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2009-10-04 早稲田大学の理工系再編に関する覚書

早稲田大学の理工系再編に関する覚書

2007年度からスタートした新体制は、理工学部史上、大久保キャンパスへの移転時と並ぶ大改革の結果である。この間、計画の進捗に携わった者として、将来の参考のためその経緯を記録しておきたい。

再編前史

大学院棟ならびに理工学総合研究所(略称:理工総研)棟としてツインビル55号館が建ったのは1994年のことだった。教員の研究室が各自0.5ユニット増加することになり、研究室の狭隘がいくらか解消されたとき、次は理工学部のソフト面での改革だということが55号館建設に携わった人たちの間で了解されていた。実際、55号館建設のためには、「更なる新政策や要望を中止して,・・・理工系教職員が一体となって、計画の実現に向けて努力することが重要である。然る後,学部・研究科・理工学総合研究センターのそれぞれの将来構想と存続の理念を改めて討議し,理工100周年に備えられることを希望する」とされているように、「55号館を建設する」という当面の目標のためにソフト面の改革論議は先送りされたのであった。

私は当時の宇佐美昭次学部長に理工学部の再編を提言した。この段階では学部の分割は頭になく、全面的な学科再編を考えていた。宇佐美さんには、学部の改革は大変なので研究科の再編から始めたらどうかと勧められた。そこで尾崎肇教授、大附辰夫教授、逢坂哲彌教授、足立他数人が一度集まり、大学院研究科の再編の検討が始まった。当時の研究科委員長は大井喜久夫教授だった。これが再編検討の第一歩だったと記憶している。

その後尾崎さんが研究科委員長となり本格的な議論が始まった。ナノ、生命理工などの学科を持たない学際専攻が検討されていたので、研究科を柔軟な組織にする必要があると考えられたのと、大学院の重点化が叫ばれていたという背景も改革を後押ししていた。そのとき検討されたのは、研究科は一つのままにして、三つの大専攻に分ける(大専攻の中ではこれまでの学科的な専攻の区別はなくなる)という案だった。しかし、大専攻への分け方を巡って大いに議論が紛糾した末、尾崎さんの任期の最後の研究科委員会(研究科の教授会)でようやっと決議された。次に研究科委員長になったのは逢坂哲彌教授だが、この決議は一時棚上げということになり、冷却期間を経て、決議は取り消しとなった。

私は、この推移から二つのことを学んだ。第一には、やはり正面突破、すなわち最初から本丸の学部改革を目指さなければならないということである。早稲田のように学部学生の授業料を主たる財源としている大学においては大学院のことでは今一つ議論に身が入らないで、決議の直前になって異論が噴出するからである。

学んだことの二つ目は、任期の最後では紛糾の末に決議しても実現しないということである。同じことが、宇佐美さんの4期目となる次の執行部で学術院構想を決議したときにも起こった。時代の要請に応じて人事ができるように、教員を(現状のように学科に配属させるのではなく)学術院という一つの組織にまとめるというのがこの時点での学術院構想の要点だったと記憶している。この提案は2000年7月の教授会で大いに紛糾の末決議されたが、宇佐美さんの後を継いで尾島俊雄教授が学部長に就任し、先の大学院の3大専攻化決議同様、「決すれども行わず」となってしまった。

尾島さんの下で理工学部の再編議論が新たに始まった。最初に、建築学科、社会環境工学科(旧称:土木工学科)、環境資源工学科を一まとめにし、また別に電気電子情報工学科、情報学科、電子・情報通信学科の3学科をまとめて、二つの小さな学部が理工学部から独立する案が検討された。しかし、建築学科から異論が出て、建築、社工、資源の独立案は立ち消えとなった。また情報を学科名称に付けた3学科を学部として独立させる案は3学科の間で合意が得られず、コンピュータネットワーク工学科(略称CS)と電気・情報生命工学科(略称電生)の2学科に再編されるということで落着した。

