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性とナンパについて渋谷で考えた RSSフィード

2017-01-13

絶望的に学べない人の3つのタイプ

「学び」の構造
「学び」の構造
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佐伯 胖
東洋館出版社
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佐伯胖『学びの構造』を読んだ。初版は1975年発刊。今から見てみると引用されている心理学の理論などは古くなっているものも多いが、

  • 「わかる」とはどういうことか:おぼえるとの相違点
  • 道徳(よさ)はいかに学ばれるか
  • 教える機械(ティーチング・マシーン)の可能性
  • 科学の学びの発展段階

など個人的にも興味深いトピックスについて論じられていて、全体を通じて良書としかいいようがない出来だった。著者は認知科学やコンピューター教育、さらには教育実践学を専門とする学者である。守備範囲が広く、多くの分野を横断して研究している。彼はこうやって複数の分野を横断する中で「人間の学び」というものの本質に迫っていったのだと思われる。本書には「人間とはなにか」を規定するような啓蒙的なメッセージも多い。しかし今回はぼくが現在従事している『恋愛道場』メルマガの告知も兼ねて、恋愛やナンパ技術習得という観点から、つまり異性とのコミュニケーションに関する学びと関連させながら本の内容を紹介していきたいと思う。


学べない人間の3つのタイプ

本書は冒頭から「学べない人の3類型」という辛辣な分類で始められる。当ブログエントリーのタイトルもこれにあやかって、「絶望的に」というさらに煽情的な修辞を加えてつけさせてもらったが、もちろん本意ではない。広く読まれることを望んだゆえである。ともかく本書の分類では、、

1、無気力型

2、ガリ勉

3、ハウツウ型

の3タイプの人たちは学ばないということらしい。

佐伯氏いわく、1の無気力型は俗にいう「やる気のない」人間、つまり外側からの最低要求水準をスレスレで満足させるだけで、ほかに何にも興味を持たず、熱中することもなく、毎日毎日をただなんとなく生きている人間のことらしい。ひどい言い様である。ぼくがナンパ講師をしていたときは、この無気力型に思われるような人が多くやってきた。無気力というか、気力を奪われてしまった人たちという感じである。彼らは仕事なり生活なりに疲弊して、もうどうしようもないような呆けた顔つきで女性に話しかけたりするが、だいたいは何も起こらない。しかしどれだけ仕事に生活のリソースを奪われていても気力が衰えない人間もいるわけで、気力というのはどうやら物事に対して向かい合う姿勢とおおいに関係があるようである。ナンパすることに対しては無気力な人も、他のことでは気力を自然と発揮できることも多い。

逆にぼくがナンパを始めたときは、生活に関するあらゆることに対して無気力であったが、ナンパをしているときだけはまだマシであった。控えめに見積もっても鬱状態だったが、それでも亡霊のように街には出続けたものだ。この状態はおそらく佐伯氏のいうところの2のガリ勉型である。そして彼曰く、ガリ勉型というのは無気力型と本質的には何も変わらないらしい。唯一の違いは、ガリ勉型は自分が作業に課す「要求水準」が無気力型と比べて高いというだけで、自らの外から課せられた作業だと捉えているという意味では全く変わらない。外からの命令に従っているのである。ぼく自身ガリ勉気質がたっぷりあるのだが、とにかく彼らは要領が悪い。

それとは対照的に要領がいいのが3のハウツウ型である。佐伯氏いわく、ハウツウ型の人たちは「知識というものが自分にとっておおいに役に立つ、利用価値の高いものである」という認識を持っている。なにかに失敗すると常に「どうやればよかったか」を考える。「こうやるとうまくいく」という知識があればすばやく会得し、ものにする。しかしもう少し学びが深化してくると、いろんな落とし穴が顔を見せ始める。「どうやればよかったのか?」という問いは、万が一正しい答えを与えられたとしても、「自分にはそれができたのか?」という次なる問いへとつながっている。つまりここでは「素直さ」「柔軟さ」というものが求められる。そして、これは深いところでは明確に「気力」の問題と通じ合っているのである。

