アルマとココシュカ、もしくは「風の花嫁」




 わたしがオスカー・ココシュカに関心をもったのは、滝本誠さんの文章によってだったと思う。「人工陰毛のアルマ・マーラー」、副題に「オスカー・ココシュカのスキャンダル」とある。
 滝本さんは当時(1980年代)、一部にカルト的なファンをもつ映画批評家だった。美術や音楽についての文章も少なくなかったが、比較的比重の大きいのが映画だったので、大方から映画批評家と見なされていた。かれの映画批評は独得のもので、だれのものとも似ていなかった。本人は照れからかライターと自称していたが、自分を映画批評家だとも、あるいは自分の書くものを映画批評だとも思っていなかったのかもしれない。ミュージシャンが楽器をつかうように、もしくは画家が絵筆をつかうように、かれはある対象に触発されたエモーションを文章で表現するアーティストだったというべきかもしれない*1
 どういう経緯からかは忘れたが、かれが雑誌に発表した文章をまとめて本にしようということになった。編集はわたしが担当した。その出版社にはわたし以外の書籍編集者がいなかったからだ。雑誌に書いた文章を集めるといっても、目次を立てて並べればおしまい、という本ではない。もともと凝り性のうえに、初めての単行本ということもあって、かれは既発表の文章に完膚なきまでに手を入れた。改稿された原稿はほとんど原型をとどめなかった。そうやって書き直された原稿が週に一度、あるいは月に一度、わたしのもとに届けられた。締切などてんから頓着しなかった。だが原稿はとてつもなくチャーミングだった。いつ果てるともない編集作業はかれの愛するデヴィッド・リンチの映画のように甘美なナイトメアだった。わたしはこの状態がいつまでも永遠に続けばいいとどこかで思っていた。そして、おそらく滝本さんもそう思っていたはずだ。 
 だが物事には始まりがあれば終わりがある。やがて『ブルー・ベルベット』のスティル写真をカバーに配した誘惑的な(もしくは蠱惑的な)オブジェが出来上がった(石川ゆりさんの装訂が素敵だ)。タイトルを『映画の乳首、絵画の腓』という*2。あとがきによれば「タイトルに深い意味はなく、ある日ふっと浮かんだ言葉をそのまま持ってきただけである。荒俣宏に言わせると、こんなタイトルが許されるのは処女作だけですよ、ということになる」。わたしたちの二年におよぶ共同作業の賜物は、しかし、多くの読者を得ることはできなかった。むろんわたしはたくさん売れるなどと考えていたわけではない。”the happy few”に届けば満足だった。高山宏さんは「まるで自分が書いた本のようだ」という感想を送ってくれた。文章はともあれ、図版頁に関してはたしかに高山本のテイストと似ていなくもない。


 さて、また前置きが長くなった。フローリアン・イリエスの『1913』で久しぶりにココシュカの名前を見て滝本さんの文章を思い出し、つい昔話にふけってしまった。
 「人工陰毛のアルマ・マーラー」は、いま読み返しても見事なものだ。ゲオルク・トラークルの詩「夜」の引用に始まり、この詩がココシュカが制作中だった絵画「嵐」(上図)にインスパイアされて書かれたこと、そして、完成した作品に「嵐」命名したのがトラークルであることを記したのち、嵐に「難破」するココシュカの運命に思いをはせる。
 「嵐」のモデルと目されるアルマ・マーラーとの悲恋。むろんトラークルもまた妹との「近親相姦」的愛の只中にあり、兄妹はともに悲惨な死を遂げる。ココシュカの自伝、フランク・ウィットフォードによるココシュカの伝記(いずれも邦訳はない)を参照しつつも引用は最小限にとどめて、一幅の絵画にふたりの芸術家の人生を予見させ、ウィーン世紀末の空気のなかに芸術家の悲惨と滑稽を浮き彫りにするこのエッセイの手並みは鮮やかだ。途中に挿入される谷崎潤一郎の短篇「青塚氏の話」のラブドールについてのエピソードは、おそらく別に発表された原稿を合体させたものだろう。ココシュカと谷崎の手術台上での思いがけない出会い。
 1913年7月、ココシュカはアルマ・マーラーとの結婚予告をおこなった、とイリエスは『1913』に記している。日取りは7月19日。だがそれを知ったアルマは7月4日、荷物をまとめて遁走する。アルマの心の半分はまだグロピウスのほうを向いていたのである。
 ココシュカはアトリエでキャンバスに向かっている。「アルマの不義を荒々しく夢想しながら」。ココシュカの背後でトラークルがビア樽に腰掛け、「カラスや宿命や腐敗や没落」(いずれもトラークルの詩のアイテム)について重苦しい声でつぶやいている。そして時折り「絶望的な声で妹の名前を呼」んでは、また「永遠の沈黙」に沈み込む。