私は次節に述べるような理由で、小さな学部の独立ではなく、学部全体の改革でなければ理工学部の再生は成らないと考えていたので、2002年9月に学部長に就任したとき再編志向の強い大附辰夫教授に再編実行委員会の委員長をお願いし、学部全体を複数の学部に分割再編する道に邁進することになった。大附さんは再編実行委員会が45回の開催を経て2006年4月に終了するまで、ほぼ4年の間理工の再編に執念を燃やし、粘り強くやり遂げてくださった。

再編の背景

分割・再編の内容を決議するに至る2003年の時点では、理工学部には13学科と1領域、理工学研究科には学科連続型の11専攻と学科を持たない二つの学際専攻が設置されていた。数学、情報、物理から建築、応化、機械まで、異質な文化背景を有する多くの学科・専攻の連合体では、総意形成に大変な時間を要するのは言うまでもない。ルーチン的な仕事をこなしている間はともかく、入試や将来計画というような重要な問題では、学科間の意見の対立が激しくなり、そう簡単にまとまらなくなってくるため、「議すれども決せず」どころか面倒な議論は避けて通り、今日は昨日の繰り返し、明日は今日の繰り返しという惰性的運営を続けざるをえなくなっていたというのが実情であった。

執行部は選挙で選ばれたのだからトップダウン方式で運営せよというのも時折聞かれる意見である。しかし大学は、企業とは異なり、言論の府という意味合いもあって、特に早稲田大学のような自由・自治・自律という伝統を持つ私立大学ではトップダウンは望ましくない運営方式であろう。「教員は教育と研究に専念できる」という美名の下に、上から下された将来計画に唯々諾々と従っているようでは、社会に向かって発言する「大学」(university)という気概は徐々に薄れて行くことになるだろう。

したがって理工学部・研究科の何らかの改革は必然といってよい時期に来ていたと見られるが、徹底的に民主的手続きを踏みながらも改革を手がけるには膨大な労力とそれを支える熱意と強力なリーダーシップが必要で、そのようなリーダーシップは40数年前の現キャンパス移転時に発揮されたのが唯一の例である。

そもそも理工学部は現在うまくいっているのだから、せいぜい部分的な手直しでよいという見方も根強かった。さらに一口に改革といっても色んなパターンがありえる。準学部的なクラスターに分ける方法もあるが、先に決議されていたように学術院という方式もありえる。

2001年1月、尾島学部長の提案で受けた外部の委員による評価では、学科の独立性の強さ、学科間の壁の高さによる閉鎖性と、それが教育・研究・人事・将来計画に齎している弊害の諸相が指摘された。たとえば「極めて一体感を欠いた雑居ビルのようである」、「木は育っているが森は育っていない」といった調子である。

尾島さんが学部長だった最後の教授会(2002年6月)で理工の再編が難産の末決定されたが、再編の形態、内容については一切言及されていなかった。中では、CSの大附辰夫教授、また11月から白井新総長の下で常任理事になった、同じくCSの村岡洋一教授は、先の情報系の分離独立論議からの流れで、全体的な再編に熱心な組であったが、私が尾島さんの後を継いで学部長になった9月の時点では、独立志向のグループを二つほど小さな学部として分離独立させ、本体は今まで通りというように考えている教員が多かったかもしれない。

一度成功体験をした組織は慣性が大きく、新たな改革には抵抗があるという話を聞いたことがあるが、わが理工学部がちょうどその好例であった。種々の立場から再編という考えに反対で、過去に繰り返された砂上楼閣の例から、決議は取り消しになるだろうと見ている、あるいは期待している人たちも少なくはなかった。

目を外に転じるとき、このような蝸牛角上の争いをしていられるような状態ではないことは明白だった。バブル崩壊後10年が経ち、日本が再生に向かうのに歩調をあわせて、大学も改革が流行語となっていた。とくに慶応大学のイメージアップ戦略が成功していて、受験界にも社会的にも早稲田は改革に後ろ向きの大学だという印象を持たれており、慶応の後塵を拝するようになってきていた。とりわけ受験生の動向に敏感な予備校からは早稲田の沈滞が厳しく指摘されていた。実態として現在早稲田が慶応に劣るとは言えないにしても、将来のことを考えると、集まる学生の質、世間における人気がボディーブローとして大きく効いてくるのは当然であろう。