本書では、もっと言うならば、ハウツウ型に根本的に欠けているのは、「なぜ」とか「なに」とかいう真理への問いかけであるとする。つまり彼らは自分の成功だけに興味があるので、その行為がもつ世の中での位置づけといったものに無関心であり、それゆえに閉じられた同じプロセスをずっと繰り返すということになるというのだ。



学びの広がりと高まりの諸段階

佐伯氏の興味はそこから「なぜ人は学べないのか?」という根本的な問いかけへと移っていく。また学習や教育の「科学化」といった試みに興味があったらしく、本書の後半では、学びのプロセスというものを仮定して論じている。それらの細かい部分に関してはいろいろ異論もあるが、基本的にはぼくもこの学びのプロセス構築には同意である。ざっと俯瞰しつつ、異性とのコミュニケーションおける学びという視点から補足してみたい。


学びの第1段階

最もひくいレベルの「学び」というのは、言われた通りのことを全くの受動的に「丸暗記」するレベルである。「おぼえたこと」は「おぼえた」というだけのことであり、そのことのために生活が変わるとか、ものの見方が変わるとかいうものでなく、また、いくつかの「おぼえたこと」が相互に矛盾しないかどうかとか、それら同士の関連はどうかということにはまったく無頓着のままである。(p.175)

このステージは導入、人様のナンパブログを「こんな世界もあるのかぁ」「こうやって女の子とセックスできたらいいなあ」と驚きや羨望をもって読んだり、有料の商材を買ってみて「なるほど!」と膝を打つような段階である。新しい世界への入り口に恐る恐る入ってみる。そこで自分がなにかウキウキするような、テンションが上がるような、心がざわめくような、そして自分の力の可能性というものを感じれるような、そういったモノに巡り合えたなら大きな幸運である。


学びの第2段階

次の段階では、「学び」は若干選択的に行われる。つまり、「学ぶ側」に一種の「目標」があり、その目標に直接関係のあるものだけが選択されて、そのために「学ぶ」。この場合、その目標から外れているもの、その目標との関連が不明確だったり、間接的だったりすることは一切うけつけない。さらにまた、その目標が達成されればすべては終わる。もちろん、この場合も、「学んだこと」の意味が生活の中でたしかめられるようなこともなく、それによってものの見方が変わるでもなく、またさきの目標が「よい」目標だったのかの吟味もない。

俗にいう、「試験のためだけの勉強」、「ほめてもらうためだけの勉強」というのがこのレベルであろう。(p.176)

第1段階をしっかりと経過した人たちは、「おれも実際ナンパやってみようかな」となる。目標をもつというのは、誰かから便宜上決められたものであっても、それが自分にとって受け入れられるものであるならば、それは大事なことである。すすんで達成したいと思えるものであるならなおよい。みんなここではセックスを狙う。あるいはもう少し制限をかけて「1年で100ゲット」とか「高学歴美女を落とす」とかそういった目標にまい進する。外側から見るとそれらの姿勢はしばしば滑稽に見える。しかしわき目もふらずに目標にまい進できる環境を構築できた者がここでの学びを制する。成果を獲得することによって、自分の及ぼした力を身体で噛みしめながら確認していく。


学びの第3段階

この段階での特徴は、まず目標が必ずしも固定していないことである。むしろ、「目標自体をさがす」はたらき=「知的好奇心」の芽が生まれてくる。しかし、この場合でも、自分で新しい目標を次々とつくり出す働きはなく、その目標は外から取り入れる形で入ってくる。

もう一つの特徴は、ひとたび「新しい知識」が導入されると、そのことの意味は自分の生活のすみずみにまで浸透していくことで、生活のなかで(確かめうるものにかぎり)確かめられていく。とはいっても、その「確かめ」の中で、たとえ「矛盾」が発見されたとしても、それは単に、「自分にはよくわからぬことなのだろう」と放置され、ことさらその矛盾の解消につとめる働きはない。ものごとの「つじつま」をあわせていくけれども、「つじつまのあわないこと」はそのままであって、そこを自分でどうしようということはない。(p.176)

