マシーンとたわむる
ときどきフィットネスジムに行く。最近はランニング(ウォーキング)マシーンをよく使う。心肺機能の鍛錬には、これがいちばん手っ取り早い。
口の悪い友人は、外で走れば金もかからないではないか、という。ーーまったくそのとおりだ。反論できない。
しかしマシーンは、犬の糞やケータイ片手のチャリ高校生、道行く妙齢の女性や天候など、まったく気にしないで走ることができるのだ。すばらしい。
しかも今日びは、テレビまで付いている。通常の番組のほかに、バーチャルな空間を走る画面設定を選ぶこともできるのだ。たぶん、テレビを見ながら実際の外を走るのはけっこう大変だ。
そして何より、いつでもたちどころに、好きなときにやめることができる。ここのところがすばらしいではないか。
外ではそうはいかない。途中でバテて動けなくなったら大変である。冬なら凍死するかもしれないし、夏なら熱中症で瀕死の状態になりかねない。
たのみのケータイはそういうときに限って電池切れだったりするし、足がもつれて用水に転落すれば、農繁期なら水量も多く、そのままさようならである。
じつは、以前は室内自転車をこいでいた。模擬自転車だから座ってこぐのだが、これがどうも達成感を得られないのである。
自転車はやはり、実際に外を走るにかぎる。
この2つのマシーンに対する感覚のちがいは何だろう。実際の自転車では、犬の糞やケータイ高校生、妙齢の女や天候も気になるのに、だ。
そこにはきっと、何か哲学的命題が隠されているにちがいない。
と思って、ジムで走りながら今日も考えていた。現段階の考察は、どうもその移動スピードにヒントが隠されているようだ、というところまで考えがおよんでいる。
ジムのマシーンは、圧倒的にランニング(ウォーキング)が多い。そこのところにも考察のキーがありそうだ。(¨;)
(photo:平戸の教会にて)