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2017-03-18

昨日に引き続き、3月15日にブログ『意味の周辺』で公開した「鏡像の意味論その15」を転載します。なお、今回の記事と関係がありますが、昨日公開済みの「その13」の一部を訂正して更新しています。

鏡像の意味論シリーズは今回でひとまず一段落となりそうです。これまでのこのシリーズは従来の考え方を要素的に分析あるいは掘り下げるといった内容でした。すでにお知らせしていますが、日本認知科学会に提出済みの2つのテクニカルレポートでは従来になかった新しい視点で従来のさまざまな方法論と視点を包括できたものと考えていますので、お読み頂ければ幸いです: 鏡像を含む視空間の認知構造と鏡像問題の基礎

鏡像の意味論その15 ― (光学的)虚像について ― Haig説、Morris説、および高野説を併せて批判する

17:16 | 鏡像の意味論その15 ― (光学的)虚像について ― Haig説、Morris説、および高野説を併せて批判するを含むブックマーク 鏡像の意味論その15 ― (光学的)虚像について ― Haig説、Morris説、および高野説を併せて批判するのブックマークコメント

鏡像の「像」、英語ではMirror Imageの「Image」とは何でしょうか?


幸いなことに、語源についてはいざ知らず、日本語の像と英語のimageはだいたい同じ意味で(専門用語としても一般用語としても)使われているようです。 ただ日本語の「像」は漢字の熟語として使われる意外には単独ではあまり使われず、かわりに「イメージ」が使われることが多いですね。


「像」も「イメージ」も実に多様な意味で使われています。そういったわけで像とは何かという議論になるとあまりにも多岐にわたる議論になって、とても収拾がつかなくなるでしょうし、鏡像問題の枠を超えてしまいます。ただし、鏡像問題で重要な要素である光学あるいは幾何光学的に定義される「像」については、明確にして理解しておく必要があります。というのも、そもそも鏡像が光の存在下で生じていることはまあ、光学の知識などを知らなくても普通の人なら理解しているとはいえますが、なぜ実際に鏡で見ているように見えるのかということは、光学の知識なしでは絶対に理解できないからです。本当は眼のしくみについても理解しなければならないはずですが、それは当面ブラックボックスに入れておくとしても、光の直進と反射の理屈を知る必要があります。


鏡映反転の謎はプラトンを悩ませたと言われています。プラトンのような超天才でも鏡映反転の謎が解けなかった理由の少なくとも一つは、プラトンの時代には幾何光学が成立していなかったためでしょう。プラトン幾何学者ではあったけれども幾何光学はまだ存在もしていなかったというわけですね。しかしプラトンは当時のあり合わせの知識で安易な説明を付けて満足するようなことはしなかったわけで、これは逆にプラトンが真の科学者でもあったことを示すものだと思います。


ということで、鏡映反転の問題がまともに議論されるようになったのは光学の、少なくとも光の直進と反射の法則が明らかになった後、つまりヨーロッパルネッサンス時代以降のことになるのではないでしょうか。 たとえば哲学者のカント。


数学者科学者でもあったカントが鏡映反転の問題を考えたと言われています。これは私見ですが、カントはどうも鏡映反転の問題を考えているうちに、いつしかもっと抽象的な空間の問題に移行してしまい、具体的な鏡映反転の問題を置き去りにしてしまったように思います。というのは鏡映反転の問題からもっと抽象的な空間の問題に移行することで、後の学者などによって幾何学的な対掌体の概念がやがて明らかになってくるからです。ここではこういう歴史的な問題は余談ということにしておきます。(注:私はプロレゴ−メナの日本語訳しかカントの著作は知らないので、上記カントの考察について考えたことは、プロレゴ−メナから読み取れる限りのことです。)


さて、以上のような次第で幾何光学の基礎、少なくとも幾何光学における像の定義を知らずに鏡映反転のメカニズムを考察することは現代では無意味であることが分かります。


とは言え、幾何光学で「像」の概念が完璧に定義されているかといえば、必ずしもそうはいえず、「像」の本質を問うような議論はあまりされていないのではないでしょうか? ただし、幾何光学(この場合は結像光学という分野もあるようですが)で取り扱われる限りの実像と虚像の定義、少なくともそれらの像が成立する位置や大きさなどは厳密に定義されているはずで、それらを正しく扱わない限り、幾何光学を論じること自体が無意味です。


日本人の場合、少なくとも高校までに幾何光学の基礎、光の直進と反射の理論については習っているのではないでしょうか?例え習っただけで十分に理解していないとしても、 少なくとも専門家には鏡像成立のメカニズムが理解されていることを納得しているので、鏡を見ても不思議に思わず、安心していられるのではないでしょうか。光の反射による鏡映のメカニズムが知られるまでは、鏡の作用は日本でも神秘現象だったのです。もっとも何らかの自然現象であるらしいことは経験的に分かっていたでしょうし、多分、江戸時代くらいにもなれば、殆どの場合は特別な神秘現象ではないらしいという程度のことも経験的には感づいていたとは思いますが。とは言え、鏡や水面の向こう側にこちら側の景色が映って見えること自体は謎であり、不思議なことだったのです。幾何光学によって少なくとも大幅にこの謎が解明されたわけですから、幾何光学の理論を無視したり、理解せずに鏡映反転の謎を解くことは無謀であり、知的後退と言わざるをえません。


ただ、現在の科学は数多くの専門分野にわかれており、例えば小林秀雄もどこかで、「科学者も自分の専門分野以外のことでは素人と変わらない」と書いていたように記憶しています。 それは全くそのとおりでしょう。前回に考察したHaig氏の説明を見ても、Haig氏は心理学者を、「光学を知らない」ということで批判していますが、当のHaig氏は光という物理的な存在について考察しているだけで、「像」という物理的ではない存在については非常に無理解のままです。一方の高野先生は幾何光学の基本的な概念を理解していません。これについてはHaig氏の心理学者に対する批判がそのまま該当するのかも知れません。


そうはいっても、科学が多くの専門分野に分かれているとはいえ、心理学は感覚や知覚の問題を扱わざるを得ないのであって、生理学を通じて物理化学と不可分とも言えるのではないでしょうか。だからこそ、マッハのような物理学者が心理学の発展に貢献しているのではないのでしょうか? ですから、少なくとも知覚心理学のような分野で、特に視覚に関連する分野で幾何光学を正しく、少なくとも必要な範囲で、理解していないことは致命的な結果をもたらすと言わざるを得ません。


そこで前回の続きですが、ここでもう一度Haig論文の図を次に引用します。

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前回は私の考えによるHaig説の批判でした。その際、特に必要はなかったのでHaig説の具体的で詳細な説明はしませんでしたが、今回、高野先生によるHaig説批判を検討するに当たってはそうも行かないので、まず簡単にHaig説の主張そのものを要約しておきます。なお、以下の数節は今回のテーマ「虚像について」とは必ずしも関係なく、また煩雑なので、青色文字にしてあります。適当に飛ばしてお読みください。


Haig説では次の2つの異なる方法(どちらも上図に基づいていますが)で鏡映の左右逆転を説明しています。ただし基本的な原因が光の反射の法則にあるとする点が両者に共通しています(Morris氏や高野先生などはこれを「光学仮説」と呼んでいます。要するに幾何光学に基づく説明のことです):


(1)上図で顔(face、右側の四角形)から出る光を鏡(mirror、左側の四角形)で反射させてEの位置で見た像を、Fの位置(conjugate point、共役点)で直接見た像と比較すると、上下(AC)は逆にならないが、左右(BD)は逆になる


(2)上図で(a)のように入射光の作る面(APQC)と反射光の作る面(PQE)が重ならない方向(Tangential)の場合は方向が逆転しないのに対して(b)のように、入射光の作る面(STBD)と反射光が作る面(STE)が重なる(同一面)場合には方向が逆転して見える


以上の(1)と(2)の二通りの説明をしているわけですが、高野先生はまずMorris(1993)を引用して?を否定しています。その根拠は、Eの位置で鏡像を見ている人がFの位置に歩いて移動して直接(鏡を透過させるか鏡を取り除いて)顔を見た場合を鏡像と比較すると確かに左右だけが逆転するが、歩いて移動せずに上から飛び込むように、つまり逆立ちした状態でFの位置まで移動した場合は左右ではなく上下が逆転するではないか?だからHaig説は間違いである、と言うものです。

端的に言ってこのMorris(1993)による批判は間違っています。確かに観察者が上から飛び込むように、つまり逆立ちした状態でEからFに移動したとすれば左右ではなく上下で逆転しますが、だからといって、普通に歩いてEからFに移動した場合に左右が逆転することまでを否定することにはなりません。何れの場合も上下か左右のどちらかで逆転しています。要するにMorris(1993)の説明はHaig説に条件を付けているだけであって、これでHaig説のすべてを全面的に否定することはできないのです。前回記事で私が説明したように、対象が平面であって「鏡映で左右が逆転するのはなぜか?」という問いかけに対する回答である限り、Haig説(上記?の説明)が間違いであるとは言えないのです。

次にTakano(1998)では上記?の説明を、次のように否定しています。「 If his explanation were correct, an up-down reversal would be observed by the eye located on the elongation of AC in Figure I A because the optical layout becomes essentially identical to that in Figure I B, producing what Haig called a "sagittal view" (pp. 864865).」

これは正当な批判であると考えられます。確かにACの延長線上、例えばCの下方で鏡を見た場合は上下方向をHaig(1993)のいう「Sagittal」面で見ているのにも関わらず上下が逆転して見えることにはなりません。この点でHaig説は誤りです。ただし、この説明が誤りであるからといって?の説明までを否定できるわけではありません。(1)の説明と(2)の説明は、両者が光反射の法則に基づいている点で共通していますが、一方が否定されたら他方も否定されるという関係ではありません。(1)の説明が、例え条件付きであっても有効である以上、「光学仮説」を全体として否定することはできないのです。Morris(1993)とTakanao(1998)によるHaig説の否定は、よく使われる喩えを使えば、たらいのお湯と共に赤ん坊までを流し去ってしまうことだと思います。


Haig説の問題は、「Sagittal」という用語の用い方にもあるようです。手元にあった2つの理化学事典岩波理化学事典と研究社理化学和英辞典)で調べてみましたが、光学にはSagittal plane、Sagittal rayなどの専門用語があるものの、「回点対称な結像系」で定義される用語だそうです。つまり凸レンズなどによる実像についてのみ、意味を持つ用語ではないかと思います。鏡像は虚像であるし、文字通り鏡面対称であって回転対称な結像系ではなく、光学用語としての「Sagittal」にはあまり意味がないと考えるのですがどうでしょうか。

前回の記事で私は「Sagittal」を解剖学用語として理解したのですが、確かに光学、具体的には結像光学でこの用語が使われているようです。しかし鏡像の問題では結像光学で使われるこの用語と概念に意味はないことになります。ただし、この用語「Sagittal」を解剖学の用語と意味で解釈すると鏡像問題において重要な意味を与えることができます。(解剖学用語としてのSagittalについては、インターネットで画像検索すればすぐに分かります)。

というのは、解剖学用語としての「Sagittal」は人間の上下・前後・左右に関わる用語であるからです。上記Morris(1993)の批判に見られるように、観察者の姿勢と向きは鏡映反転において重要な意味を持っています。ところがHaig説では観察者を含めてすべて1つの点でしか表現されていないのです。そこにSagittalという解剖学にある用語が入ってきたので、私はその前後をきちんと読まずに、ここに観察者の姿勢と方向の要因が加えられているのかなと考えた次第なのです。しかし光学的な定義ではSagittalにさしたる意味はなさそうです。

もしかすると、Haig説では観察者、つまりEで示される眼を持つ観察者の上下・前後・左右の三つの軸の一つである前後軸が、光学でいうSagittal planeという概念にすり替えられているのではないかと思われるのです。上図には観察者は眼の位置だけで表現されています。しかし、観察者が正立して鏡面に向かっていることは暗黙の中に了解されています。Eの位置にいる観察者がFの位置に移動するとすれば、観察者の前後軸と左右軸は逆転しますが、上下軸は逆転しません。長くなるのでこの問題についてはこれまでとします。



以上はHaig説の問題点あるいは誤りと言えますが、今回のテーマである虚像に関連する問題として高野説には上記引用の後の2つの節で重要な誤りが見つかります。引用すると長くなるので省略しますが、次の節とその次の節では、鏡像を、鏡面上に生じた平面パターンのことであると認識した上で議論が展開されています。現に、Haig(1993)からの引用された上図に高野先生が追加された説明には、「The mirror image, PQ, of the vertical line segment,」と書かれていますが、PQをmirror imageというのは明らかな誤りで、幾何光学の定義に反しています。PQは、鏡像でも鏡像中の線分でもありません。前回の記事で私が述べたように、この図には鏡像は表現されていません。この部分を分析してみようと思いましたが、これらの節では「Optical layout」という定義されない曖昧な表現がキーワードのように使われているので、分析するのは非常に難しいです。ただ、この用語が幾何光学で定義されている虚像(この場合は鏡像)を意味しているように受取ることができます。とすれば、高野先生はここで鏡像の二重定義を行っていることになります。これは高野説のその後の展開の基礎になっていますので、この辺の論理を明確にしておくことは重要だと思います。高野先生は鏡像が平面であるという理由で鏡像が相手の対掌体であることを否定しておられますが、幾何光学で定義される鏡像は平面パターンではなく、鏡の表面に生じるものでもないのです。


まず、この文脈で言えばOptical layoutという表現で何を意味しているのかを具体的に、明確にする必要があります。Layoutの本来の意味からは外れますが、上図のような幾何光学の光路図を指しているのでしょうか?その場合は場合によっては具体的にどの図のどの部分であるかを示す必要もあります。あるいは新たに図を作成する必要があるかも知れません。


ここでは、私は専門家でもないので詳しく説明しませんが、幾何光学では鏡像を含めて虚像について厳密にその位置と大きさ、また方向もきちんと定義されています。それらの定義に反する説明は現在の幾何光学の大系そのものを否定することになり、否定するのであればその根拠を示す必要があります。


とはいえ、幾何光学で厳密に定義される虚像というのは、最初の方でも述べましたが、位置とか大きさとか、要するに技術的な展開が可能な範囲でしか定義されず、像そのものについて何ら明確な定義はおこなわれていないように思います。そもそも簡単に辞書的な「定義」で済ませることは不可能な問題であるのかも知れません。しかしそれこそが心理学者、認知科学者、あるいは認識論学者の仕事であり、使命なのではないでしょうか?


