qfwfqの水に流して Una pietra sopra

2018-01-23

ぼくの叔父さん、伊丹十三





 鉛筆キャップってあるでしょう? アルミニウムでできてて、キャップっていってもけっこう長いのね。そうねえ、鉛筆全長の3分の2ぐらいはあるかな、長さが。鉛筆って、ちびるでしょ。使ってると、だんだん。で、3センチぐらいになると、持てなくなるわけよ。いや、持つことは持てるんだけどさ、字を書きにくくなるわけね。そうすると、出番になるわけです。鉛筆キャップの。譬えていうならね、いつ出番が来てもいいように、ベンチの裏で素振りを欠かさない代打専門の選手みたいなわけよ。7回裏ぐらいになると、さあそろそろだ、と素振りにも熱がはいる、と。そこでお呼びがかかるわけね、鉛筆キャップに。で、おもむろに、ちびた鉛筆の後ろに差し込むと、あら不思議。ちびた鉛筆が元の長い鉛筆に早変わり。べつに不思議でもなんでもないんだけどね。

 要するに、ここにわれわれ日本人の思想が集約的に表現されているわけだね。ちびた鉛筆は使えない。だけど、捨てるにはしのびない、と。ね? まだ工夫すれば使えるはずだ、と。ほら、歯磨きチューブもね、最後、まだ中身が残ってるのに絞れなくて、捨てるに捨てられないでしょ。昔はね、歯磨きチューブ絞り器というのが発明されて、それを歯磨きチューブにつけて最後の一滴まで絞り出したものです。え?いまでもあるの、歯磨きチューブ絞り器。ほう、それはそれは。

 つまり、この倹約の思想というものが、江戸時代から連綿と庶民のあいだに生き続けてきたわけね。石田梅岩という人がいて、カレがこの倹約の思想というものを説いたわけです。まあ、当時は鉛筆も歯磨きチューブもなかったからね、障子紙を新しく貼り換えたら、古い障子紙はトイレットペーパーにしなさい、とか、まあそんなような教えです、ひと言でいうと。『齋家論』という本に書いたら受けてベストセラーになったんだね、これが。それが江戸時代から明治大正昭和と、親から子へと伝わってきた、と。ものを大事にしないとバチがあたるぞ、と。親は子どもをオドすわけね。だから、お弁当を食べるときも、まず、弁当箱の蓋の裏にこびりついた御飯粒をお箸でこそぎ落して食べる、と。それから、おもむろに本体にとりかかるわけね。ひとつの米粒のなかには7人の侍、じゃなくて神様がいる、と。どれだけ小さい神様なんだか。

 それから、買ったばかりの新しいマーガリンというのも悩ましいものでね。蓋を取ると、マーガリンの上にアルミホイルのようなものが貼ってあったりするでしょう。そのアルミホイルを剝がすと、アルミホイルの裏に微量のマーガリンが附着していたりするわけね。で、スプーンでそのマーガリンをこそぎ落とす、と。マーガリンのついたアルミホイルをそのまま捨てたりすると、バチがあたる、と。なんともイジマシイと思わなくもないけれど、それが習い性になっているわけですね、われわれ日本人の。

 この日本人の精神の奥深く、ほとんど無意識のレベルにまで浸透した倹約の思想というものをですね、佐多稲子さんがみごとに描いています。「水」という短篇小説です*1。一度お読みになるといい。いやあ、しかし、あるんですか、いまでも。歯磨きチューブ絞り器。ふーん。

 

 伊丹十三の「没後20年の単行本未収録エッセイ集」が刊行された。もう20年になるのですね。光陰矢の如し。つらつら読んでいると、わたしの精神の奥深くに眠っていた伊丹十三がむくむくと起き出してバイブレーションを始めた。それが上の文章です。早い話が文体模写ですけど。本のタイトルは『ぼくの伯父さん』。伊丹さんが編集した雑誌のタイトル「モノンクル」ですね。2005年に出た『伊丹十三の本』*2の帯には《「ぼくの叔父さん」は、こういう人だった――。」》というキャッチコピーがある。「伯父さん」か「叔父さん」か。なんでもよく知っていて、ちょっと遊び人風でもあり、悪い遊びも教えてくれたメンターといえば、父の兄ではなく弟でしょうね、やっぱり。

f:id:qfwfq:20180123122840j:image

 写真は『ぼくの伯父さん』より、伊丹十三愛用の文房具