私は、創設100年近く、当初の2学科から13学科まで自然発生的に増殖してきた理工学部は設計しなおすべき時期に来ていると見ていた。バブル経済崩壊後の日本の10年は「失われた10年」とも言われるが、一部で改革の必要性がささやかれているにしても、公的には先述のように賽の河原状態で、早稲田の理工も国家レベルと同じく失われた10年だった。

理工学部の現状を打破するには、準学部的なクラスターをいくつか構成するのも一つの選択ではある。しかしながら、これによって学部全体の巨大性に基づく硬直性が解決されるとは思えない。むしろ、改革が中途半端になり、会議体の重層化による弊害が深刻化することも予想される。また教員を学科所属から学部への一括所属にして学科の壁をなくするという学術院案は、教員の学科に対する帰属意識の持つ良さを失う可能性がある。また人事を一元化して社会の要求する分野に回すという考え方は、基盤産業に学生を送り込む立場の人間と新領域に携わる人間との間に対立を齎すことは避けがたく、人事のあり方の困難を考えるとき敢えて採用に踏み切るほどの魅力を有しない。さらに言えば、こうした学術院やクラスターといった内部的組織改革では外部に与えるインパクトが小さいことも難点である。

ここで、大学院研究科についても言及しておこう。学部卒業生の7割近くが大学院に進学し、院生数が2500名(学部生と合わせると1万名超)に達している現在では、学部に寄生しているような、しかし形式だけは独立した組織として研究科を運営する伝統的な方式は限界に達している。大方の教員が学部と研究科の双方に所属していながら、それぞれの組織に長を戴いているというのは、日常業務に無駄を生じるばかりか、大事に臨んで意思決定に齟齬をきたす可能性を常に孕んでいる。こうした事情も学部ばかりではなく、研究科まで巻き込んで改革すべき理由になっている。

学部再編―その理念と論議の経緯

2学部に分割する案と3学部に分割する案とがあったが、私はダウンサイジングの効果を明確にするには3学部の方が望ましいと考えた。2学部だと1学部が教員数140名位の結構大きなサイズとなるからである。同時に、大きな学部になると、独立傾向を強めることになり、理工系がばらばらになるという可能性も高くなる。一部では、分離独立を強めて何が悪いという声もあったが、理工学部の大勢としては、理工は一つであるべきだという声が強かったということも考慮しなければならなかった。

再編が確定していく過程の段階では、学部は分割するが、研究科は一つのままにして、研究科長(旧称研究科委員長)が理工系全体を統括するという案も検討された。大学院重視という時代の流れに適合しているということもあるが、研究科長が学部長を併任しないというのは学部・研究科の方針決定の阻害要因となり、元来の再編目的に反する面もある。それに、後述するが新たな意味での学術院構想が理事会から提案されていて、その案が通れば、学術院長室に全理工系を統括調整する機能を持たせられると考えていたので、私は研究科長を理工系全体の長とする案には賛成しなかった。

結局、種々検討の末、2003年12月に開催された(学部、研究科、2研究所の)合同教授会において、基本方針として、それぞれの学部・研究科が時代の先端とされる領域を含むことや理学と工学を融合するという創設以来の理念を継承することなどが承認され、さらに2007年4月を期して、仮称A,B,Cの三つの学部・研究科に分割・再編することとそれぞれの理念と学科構成が決議された。しかし、大変な難産の末の決議であって、これで最終決定というような雰囲気はなく、再編の動向はこれからどうにでもなるようなもろいものだった。

決議の中には、全理工系の調整機能を持つ組織(仮称:理工系統合オフィス)を設置すること、また基礎教育(一般教育、基礎実験など)は共通に行うということも含まれていた。