自分のやっている行為を客観性をもって眺め始めるのがこのプロセスである。それまで従事していた、目標の達成による自分の力の確認、出会いからセックスまでの閉じたプロセスを別の新しい視点から眺めるようになる。たとえば「異性獲得」というプロセスにとどまらず、もっと広範に異性との関係の中で自分というものを捉え始める。それでそれぞれ個別の興味関心へと移っていく。


本書においては、この後、第4段階、第5段階、第6段階とより高次な学びへと考察が続いていくが、ここでは省略。より高次な学びに関しては

この本がアツい。学びのプロセスという主題が、学者としての視点からでなく、ひとりの実務家としての視点から書かれた良書である。この本は佐伯氏の『学びの構造』にくらべて断然新しい。著者のジョッシュ・ウェイツキンは10代の頃にチェスの分野で世界的に活躍をした人物である。20代になってからはチェスとは全く別の太極拳のフィールドに活動の場を移し、そしてここでも並々ならぬ成果を上げる。学びの対象は違えども「学び」というもののプロセスを普遍化させることで、「わかる」「成長する」ということが感覚的にどういうことなのかということをひとりの人間が考察している。


現在の恋愛・ナンパ界隈を教える側から俯瞰する


第1段階の一番大きな動きはもちろん藤沢数希氏の「恋愛工学」である。恋愛工学は「ナンパなんてとんでもない」といういわゆるまともな価値観を持つ人、「理屈」や「ロジック」で動き出せる人たちを惹きつけたのだろう。定期的に送られてくるこのメルマガを読んでいると毎回自分が今まで信じていた様々な常識を覆すようなことが書かれている。そうして彼らはそれに突き動かされるように女性たちと接するようになり、第二段階へと進んでいった。ぼくは心の底から「恋愛工学はぼくの人生を変えてくれた」「本当に感謝しているんです」と感極まって言っていた人に実際何人も出会ったことがある。


第3段階の様相は多種多様である。いわゆる意識が高い人というのは第3段階の役割を担いたがる。そして皆が好き勝手になにかしらの新しい視点や枠組みを打ち出して「こういう○○系はイケてない」とか「これからのグローバルな恋愛戦略とは」みたいな大きな風呂敷を広げた講演なんかを(わりと廉価で)やったりする。たとえば、ハウツウ思考に侵された人たちを啓蒙するような活動がある。宮台さんもナンパのプロセスを前半部分と後半部分に分けたりして、前半は異性を獲得するハウツウを学ぶプロセス、後半は異性との関係を継続するプロセスというふうに位置付けていた。そして彼の興味は後半部にあった。ちなみにこの第3段階の役割を実際に担えるのは例外なくエライ人、つまり社会的に広く承認された人たちである。これは考えてみれば当然の話で、誰からも認知されていない人がこんな大風呂敷を広げたところで誰からも相手にされないからである。

第3段階の啓蒙活動はいかにして下々の人を説得するかのゲームのようなもので、その戦いは熾烈を極めている。力も知恵もない人たちがエライ人たちの言説をありがたがって拝聴する。啓蒙家はなぜか現状に困っている人々に新しい視点を与えたがる。力強い言葉でもって、「こうすれば世界が広がるよ」とうそぶく。しかし実際には毛ほどの変革ももたらせないことがほとんどだ。むべなるかな、その前の第2段階のプロセスでギチギチに詰まっているからである。


第2段階の教育インフラは全くもって未成熟である。国は「異性を獲得する」ためのノウハウ専門教育事業などには従事しないので、必然的に民間がこの役割を担うことになる。ここでは役に立つノウハウTIPSというものを喉から手が出るほど欲する人が多く、そのためノウハウは大きな価値をもっている。しかしそれらがある種の「ありがたい」「秘密のもの」として過度に扱われ、高額で流通するというゆがんだ様相も呈している。この恋愛関連の商材の単価は他の業界の類似商材と比べるとケタが一つ違う。

