含羞の人――木下夕爾

  1

 飯田龍太に『思い浮ぶこと』というエッセイ集がある*1。なかに、本の標題と同じ「思い浮ぶこと」というエッセイがあり、副題に「木下夕爾」とある。
 「いつになく、ながい梅雨であった。/立秋が過ぎると、はげしい残暑がいつまでもつづいた」と書き出された文章は、そういえば木下夕爾が亡くなった年も今年のように暑い夏だったという感懐をみちびき、その感懐に誘われるように飯田は書架より『定本木下夕爾詩集』を取り出し披いてみるとなかに新聞の切抜きが挿んである。河盛好蔵の「遠い友からの声」と題された随想で「二春秋余りを経て」いるのでそれは「うすうすとこんにゃく色に変っている」。色褪せた新聞紙のこれ以上的確な表現に出合うことは稀である。飯田が引用する河盛の随想をここでも引用すると、


 「私は心に屈託することがあると、いつも木下夕爾詩集を取り出して、好きな詩を声を出して朗読する。すると遠くにいるなつかしい友人から久しぶりにうれしいたよりをもらったような気持ちになり、……」


飯田はこのあとを直截の引用でなく自身のことばでつづける。「氏は、夕爾の詩を、表面は至極さり気ないが、仔細に読むと一字一句も抜き差しならぬ正確さと精緻さを持ち、しかも含羞があって味わい深いものがあるといっている」。河盛は最後に木下夕爾の『児童詩集』のなかの「ひばりのす」という詩を引用している、と、飯田もまたおなじく引用する。


  ひばりのす
  みつけた
  まだたれも知らない


  あそこだ
  水車小屋のわき
  しんりょうしょの赤い屋根のみえる
  あのむぎばたけだ


  小さいたまごが
  五つならんでる
  まだたれにもいわない

 
 河盛は「最後の行がとくによい。この詩人は『たれにもいわなかった』美しいものをたくさん持ったまま死んでいったのにちがいない。そのはにかみが私たちを慰めてくれるのだ」とその文を結んでいる。
 飯田は河盛のことばに触発されたかのようにこうつづける。「してみると夕爾の含羞とは、外見甘美な衣装をまといながら、その裏には、誰も冒さない、誰にも侵されない強靭な雄心(おごころ)を秘めたものか」


  2

 木下夕爾。きのしたゆうじ。1914〜65、広島県福山市生まれ。名古屋薬学専門学校卒。はじめ詩人として名をあらわしたが、久保田万太郎の『春燈』に投句して認められた。昭和36年、広島春燈会を結成して機関誌『春雷』を創刊主宰。柔らかな抒情性を特色とする。代表句集「定本木下夕爾句集」。

 以上は、『昭和文学全集35 昭和詩歌集』*2の木下夕爾の項に、飯田龍太撰の百六十二句とともに附されたものである。
 夕爾は最初、第一早稲田高等学院(仏文科)に入学したが、義父(母が再婚した叔父)の病気で家業の薬局を継ぐことになり、名古屋薬学専門学校に転学し、卒業後、帰郷して薬局経営に従事した。昭和十四年、二十五歳で詩集『田舎の食卓』を刊行。この二十三篇の詩を収録した第一詩集で、翌年第六回文藝汎論詩集賞を受賞する。同時に受賞したのは村野四郎『体操詩集』と山本和夫『戦争』。審査委員は、堀口大學佐藤春夫萩原朔太郎、百田宗治であった。
 万太郎主宰の「春燈」創刊に参加する以前、安住敦を中心に創刊された俳誌「多麻」に夕爾は投句している。この頃が俳句との出合いであったかと思われる。またこの頃、広島に疎開中の井伏鱒二と出会い、井伏を中心に、木山捷平、大江賢次、村上菊一郎、小山祐士、藤原審爾、高田英之助らと交流する。のちに村上、高田らと詩の同人誌「木靴」も創刊している。先に挙げた『児童詩集』は昭和三十年に木靴発行所より刊行された*3

 上記の井伏を中心とした集まりについて、木山捷平はこう記している。


 「この会には名前がなかった。例の会と口で言ったり、葉書に書いたりすると、それであッと通じた。それほど、この会はたのしいものであった。御大であり長老である井伏鱒二氏のかもし出す雰囲気にわれわれは酔った。文壇のエース井伏鱒二氏を、われわれ疎開組だけで独占しているような快感が、この会には満ちあふれていた。会に出ればみな東京気分になった。」*4