各学部の正式名称と学科編成の詳細は2004年5月の教授会で最終決定された。その決議に至るまで、分割方法に対する不満から仮称C学部(正式名称創造理工学部)の半分ほどを仮称A学部(正式名称先進理工学部)に合流させようという動きなどがあって大いに難航したが、A学部の竜田邦明準備室長の「決まったことは守る」という毅然とした態度のおかげで、さしもの鳴動も次第に沈静化していった。この教授会決議によって理工学部の分割再編も不動のものになったと言えるだろう。理学部と工学部に分けるというような方式は最初から念頭になかったため、分割方式にやや明快性を欠いているせいもあるだろうが、これがベストという分割方式はありえない。したがって、難産も当然のことだったかもしれないけれども、かりに再編決議が振り出しに戻るようなことになっていたなら、私が責任を取って学部長を辞任したところで収まりが付くようなものではなく、理工学部の迷走はどこまで続くことになったか、今思っても空恐ろしいような気がする。再編実行委員のみなさんの、意見は違っても理工の将来を思う気持、また学部長室のスタッフ(中川義英、片山博、内田悦生、川田宏之の面々)の結束の固さによって最終的には満場一致の再編決議にこぎつけることができたのであるということを特記しておきたい。

職員組織は嶋根茂事務部長を中心として再編に合わせて検討された。その結果、事務部と技術部に二分され、全体を統合事務・技術センター長が統括することになった。副部長待遇だった理工の事務長が部長待遇になったのが20年余り前のことだったが、今回は部長が二人いる組織になった。これをみても理工がどんなに大きくなったかがわかるだろう。さらに、実験室の改組は私が学部長に改選された二期目に川田宏之教務主任が中心になって検討され、改組されたが、これらは他の執筆者が書かれることだろうから、ここでは触れない。

63号館の建設

2002年9月に理工学部長に就任したとき、次の三つを公約した:

  1. 理工学部の再編
  2. 生物・生命系の新学科設置
  3. テニスコート地に新棟建設

建物を建てること、ならびに新学科を作ることも加えて、3点セットで改革の道を歩もうと提案したのは村岡さんである。以後、学部長を務めた4年間、私は他のアイデアは何一つ採り入れず、これら3事業の実現だけに専念した。

55号館を建てたばかりだから、大学の125周年の記念事業には理工の建物は含めないというのが奥島総長の方針で、理工が独自に募金をして建てるという尾島学部長の要望は、大学の募金の邪魔になるというので、退けられていた。しかし白井総長となり、少しは風向きが変わる可能性はあった。

財務担当の関昭太郎常任理事に陳情したところ、理工学部が社会に向かって、将来の理工系のあり方を示すという位のインパクトのあるアピールができる改革を行うことを条件に建設を認めても良いという回答だった。ただし、当時話のあった公衆衛生院跡地と両方ともというわけにはいかないと、渡邊重範常任理事ともども念を押された。

白井さんや奥島前総長は、公衆衛生院の跡地を取得し、生命系の学部を作るという構想を優先したいと考えていた。しかし、大久保キャンパスと関係のない場所に新しく生命系の学部を作っても理工にはメリットがないと私は考えた。大学全体の立場からすると、世間にアピールし、時代の要請に応える事業のほうに目が行くのも理解できないことではない。これが財政的な余裕ができても、既存学部の拡充、たとえば教員枠の増加など、に目が向かない理由であろう。しかし老舗学部の充実こそが早稲田再生のための最重要課題だというのが私の長年の主張であったから、理工の充実を置いておいて、生物・生命系の新学部を作る話に加担する気は毛頭なかった。白井総長からは、生命系に進出したいという気持ちもあり、他学部に遠慮する気持ちもあったのだろうが、テニスコート跡地には半分の大きさの建物を建てて、残り半分は寄付を待つか、数年後に建てることにしたらどうかと何度か要請されたが、理工の狭隘を考えるとここは譲れない一線だと思い、私は主張を曲げなかった。

他学部の中から、また理工の建物かと反発が出る可能性があったが、すでに125周年の記念事業としていくつかの建物が西早稲田キャンパスで建設されたり、計画が進行中だったこと、財務担当の常任理事他の賛成を得ていたことなどもあって、125周年記念事業に63号館の建設を繰り込むことに対する反発が表面化することはなかった。理工の改革を既に学部長会や評議員会で何度か説明していたため、建物の建設にだけ反対するというのも表向きできにくい雰囲気ではあっただろう。