虚像について考えることは像そのものについて考える上で最上の手がかりです。



今回の引用参考文献:

Nigel D Haig, 1993 "Reflections on inversion and reversion" Perception1993, volume 22, pages 863-868


Reg C Morris, 1993 "Mirror image reversal: Is what we see what we

present?" Perception, 1993, volume 22, pages 869-876


Yohtaro Takano, 1998 "Why does a mirror image look left-right reversed?

A hypothesis of multiple processes" Psychonomic Bulletin & Review 1998,5 (1), 37-55


以上(2017年3月15日 田中潤一)

トラックバック - http://d.hatena.ne.jp/quarta/20170318

2017-03-17

前回、先にブログ『意味の周辺』に掲載した「鏡像の意味論その12」を多少編集して掲載しましたが、その後同じ「その12」として2つの記事と捕捉を追加していますので、今回また多少編集した上で「その13」および「その14」として併せてこちらに転載します。またその後「その15」も公開していますので、引き続き「その15」もこちらに転載する予定です。

鏡像の意味論その13 − 鏡像の意味論その12、平面パターンと文字の鏡映反転について ― Haig氏の理論に関連して

| 15:22 | 鏡像の意味論その13 − 鏡像の意味論その12、平面パターンと文字の鏡映反転について ― Haig氏の理論に関連してを含むブックマーク 鏡像の意味論その13 − 鏡像の意味論その12、平面パターンと文字の鏡映反転について ― Haig氏の理論に関連してのブックマークコメント

【今回のキーポイント】

● 光(光線)は物理的な存在であるのに対して、像(イメージ)は物理的な存在ではない。像は知覚される内容(あるいは意味)である。

● 人は記憶力で像を記憶したり、想像力と思考力で像を動かしたり、回転したり、あるいは見えない部分を補うこともできる。ただし、これらについては相当な個人差がある。

● 鏡は光を反射するのであって、像を反射したり変換したりといったことはできない。

● ヒトが眼(網膜)を通して見るのは像であって、光ではない。

さて前回、「次回は鏡映反転において対掌体の性質が持つ意義について考えてみたい」と書きましたが、今回はそれとの関連で、前回の最後の話題になった平面パターンと文字の場合に焦点を合わせる方向で、考察してみたいと思います。

少々横道にそれますが、私自身が鏡像の問題でこのシリーズのような記事を書いたり論文を公表したりしていますが、正直なところ今でも他の人が書いた鏡像問題の論文や記事を読むのは苦手で気が重く、英文であっても日本語であっても相当に苦労します。最初の頃、多幡先生から認知科学誌の論文集(日本語)をお送りいただいた時も最初はあまりにも読みづらいために、1年間ほどそのまま放置していたのです。その時点では自分で論文を書いて発表し、諸先生方と議論したいなどとは思っても見ませんでした。

しかし当時、ちょうどカッシーラーという哲学者の書いた『シンボル形式の哲学』を遅々としながら1日あたり数ページといった調子で読んでいたのです。特に素養もないのに何故その時期にのような哲学書を読もうと思ったのかという話になると、この記事を終えることができなくなるので止めますが、翻訳者木田元氏による解説で、この書が「20世紀哲学の最大の成果であると考える」、と書かれていたことにも鼓舞されて、私にはあまりないことなのですが、最後まで一通り読むことは読んだのです。

全体としてどれほど理解できたかは心許ないものの、なぜか『第二巻 神話的思考』で、幾何学空間と知覚空間という二つの空間が比較されている個所を読んだときには最初から非常な、衝撃ともいえるほどの感銘を受けたのです。それが鏡像問題と関係がありそうに思えたことについてはこのブログでも書いたのですが、これが心理学や認知科学方面の先生方の目にとまった様子もなく、自分で展開してゆくほかはないな、と思うようになったという次第ということになりますか。

そんなわけで、他の人の論文を読むのは今でも本当に難しいと思います。その理由などを考え始めるとまた横道にそれるので、以下、論題について端的に進めたいと思います。

前回、文字の鏡映反転の問題で検討した高野陽太郎先生の、米国心理学会のPsychonomic bulletinに掲載されているTakanao(1998)を再読し始めたところ、最初の方で図1としてHaig(1993)から転用された図が用いられています。この図によるHaig氏の理論に対する批判が述べられているのですが、Haig 理論に問題があることには同意できるものの、高野先生はHaig 理論とこの図を正しく理解していないのではないかと思われたので、Haig 論文そのものを見なければならないことになりました。幸いなことに、ちょうど昨年末に、また多幡先生がHaig 論文を含むいくつかの外国の論文を送ってくださっていたのです。以下にHaig 論文から問題の図を引用してみます。この図について著者の説明を最初から紹介すると煩雑になるのでやめますが、とりあえず「mirror」と「face」で鏡と顔が表され、EとFで視点、つまり眼が表現されています。

f:id:quarta:20170317144505j:image

Haig(Perception, 1993、Volume 22, pages 863-868)から引用

この図に対するTakano(1998)に見られるコメントについては後に触れますが、とりあえずこの図によるHaig氏の説明には、図を見るだけで、少なくとも3つの、興味深くはありますが、致命的な欠陥があることが指摘できます。それは:

1) 複雑な人体の一部で凹凸のあるべき人の顔が真っ平らな平面で表現されていること

2) 画像であると仮定したとしても、人の顔が四角形でしか表現されず、 上下と左右を表す基準が何も示されていないこと

3) 形状の逆転(鏡映反転)の根拠が光線の方向のみで説明され、像(Image)で説明されていないこと。

【1(顔が真っ平らな平面で表現されていること)について】

上下・前後・左右が問題になっている鏡映反転の問題で、人様の顔を平面で表現するなど、妖怪漫画のお化けではないのだから、乱暴というか、暴論というより他はありませんね。その結果、一切の前後方向の要素が欠落することになってしまいました。

【2(上下と左右を示す基準が表現されていないこと)について】

著者はこの図で上下と左右および前後を定義していますが、本来上下・前後・左右は空間についても個物についても任意に、勝手に定義できるものではありません。具体的なヒトやモノ、空間を離れた抽象的な上下・前後・左右はありません。著者は本文中では解剖学の用語を使って、結果的には、上下・前後・左右の根拠になっています。しかし、この図を元に説明している以上、図にその根拠を表現する義務があります。仮に上下と左右を認めるとしても、このような二次元の平面では前後を表現しようがありません。仮に正面を向いた顔の絵が描かれているとしても、後ろから見ると後頭部が見えるわけではなく、同じ顔の絵を裏から見た像が見えるはずです。

一方、著者はこの図によって左右の逆転は物理光学的に説明できるとしていますが、本文中で解剖学用語(sagittal、矢状)と概念を使用しています。これでは単に物理光学的な論証とは言えないと思います。

【3(鏡映反転が像ではなく光線の方向で説明されていること)について】

人が見るのは像であって、光あるいは光線ではありません。物理的な物体を見るには光で照明を当てる必要があります。光に光の照明を当てられるでしょうか?

もっとも、光そのものではなく光源を見ているとは言えます。それは眼の網膜に投影された光源のパターンが元になって網膜像が成立しているからですが、網膜上の光源のパターンと網膜像はまた別ものです。詳しい専門的な用語は調べていませんが、私の定義では網膜像は網膜パターンを元にその人物が認知する像のことと考えています。この、現実に認知する像が立体であることは自明であると言っても良いと思います。現に私たちが周囲の人や物や環境を立体として認知しているわけですから。このような現実の視空間の像が網膜パターンからどのように認知されるかは解明されていませんが、Haig氏が「The question of how mirror-reflected objects are perceived remains, of course, a psychological one」と言っているのは恐らくこのことでしょう。脳科学で研究されていると言われますが、おそらく科学的には永久に解明できないのではないでしょうか?

いずれにしてもHaig説のように光線の方向あるいは位置で説明する限り、網膜パターンという平面に対応させざるを得ないので、Haig氏は顔をも平面で表現せざるを得なかったのではないかと考えられます。

これは別の面からも言えます。仮に図の四角い「face(ABCD)」に凹凸(前後方向)が表現されていたとしましょう。例えばface平面に直交する線上でf「face(ABCD)」の前と後ろに1つずつ点があったとします。図に書いていないので分かりにくいかも知れませんが、この2点から眼に到達する2つの光線の方向の違いによって遠近、つまり前後が表現できるでしょうか?結局それらは左右の差となって表現される他はありません。言い換えると「前後方向の差は左右の差に変換される」ということで、物理的なの光線の作図による限り、顔の前後方向は表現され得ないわけです。しかしヒトそのものや顔面に限らず鏡に映すあらゆるモノが立体ではないということはあり得ないので、このような方法では現実を正しく表現し得ないということが分かります。Haig氏は「鏡は実際には鏡に向かう人物の前後軸を逆転している」というGardner説を否定していますが、そもそも前後軸を消去してしまうような方法論と図を用いているわけで、これは完全な誤りであることが分かります。

一言で言えば「光と像は全く異なるものであり、鏡像問題の対象は光ではなく像である」ということです。

では像とは何でしょうか?また像と光の違いは何でしょうか?今はこのような議論を始めてもまた収拾がつかなくなるので止めます。ただ、物体をを直接見る場合と、鏡像として見る場合の何れの場合も、次の2点は確実に言えると思います。

1)光は物理的な存在であるのに対して、像は知覚される内容(あるいは意味)であり、物理的な存在ではない。

2)人は記憶力で像を記憶したり、想像力と思考力で像を動かしたり、回転したり、あるいは見えない部分を補うこともできる。ただし、これについては相当な個人差があることは確かです。

ここではHaig(1993)説自体については説明していませんが、それでも上の図を元にしていることだけで、それが行き過ぎた単純化による暴論であることがわかります。しかし上記の3つの問題をを指摘できたことは、この図が鏡像問題の本質を叩き出すいわばたたき台としてきわめて興味深いと思うのです。同時に、この図によるHaig氏の説明に優れた、正当な部分があることも認めざるを得ないのです。

まず、三つの問題点のうちで(1)に付いて言えば、この説明が正しいとしてもそれは平面パターンにについてしか適用されないとことが明らかで、当面これ以上の説明は必要がありません。そこで残りの(2)と(3)について、このような誤りがその後の考察にどのように影響しているかを考えてみたいと思います。

今述べたように、この図には1つ以上の優れた点あるいはメリットがあります。その1つは光の経路という物理的な存在のみを表現し、鏡像という非物理的存在を描いていないことです(この点を理解せずに批判する人もありますが)。具体的に言うと、Haig氏はEの位置(眼の位置)で顔(ABCD)を鏡で反射させて見た場合の像と、Fの位置で鏡を透明とみなして顔(ABCD)を直接見た場合の像を比較しているので、鏡像も直接見た像も描いていません。強いて言えばどちらの像も顔(ABCD)そのもので表し、顔(ABCD)を正面から見た場合がFの位置で見た像に近く、おなじ顔(ABCD)を裏側から見た場合がEの位置から見た鏡像に近いと言えるでしょう。この表現は私の考え方、つまり、鏡映の関係とは実物と鏡像との二者関係ではなく、実物を直接見た場合の像と、同じ実物を鏡に反射させてみた像との二者関係であるという考え方を示す点では適切であると考えます。鏡映反転を表現する図では、よく上から俯瞰した鏡像を描きますが、それは虚像といわれるように、鏡を見る本人以外に外部から客観的に見えるはずがありません。(もう1つの優れた点は観察者自身の視点ではなく他人の視点で考察していることですが、これについては今回は触れません)

とはいえ、鏡を見る人(E)が実際に眼をとおして見るのは先にも触れたように、光でも光線でもなく、像(イメージ)なのであり、 図をもとに説明する以上は像を表現する必要があると思います。結果的に、この図では光線のみが表現されているので、像を見る人が正立している場合には必ず左右で鏡映反転が生じることになり、人が横向き、つまり寝そべった状態で見ている場合は必ず上下逆転というように確定してしまいます。