 「ココシュカが二人の肖像画を描くときには、トラークルは毎日そこにやってきた。この絵に「風の花嫁」という名前を与えたのも、実はトラークルである。このもつれ合ったウィーンの日々に作られたトラークルの詩「夜」に次のような詩句がある。「金色に燃え上がる/まわりでは諸国民の火が。/暗黒の岩礁をこえ/死に酔いしれて迫り来る/明るく燃え立つ風の花嫁が。」このように風の花嫁アルマはアトリエの中でそしてイーゼルの上で明るく燃え立っていた。(略)アルマが「風の花嫁」という標題を得たとき、またココシュカがこの花嫁に何か逃れ去るもの、風というはかないものを書き留めたとき、そのとき初めて、ココシュカはアルマの肖像画を自分のために描くことができたのだ。「風の花嫁」と結婚することはできない。描くことができるだけだ。」(『1913』)


 このトラークルの詩「夜」は、「人工陰毛のアルマ・マーラー」の冒頭に抜粋して掲げられたものだ。平井俊夫訳*3では次のようになっている。
 「金いろに燃えあがる/民族らの兵火/黒ずむ断崖をこえて/死に酔ってなだれかかる/火の旋風」
 ここで「旋風」と訳されている言葉は”Windsbraut”。中村朝子訳『トラークル全集』*4では「灼熱する突風」と訳されているが、訳注に「突風」は「直訳すれば「風の花嫁」となる」とある。「これは、民間信仰で旋風、突風は女性的存在として捉えられていたからであり、詩人もこの詩において、風を擬人化して描いている」
 『トラークル全集』に附された別刷のしおりにココシュカの文章の抜粋が出ているので、参考までに引用しておこう。


 「……私たちは一緒に「嵐の花嫁」(現在バーゼル美術館蔵)を描きました。私は彼の肖像を見たこともありました。が、当時私が「嵐の花嫁」を制作していた頃、トラークルは毎日私のところにいました。私は本当に簡単なアトリエを構えていましたが、彼は私の後ろのビール樽に腰を下ろしているのでした。そして時おり、われ鐘のような声でしゃべるのでした、とめどなく。そして又、何時間も黙りこくっていました。私たちは二人とも当時市民生活に背を向けていました。私は両親の家を出ていました。ウィーンでも私の展覧会や芝居のまわりは荒れ狂っていました。ところで、彼は「旋風」”Die Windsbraut”という言葉を彼の詩に引用しました。」*5


 「嵐」もしくは「風の花嫁」。わたしが滝本さんの本を編集していた頃、今はないセゾン美術館の開館記念(西武美術館から改称)に「ウィーン世紀末――クリムト、シーレとその時代」展が催された*6。ココシュカの作品も十数点出品されたが、そのなかに「風の花嫁」はない。
 つぎにココシュカと出会ったのは、およそ十年後、マリオ・プラーツの『蛇との契約――ロマン主義の感性と美意識』*7という本の中で、である。千頁を超える大著だが、碩学が裃を脱いで気楽に語った愉しいエッセイ集である。当時、bk1のサイト(いまはhontoネットストア)に書いた書評があるので以下に掲げておこう。