軟式テニス部との交渉は難事であったが、総合企画部担当だった村岡さんが精力的に努力し、所沢キャンパスに代替地を見つけるほか、都内でも一部コートが借用できるように運んでくれ、2005年12月中旬をもってテニスコート用地を空けてもらうことが決まった。

新学科の設置

生命系新学科設置の経緯  21世紀の新しい産業分野の創出にはバイオ系が大きく関係するだろうという予測を真摯に受け止めるなら、生物の基礎教育も受けられるように環境を整備することは喫緊の課題である。一方、研究面では、早稲田大学全体ではバイオ関連の研究者は既に100名を越えていた。それにもかかわらず、その力を結集する姿が見え始めたのは2001年に生命理工学専攻が理工学研究科に開設されたのが最初である。

大学としても、生命系分野の重要性は認識しており、すでに2001年には理事の懇談会において、生物・生命系の学部を新設すること、そしてもしもそれが可能でないなら、教育学部の生物専修と人間科学部の関係教員を理工学部に移し、理工学部に将来を期して拠点を作るという方針が申し合わされ、小口彦太教務部長名で通達が出されていた(2001年7月2日付)。

前任の尾島学部長のときに、人間科学部から生命系の教員が4名移籍し電気・情報生命工学科が2003年に開設されることとなり、本部からの要請は宙に浮いた形になった。こうした学部の動きとは別に、生物・生命系を重視する梅津光生教授(機械)、石渡信一教授(物理)たちを中心に理工学部に生物学科と生命系の学科の2学科を作るという私案が作成されつつあった。

私が学部長に就任したのはこのような時点であった。私は、教育学部の生物専修を中核として生物・生命系の学科を一つ新設するという方針を立てた。新学科を作ることは逆にテニスコート跡地に建設するという構想にも良い影響を及ぼすという読みもあった。何度か委員会を持ち、本部との交渉を経たが、生命系充実という総長・理事会の意向に沿った方向性でもあり、さほどの問題もなくこの計画は認められた。

私が学部長に再選された二期目(2004年9月就任:学術院長制度が発足し、学術院長を兼務)には、竜田邦明教授を研究科長(副学術院長を兼務)に任命し、生物・生命系学科を立ち上げる準備室長も勤めていただいた。この後紆余曲折があったが、生物専修の教員はサイエンス志望が強く、理工系としての生命系学科を志向する理工側とは折り合いがつかなかったため、生物専修が理工に移籍するという話はご破算になり、生命医科学科という名称の学科が立ち上がった。8名の新任教員を採用することになったが、理工全体の学部学生数は増やさないということが、白井さんの支持もあって認められた。

一時、化学科を中心とするような新学科作りも化学科から提案されたが採用されるに至らず、化学・生命化学科と名称を変更し、生命系を充実するために教員2名を増強するということで折り合った。

その他の新学科と学科再編  「改革は組織に刺激を与える」という言葉通り、三つの学部に分割・再編することが決議されてから、学部名称等を最終決定するまでの間に、新しい学科作りの動きが盛んになった。

応用数理学科は数理科学科からの5名を始めとして、CS、物開、応物、経営システムからの移籍を得て教員数11名という規模で実現した。

 物質開発工学科(略称物開)は金属工学科、材料工学科などの名称で長く続いてきた学科だが、ものづくりの技術を学ぶことこそ重要であると考える教員と基礎学問を重視しなければならないとする教員との間でカリキュラム上の対立が深まり、ほとんどの基礎重視派教員が他学科への移籍を希望することになった結果、学科解消に至ってしまった。

生命系を取り込んだ電生に属する元電子通信学科の教員4名が新学科作りを希望してきた。物開から4名、CSから1名が加わって電子光システム工学科の設置が決まった。学部は基幹理工に所属するが、大学院は先進理工に所属しているために生じているねじれは近い将来解消すべきものと考える。