これは、像が平面パターンである限り、「鏡像は左右が逆転するのはなぜか?」という問いかけに対する解答としては間違ってはいないし、一つの正解であるとも言えます。文字の場合もこれに該当します。ちなみに、文字の場合は平面であると同時に、形状が著しく単純であったり、逆に複雑であったりするために、左右を逆転させたり回転させたりしても同じ形状になったり、逆に全く別の形して認識され、全く読めなくなったりするという特徴が指摘できると思います。文字の特徴としてよく指摘されることで、上下と左右が定められていることは別に文字に限ったことではないし、また洋書背表紙のように横向きに表示される場合もあります。

ところが、鏡像問題は「左右が逆転するのはなぜか」という問いかけに限られないことはすでにはっきりしています。上下や前後が逆転して認識されることについてはすでに多くの指摘があるとおりです。これは像が物理的存在ではないことに関係していると言えるでしょう。

先に述べたとおり、像(イメージ)は物理的な存在ではないので、それを記憶したり、想像力と思考力を駆使して位置を移送させたり回転させたりといった操作ができます。これは当然、その場のさまざまな条件と見る人の個性や能力にも影響されることです。自分自身が動くことを想像するとしても結局は相対的な問題なので同じことです(「回転仮説」だとか「回り込み」だとか色々と回りくどい表現がなされていますが)。ですから平面パターンの場合でも、普通は左右の逆転と見られる場合にも、想像力をたくましく働かせれば上下の逆転とみることも可能なわけです。

このような鏡映反転の問題を、平面パターンだけではなくあらゆる場合を含めて包括的に説明するのが対掌体の概念であり、また等方的な幾何学空間と異方的な知覚空間の概念であると言える、ということです。

今回はHaig先生のhaig(1993)を分析することで、結果として平面パターンの鏡映反転について考えてみました。次回はhaig(1993)に対する高野先生のコメントを契機に、高野先生のTakano(2008)を再び検討することで、虚像の問題、鏡像は虚像であることの意味を考えてみたいと思います。

鏡像の意味論その13およびその14 − 前回記事(鏡像の意味論その13)の捕捉(変換という言葉の危うさ)

| 15:22 | 鏡像の意味論その13およびその14 − 前回記事(鏡像の意味論その13)の捕捉(変換という言葉の危うさ)を含むブックマーク 鏡像の意味論その13およびその14 − 前回記事(鏡像の意味論その13)の捕捉(変換という言葉の危うさ)のブックマークコメント

前回記事に関して、タイトルの範囲からは多少それますが、若干の捕捉をします。

冒頭に箇条書きで4つのキーポイントを掲げましたが、その3番目は次のとおりでした:

● 鏡は光を反射するのであって、像を反射したり変換したりといったことはできない。

これについては理解されがたいか、あるいは異論をもたれるかも知れませんので、少々説明したいと思います。いずれにしても比喩ですが比喩といっても妥当な比喩もあれば不適切な比喩もあります。

例えばデパートだとか、何らかの商業施設の中などの広い空間で、壁面が大きな鏡になっているような場所があると思います。そういう鏡から、いくらか離れた位置に1人の人物がいて、その人を直接見ることも、鏡に映った姿を見ることもできるとしましょう。あなたが鏡に映った人物を最初に見て、その後に直接その人物を見ることも十分あり得ることです。もちろんその逆もあります。清潔で品質の良い鏡なら、鏡に映る人物を見てそれを鏡像だと気付かない場合もまた十分にあり得ることです。

映るという言葉の語源と関係があるかどうかは分かりませんが、現実に実際の人物が鏡の向こう側に移動したということも、コピーされたということも、また鏡のこちら側にコピーされたということもありえないのは自明のことです。

つまりあなたが視覚で認知しているのは、直接見る場合も、鏡を通してみる場合も同様に、その人の姿であり、像であるということです。ところが鏡を通して見る場合だけ像と呼ばれるのに対して直接見る場合には像と呼ばれません。しかし「姿」という日本語があります。和英辞典をを見るとshapeとfigureが挙げられています。

また横道にそれてしまいそうですが、このように考えてくると、鏡像に対応するものは直接見た姿に他ならないので、私は昨年末に認知科学会に提出した件のテクニカルレポートではそれを呼ぶのに「直視像」という言葉を用いました。この直視像と鏡像はどちらかが他方に変換されたというようなものではないと思います。どちらかが他方に変換されたり、コピーされたり、ということではないからです。

鏡映反転の問題として左右の形状の逆転が観察される場合、それは変換されたのではなく、あなたが直接見た姿と鏡像との2つの像を比較して逆転が観察されるということでしょう。例えば直接見た人物が右肩に鞄をかけているのに対して、鏡像は左肩に鞄をかけているとか。

この逆転はどちらが鏡像で、どちらが直視像であるかには関係のないことです。簡潔に言えば相対的な逆転なのです。ですから必ず二者を比較する必要があります。問題はなんらかの自動的な変換ではなく、あなた、すなわち観察者による能動的な比較なのです。以前に「変換」という言葉の曖昧さ、危うさについて考察したことがありますが、それはこういうことなのです。鏡映反転の原因、あるいはメカニズムを「変換」という一言で表現する説明には非常な危うさを感じてしまいます。

というのは、ここで「変換」という場合、鏡が主語として想定されています。たいていの説明では「鏡が(形、像、姿、等々を)を映す」とか、「鏡が(形、像、姿、等々を)反転する」とか「鏡が(形、像、姿、等々を)逆転させる」といったような表現が用いられていますからね。こういう表現は鏡の擬人化ですが、こういう表現もやむを得ないところは確かにあります。

鏡を主語として考えると、鏡は光を反射させているだけで像を反射させたりしているのではないとはいえ、鏡像の成立に関与していることは確かです。 ところが、あなたが鏡像と比較しているもう一つの像、つまり先の言葉で言えば直視像ですが、この直視像の成立には、鏡はまったく関与していません。2つの像の一方にしか関与していない鏡が、一方の像を他方の像に「変換」しているなどと言えるでしょうか。私は言えないと思います。少なくともここで「鏡が(あるいは光学的原理が)〜を変換している」と言い切ってしまえばそれ以上のメカニズムの分析が不要になってしまい、結局は覆い隠されることにならないか、と言いたいのです。

さて、以上から鏡は2つの像のうちで鏡像の方にしか関与していませんが、2つの像を比較する観察者の存在は、2つの像の両方に関与していることが自明といえます。鏡あるいは光学原理が鏡映反転という「変換」を行っているというような考え方をすると、観察者の存在、観察者の個性や能力と言った要因を無視することに繋がります。ここから次のような2とおりの誤りが生じてくると思うのです。

A.鏡映反転の原因はひとえに物理的(幾何光学)なものであるという考え方

B.鏡映反転の原因として物理的ではない(例えば心理学的)原因を考えざるを得ないとき、その原因は、ひとえに心理学的な原因であるという考え方。

端的に言って、Aの考え方は前回のHaig説を始めとする、多数派ではないかと思います。一方Bの考え方の代表は、高野先生の多重プロセス理論と言えるのではないかと考えるのです。「多重プロセス」という考え方は、常に2とおりのプロセスが進行しているという意味にとれば、あるいは鏡映反転のタイトルとして適切かも知れないと思いますが、常に2とおりのプロセスが進行しているのではなく、ある場合(例えば観察者自身が鏡に対面している場合)に一方のプロセスだけで説明し、別の場合(例えば観察者自身が鏡に対して横を向いている場合)にもう一方のプロセスだけで説明するのは、単なるご都合主義ではないかと思えるのですが・・・・・。

(以上。田中潤一)

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2017-01-02 鏡像の意味論その11および12

鏡像の意味論その11および12

| 15:48 | 鏡像の意味論その11および12を含むブックマーク 鏡像の意味論その11および12のブックマークコメント

そもそも平面とか立体、あるいは二次元とか三次元とかいう表現が何を意味するのかという問題は、一般人にとっても科学者にとっても改めて再考する必用があるように思います。あるいは少なくとも視覚像や映像の問題を考察する場合には根本的に再考する必用があるのではないかと考えています。そのようなことは幾何学的には自明のことのように思われるかもしれませんが、いざ現実のイメージにそれらを適用した場合、平面にしても立体にしても幾何学的な理解をそのまま感覚的な像に適用して問題はないのかを考えてみると、大いに問題があるように思われます。だいたい二次元とか三次元とかといった幾何学的な概念を持っていない時代の人たちは二次元の像とか三次元の像などと感じたはずがないので、そういう幾何学的というか、数学的な概念で本当の感覚的な視覚を表現しているとは言えないとも思えるのです。

例えば、鏡は平面だから鏡に映る像は平面の像であると単純に考える人も少なくないように思いますが、これは「映る」という言葉がこのように使用されていることの意味を深く考えずに、ただ「平面、二次元」とか「鏡」とか、「映る」という言葉を字義通りというか、表面的にしか考えないことによるのでしょう。ただ、鏡像や凸レンズで見る像を虚像ということや、虚像の幾何光学的な原理については殆どの人は学校で教わっているはずではあります。とはいえ、この問題は鏡像などの虚像の問題に限らず、また映像などの画像の問題にも限らず、もっと根本的な、「像」一般の問題、視覚そのものについても反省を促す問題であるように思います。


とりあえず今回は鏡像問題との関連で、平面や立体の意味について、少々掘り下げてみたいと思います。

鏡像の意味論 その11、鏡像と虚像 ― 鏡像は平面パターンであるという初歩的な誤解 ― 鏡像は単独では直接の像と区別できないこと

| 15:48 | 鏡像の意味論 その11、鏡像と虚像 ― 鏡像は平面パターンであるという初歩的な誤解 ― 鏡像は単独では直接の像と区別できないことを含むブックマーク 鏡像の意味論 その11、鏡像と虚像 ― 鏡像は平面パターンであるという初歩的な誤解 ― 鏡像は単独では直接の像と区別できないことのブックマークコメント

【画像と鏡像の比較】

とりあえず鏡像が立体であり、二次元パターンではないことを、簡単に図示してみよう。次の図は前面が写真などの画像になっているパネル状の物体を上から見たところとする。前面前害が画像である。

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当然、Aの位置とBの位置ではそれぞれ異なって見えるが、特に大きく異なるのは全体の横幅である。しかし描かれている画像は平面パターンだから全体が見えることに変わりなく、正面向きの顔が表現されているとすれば、どこでも同じ正面向きの顔が見えることに変わりはない。これは図を描くまでもなく分かることである。

一方、鏡像ではどうだろうか?下の図は鏡像の説明である。ちなみに矢印付き直線は光の進行を表し、波線は上図と同様、視角を表している。

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人物Bは真正面から自分の鏡像を見ているのに対し、Aの位置では斜め横向きの顔が見える。AにはB君の右ほほにある斑点は見えないだろう。逆にB君は四角い顔の両側面は本人には見えないだろう。しかしA君にはB君の左側側面がよく見える。

視角に付いて言えば、上図の画像の場合、Aの位置ではBの位置でよりも狭くなっているが、下図のAの位置では逆にBの位置でよりも大きくなり、画像の場合とは逆になっている。もちろんこれは常にそうなるのではなく、像の形状によるものではあるが。

確かにヒトの視覚では物の表面しか見えない。しかしこれは鏡像であることとは関係がない。同時に顔の正面と横顔を同時に見ることはできないが、これも鏡を通さず直接見る姿でも同じことである。

またこの絵の状況では確かに鏡に映った顔の後ろや上から見た姿も見ることはできない。 しかし直接他人を見る場合でもそのような状況はきわめて普通である。どちらの場合も光源の位置と目の位置を動かすことで、どの角度からも見ることができるのである。要するに、鏡を介さずに見ている対象が立体であるといえるのであれば、鏡像も立体であり、鏡像と鏡を介さない像とを区別することはできない。


【虚像について】

光学、正確に言えば幾何光学では鏡像は虚像と呼ばれる。鏡像は虚像の一種である。虚像とは何か、要するに目に見える物と目との間に光を反射あるいは屈折させる物体が介在するだけのことである。だから鏡像はもちろん虚像だが、ルーペで見る像も虚像と呼ばれる。鏡像とルーペで見る像が虚像であればメガネで見る像も虚像ということになる。当然、近視や乱視のメガネもそうである。どんなに度のゆるいメガネであっても、始めてメガネをかけたとき、肉眼だけで見るときとは異なった位置と大きさで見えるものである。だから肉眼で見るのとは異なる像を見ていることになる。これはれっきとした虚像である。

このように見てくると、肉眼で見る像もつまるところ、虚像に他ならないのである。あらゆる視覚像は虚像である。結局のところ、すべて網膜に映った像が元になって知覚している像に他ならない。


【網膜像について】

網膜に映った像が平面パターンであるから、結局のところヒトが認知する像自体も立体ではないと考える向きがある。しかしヒトは自分の目の網膜像を見ているのではない。

いったい、自分の目の網膜像、正確には曲面ではあるが、とりあえず網膜上の平面パターンを見た人がいるだろうか。網膜像を平面パターンとして見るには網膜を別の眼で見なければならない。

普通、網膜像が平面パターンであるということは、人は知識として知っているだけであって、実際にそのようなものを見た人はいない。

網膜像は眼の解剖学的な知見と、凸レンズの幾何光学的知見とから想定される概念以上のものではない。 もちろん、概念として厳然として存在することは確かである。しかし、目で見える像ではないし、まして、上記のように自分の目の網膜像を見られる筈もない。

