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足立恒雄のページ

2018-07-06

46年目の光

以下は河合文化教育研究所の編集で出版された『わたしが選んだこの一冊』(2018年版) に掲載された記事の転載である。翻訳が出版されたのが2009年のことで、 その当時からみると、脳におけるニューロンの仕組みなどの知識も かなり普及しているので、当時ほどの驚きはないかもしれないが、 それでもなお読むに値すると思い、紹介する。

46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生

46年目の光―視力を取り戻した男の奇跡の人生

これは3歳の時に事故で失明したマイク・メイという男性が46年後に 幹細胞移植によって光を取り戻した経緯を追跡した ドキュメンタリーである。

記録に残る限りでは、史上20名ばかり同様の体験を持つ人たちがいる。 彼らは一人残らず「失明しているときの方が幸せだった」と 語り、そのうちの多くが自殺し、あるいは死なないまでも重度の鬱病に冒されて侵されて生涯を送ったことが 知られている。なぜか?

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図を見て二つのテーブルの面が同じだと感じる 人はいまい。ところが 彼らは一様に「同じだ」と答える。測ってみればわかるように、それが正解なのである。これに限らず、 彼らにはいわゆる「錯視」が起きない。そして線路は真っすぐ平行なままで、一点に狭まっている ようになんか見えない。

しかし、物体とその影の区別が一切付かない。物体の奥行きがわからない。すべてが 完全に平面的に見えるのである。しかもいくら訓練を積んでも、年月が経っても「正しく」見えるようにはならない のである。

顔を見ているだけでは、二人の息子の区別がつかない。さらには女性と男性の区別がつかない。 アクセサリーや髪型の違いを教えると、毎回それを基準にしてしばらく考えた末に判断を下すのである。 大変太った女性を見て「あれはフォークリフトだ」と答え、傍らの妻を青くさせてしまったことすらある。

人間はハイハイの時期から、観る、舐める、触れる、嗅ぐ、聴くという経験を 限りない回数繰り返すことによって、五感の与える情報と対象との関係を会得していくのである。そして観た瞬間に、視覚が与える情報を (ときには誤って)「補正」して、対象が何であるか、 相手までどれだけの距離があるのか、どの程度の重さなのか等々を判断しているらしい。 しかしメイには補正する手段がないため、 判断の下しようがなく、次から次へと休みなくギラギラと正体不明の対象が 判断を迫って来ることになって疲労困憊するのである。

たとえば、メイにとってスーパーは種々の色がにじんだ棚が並んでいる場所に過ぎない。 面白いことに、対象に触るなどして、それが何であるかがわかった途端に、はっきりと対象が姿を顕わす。 ある解剖学者に「今の時代に何か新しい発見があるのですか」と問うたことがあるが、 「時代によって見えるものが違うのです」というのが答えだった。 つまり知らない物は目に入らないのである。

翻って考えるなら、 われわれは人類であるという制約のために知覚できる対象や仕方が限定されていると いうようなことはないのだろうか?「ありのままに」捉えるというようなことがわれわれには可能なのか、 人間にとって認識とは何かというような疑問を 読んでいる間中感じさせられた。

ときに、メイがいかにしてこの苦境から抜け出していくのか、そもそも抜け出すことができるのか? その回答は本書を読む楽しみとして残しておこう。