体験したわけである。

二つの作品の一方(年賀状に採用した方)は「是非に」 と言って下さる理工の先生がいらっしゃって、差し上げた。 もう一方は、郷里に住む10代の頃の友達(女性)に、 「大事にしまっておけ」とばかりに勝手に送りつけた。 (迷惑しているだろうなあ。)他のものは すべて破り捨てたので 趙之謙の臨書はもう持っていない。

今年に入ってからは、実用書が上手になりたくて、 考えたのだが、『和漢朗詠集』には 和歌と漢詩が並列されているから、 これを習えば、漢字かな混じり文が書けるようになるのでは なかろうかということで、次に掲げるような ものを毎日書いている。趙之謙では、手紙の宛名書きなら ともかく、かな交じりの実用書としては使えないからである。 手本は『伝藤原行成粘葉本和漢朗詠集』である。

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漢字の方は、
君の事を思いながら夕べに松台に上ってみたら、 コオロギや蝉の聲が耳一杯に聞こえてきた。秋ですね。
といった意味だそうな。 白楽天の詩の一節で、思っている相手はこの場合は男性であるが、 別に女性でもかまわない。続いて、

山を見れば、幽かな月が未だ山影にかかっている。 軒先で聞くと滝の音が段々大きくなっていく。秋の夕暮れだなあ。

といった意味だそうだ。 これは菅原道真の孫、菅原文時の作である。

和歌の方は、

きみとわれ、いかなることを契りけむ、 昔の世こそ知らまほしけれ

である。「君と私とがこんなに仲が良いのは 前世でどんな約束をしたからなのだろうね」 という意味だそうだ。相手は異性とは限らない。

妻は、こういう普通の、いわゆる美しい書を 学んでいると、 そのうち趙之謙のようなド迫力の書が書けなくなるから、 ほどほどにしておく方がよい、と言う。 そうかもしれない。めくら蛇におじず、 相手の恐ろしさ、すごさも何 も気が付かずに、無我夢中、一心不乱に、 渾身の力を込めながら書いているから、 それなりのものが書けるのかもしれない。 そうかもしれないな、とも思うこの頃である。