このように、人は平面的な網膜像というものを知っているが、それは解剖学と幾何光学の先達の遺産をそのまま意識せず、感謝もせずに受けとっているだけなのである。

鏡像の場合も同様。鏡の幾何光学をよくよく理解することなく、鏡像の問題を語ることはできないのである。

【画像の場合】

画像の場合も一定の条件付きで平面ではなく立体像であるといえる。なぜなら、画像として表現されたイメージ自体は立体像である以上、それは立体と見なさなければならない。

人が画像を見る場合、同時に2つの異なるものを見ているのである。一つは物質としての二次元的表面であり、もう一つは画像に表現されている像である。上質の画像を正面から見るとき、鏡像と同様に、三次元の本物と間違うこともまれではない。そのときは、画像の表面を見ていないのである。紙の場合はアート紙や、ビニール張りなど、光沢を付けるのは表面を見えなくするための努力に他ならない。映像の場合も、ひたすら表面を見えなくするための努力が続けられて来たといえる。

もちろん鏡像が立体であるのと同じ条件で立体とはいえない。正確に認知するには真正面から見る場合に限られるし、画像に表現されていない部分は絶対に見ることはできないのはもちろんである。網膜による像の認知もある意味これと共通する要素があるかもしれないが、網膜の場合は表面を見ることは絶対に不可能である。

従って、真正面から上質の画像を見る限り、立体像という点で条件付きで鏡像と比較することもできよう。

鏡像の意味論その12 ― 鏡像問題における記憶の意義

| 15:48 | 鏡像の意味論その12 ― 鏡像問題における記憶の意義を含むブックマーク 鏡像の意味論その12 ― 鏡像問題における記憶の意義のブックマークコメント

このシリーズで、前回は平面パターンと立体の認知の問題について再考してみましたが、この問題を掘り下げるには記憶の問題について多少とも考察せざるを得なることに気付きます。端的に言って記憶力なしでは視覚認知自体が、他の認知問題と同様、存在しないでしょう。記憶はあまりにもあらゆる認知に深く関わっている故、記憶力そのものがテーマとして研究され、記憶力自体の研究が目的ではない他の分野では、記憶力はあらゆる認知において遍在するものとして、表面に浮上することは少ないのではないかと考えられます。


ヒトの視覚では原理的に物の表面しか見ることができません。だからといって、立体を見る場合でも目に見える部分だけで形状を認識しているとは言えず、たとえ人物の正面だけしか見えなくても、その姿を人間として認知している以上は三次元の立体像として見ているのであって、正面だけのマスクや張りぼてのような表面として認識しているわけではありません。当然、目に見えない部分を想定して認知しているのであり、家族のような身近な人物の場合はいつでも前後左右あるいは上下についても良く記憶している上に特定の時点を取ってみても、その直前まで後ろ姿を見ていたのならまず間違いなくかなりの正確さで立体としての全体像を把握していいます。

都会の往来を歩くときなどはたいていそうですが、まったくの他人を始めて見る場合でも衣服や髪型などを含め、正面から見るだけでかなり正確な全体像を認知しているといえます。記憶には長期記憶と短期記憶とがあると言われていますが、このような場合は長期記憶が大きく作用しているに違いありません。

そもそも知らない人でも、遠くから見えるぼんやりした姿でも人間として、さらには男女や人種やその他諸々の特長の記憶により、そういう人物として認識できるのはやはり人間として、その種の人物としての特長を記憶しているからに他ならないでしょう。そう認識できると言うより、実際そのようにしか認識できないでしょう。これは対象を直接見る場合も鏡やレンズを介して見る場合もなんら異なることがないのは、前回(その11)検討してきたとおりです。


このように直接見る像にしても鏡像にしても同様に記憶、詳しく言えば長期記憶と短期記憶の両方が関わっているのですから、鏡映反転の原因あるいはメカニズムにおいて記憶が重要な要因となっているということは考えにくいことです。鏡映反転は二つの像を比較することで成立する認知ですから、どちらの認知にも同様に機能している記憶の問題は消去されるはずです。


2007年の毎日新聞で取り上げられ、鏡映反転を説明する理論として有名な「多重プロセス理論」と呼ばれる郄野陽太郎東大名誉教授の理論では、文字が鏡で左右反転して見えるプロセスを特別に「表象反転」と名付け、この場合に限って記憶が主要な役割を果たしているとしています。確かに、文字のような記号の場合、一般的な記号としての形状を認識していることが特徴ですから、一見、この説には人の興味を引くところがあります。しかし文字ではなく人物像の場合でも、ヒト一般の特徴、頭が上にあり足が下にあって二足歩行し、大抵は衣服を着けているという特徴は、詰まるところ記号に他ならず、すでに見てきたとおり、記憶に基づいています。何も文字に限られているわけではないのです。左右の特徴にしても、例えばジャケットには必ず左側に胸ポケットが付いています。日本の道路では車は左側通行です。普通の人はこういうことは記憶していますから、注意して鏡を見れば左右が逆になっていることに気付く人は気づくでしょう。

こう見てくると鏡映反転の機構を説明する概念として記憶を主要因とする「多重プロセス理論」の「表象反転」には意味がないことが分かります。確かに文字の場合に鏡像の認知プロセスにおいて長期の記憶が主要な役割を果たしていることが多いのは事実ですが、長期記憶だけでは間違える場合も当然あります。世の中にはレオナルド・ダ・ヴィンチも使ったと言われるいわゆる「鏡文字」というものがあり得ます。またアルファベットのEの左右を反転するとカタカナのヨになります。ですから、正確には鏡像は直接見る像と比較しなければ差異を判別できないものです。これは文字であってもなくても関係ありません。

別の面から言えば、何らかのプロセスを説明し得たところで原因を突き止めたことにはなりません。そのプロセスのどこに原因があるか、そのプロセスに原因が含まれているかを示す必用があるでしょう。

また文字の場合の鏡映反転に付いて特に着目すべき点は、それが記号であるということではなく、二次元の形状であること、それと、形状の上下と左右のあり方に特徴があることといえます。しかし今回のテーマは記憶なので、この問題についてはこれまでにしておきます。


次回は鏡映反転において対掌体の性質が持つ意義について考えてみたいと思います。

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2016-12-23 鏡像問題関連のテクニカルレポート提出のお知らせ このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

2014年に日本認知科学会に提出したレポートに引き続き、鏡像問題関連のテーマによるテクニカルレポートを同学会に提出しましたのでお知らせします。すでに別のブログサイト『意味の周辺』でお知らせしましたので、下記にそれをコピーします。ただし当日時点ではまだ日本認知学会のサイトからダウンロードできる状態になっておらず、当方のサイトからのみダウンロードできるようにしていましたが、現在、すでに日本認知学会の発行ページからダウンロード可能な状態になっています。

以下に、上記ブログサイトに掲載した内容をコピーしますす:

日本認知科学会にテクニカルレポートを提出しました。受理され、インターネットで発行されることになりましたが、私のサイトからも同じものをダウンロードできるようにしました。ファイル名は異なりますが、内容は同じです。


なお、認知科学会のダウンロードサイトでは恐らく技術的な問題で、まだ発行されていませんが、近日中に発行されるとのことです。


私のサイトから:

http://www.te-kogei.com/kagaku/Kyozo_Shikuukan_J_Tanaka.pdf


日本認知科学会のダウンロードサイト

http://www.jcss.gr.jp/contribution/technicalreport/states.html


この論文は前回、2,014年の論文を発展させたものです。今回も前回同様、学会誌への投稿を目標に作成したのですが、査読の結果で採録されず、前回同様、テクニカルレポートとして投稿することになった次第です。


内容と表現上の問題に関して言えば、どうも投稿論文としては多くの内容を盛り込みすぎたようです。この点ではこれまで鏡像問題の考察では取り上げられなかった要素や、重視されてこなかったようなな要素を考察、説明する必用がありました。列記すると次のような問題です。


? 等方的な思考空間と異方的な視空間についての説明(マッハとカッシーラーによる)

? 鏡像認知(鏡映反転ではなく)のメカニズムの一部に触れること

? 鏡像認知と鏡映反転との関係を分析すること

? 鏡像問題で考察される「逆転」そのものを詳細に分析すること

? 鏡像問題自体の再定義と体系化



端的に言って、いわばこれまでの鏡像問題の考察では表面に現れてこなかったいくつもの基本的な問題を掘り起こして考察し、説明することから始める必用があり、そうなってくると単に鏡映反転の問題を超えることにもなり、それらをすべて漏れなくかつ判りやすく説明するには一冊の本が必用で、一つの投稿論文にまとめて理解してもらうには無理があったということだと、自分では考えている次第なのです。


最終的に、投稿論文としてまとめた草稿にかなり長めの注釈をいくつか追加したうえで、いったん長さに制限のないテクニカルレポートとして提出することにしました。


今後の方向としては、雑誌に投稿できるような長さで鏡映反転の問題に焦点を絞った新しい論文をかくことと、鏡像問題を超えた広範なテーマで本を書きたいという、二つの方向性を考えています。特に後者の方は実現が難しそうですが、一応は目標にしています。


以上。 

田中潤

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2015-12-17 鏡像の意味論―その10―問題の分析

鏡像の意味論―その10―問題の分析

| 11:47 | 鏡像の意味論―その10―問題の分析を含むブックマーク 鏡像の意味論―その10―問題の分析のブックマークコメント


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図1 鏡像認知の一部分としての自己鏡像認知と他者の鏡映反転

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図2 自己鏡像の認知と他者の鏡映反転の組み合わせからなる自己鏡像の鏡映反転

【問題の純化と問題の分析(要素分析)】


問題の純化と分析は、科学的方法の基本事項ではないでしょうか。しかし鏡像問題では従来、どうもこの点がすっきりしていないようでです。


前々回「鏡像の意味論その10」では「問題の純化」と題してこの問題に取り組み、問題純化の1段階に成功したものと考えます。今回は表題のとおり、問題の1つの分析を行ってみたいと思います。



【鏡像認知問題と鏡像問題(鏡映反転)】


現在、鏡像認知問題といえば普通、自己鏡像の認知の問題とみなされ、英語の「mirror self-recognition」に相当するようです。では自己像に限らない文字通りの鏡像認知問題、英語にすると「mirror recognition」という問題が研究や論議されているかといえば、そういうことはなさそうです。英語でも「mirror self-recognition」という用語は学術用語として見つかりますすが、「mirror recognition」という用語はやはり日本語と同様に「mirror self-recognition」の簡略表現として使われているように見えます。この辺に一つの鍵が潜んでいるように思われます。


つまり、字義に即して考えると鏡映反転は鏡像認知の一部分であるとの印象を受けます。その鏡像認知の問題は事実上、自己鏡像の認知の問題とみなされています。したがって、鏡映反転の問題も自己鏡像認知の一部分であるならば、自己鏡像の認知の問題に限られることになります。そのため、鏡映反転の問題も自己鏡像の問題として考察されてきたのではないかと思うのです。


しかし、鏡像の認知は自己鏡像の認知に限って存在しているわけではないことは自明なことではないでしょうか?現実に鏡映反転の問題では自己以外の他者や文字などについても議論されています。鏡像認知の問題でも他者像の認知の問題あるいは自己と他者を含めた、あるいは共通する問題が存在するはずです。


このように、自己鏡像以外すなわち他者の鏡像を含めた「(あらゆる)鏡像認知」を認めれば、「自己鏡像の認知」は「(あらゆる)鏡像認知」の一部分であり、同時に「他者の鏡映反転」も「あらゆる鏡像認知」の一部分であることになります。最初の図1は、これを表しています。



【自己鏡像の鏡映反転は他者の鏡映反転問題と自己鏡像認知問題との2要素に分析できる】


鏡像問題を考察する場合、たいていは絵を描いて考察し、説明をします。絵を描かないまでも言葉で対象を表し、空間的なイメージを客観的に表現することが不可欠です。その場合、自己鏡像の鏡映反転を考察する場合でも観察者の姿とその鏡像を描くことが普通に行われています。それは絵に描かれた人物を観察者に見立てているわけですが、そこには観察者が見ている光景そのものは表現されていません。そのような図は描くことができるにしてもせいぜい両腕やメガネの枠あるいは無理をすれば眉や鼻の一部などを描けるでしょうが、観察者の全体像は不可能です。従って、自己鏡像の鏡映反転を考察するとは言いながら、他者として対象化された姿を考察しているわけで、客観的な対象としては他者であり、その他者の認知を推定しているにすぎません。描かれた図は当然、単なる図形であり、身体感覚はもとより、認知能力などあるはずもなく、図から説明できることはあくまで視覚的な情報にとどまります。つまり、視覚に関する限り、他者の鏡映反転を考察していることになります。


以上から、自己鏡像の鏡映反転問題は、他者の鏡映反転メカニズムと自己鏡像の認知の問題に分析できることがわかります。


鏡映反転の問題は視覚に関する限りの問題であり、基本的に他者の鏡映反転問題から出発すべきであり、他者の鏡映反転メカニズムが解明されれば鏡映反転の問題自体はそれで解決されたものとみなしてよいことになります。自己鏡像の鏡映反転の問題は、したがって、むしろ自己鏡像の認知問題と鏡映反転の問題の2つに分析できることになります。鏡映反転の問題が自己鏡像の認知問題に含まれるわけではないのです。これを表現したものが図2です。


