イッツ・オンリー・イエスタデイ――『騎士団長殺し』への私註


――「おそらく愚かしい偏見なのだろうが、人々が電話機を使って写真を撮るという行為に、私はどうしても馴れることができなかった。写真機を使って電話をかけるという行為には、もっと馴染めなかった」(第2部、283頁)




 村上春樹の新作『騎士団長殺し』は、発売早々から各紙誌に書評が掲載された。いくつかに目を通したが、おおむね似たような受け取り方だった。首肯できるものもそうでないものもあったが、そこになにかをさらに付け加えようという気にはなれなかった。ただ、読んでいてわたしがちょっと引っかかった点に言及しているものがなかったので、私註としてそれのみを書いておきたい。
 主人公の「私」は「その年の五月から翌年の初めにかけて」の九ヶ月ほどの出来事を数年後に思い返している。性的な交渉をもった人妻は四十一歳で、「私より五歳ほど年上」だったから、当時「私」は三十六歳だったことになる。 
 「私」は妻のもとを去り、ふたたび戻ってきて(ユリシーズの帰還か)いっしょに生活するようになってから数年後に東日本大震災が起こる。二〇一一年のことだ。「数年後」を二、三年後ととるか、五、六年後ととるかで時間に多少の幅が生じるが、中をとって仮に四年としておくと、この「九ヶ月ほどの出来事」は二〇〇七年前後ということになる。したがって、逆算すると「私」は一九七一年頃の生れである。
 何が言いたいかというと、この物語は現実の世界を参照枠としつつ、超自然的な出来事が現実の世界に侵入してくるという構造なので、現実世界は現実世界として動かしがたいものでなければならない。つまり、東日本大震災が二〇〇〇年や二〇一七年に起こってはならないし、ナチスが世界制覇を遂げてはならないのである。それはまた別の物語である。
 で、一九七〇年前後に生れた「私」には、作者村上春樹の考え方や実体験がかなり投影されており、読んでいると「私」=三十六歳とは思えないような箇所がちらほらと出てきて「おやおや」と思ったりすることになる。たとえばこんな箇所。


 「私は結局、その店で目についた二枚のLPを買った。ブルース・スプリングスティーンの『ザ・リヴァー』と、ロバータ・フラックダニー・ハサウェイのデュエットのレコード。どちらも懐かしいアルバムだった。」(第2部、222頁)


 『ザ・リヴァー』がリリースされたのは一九八〇年。「私」が十歳の頃である。十歳の頃に買ったとすれば相当ませていたことになるが、あるいは、十五歳の頃に買ったのかもしれない。ロバータ・フラックダニー・ハサウェイのデュエットのアルバムは一九七二年リリース。「私」はまだよちよち歩きなので、これはずっとのちに買ったのだろう。それにしても、好みがシブい少年だね。「You’ve got a friend」なんて、ほんとに懐かしい。わたしも大学生の頃、よく聴いたものだ。村上春樹は当時二十三歳ですね。
 上記の引用箇所にこういう文章が続く。


 「ある時点から私は新しい音楽をほとんど聴かなくなってしまった。そして気に入っていた古い音楽だけを、何度も繰り返し聴くようになった。本も同じだ。昔読んだ本を何度も繰り返し読んでいる。新しく出版された本にはほとんど興味が持てない。まるでどこかの時点で時間がぴたりと停止してしまったみたいに。」


 わたしもそうだ。新しい音楽や新しい本を聴いたり読んだりすることもないではないけれど、気持ちはどうしても昔へと向かってしまう。映画もそう。歳のせいですかね。
 あるいは、こんな箇所はどうだろう。


 「我々は一九八〇年代にFMラジオから流れていたいろんな音楽の話をしながら、箱根の山の中を抜けた。」(第2部、273頁)


 我々とは「私」と大学時代の友人・雨田政彦。二人は、ABCの大ヒット曲「The Look of Love」(1982年)が入ったカセットテープを聴きながら車で走っている。80年代といえば「私」や雨田は十代で、べつに不都合はないのだけれど、中学生時代を懐古していることになるわけですね。
 ブルース・スプリングスティーンの『ザ・リヴァー』といえば、こんな箇所がある。「私」はLPのA面を聴き終えて、裏返してB面をターンテーブルに載せる。「『ザ・リヴァー』はそういう風にして聴くべき音楽なのだ、と私はあらためて思った」。


 「B面の冒頭に注意深く針を落とす。そして「ハングリー・ハート」が流れ出す。もしそういうことができないようなら、『ザ・リヴァー』というアルバムの価値はいったいどこにあるだろう? ごく個人的な意見を言わせてもらえるなら、それはCDで続けざまに聴くアルバムではない。『ラバー・ソウル』だって『ペット・サウンズ』だって同じことだ。優れた音楽を聴くには、聴くべき様式というものがある。聴くべき姿勢というものがある。」(第2部、429頁)


 ビートルズの『ラバー・ソウル』(A面2曲目が「ノルウェイの森」)は1965年にリリースされた(日本では翌年)。ビーチ・ボーイズの『ペット・サウンズ』は66年だ。「私」はむろん同時代に聴いたわけではない。1970年生れの選曲とは思えないけれど、「ごく個人的な意見を言わせてもらえるなら」、彼が初めて聴いたのはCDじゃないかしらん。それにしても、この「個人的な意見」というのは、村上春樹自身の意見のように聞こえませんか。


 この物語は誰もが指摘しているように村上の過去の作品のプロットのヴァリエーションなのだけれど、短篇小説を幾度も書き直しているように、村上は過去の長篇小説を違った視点からretoldしてみようと思ったのかもしれない。「そのとき樹上で、鋭い声で一羽の鳥が鳴いた。仲間に何かの警告を与えるような声だった。私はそのあたりを見上げたが、鳥の姿はどこにも見えなかった」(第2部、214頁)なんて『ねじまき鳥クロニクル』のまんまだしね。
 第一部が「顕れるイデア」、第二部が「還ろうメタファー」と題されているのは興味深い。初期の『1973年のピンボール』から村上春樹の小説は一貫してseek and findの構造を持っているが、それと同時に、超自然的な出来事が現実に侵入してくるという特徴がある。だが、現実と超自然的な出来事とは二元的なものでなく、物語のなかでは表裏一体なのである。


 「だってこの場所にあるすべては関連性の産物なのだ。絶対的なものなど何ひとつない。痛みだって何かのメタファーだ。この触手だって何かのメタファーだ。すべては相対的なものなのだ。光は影であり、影は光なのだ。そのことを信じるしかない。そうじゃないか?」(第2部、382頁)


 イデアからメタファーへ。これはネオプラトニズムか? あるいは、むしろグノーシス主義か? 〈光〉と〈闇〉の戦いは西欧のファンタジークリシェとして蔓延しているけれど、村上春樹的物語においては〈光〉の中の〈闇〉、〈闇〉の中の〈光〉といったambiguityに焦点が当てられる。「どんなに暗くて厚い雲も、その裏側は銀色に輝いている」(第2部、241頁)のだ。
 「白いスバル・フォレスターの男」も、おそらくは「私」の中の〈闇〉のメタファーなのだろう。


騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第1部 顕れるイデア編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編

騎士団長殺し :第2部 遷ろうメタファー編