しかしこのステージにおける一番の教育的課題というのは、ノウハウが提供されることとそれが実際に獲得されることにはいつも大きな隔たりがあるということである。ノウハウをばらまいたからといって、それで成立するとはかぎらない。この隔たりを高い品質で埋めることが求められている。実際ノウハウインストールの役割をまっとうするのは非常に労力を要する。ぼくも路上でナンパ講習をやっていた3年半のうち後半の1年半くらいは微力ながらここの分野に従事していたが、未熟さも相まってか、率直な感想としては「割に合わないな」思うことが多かった。この分野における特筆すべきエキスパート流星氏である。


もう少しこの第2段階において教え手側に求められるものを書いておく。


まずは的確なノウハウである。つまり実際にプレーヤーの経験が豊富にあることが求められる。人は自分が経験して獲得したことならば教えることができる。自分が経験したことがないならば、教えれるかどうかは怪しい。

さらにいうとまだ現役であることが望ましい。ノウハウというのは使わないでいると、どんどん忘れていくものであるからだ。ぼくも最近毎月メルマガを書いているが、何か一つのテーマについて白紙の状態からノウハウを書いてくれと言われると本当に途方に暮れてしまう。具体的に質問されたり、そういう口説きの状況に身を置かされると瞬発的にとりだせたりすることはできる。しかしふだんは頭の奥底にスリープしているものである。なので現役であるというのはやはり大きなアドバンテージである。

二つ目には柔軟性や臨機応変さのようなものが求められている。自分が使っていたノウハウを人に押し付けたり、他人のやり方が自分のやり方とは違うからと言って退けたりする頭の固い人には、この役割は難しい。幅広い人たちに対応するためには、自分のノウハウというものを客観的に眺めるという視点がマストになってくる。わかりやすいNG例をあげるならば、イケメンであることのメリットをふんだんに利用して女を落とすようなノウハウは脆い。そのイケメンの教え手がそのノウハウの発動する土壌に気づいていない、つまり客観性をもって状況を眺めることができないならばなおさらである。マッチョな思想の教師も危ない。自分のマッチョ性を当然のこととして相手に押し付けることでたくさんの悲劇が生まれていく。

また一連のノウハウを獲得するというプロセスは直線的なプロセスではない。それは螺旋のように行ったり来たりを繰り返しながら、上昇していくプロセスであるといったほうが近い。またそもそも学びの第1〜3段階といった区切りが便宜上のものであり、絶対のものではない。そのためノウハウを叩き込むだけが正解ではないときというのもある。例えば世の中にはハウツウ主義に対して猛烈に反発するような人もいる。そういう時はノウハウを無理矢理に叩き込もうとしても全く機能しない。教える側はもっと広範に粘り強く働きかけていくという柔軟性が求められているのである。

三つ目にそれらを支える膨大な気力というのがいる。さらに第二段階では学ぶ側のモチベーションを上げるということがどうしても必要になってくる。相手の尻を時に厳しく叩き続け、時に優しく包み込む事で、常に彼らを鼓舞することが求められている。厳しさとやさしさ。そういったことを瞬発力を維持しながら粘り強く対応していけるほどの気力をもった人というのは本当に少ない。

流星氏というのは、毀誉褒貶はげしい人だが、この業界では上の素質をほぼほぼ完璧に兼ね備えた数少ない人物である。東京のナンパ講習の市場はもはやほぼ彼の一人勝ちの状況であるという状態は、少しでも事情の知っている人なら誰も否定できないだろう。基本的な能力値がズバ抜けて高いのでそういう結果もむべなるかなという感じである。ぼくも去年までは彼とツアーや納涼船講習などを一緒にやって駆け回ったが、彼と一緒じゃないととてもやりきれるとは思えなかった。今回の『恋愛道場メルマガもそう。詳しい内容は、

メルマガ『恋愛道場』をリリースしました

音声:次世代のコミュニケーションラーニング

対人コミュニケーション向上に伴う精神状態の変遷の話

などに譲るが、恋愛道場は学びの第2段階を大きく担えるはずだという、野心的な思いから始められたプロジェクトである。しかしもちろん現状の謙虚な分析から始められたものでもある。このメルマガによって、路上の実地講習ではどうしても届かなかった領域に新たに手を伸ばして関与することができるようになった。アイデア自体は非常にシンプルである。最新号の概要はこちらから。

恋愛道場第2号の公家コラム