以上のとおり、鏡映反転の問題は他者の鏡映反転の認知について考察すれば鏡映反転の問題自体としてはそれで十分であると言えます。

【鏡像問題(Mirror problem)と鏡映反転(Mirror inversion)】

用語として「鏡像問題」と「鏡映反転」の両方が使用されているわけですが、以上の考察から、「鏡像問題」は自己鏡像の鏡映反転を含めた問題とし、「鏡映反転」は「客観的に認知可能な鏡映反転」すなわち「他者の鏡映反転の認知」と定義することが適切ではないでしょうか。

多幡達夫多幡達夫 2016/11/08 09:26 "Mirror self-recognition" は、心理学では、人間以外の動物が自己を認識し得るかどうかを鏡を使ってテストすることからきている言葉で、「自己認識の能力」を意味するものとなっているようです。
参考:
―Mirror Self-Recognition
The ability to recognise oneself as an individual; lower animals, in particular birds, often attack mirrors, as the image is perceived to be that of another animal (Segen's Medical Dictionary)
(http://medical-dictionary.thefreedictionary.com/Mirror+Self-Recognition)
―Mirror test
The mirror test, sometimes called the mark test or the mirror self-recognition test (MSR), is a behavioural technique developed in 1970 by psychologist Gordon Gallup Jr. as an attempt to determine whether a non-human animal possesses the ability of self-recognition.[1] The MSR test is the traditional method for attempting to measure self-awareness, however there has been controversy whether the test is a true indicator.
(https://en.wikipedia.org/wiki/Mirror_test)

quartaquarta 2016/11/28 21:31 ご教示ありがとうございます。確かに、研究史的には動物心理学の研究テーマとして始まったのだと思います。ただ多くの場合、人間の幼児の成長期と動物とを比較することで、動物と人間の比較が重要な意味を持っていたのではないでしょうか。そのため、人間における自己鏡像認知のメカニズムを明らかにする必要があると思うのですが、鏡像問題において自己鏡像認知の問題との関係を明らかにすることは、この問題にも大いに資するところがあるのではないかと思います。

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2015-12-11 鏡像問題における問題の純化

ブログ「意味の周辺」に鏡像問題に関する2つの記事を追加しましたので、2つを併せてこちらに転載します:

鏡像の意味論―その8―問題の純化―なぜ三種類の逆転を区別する必要があるのか

| 14:12 | 鏡像の意味論―その8―問題の純化―なぜ三種類の逆転を区別する必要があるのかを含むブックマーク 鏡像の意味論―その8―問題の純化―なぜ三種類の逆転を区別する必要があるのかのブックマークコメント

鏡像は鏡像だけを単独で見る限り、通常の像、つまり鏡を介さないで見ている像と何も変わるところはありません。鏡の像を直接の像と間違えることは結構よくあることです。鏡の像は平面的だとか、奥行きが少ないとかいう人がいますが、鏡を通さない像でも同様に平面的に見える時も見えない時もあります。片目でしか見えない部分が生じたりするにしても、そういうことは鏡を通さない光景でもよくあることです。鏡像が鏡像を介さない像と異なるのは、同じ対象を鏡像と鏡像を介さない像とで比較した場合だけです。なお鏡を介さない像を「実物」と表現する場合がありますが、視覚を問題にする以上、「実物」とは表現しないほうが良いと思います。


ですから、鏡像に特有の認知現象をあつかう際には鏡像特有の問題に純化する必要があります。したがって鏡像ではない場合にも生じる現象を排除する必要があるのですが、これが徹底されていないところに鏡像問題がなかなか解決しない一つの原因があるように思われます。このシリーズの「その5」で、指摘したような「三種類の逆転」を明確に区別することはこの意味で重要です。


端的に言って、鏡像に特有の問題に関係するのは「形状の逆転」だけです。「意味的逆転」と「方向軸の逆転」とは鏡像に特有の逆転ではなく、鏡像であるかないかにかかわらず極めて普通に生じうる逆転現象であると言えるでしょう。例えば、向かい合っている人の左右を自分自身の左右で判断した結果、左右を取り違えることはよくあることです。左右がはっきりしない対象の場合、よく「向かって右」というような表現をしますが、これはこの間違いを犯さないための配慮にほかなりません。鏡像問題の考察で「共有座標系」を使った理論というか説明がありますが、どうもこの理論は結果的に「意味的逆転」のことを指しているのではないかと思うのです。とすれば、その議論は鏡像に特有の現象を指しているのではないことになります。


一方、「方向軸の逆転」を「形状の逆転」と区別することは、さらに複雑な問題になります。というのも、「形状の逆転」は通常、「方向軸の逆転」を伴って認知されるからです。しかし、方向軸の逆転は鏡像に関係なく、日常的に極めて普通にみられる現象です。例えば人と対面しているとき、人は明らかに対面している人物の前後が自分とは逆向きであることを認知しているはずです。また逆立ちしている人がいれば、明らかに普通に立っている人とは上下が逆転していると認知することでしょう。


鏡像で例を挙げれるとすれば、静かな水面に映った光景などの場合、だれもが上下が逆に映っていると判断します。さらに注意すれば、「左右が逆に映っていないのに上下だけが逆転するのはなぜか?」、という疑問に発展しますが、左右の問題に気付く以前に、逆立ちしている人の場合と同様、誰もが上下の逆転に気づきます。この時点では鏡像に特有の「形状の逆転」ではなく「方向軸の逆転」だけが認知されていると言えます。方向軸の逆転だけが認知される場合に加えて形状の逆転の認知の両方が共存して認知される場合があるというだけのことです。


鏡像に向かい会っている人の場合も同様のことが言えます。鏡に向き合っている人物の姿とその鏡像とは互いに前後が逆転していることに誰もが気づくはずです。この逆転は二人の人物が互いに向かい合っている場合と同じ種類の逆転なのです。ただし二人の別人が向き合っている場合は左右も同時に逆転しています。しかし鏡像の場合に二つの人物像で左右が逆転していないことに気付く認識に至れば、形状の逆転に気づいたといえるでしょう。従って鏡像の場合は前後一方向だけの逆転となります。形状の逆転は一方向のみの逆転になるからです。しかしこのような状況で形状の逆に気づくとき、たいていの人は前後ではなく左右が逆転していると考えるわけです。実際には形状の逆転の場合、前後で逆転していると見ることも左右で逆転していると見ることもできるし、さらに想像力をたくましくすれば、上下で逆転しているとみることも、その他の方向で逆転しているとみることもできるわけですが、そこまで想像力をめぐらす人はあまりいないでしょう。


以上の通り、形状の逆転が認知される場合、必ずそれ以前に方向軸の逆転が認知されています。したがって、鏡像に特有の認知現象を考察するには単純な方向軸の逆転のみの認知を排除しなければなりません。これがなかなか困難であるといえます。それを確実にする方法は、条件に形状の逆転、言い換えれば形状の差異、つまり対象を直接見る像と鏡を介してみる像との形状の差異が認知されることを条件に加えることが必要です。


上述の意味で、鏡像と直接像との違いの認知現象において、対掌体の成立を、原因から排除することは許されないことだと考えます。もちろん対掌体という用語や概念を使わずとも、この種の形状の逆転が表現されていればそれでよいわけです。


鏡像関係において形状の逆転とはより正確には「二つの形状に何らかの規則的な差異が生じている 」と表現すべきでしょう。「形状の逆転」は、この表現、すなわち「形状の逆転」という表現自体では正確に表現しきれないからです。それをこのシリーズの「その5」で説明しているわけですが、とりあえず「逆転」という概念を使って簡単に表現するとすれば「形状の逆転」としか表現しようがないように思えます。


次回は形状そのものについて、もう少し掘り下げて考察してみたいと思います。「特定の形状は意味を持つ」ということについて、逆に形状は単に点の集まりに過ぎないと考えることが如何におおざっぱで、安易な誤った考えであるか、について考察したいと思います。

鏡像の意味論―その9―形状と意味

| 14:12 | 鏡像の意味論―その9―形状と意味を含むブックマーク 鏡像の意味論―その9―形状と意味のブックマークコメント

【意味するものと意味されるもの】

言語学や言語論、あるいは記号論というべきか、言語学的な分野で「意味するもの」と「意味されるもの」との区別が研究されていることについて、詳しく専門的に立ち入った知識はありませんが、この区別を多少とも意識することは、幾何光学などの物理学とされる分野を含め、像、画像、映像など、あるいは視覚をあつかう心理学研究にとって極めて有意義ではないかと思います。特に「形」あるいは「形状」という言葉の使用については、この問題を避けることはできない時点に到っているものと考えています。


極めて単純素朴に考えても、形という言葉は幾何学的形状そのものと、「何々の形」とういう場合の「何々」すなわち「意味」あるいは「意味されるもの」を表現している場合の二通りが考えられます。


「形」の場合、さらに問題になるのは、この二重性(幾何学的形状と意味)が言葉だけではなく「図形」、あるいは「絵」(以降、表現を堅固にするために「描画」と呼ぶことにします)についてもいえることです。ひいては人が知覚する像そのものについてもこの二重性が存在することになります。


この問題そのものをこれ以上にここで掘り下げ続けることは無理なので、以上を単に前置きとして、以下の検討に入りたいと思います。



【形または像と意味】

鏡像問題の議論では普通に人物の像について問題にされるため、頭とか足、あるいは右手といった、身体の部分について位置関係や形状について論じられますが、その根拠となるのは象の形状といえます。その幾何学的形状をもとに頭とか右手とかを判断するわけですが、その頭とか右手というのは頭という概念あるいは右手という概念であって、幾何学的形状そのものではなく、具体的な意味を持つもの(足なら足という生物学的機能を持つ実態の意味)すなわち意味されるものを表していることになります。


頭が上で足が下、右手は右、顔や胸、腹は前で背中は後ろ、といった上下・前後・左右の意味は人間という概念について言えることであって、偶然に人間に似た幾何学的な形状があったてしてもそれには適用されないものです。幾何学空間は等方的であり、視空間や知覚空間は異方的であるというのはこの意味です。しかし単なる形状物であっても人形などは人形という意味を持つ以上、単なる幾何学的な形状ではないので上下・前後・左右を持つといえます。こういう形状の意味は人間の直感的な認識によるもので、幾何学的形状のように数や量で表現することはできないものです。


以上の観点は、心理学としてはゲシュタルト心理学と呼ばれる学派の成果と重なる部分があるのかもわかりません(私自身は専門的に心理学を専攻してきたわけでもなく直接ゲシュタルト学派の文献から学んだわけではありません)。しかしゲシュタルト学派そのものは現在あまり主流ではないようです。たとえば、I. Rockの「Orientation and Form」では、この学派は主流ではない単なる心理学の一派であり、当該本の主題に関して、ゲシュタルト学派の主張をあまり尊重していないように見られます。Rockの「Orientation and Form」は、吉村浩一教授による鏡像問題の論文「Relationship between frames of reference and mirror-image reversals」中に重要な参考文献として挙げられていましたのでアマゾンを通じて古書を入手して一通り読んでみました。この本は表題の通り形状と方向との関係を心理学的に扱った研究書ですが、視空間の異方性について次のような記述があります。

「In any case it would be misleading to think of form changes induced by changes in orientation as exemplifying anisotropy(いずれの場合にも、方向の変化によって生じる形状の変化を、異方性の例として考察することは誤りであろう)」


上述のRockの考え方には問題があると思います。そのような考え方こそ間違いではないかとさえ思います。Rockは視空間の異方性を量的にしかとらえていないように思われます。


ところがRock自身、方向による形状の変化の例として次のような例を挙げているのです。


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図:I. Rock著「Oriatetion and Form」より引用



この図で、上の三つは180度回転すると全く別人の顔と服装に見えるというもので、下左は子犬、下右はあごひげを生やした老人に見立てられ、それぞれ90度回転すると子犬はシェフの横顔、老人の横顔はアメリカの地図に変化して見えるというものです。形状のこの変化は明らかに意味の変化であって長さやその他の尺度の量的な変化とは言えません。異方性を量的な差異ととらえる限り、確かにここで異方性は重要な意味を持っていませんが、形状の方向における異方性を形状が「意味するもの(形状によってい意味されるもの)」の差異ととらえるならば、これは視空間の異方性を示す見事な例となるはずです。


【数値と意味】

鏡像の問題に戻ると、上下・前後・左右の各方向は、形状の意味に基づいて決まるのであって、幾何学的な形状そのものではないことがわかります。この形状の持つ意味は人間の意識で直感的に把握できるもので、幾何学的形状のように数量や数式で表現できるものではありません。


座標系を用いると確かに形状を数値や数式で表現できるでしょうが、数値や数式から図形の持つ意味を把握できるわけではありません。 CGでは座標系を用いて形状を数値に変換しますが、それは数値で計算処理をしたあと、再びディスプレイ上に目に見える形状に戻すことが最終的な目的です。ディスプレイから見て取るのは意味を持つ形であり、すでにそこから数値も数式も読み取ることは不可能です。これからも、上下・前後・左右を決めるのは幾何学的形状の数値データではなく形状の「意味」であることが分かります。