理工で一番伝統のある機械工学科でも、尾島学部長の時代から、今日の高度で多様な技術の時代には学部大学院の一貫教育こそが重要であるとする基礎重視派と学習の動機付けがなければ真の教育はできないとし、POL(プロジェクトオリエンテッドラーニング)を教育方針に据える学際派との間で議論が続き、最終的には、総合機械工学科(創造理工学部に所属)と機械科学・航空学科(基幹理工学部に所属)に分かれることになった。

社会のリーダーを目指す 私は、これまでの高度技術者の養成という理工学部の教育目標に、政治経済を含めた社会の多様な分野におけるリーダーとなる人材を養成するというのを新しいミッションとして加えたいと常々考えていたので、複合領域の社会科学系の教員が表現工学科を新設するのと、知財・政策領域を新設するのを積極的に助力した。知財・政策領域は3年生から進級できるコースである。また、学科を設置申請するためには専任が最低8名必要なので、国際情報通信研究科(GITS)の第2分野の教員に弊任という形で参加してもらって表現工学科設置が可能になった。

一般教育科目は哲学、心理、経済、法学などを並列的に設置するのが通常である。しかし、知財・政策系がコースとなり、表現系が専門学科となった結果、一般教育科目の構造化は避けて通れない道となった。かくして、社会の指導者を養成するという目標は徐々にわが理工に根付くものと期待している。

語学教育 英語の教員は、以前は英文学出身者で占められていたものだが、近年、実用的な英語の重視へと脱皮しつつあった。その動きを加速すべく、私の学部長1期目から議論を始め、1年間の検討を経て、複合領域から離脱し、英語教育センターとして理工全体で運営する方式へと転換を果たした。英語担当の4名が新設の国際教養学部へ移籍を希望してくれたので、新任の教員を中心にして改革が急速に促進されることになった。現在の英語教員全員が理工系の卒業生で占められていることを見ても様変わりが実感できるだろう。教育評価はTOEFLなどで客観的に計っており、成績の躍進が毎年報告されている。英語の成績を卒業や大学院の進学の要件として科する学科も少なくない。

なお、第二語学系は種々の議論があったが、国際文化領域を名乗って創造理工学部に所属することになった。語学教育ばかりではなく、理工の学生指導もできる教員を採用するという方針に変わってきており、まだ十分成果を挙げる段階ではないにしても、その方向性が覆ることはないだろう。

学科の学生教員数比 学科の学生数と教員数の比率を制定するのは学科の利害が絡んで長年一種のタブー視されてきたが、再編を機に、数学、物理、化学などの基礎科目を担当する場合、一人当たり(授業コマ数に換算して)4コマを持つものと勘定することと専門科目担当は一人当たり学生数8人余と勘定することが計算上の基礎として教授会で認められた。ただし学科の希望によって、これよりも多少の増減を認めて、新体制における学科の学生数が決定されている。

学術院の仕組み

2003年12月の教授会で決議した理工系統合オフィスの設置は2005年5月の教授会で取り消された。替わって、大学全体が学術院体制に移行することになったのを受けて、予定された理工全体を調整する機能は、学術院長室が負うことになった。

各学部・研究科の機動性と独立性を担保するため、学術院長室は可能な限り軽量にすることも了解された。2006年6月には学術院長室は院長を含めて3名、各学部長室も学部長を含めて4名という構成にすることを提案し了承された。

学術院体制に移行した結果、理工総研と材料技術研究所(略称材研)は理工学術院の傘下に加わることになった。

材研は設置の由来から歴史的に物開(旧称金属工学科等)との関係が深かったが、近年は兼任研究員が増え、他学科の教員にも開放されるようになってきていた。その点は評価されるが、兼任研究員は継続も可能なため、材研の専任との差別化が明確ではない。材研には専任が必要であるという考えもあって、この問題には未だ決着が付いていない。