 木下夕爾、藤原審爾、高田英之助らは疎開組でなく在郷組である。この文章を収録した講談社文芸文庫*5の解説で岩坂恵子は「井伏鱒二木山捷平に共通する風貌として私が好もしく思うひとつに、羞恥心のつよさがある」と書いているが、ここにもうひとり木下夕爾の名を加えてもいいだろう。河盛好蔵飯田龍太が指摘する「夕爾の含羞」である。疎開組の村上菊一郎もまた「春燈」に寄せた「木下夕爾追悼」という一文で、夕爾を「はずかしがり屋の性分」と評している*6


  3

 ところでこの「ひばりのす」という詩について、井伏鱒二河盛好蔵がある対談で触れている。「俳句とエッセイ」誌(昭和五十七年一月号)の木下夕爾特集に掲載されたもの。朔多は司会役の朔多恭*7


  河盛 『児童詩集』というのはいいですね。
  朔多 これは抜群ですね。井伏先生も推奨しておられましたですね。
  井伏 ええ、あれはいい。ことにぼくが挙げたのはいいわ。
  朔多 ああ、「ひばりのす」ですね。
  井伏 ええ、ほんとにいいですね。あれはどうしてあんなにいいのをつくったかな。
      新鮮だし、飛び抜けていい。
  河盛 あの人のいいものが全部出てるんじゃないですか。あの詩の中には。
  井伏 「しんりょうしょ」がまた泣かせるね。
  朔多 そう、「しんりょうしょの赤い屋根」ですね。
  井伏 あそこらには、診療所はなかった。
  河盛 そういう道具立てが非常にうまいですね、この人は。
      詩でもそうだが、俳句でも道具立てですよね。


 井伏鱒二の「あれはどうしてあんなにいいのをつくったかな」という口調が聞こえてくるようだ。水車小屋と麦畑。ゴッホの絵のような、いや、ゴッホよりも牧歌的な鄙びた村の光景。だが「あそこらには、診療所はなかった」。
 夕爾の生家、福山市の郊外には青々とした田圃が広がり、水車小屋もあったという。水車小屋を詠った「早春」という詩の一節。


 ゆっくりと水車を押している雪解の水は
 遠い谷間から出てきたばかりだ
 水車小屋の板戸のすきまから
 薄暗い内部へ射しこんでいるひとすじのひかり
 (僕の内部へむけられる眼のように)


 水車を詠んだ句も、印象派風の明るい光景を清冽な語句の斡旋で表した佳句。


 水ぐるまひかりやまずよ蕗の薹
 青麦に闌けたる昼の水ぐるま    『遠雷』


同じく『遠雷』所収の、夕爾の代表作と目される句、


 家々や菜の花いろの燈をともし


に通づる句想である。この句は「水車小屋の辺りから、南一帯を見てできた句」であると夕爾自身が語ったという*8。生家の庭の句碑に刻まれている。


 夕爾の詩や俳句には、河盛好蔵が「心に屈託することがあると」取り出すというように、心和ませるものがある。飯田龍太もこう書いているように。「木下夕爾の作品を読んでいると、いつとはなしにこころが和んでくる。忘れていたもの、いや、忘れてはならない大事なものが、静かに滲み出てくるためだろうか」*9。だがその「甘美な衣装」の裏にある「強靭な雄心」を見落とすと、口当たりのよい「癒し」の詩と見まちがいかねないだろう。「雄心」を声高に主張しないのが「含羞」というものであり、それはおそらく前回の小中英之にも通づるものであるにちがいない。


 樹には樹の哀しみのありもがり笛    『遠雷』



木下夕爾の俳句

木下夕爾の俳句

*1:中公文庫、昭和五十六年刊

*2:小学館、一九九〇年

*3:朔多恭『木下夕爾の俳句』牧羊社、一九九一年刊、巻末の「木下夕爾略年譜」参照。現在は北溟社より新版が刊行されている。

*4:木山捷平井伏鱒二」、『自画像』永田書房、一九七五年、木山捷平井伏鱒二・弥次郎兵衛・ななかまど』講談社文芸文庫、一九九五年に再録。

*5:同上『井伏鱒二・弥次郎兵衛・ななかまど』

*6:村上菊一郎『マロニエの葉』現文社、一九六七年、所収。ちなみにボードレールの翻訳で知られる仏文学者による、ヨーロッパ紀行を含むこの瀟洒なエッセイ集の表紙は、小沼丹へのパリ土産である「リュクサンブール公園マロニエの葉」で飾られている。「フィガロ」紙で押花にした、うすうすときつね色に変色した七枚の葉が「旅への誘い」を演出して心憎い。

*7:前掲『木下夕爾の俳句』p.100-101

*8:同上p.49、追悼文集『含羞の木下夕爾』よりの引用。

*9:同上、帯文より。