ただし、二つの形状を比較する際には数値や座標系は重要です。 もちろん意味としての形状の比較ではなく幾何学的形状の比較です。形状の比較は二つの点の位置関係と距離という相対的な数値で決まるのものであるからです。鏡像問題における形状の逆転はつまるところ二つの形状の規則的な変化(差異)に基づき、その差異が対掌体の概念で表現できるわけです。

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2015-05-25

17:18 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント

ブログ「意味の周辺」の記事を2本追加しました。

何れの記事も当ブログのテーマと重なる内容で、これまでも転載してきましたが、今回はリンクということにしました。

1) 鏡像の意味論―その7―擬人化と鏡像問題

2) 科学哲学について思うこと ― 『科学哲学への招待(野家啓一著)』および『科学哲学(ドミニック・ルクー著)』の読後メモ

最近は、といってももう何年にもなると思いますが、当ブログの方針というか、当初からの構想として実行していたようにBBCニュースやNYタイムズ、そして日本の有名新聞サイトなどの科学記事から興味を引くトピックを見つけ出して何か気になる問題をみつけて記事にするということがなくなりました。いわば息切れで努力が続かなくなったということになりますが、それでもいくらかの成果が少なくとも個人的には得られたことも事実で、いくつかの重要な問題がピックアップされ、多少なりともそれらを追求というか、考究し続けるという形で、散発的にではあれ、このブログをなんとか継続してこられたように思います。とくに鏡像問題に関しては当ブログの後から開設した「意味の周辺」のテーマと重なることから、「意味の周辺」のテーマとしてそちらのブログに引き継がれてしまったように思いますが、それでも発端はこちらのブログにあり、多くは当ブログに転載してきました。

一方の温暖化問題で、諸々の記事を契機に得られた結論は最初の重要な成果であったように思います。当ブログを開始した2007年当時、当時IPCC報告を契機に新聞メディア、特にBBCニュースとNYタイムズ温暖化問題に関する記事が殺到したことがきっかけで、当方が前世紀末に購入しながら読むことを怠っていた、その名も『世紀末の気象(根本潤吉著)』を読了するに至った次第ですが、結局、この前世紀後半に書かれた書物に温暖化の原因についてのほぼ完全な解答が存在することに気付かされたわけです。これをきっかけに改めて大学時代の正統的な地球化学の教科書を再点検してみても、少なくとも人為的CO2発生が原因で地球温暖化が発生したわけではないことは、単なる直感的な受け入れによる受け売りではなく、確たる科学的な確信を基礎に記事を書くことができたものと考えています。

鏡像問題と地球温暖化問題とはずいぶん遠く離れた問題のように見えますが、いずれも科学哲学や科学論、科学社会学、あるいは生物学哲学といった近来の研究分野に関わりが深いことが、いよいよ明らかになってきたように思います。直接的には、鏡像問題の方は認識問題や言葉の問題との関係において、一方、地球温暖化問題の方は地球温暖化地球科学的な研究そのものよりもむしろ、エコロジー思想や科学社会学の対象自体へと移行して行くことにおいて言えることだと思います。

以上のような次第で、今後も「意味の周辺」との重複やそちらへのリンクだけ、ということが多くなりそうです。しかし、また条件が変われば、あるいは機が熟せば以前のようなスタイルでの記事も作って行きたいとも考えています。

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2015-01-20 鏡像の意味論―その5、その6

鏡像の意味論 ― その5 ― 用語の意味から考える−その4 「左右逆転(方向軸の逆転)」には三種類がある

| 21:27 | 鏡像の意味論 ― その5 ― 用語の意味から考える−その4 「左右逆転(方向軸の逆転)」には三種類があるを含むブックマーク 鏡像の意味論 ― その5 ― 用語の意味から考える−その4 「左右逆転(方向軸の逆転)」には三種類があるのブックマークコメント

意味の逆転と形状の逆転とは互いに無関係

図1:左右の意味的逆転(方向軸の意味的逆転)

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図2:形状の左右逆転(形状の方向軸における逆転)

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前回と前々回、「左右逆転」を「形状の左右逆転」と「左右そのものの逆転」との二通りに解釈でき、それぞれの解釈を説明しました。両者それぞれの解釈が妥当と考えられる二通りの現象(認知現象)があるとすればそれらの現象が互いに関係があるか、別個の現象であるかを明らかにすることは重要なことです。というのも、互いに独立した別個の現象が、同じ「左右逆転」という用語で表現されている可能性が出てくるからです。結論から言って、「形状の左右逆転」と「左右そのものの逆転」とは別個の独立した現象であり、互いに無関係であるといえます。前回記事のとおり「左右そのものの逆転」は「左右の方向軸の逆転」とも言えるので当面、単に「左右軸の逆転」またはさらに左右以外の方向軸にも適用して抽象的に「方向軸の逆転」と呼ぶことにします。

上の二つの絵は「左右そのものの逆転」と「形状の左右ないし上下逆転」とそれぞれ図示したものです。次に説明しますが、上述のとおり、方向軸の逆転と形状の逆転とは独立した現象であって互いに無関係であることが図からもお判りいただけると思います。

方向軸の意味的逆転は意味の逆転であり、対象がヒトの場合は上下や前後の意味するものを取り違えることはあり得ず、事実上、左右逆転すなわち左右の取り違え以外にはありえません。これは認知上の誤りですが、言葉の使用における規則違反ないしは間違いであるともいえます。上の図1はこれを表現したものです。

こちらを向いた人物の右側に相当する方向は、ピアノでは左側であり、人物の左側に相当する側が右側になっています。これは左右の意味上の逆転であり、「左右軸の逆転」と表現してもよいのではないかと思います。さらに、「左右軸が逆転した異なった座標系」を使用して認知しているとも表現できるかもしれません。これはヒトとピアノというまったく別の対象ですが、観察者の方を向いた人物をピアノと同じ左右軸で認知することも往々にしてあるように思われます。しかしそのような認知は間違いであるとみなされるので×印を付けています。

いずれにしてもこのような認知は対象が鏡像であるか否かには関係のないものです。また「逆転している」という場合、ピアノと人物というまったく別の対象間で逆転しているとも言えるし、一人の人物を見る異なった観察者によって逆転しているともいえ、一人の観察者が見るときの心理状態によって逆転するとも言えます。要するにこれは認知上の問題であり、場合によっては鏡映反転現象に関わる可能性があるとしても、それは鏡映反転現象に特有の問題とは言えません。


図2は「形状の逆転」を説明したものです。形状の(左右)逆転そのものについては前々回の記事の図を参照してください。

いずれの像も立体であって、裏返すと背中が見えるものとします。また上下と左右は画面の上下左右ではなく、各人物像に固有の上下と左右を意味するものとします。

これら 4 つの人物像の中で と の関係、および,鉢い隆愀犬鬚箸辰討澆襪函△い困譴隆愀犬癲崗絏爾逆転している」と言えそうな気がします。しかし△鉢い任鰐世蕕に形状が異なります。△鉢い里匹舛蕕砲弔い討發修譴召譴鬮,犯罎戮董崗絏爾逆転」と表現してしまえば、△鉢い琉磴い魘菠未任ず、この意味でも「上下逆転」や「左右逆転」という簡潔な表現に問題があることがわかります。

△鉢い琉磴い蓮↓△両豺腓倭をどのように回転、移動しても,判鼎郵腓錣擦襪海箸できないのに対して、い両豺腓倭に回転と移動を加えることによって完全に重ね合わせることができる点です。このような場合は幾何学的に同形であるとみなせます。従って形状の逆転が見られるのは,鉢△隆愀犬任△襪海箸わかり、この関係は, 、 とい両豺腓盍泙瓩凸隶でつないだすべての関係について適用できます。

第三の左右逆転

図2で、形状の異なる とい里い困譴發,紡个靴董崗絏爾逆転」していると表現でき、△両豺腓老曽が上下で逆転しているとも表現できるのに対し、い廊,汎鰻舛世箸垢譴亅,鉢い両豺隋形状が上下で逆転しているとは言えません。では,鉢い鯣罎戮疹豺腓鵬燭上下で逆転しているといえばよいのでしょうか。この場合は図1に示した意味的逆転とも明らかに異なります。図1において左右の意味が逆転しているのと同じ意味で上下の意味が逆転しているわけではありません。しかし確かに上下の軸が逆転しているように見えます。また上下の軸が逆転しているとすれば、,鉢△隆愀犬砲いても同様です。したがって,鉢△隆愀犬鉢,鉢い隆愀犬剖δ未靴堂燭蕕の上下における逆転が生じていることは確かです。この逆転は「意味的逆転」でもなく、「形状の逆転」でもない別種の逆転といえるはずです。

この逆転は△両豺腓皚い両豺腓180°回転することによって解消します。ただし、い両豺腓呂海硫鹽召猫,判鼎覆蠅泙垢、△両豺腓呂海硫鹽召猫と重なり、を,犯罎戮襪鳩曽が左右で逆転していることがわかります。

すでに了解済みと思われますが、,鉢△箸聾澆い剖請関係にあります。それに対して,鉢い箸聾澆い剖請関係ではありません。したがってこの方向軸の逆転は、像が鏡像であるか鏡像でないかには関係がありません。上下軸を持つ形象であれば何にでも適用されるものです。つまり次の図3のように明らかに別人の形象についても言えることなのです。

図3:異なった人物像との比較

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まずここで明らかになったことの一つは、鏡像問題の対象として取り上げられる左右などの逆転(反転)現象の中には鏡像とは関係のない現象、あるいは必ずしも鏡像のみに関わるものではないもっと一般的な方向軸の逆転が含まれているということです。すなわち、図1で示した意味的逆転とこの図3や、図2の,鉢い箸隆屬妨られる逆転関係です。

この逆転関係を他の逆転関係と明確に区別するにはどう定義すればよいでしょうか?とりあえず異なった二つの人物像の「固有方向軸(間)の逆転」と呼ぶことにします。名前や定義はともかく、この逆転と形状の逆転とを見分ける必要があります。というのも、図2の,鉢△箸隆愀犬任蓮形状の逆転とこの方向軸の逆転とが共存しているからです。

この固有方向軸の逆転のみの場合は図2の,鉢い篆3で見られるように上下軸だけではなく左右軸も逆転しています。つまりこの場合は前後軸を中心にして像全体を180°回転したとみなせるため、前後軸に垂直な平面すなわちすべての方向軸が同時に逆転しているとみなせます。それに対して形状の逆転が含まれる場合には左右軸の逆転はなく、上下軸だけが逆転しているといえます。それをわかりやすく説明したのが次の図4です。この図は図1の,鉢△隆愀犬垢覆錣膳曽の逆転を取り出したものですが、人物が着ているシャツのしわを表す線の両端に星とリングの形をつけています。真ん中の一対の像で比較してみると、星形とドーナツ形の位置関係は、上下では逆転していますが左右では逆転していません。図の上部のように平行移動してみるとさらにはっきりと、頭と足とが逆転しているのに左右(星とドーナツ形の左右関係)は逆転していないことがわかります。

図4:2種類の逆転の共存

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他方、上下が逆転している対の一方を平行移動ではなく180°回転すると、図4の下側のようになり、上下軸での逆転は解消しますが、左右軸の逆転が生じています。星形とドーナッツ形の位置関係が左右で逆転するからです。

このように、形状の逆転と固有方向軸の逆転とが共存している場合は固有方向軸の180°回転によって逆転を解消することができますが、その場合には必ず別の方向軸で軸方向と形状とが逆転することになります。したがって形状の逆転は必ず一つの方向軸でのみ生じることになります。この逆転する方向軸は必ずしも上下・前後・左右の一つでなければならないわけではなく、どのような方向軸でも生じ得ます。次の図5では左右の人物像それぞれの上下軸から互いに反対方向に35°傾いた軸上、すなわち画面の横軸方向で形状が逆転しています。顔とか足とか、具体的な意味を持つもので形状を表すとわかりづらいと思いますが、シャツのしわを表す曲線図形に着目すると、画面の横軸方向で逆転していることがわかります。

図5

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以上の検討から帰納的に次の二つの推測が導かれます。

1) 形状の逆転は必ず一方向でのみ認知される。

2) 形状の逆転が認知される方向は、方向軸が相対的に逆転している方向と一致する。

1) の方は、鏡像問題に関する従来の研究ですでに明らかにされていること、すなわち鏡像と直接像との対は互いに対掌体であり、任意の一軸で互いに逆転した形状になっていると説明される事実に合致します。

2) の方は、これらの図から直観的に読み取れることですが、これらの図ですべての場合が表現されているわけではありません。これまでの図は立体を表すものとして、裏側から見るとまったく別の像に見えるものと想定されてはいるものの、人物像の前後を表す方向軸は全く表現されていません。またこれらの図では観察者の立場にいるのは読者のみです。鏡像問題でよく例として挙げられるのは多くの場合は自己鏡像の場合です。読者とその鏡像との関係を図に表現することは不可能です。

ただ、多くの場合は自己鏡像について言えることだとしても、自己鏡像であるなしに関わらず、多くの場合に鏡像と直接像とを比べて左右が逆転しているものと認知されるとされていることは事実であり、その際に生じている方向軸の逆転方向が左右軸ではないことが多いことも確かです。鏡に対して正面を向いた人物像とそれに対する鏡像との関係でいえば、前後の方向軸が互いに逆転しています。したがってこの場合は方向軸が逆転する方向と形状の逆転が認知される方向とが一致していません。この不一致の原因を考察することが鏡像問題の重要な課題の一つといえるでしょう。