   ココシュカにあっては、魂(anima)は狂気(mania)と同義語である


 オスカー・ココシュカ。この奇妙な名をもつ画家をご存知だろうか。20世紀初頭、ドイツを中心に起こった表現主義運動――絵画・文学・映画・演劇・音楽、総じて芸術の諸ジャンルにおける革新――の担い手のひとりであったオーストリアの画家。本書『蛇との契約』第8部「ココシュカの人形」でプラーツは、かれのことをイタリアではあまり馴染みがなく、「その滑稽な響きのせいで、空想上の名であるかのように」思われるかもしれないと書いている。
 しかしココシュカは、文学におけるドストエフスキーストリンドベリに匹敵する存在であり、ロートレックゴッホの兄弟、「中央ヨーロッパピカソとも言える画家である」と、プラーツはかれに最大の讃辞を捧げている。ココシュカの作品を「腐った水溜り」と罵倒したオーストリアの美術批評家への憤懣やら、イタリアで正当に評価されていないことへの反動やらを差し引いても、これは特筆にあたいする評価だろう。
 さてそのココシュカだが、第1次大戦末期、戦争やら、異性との「いくつかのつらい個人的体験」やらのために厭世的な気分に陥った。そこでかれはストックホルムのM嬢という芸術家に、人形の製作を依頼したのだという。手紙にデッサンまで添えて指示したその人形とは、等身大の女で、手足は関節をそなえ、「脂肪と筋肉が急に腱に変わるあたりや、脛骨(すね)など骨が表面に浮かびでているところを触って楽しめる」ようでなくてはならない。また、口にはむろん歯も舌もあり、「秘められた女の部分についても完璧に仕上げ、毛が豊かに生い茂っていなくてはならない」。
 つまりはいわゆるダッチワイフを要求したわけだが、服やらハイヒールやら下着やらを用意して到着を待ち焦がれていたココシュカのところへ届いたのは、丹念につくられてはいるものの要するに「グロテスクな怪物」であった。激怒したココシュカは人形を引っつかんで庭に引きずりおろし葬り去った。だがしかし、やがて公衆の面前に、オペラ劇場のボックス席などに、人形を連れたかれの姿が見られるようになった、という。
 プラーツは、「思うに、芸術家は人形に付き添われて、人形を抱く子供さながら、幸せな時を過ごしたことであろう」と書いている。「芸術家の魂は、永遠の『童子』の魂だと言われてこなかったであろうか」と。 
 ところで、異性との「つらい個人的体験」とは、直接にはアルマ・マーラーとの破局を指す。最初の相手が画家クリムトで、作曲家マーラーと結婚し、やがてココシュカを振って建築家グロピウスのもとへと走った恋多き女アルマ。ココシュカの「嵐」という絵画の、そしてほかならぬくだんの等身大人形のモデルこそ、「ココシュカをその魅力で難破に導いたセックス・セイレーン」アルマ・マーラーである、と滝本誠氏は「人工陰毛のアルマ・マーラー」で書いている(『映画の乳首、絵画の腓』所収)。
 「オスカー・ココシュカのスキャンダル」の副題をもつこのエッセイで、滝本氏は「ココシュカの不幸は、クリムトエゴン・シーレ、リヒャルト・ゲルストルのように、“世紀末ウィーン”という時代風土の中に殉死できなかったことだ」と論じている。ココシュカは1980年、94歳まで長生きした。だが20年代以降のかれの作品は「色彩バランスが崩れた夥しいジャンクである」と滝本氏は斬って捨てている。
 アルマとは似ても似つかぬモンストルムに抱かれながら、幼児のごとく幸せな時を長い長い夢のなかに過ごした敗残の芸術家――。それにしても、プラーツはなぜアルマの名を伏せたのだろう。この稀代のファム・ファタル(宿命の女)の名を。
 プラーツの名についてまわる「みだりがましいまでに博学な」といった評言(若桑みどり、『官能の庭』訳者あとがき)に恐れをなすことはない。本書は、仰々しいまでに重厚な造本とは裏腹に、読んで愉しいエッセイというに相応しい内容に充ちているのだから。
 綺想、ビザール、マニエリスム、幻想怪奇といったジャンルに興味のある人は手にして裏切られることはないだろう。いささか値が張るが、千頁を超す大著ゆえのこと。決して高くはあるまい。めったな本屋には常備していない。こんな本こそネットで注文するに最適である。重いしね。 (bk1 2002年)


 この書評を書いてからおよそ十年後、フローリアン・イリエスの『1913』で久しぶりにココシュカに再会したわけである。つぎの出会いは2025年頃になるのかしらん。もし生きていればだけれど。


1913: 20世紀の夏の季節

1913: 20世紀の夏の季節

蛇との契約―ロマン主義の感性と美意識

蛇との契約―ロマン主義の感性と美意識

*1:滝本誠東京芸術大学芸術学科卒業。

*2:1990年、ダゲレオ出版。数年前に、他社より復刊するという話があったらしいが、その後どうなったのだろう。

*3:『トラークル詩集』筑摩叢書、1967年

*4:青土社、1997年

*5:Kokoschkas Erinnerung an Trakl. In: Die Presse, 21. Oktober 1959.

*6:1989年10月7日―12月5日、セゾン美術館

*7:浦一章訳、ありな書房、2002年