研究所に関する議論は学部再編が軌道に乗った段階で始まった。一応一つの組織である総合研究所の下に理工学研究所(旧称理工総研)と材研があるという形式に改革されたが、完全な形で統合され、学部との人事交流が普段にできるような開かれた研究所として機能するにはさらに真摯な検討が必要であろう。

河田町キャンパスの取得

東京女子医大に隣接する国有地7000平米が払い下げになるという話は2005年の夏に出てきた。財務省は基礎研究のために使うことを条件に女子医大に払い下げを打診したが、女子医大は基礎研究のために単独で土地を取得するといった余裕のある経営状態にはなく、関係の深い早稲田との共同購入を希望した。白井総長は奥島拡大路線を継承していて、とりわけ生命・医療系への進出は大学の悲願と捉えていたので、公衆衛生院の跡地で果たせなかった夢を河田町で果たすべく購入に積極的だった。私は理工系がさらに突出して大学内で反発を受けることが心配だった。竜田さんも、新設の生命医科学科の校舎が河田町に作られることになると大久保キャンパスとの距離もあるため、新任者が多いだけに帰属意識など種々の問題が生じるのを恐れる気持があった。何度か村岡常任理事も含めて話し合った結果、生命系の重要性も鑑み、また理工の中の生命系の充実を望む声にも押されて、教育の生物専修も、当面は教育学部に所属しながらも河田町に移り、生命医科学科他とともに将来的には理工学術院の中に生命理工学部を設立するという構想の下に、購入に賛成することになった。生物専修の理工への移籍という当初の目的が回復できるかもしれないということ、理工学部だけが使うキャンパスではないということ、一部の移転によって大久保キャンパスにいくらか余裕が出るということなどがメリットである。

理事会の中には強い反対もあったが、理工が取得に賛成したという意味合いは大きく、大学は関東財務局に女子医大と折半で土地を取得し、建物も折半するという内容で申請を出すことになり、無事認可された。しかし、女子医大側は基礎研究には大して出費する気がないらしく、半々ではなく早稲田が3分の2の土地・建物を取得することになり、費用も元の30億円という見積もりから、70億円を要することになったと聞いている。将来第4の理工系学部ができる道がついたのは確かであるが、しっかりした財政的裏づけを取りながら、着実に早稲田が生物・生命・医療系に取り組んでいくことを念願している。

再編の現状での評価

3学部・研究科に分かれることによって意思決定が早くなったことが第一に挙げられねばならない。たとえば基幹理工学部は一括入試を採用したが、13学科の体制だと議論するだけ徒労だったろうと断言できる。研究科の大専攻化も実現は容易だろう。将来、学部の人事を一元化するという考えの人たちがその理想を実現することも(私たちが属する基幹理工ではありえないだろうけれども)学部によっては可能になろう。それぞれ自分たちの理想を追求することができるというのが分割再編の最大のメリットなのである。大学院と学部を分けて運営する無駄もなくなった。また入試等で3学部間の競争意識が芽生えているのも評価できる。

問題は学術院長室の業務である。3学部・研究科の独立性を強めることが申し合わされたが、実際には本部との交渉は学術院長室に任されているため、学術院長室の仕事が多忙を極めているようである。それぞれの学部・研究科を独立した学術院にするというのも選択肢であったが、本部サイドの理工に対する警戒感が強くて、とても3学術院にすることは可能ではなかった。それに、将来はともかく、同じキャンパス内で、基礎教育や実験、事務など共通部分の多い三つの組織が完全に独立するのが得策とも言えない。なんとか、1学術院体制で、それぞれの学部の独立性を高める工夫がないか、早急に検討する必要があろう。

研究所などを含めた理工系は赤字だと喧伝されてきたし、実際長年その通りだっただろうが、現在では大学院生数の激増、職員数の激減、外部資金の導入などによって、大幅な黒字になっている。この黒字は当然教員数の増加、教育研究のバックアップ体制の充実などによって、ステークホルダーである理工の学生に還元すべきものであるが、私の学部長・学術院長時代の交渉にもかかわらず、数名程度の教員増しか認められていない。これも早急に解決すべき問題であろう。