従来理論における混乱の一因

鏡像問題に関する従来理論のいずれも、本稿で明らかにされた(と私が考える)三通りの逆転が明確に区別されていないと思います。前回に触れた吉村氏の理論は鏡像問題を包括的に説明することを試みた最後の理論とも言えますが、そこでもこの三通りの逆転が明確に区別されないことに起因する理解不能な部分が残されているように考えられます。

鏡像の意味論 ― その6 ― 用語の意味から考える−その5鏡像問題への適用の一例

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前回は、「左右逆転(反転)」という一つの表現は、3通りの異なった認知現象を意味し得るという結論に到達しました。その3通りというのは次の三つです

1)左右の意味的逆転―左と右の意味が入れ替わること。

2)左右における形状の逆転―固有の左右軸を持つ2つの形象同士での形状の左右逆転。

3)固有左右軸の相対的方向の逆転―固有の左右軸を持つ2つの形象の各左右軸の、共通空間における相対的な方向逆転。

以上の「左右」はいずれも「上下」と「前後」にも置き換えることができますが、もちろん、同じような帰結がもたらされるわけではありません。

以上の3つを、現実の鏡像問題で議論される一つの状況に適用してみたいと思います。

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普通、鏡像問題の考察ではまず真っ先に人物が自分自身の像を鏡で見る場合の左右の逆転の問題から開始することが多いようです。それはある意味当然ではありますが、直接見ることのできない自分自身の像を対象にしなければならない上に、左右を特別視しすぎてしまうことで、余計な先入観が増幅されがちです。むしろこの図のような状況から考え始める方が全体を把握するための近道になるように思います。


上の画像はすでに前回の記事で掲載したいくつかの画像と同じような状況ですが、前回の記事ではそれぞれ抽象的な像として図示しただけであるのに対して、今回の画像は現実にあり得る状況を示したものとして見ていただきたいと思います。つまり床に置かれた大きな鏡の上に二人の人物が直立して観察者の方を向いているという想定です。

この図を一般の人に見せて、「上の人物像とその鏡像とで上下の逆転に気づきますか?」と質問した場合、まず全員が「上下の逆転が見られる」ことを肯定すると思われます。しかしそれだけで、冒頭で掲げた3種の中で2番目の形状の上下逆転が認知されているとは断言できません。形状の逆転が認知されるには前回説明したように上下軸だけが逆転して前後軸と左右軸は逆転せず、その結果として全体としての形状が変化し、比較される対が互いに異なった形状になっていることが認知される必要があります。向かって左の人物Aの場合、左右の形状的な差は非常に小さいため、左右軸は両者で逆転しているとも逆転していないとも、どちらともすぐには認知しないのが普通ではないでしょうか。

また、左の人物像Aと右の人物の鏡像bとを比較することもできます。この場合もやはり上下軸の逆転が認知されるといって良いと思われます。この場合は形状の逆転はあり得ません。両者は同じく上下・前後・左右軸を持つ人物像ではありますが、各部のサイズが違うし、色やパターンもまったく異なります。したがって一方の形状をどの方向で逆転しても他方の形状になることはあり得ません。したがって、Aとbの対でもBとbの対でも同じ意味で上下の逆転が認知されている可能性が高く、そうだとすればBとbの対では形状の上下逆転が認知されているとは必ずしも言えなくなります。

これらの中で向かって右の人物の場合、一方の肩にかばんを掛けているので、全体としての形状の違いは分かりやすくなっているはずです。しかしこの場合もパッと見てすぐに形状の差異を認知して、上下軸は両者で逆転しているのに左右軸は逆転していないとは簡単に気づけないと思われます。個々のパーツに注目した場合、人物の顔にしても、肩にかけている鞄にしても、ただ同じ形の顔や鞄がさかさまになっているだけと感じるのではないでしょうか。これには冒頭で掲げた3種類の逆転の中の1)が関係しているように思われます。この逆転は間違えやすい混乱の要因です。それでも両者の違いになんとなく気づいてそれを確かめようとした場合にすることは両者を想像力で重ね合わせるか、それとも各パーツを対応付けるということではないでしょうか。

例えば鞄に注目して鞄の位置を合わせるとします。それには平行移動すればよいわけで、そのようにして重ね合わせると、両者ともに鞄は人物像の左右軸では同じ方向にあり、両者で左右軸は逆転していないことになり、上下だけが逆転していることに気づいて形状の上下逆転が認知されることになります。しかし、このような平行移動による重ね合わせを行うケースはむしろ少ないのではないかと思われます。人物の顔や身体を基準に重ね合わせるにしても、鞄を基準に重ね合わせるにしても、一方を、(この場合はどちらかといえば下の鏡像の方を)回転させて両者を重ね合わせることが多いのではないでしょうか。そうすると上下の逆転は解消しますが、上の人物像では左の肩に鞄を掛けているのに、回転した鏡像の方は右肩に鞄を掛けていることが判り、左右軸の逆転が認知され、結局、形状の左右逆転が認知されることになります。

あるいは観察者が自分自身と各人物像とを対応付ける可能性もあります。たとえば逆さまに映っている鏡像の方を自分自身に引き寄せて考えると、鏡像の人物は右側に鞄を掛けていることに気づきますが、鏡像ではない上の方の人物像は彼自身の左肩に鞄を掛けていることに気づき、結果的に左右の形状逆転に気づくに至るという可能性があります。

さらにもう一つの可能性として、足の下の横軸を中心にして鏡像の方を手前に起こして裏返すように回転させて両者を重ね合わせるという発想もあり得ます。この場合は裏返った鏡像君は観察者に背中を向けているはずで、その場合は前後の軸だけが逆転することになり、形状の前後逆転が認知されることになります。

このように形状の逆転が認知されるには相当な想像力と思考を動員する必要があることがわかり、その思考経路によって、形状の逆転が認知される方向軸は異なってくるものです。従って少なくとも上の絵のような場合、どの方向で形状の逆転が認知されるかはそのときそのときの観察者の心の中に踏み込まない限り、特定は不可能と言うほかはないと思います。ただし一定の傾向性は間違いなくあるでしょう。


ここでの結論

以上は鏡の床の上で二人の人物像がこちら向きに正立している状態ですが、当然鏡像はいろいろな条件で出現します。上の場合は上下・前後・左右のどの方向での形状の逆転も認知される可能性があることが示されたといえますが、どのような場合でも、それが言えるでしょうか?結局のところ、どのような状況下であっても上下・前後・左右のうちでどの方向でも逆転が認知される場合があるのではないか?言いかえると、ある場合には必ず左右での逆転しか認知されえないといった条件は限りなく観察者の心理の内部に踏み込まない限り、存在しないのではないか? もしもそういうことが言えるとすればそれは同語反復に過ぎないのではないか、という推測が成り立ちます。

そこで改めて対掌体の性質による説明を振り返ってみたいと思います。前回の記事で紹介したように、鏡像と直接の像の対は幾何学的に互いに対掌体であり、任意の一軸で互いに逆転した形状になっていると説明されています。*

*この点について、および前回から言及している吉村氏の説については多幡先生のサイトhttp://www.geocities.jp/tttabata/mirrorcom.html に詳しい論説があります。

この対掌体の定義、すなわち任意の一軸で互いに逆転した形状になっているという説明それ自体をそのまま受け止めれば、逆転が認知される方向軸が任意であり、どのような方向軸で形状が逆転していると見ようとそれは観察者次第ということになるはずです。ところが現実には少なくとも上図のように人物の場合上下か前後か左右のたった三つの方向軸であり、さらに、多くの場合には左右になるというのはなぜかという点に問題が絞られてきたように思われます。

ここで注目すべきことは上述の対掌体の定義は幾何学的な定義であるということです。幾何学には本来上下・前後・左右の概念はなく、方向は相対的にのみ定義されることに注目する必要があります。幾何学的図形はそれがヒトの形であるとか、場所が地上であるとか、そのような意味を持ちません。上下・前後・左右もそれぞれ幾何学が持たない意味であることに気づく必要があります。

ここから、上下・前後・左右の何れかでの形状逆転は幾何学空間と人間の認知空間の差異に起因しているという説明が成り立ちます。しかし多くの場合に共通する傾向として、ある場合には殆ど必ずといって良いほどの割合で左右の逆転が認知される状況というのはあり得るし、左右以外の逆転が認知される傾向が大きいといえる別の状況はあるでしょう。そのような傾向性がなぜ生じるのか、具体的にそのような傾向がどのようなメカニズムで生じるかが、これからの鏡像問題の課題と言えます。

そのような傾向性が生じる根源はマッハによって最初に主張され、カッシーラーによってさらに重要な意味が付与されたと考えられる「幾何学的な思考空間の等方性と知覚空間の異方性」にあるということが鏡像問題の基礎となり得ると考えるものです。

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2014-12-20 鏡像の意味論―その2、その3

鏡像の意味論 ― その3 ― 用語の意味から考える−その2(逆転/反転)

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左右逆転(反転)という用語について

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鏡像問題の議論では「左右逆転(反転)」という用語ないし表現が頻繁に用いられるが、これは極めて簡潔な表現であるだけに、わかりにくい言葉である。というか、わかったように思われても、さらに理解を深めてゆくには問題を含んだ表現であるように思われる。あらかじめ概念が明確に規定された内容を定義した上でそれを簡潔に表現するのならわかるのだが、表現される内容自体が議論の対象である問題を含んだまま、簡潔に表現されているところに、問題があると思われる。その難しさというのは、この熟語で表現しようとしている内容は直観的なイメージであり、本来それを言葉で概念的に表現すること自体が、問題を解明することになるという側面を持つからではないだろうか。


左右逆転(反転)という用語は主語と述語を備えた文章ではないが、これを文章として理解する場合、当然、主語は何か?という問題になる。当然、ここには「左右」と「逆転」という言葉しか含まれないから、主語は「左右」で述語が「逆転」であると考えるのが順当というものだろう。しかし改めて「左右が逆転する」といえば左や右という抽象的な概念そのものが逆転するというさらに理解困難で難しい問題を理解することを迫られる。


そこで、ここに何か隠された主語があるのではないか?左右は主語ではないのではないか?ということが想定できる。そうだとすれば左右は修飾語であり、何かあるものが「左右において」逆転して[あるいは「何かあるものの左右」が逆転]いるのではないか?ということになる。ではその主語になるものは何かといえば、現在までの鏡像問題の議論としては「位置」、「距離」などのほかに「形状」が議論の対象になっているといえる。現実問題として、少なくとも当面は、この主語になるべきものは「形状」であるとみなされているといえよう。それを示すために上のような図を作ってみた。


この変な図が顔を表していることはわかっていただけると思うが、右側の顔では右のほほに星形の図形があり、左のほほには三日月形の図形があるのに対し、左側の顔ではその「左右が逆になっている」といえる。また眉を表す矢印の向きが「左右で逆になっている」といえる。こうしてみると、「左右逆転」の真の主語は形、すなわち「形状」であると考えるのが妥当であるといえるのではないだろうか。じじつ鏡像問題の最近の諸論文の多くでもこういう見方がとられているといえる。


しかし言語的な表現は極めて多様であって[文脈に依存する]、すぐ上の段落でも「左側の顔ではその左右が逆になっている」という表現や「矢印の向きが左右で逆になっている」というような異なる表現を使ってしまうのである。前者の表現では「左右が」というように左右を主語にしても別に不自然ではないのである。このようなところから、抽象的な左右そのものが逆転するという方向での考察が生じてきても不思議ではない。この面から生じる問題については、前回の記事、「比較」と「変換」という用語の問題で少し触れたつもりである。


一方、この図は平面図形であるうえ、リアルな顔の描画ではないと同時に単なる図形の集合でもなく、人の顔の意味をも持つ変なイメージである。また眉を表す矢印の向きが左右で反対になっている。鏡像問題は立体像の問題であり、現実には二次元のモデルだけで考察することはできないが、抽象的あるいは幾何学的な「形」という概念を取り出すには平面図形を使わざるを得ないといえよう。


さらにまた「形」と「意味」との関係の問題も浮上してくる。現実世界で左とか右が意味を持つのは人間とか道具とか、具体的な意味を持つ対象なのだ。実際、鏡像問題の対象は事実上すべてが人物である。あとは文字のように意味を持つ図形なのである。人物の場合、左右は、たとえば右手を挙げているかとか、右の顔にほくろがあるとか、左側にアクセサリーをつけている場合、あるいは顔が右を向いているか左を向いているか、などのように、すべて「意味」を表す表現であって、幾何学的な形状ではないので[幾何学的な概念をとおして形状と結びつくので]ある。ここから、形の持つ幾何学的側面と意味的側面の区別に関する考察の展開に道が開けてくるように思うのである。

鏡像の意味論 ― その4 ― 用語の意味から考える−その3(左右逆転と座標系)

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1. 左右そのものが逆転する場合と解釈できる「左右逆転」の問題


前回は「左右逆転(反転)」という熟語が、「左右そのものが逆転している(左右が主語である)」とも受け取れるし、「何かあるものが左右において逆転している」あるいは「何かあるものの左右が逆転している」ともとれる可能性があり、「左右そのものが逆転している」と考えること、つまり左右そのものが本来の主語であると考えることは不自然で理解困難であるため、「何かあるもの」の左右が逆転しており、その何かあるものは「形状」とみるのが自然であるということを述べました。


しかし、抽象的な左右そのものが逆転するという表現が意味を持つことがあり得ないわけでもなく、この表現が理解可能になるような解釈ができる可能性もあります。その例が、前々回の記事(比較と変換の問題)の最後の方で述べたように、左右の意味を逆転させることです。本来の左が意味する対象に右という言葉を使用し、右が意味する対象に左という言葉を使用することです。人間の左右を考えると左右を入れ替えても見かけ上はそれほど変わらないようにみえますが、左右を上下に置き換えてみると、頭のある方を下であるとし、足のある方を上であるとする考え方です。しかしこれは言葉の定義ないし慣用に反します。要するにそれは間違いであり、虚偽であるともいえます。


人間の「上下」で考えると、そのような、意味を逆転させることは間違いで有り得ないことであることはすぐにわかりますが、左右の場合は問題は微妙なものになってきます。人間の左右の基本形は殆ど変らず、両手を比べてみても違いがあるとすれば大きさや長さであり、それらの違いも個人によりさまざまで、左と右の意味を交換しても大した不都合は生じない場合は有り得ます。それでも左と右を入れ替えることが間違いであることに変わりはなく、現実問題としても不都合が生じてきます。向かい合っている他の人の右側が自分の左側と同じ方向にあるからと言ってその人の右側を左側と呼ぶことは間違いであり、許されないことです。機械の場合も右のスイッチと左のスイッチを間違えると取り返しのつかない事態を引き起こす可能性もあります。


しかし、間違いであることと、その間違いが生じうること、ケースによって間違いが生じる頻度に差が生じることとはまた別の問題です。また対象がヒトではなく道具などの場合、左右を取り違えても一概に間違いとは言い切れない場合もあります。ヒトの上下を間違えることはまずありえないことですが、他者の左右を間違えること、瞬間的にでも間違えることはあり得ることではないでしょうか。自分自身の左右を間違えることは事実上有り得ないでしょうが、他者の場合に左右を間違える頻度は結構高いように思われます。この点で、自分自身の鏡像は他人(他人の鏡像ではなく)の場合と同じではないでしょうか。


ふつう、鏡に映った自分自身の像を何気なく眺めるとき、特に左右の形が本当の自分自身の左右の形とは逆転しているとは通常、意識しないものです。そういう時、無意識的に、鏡に映った自分の鏡像の左右も自分自身の左右で判断している可能性が高いと言えます。しかしそのような場合、鏡像の前後も自分自身と同じ基準で判断しているとは考えられません。これも、鏡像ではない他の人物そのものの場合と同様です。自己鏡像の場合も、向かい合う他の人物そのものも同じことですが、向かい合う他者の姿の前後を自己と同一基準で判断するとすれば、顔、胸、腹の側を後ろとし、背中の方を前とみなければなりません。そう見るとすれば明らかに前後の意味が入れ替わります。人間の場合、顔や胸や腹がある方が前と決まっているので、そのような意味の逆転は有り得ません。したがって、この場合、前後方向の向きについては向かい合う人物像に自分自身の前後の基準を押し付けることはせず、自分の前後とは逆向きの前後を鏡像や向かい合う他者に適用するものです。そうすると左右方向の向きとの関係が通常の場合の逆になり、観察者本人の場合とは異なった関係になります。向き合っている対象が他の人物の場合は普通、少なくとも左右を確認する必要が生じた場合は、自分と相手の左右の方向が逆であることにすぐに気づくものです。それは、前後の向きが逆であることから左右の向きも逆でなければならないことにと気付くからであると言えます。しかし左右を確認する必要がない場合、無意識では相手の左右も自分自身と同じ方向であるものと感じている可能性は大いにあると思います。というのも、人物以外の対象、特に道具や機械などの左右はそれを使用する人物の左右の方向で定義されている場合が多いからです。


一般に道具や機械類の左右はそれを扱う人の左右に合わせられています。鍵盤楽器やパソコンのキーボードなどもそうで、ピアノを例にとってみると、高音部が右側で低音部を左側とみなすのが普通でしょう。紙面や文字、横書きの文章の場合も同様です。他方、乗り物の場合上下・前後・左右の関係は大体人間の場合と同様であると言えます。ピアノやパソコンのような場合は、前後方向と左右方向の関係は、ヒトの場合と異なったものになります。上下・前後・左右の三方向軸(六つの方向)を直交座標軸で表現するとすれば、左右の軸が逆転していると言えます。


このように、左右の方向自体がヒトの場合とは逆になっている認知は有り得ることで、対象がヒトである限り、このような逆転した認知は明らかに間違いですが、他者の場合では間違えることは有り得ることです。ですから、自己鏡像の場合も向かい合った他者の場合も、左右についてのみ間違えることがあり得ると言えます。上下と前後では仮装でもしていない限りそういう間違いはないといえます。この場合に自己鏡像と向かい合う他者との違いは、相対する人物像が他者の姿であるか自己の鏡像であるかという違いだけであって、左右の方向自体には何ら変わるところがなく、鏡像だからと言って現実の人物と異なった左右方向を持つということはありません。


こうしてみると、左右の意味を交換あるいは逆転させることは結構、日常的に、しかも必ずしも個人の恣意や個人的な条件に基づいているのはなく社会的な共通認識の下に行われていることであると言えます。したがって機械道具の左右は上下や前後との関係において人間の場合とは逆転していたとしてもそれは定義されているからであって、誤りとは言えないと考えられます。


しかし、一度ある種の物に左右が定まったら、それ以後は恣意的に左右を交換することはできません。ピアノの高音部を左側だと言えば他の人に誤解されるでしょう。


実物と鏡像の場合でも同様で、実物と鏡像で左右の意味を逆転させることは明らかに間違いであり、実物と鏡像の形状における違いを認知できていないことに他なりません。例えば右手を挙げている人が鏡に向かっている場合、鏡に映っている人物像も同様に右手を挙げているとみなす場合、鏡に映さずに直接見る姿と鏡像の形状の違いを認識できていないわけです。客観的に見るために右手を挙げている本人ではなく、横にいる他人が両方の姿を見比べられる位置にいるとしましょう。他人が両者を見比べれば明らかに両者が反対側の手を挙げていることがわかります。つまり全体としての形状の違いがすぐに判ります。右手を挙げている本人は自分自身の全体としての姿を見ることができないため、両者の形状の違いは直接、またすぐに認知することはできません。手や身体の一部は直接見ることができるにしても、身体全体としての姿は直接見ることは不可能です。そのため、鏡像と鏡像ではない、他人なら直接見ることのできる姿と見比べることは基本的に不可能ですが、身体感覚や写真の記憶や想像力、構成力、推理力などを駆使して、両者の形状の違いを認知することはとりあえず可能であるとみなすべきでしょう。しかしいつでも、誰でも、常に可能であるとは言えず、他者の鏡像を見る場合と同列に考察すべきではないと考えられます。。


このように考察を進めてくると、この、左右そのものを逆転させること、言い換えると左右の意味を交換するという認知現象は鏡像を含む空間認知に固有の現象ではなく鏡像を含まない空間における認知においても普遍的な現象であり、鏡像の場合に特有のケースとしては自己鏡像の認知の場合のみであるといえるでしょう。鏡像問題、すなわち鏡映反転現象のメカニズムは鏡像が自己の鏡像であるか自己以外の鏡像であるかには無関係であり、自己鏡像の認知に限られたプロセスは除外すべきです。鏡映反転現象は鏡像に関わる現象であり、当然鏡像認知に関わる領域と重なる部分はあると思いますが、自己の鏡像と自己以外の対象の鏡像の認知に共通する要素のみが鏡像問題の基本的な対象であり、観察者の自己鏡像に固有の現象は鏡像問題の重要ではあるが特殊な一ケースとして考察すべき問題です。


以上の考察から、「左右そのものの逆転」あるいは左右の概念の逆転、左右の意味を逆転させる認知現象の問題は、鏡像問題の基礎、少なくともあらゆる鏡映反転に共通するプロセスの問題からは除外すべき問題と言えるでしょう。


2. 座標系の概念を使用する説明と理論


鏡像問題の研究論文の中には、上下・前後・左右を座標系として表現している場合があります。座標系という概念を使用することについての是非や問題点についてここで論議することは避けたいと思います。というのも、そこには用語の選択と定義、同義語ないし類義語と英語との関係、意味の変遷等、問題が際限なく広がってしまうからです。個人的には上下・前後・左右を表現するために座標系という用語を使用することには違和感を感じ、必ずしも使用する必要はないと思いますが、目的によっては便利な場合があるかもしれません。具体的には上下軸と前後軸と左右軸という三つの三次元空間を表現する軸方向を定めるものだと言えます。


このような上下・前後・左右を表す三つの直交軸からなる座標系というものを想定した場合、この記事の最初に提起した問題、つまり「左右逆転」を左右そのものの逆転と解釈すること、左右が修飾語ではなくて主語であるとみる解釈に一つの意味が与えられる可能性が出てきます。端的に言えば左右そのものが逆転することは、左右の軸が逆転することだとみなせるわけです。


鏡像問題の研究書『鏡の中の左利き(吉村浩一著、ナカニシヤ出版)』と、吉村氏の英文論文『Relationship between frames of reference and mirror-image reversals(共著)』では、上下・前後・左右の三軸からなる「固有座標系」と、同様に上下・前後・左右の三軸からなる「共有座標系」が想定され、観察者が鏡像を固有座標系で見る場合と、鏡像を実物と共通する共有座標系で見る場合があり、鏡像を固有座標系で見る場合に左右逆転(形状の左右逆転)が観察され、共有座標系で見る場合に左右以外の逆転(形状の上下または前後での逆転)が認知されるという結論に到達しています。


正直な感想を言えば、この視覚対象を何らかの特定の「座標系を使用して」見るというプロセスがどのようなものか理解が困難であり、このような着想自体、概念が明確にされていない印象を持つものですが、鏡像を固有座標系で見る場合と共有座標系で見る場合に違いが生じるとすれば、同じ上下・前後・左右の各軸で構成されながら異なる構造の座標系を使用して見ることを意味しているものと想定できます。左右軸の場合に着目すると、これは左右の方向が異なる座標軸を用いること、すなわち、事実上は左右軸自体が逆転した座標系を使用することになり、前段 で述べたように、左右の意味を逆転させることに相当すると言えます。


さらに、やはり前段での一つの結論として、このような意味の逆転は間違った認知であるということです。間違った認知もそれ自体は生じ得ることですが、これも前段で述べたとおり、このような間違いはヒトの場合は上下や前後の認知ではあり得ないことです。そしてやはり前段における結論の通り、鏡像問題に適用した場合、観察者本人の自己鏡像の認知の場合にのみ考察対象となる問題であることになります。観察者本人以外の鏡像でこのような間違いが生じたとしても、それは鏡像ではない直接の対象でも生じ得る間違いと変わらないからです。すでに述べたとおり、これは鏡像認知ないしは視覚認知一般の問題であり、鏡像問題、鏡映反転の基礎的な要素からは除外できる問題であると言えます。


ただし以上の解釈は吉村氏が著書で挙げている実例には適用できないものです。教授の著書や論文で、共有座標系が使用されている場合として提示されている例は湖面に映る富士山、バックミラーに映る他者の像、水平の鏡に映ったろうそく等、いずれも観察者以外の鏡像に関するものである一方、観察者自身が鏡に正対している場合は固有座標系を使用する場合であり、必ず左右逆転(この場合は形状の左右逆転)が認知されるとされています。したがって上述の解釈は吉村氏の考え方とは異なることになります。

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2014-11-24

科学]心理学]鏡像の意味論 ― その2 ― 用語の意味から考える−その1〔変換〕と〔比較〕

| 01:57 | 科学]心理学]鏡像の意味論 ― その2 ― 用語の意味から考える−その1〔変換〕と〔比較〕を含むブックマーク 科学]心理学]鏡像の意味論 ― その2 ― 用語の意味から考える−その1〔変換〕と〔比較〕のブックマークコメント

別のブログ『意味の周辺』で、前回から上記タイトルでシリーズとして連載予定で記事を書き始めました。過去に本ブログで最初に取り上げ、その後も繰り返して取り上げてきた鏡像問題にも関わる内容ですので、前回はこちらには転載しませんでしたが、今回は直接鏡像問題に触れていることでもあり、こちらのブログにも転載します。以後もこのシリーズではこちらにも転載したいと思います:


今回はまず次の二つの用語について考えてみたいと思います。:

1.比較

2.変換


初めて専門の学術誌で鏡像問題の論文集に触れたとき、最初から用語と語法の問題でかなりの違和感と抵抗を覚えました。特に使い方が気になった用語のひとつは「変換」という単語です。単に用語の適切さというのではなく、考え方、方法論の問題とも思われました。と言うのも、ある論文では「何々変換」という風に、理論の名称そのものとしてこの用語を使っていたのに対し、別の論文では変換と言う用語をそれほど、キーワードのようには使っていないのですが、やはり、そういう論文でも変換または転換でもいいのですが、そういう変化ないしは変更の意味を持つ概念が主役になっているという印象では共通するところがありました。一方、後になって気づいたことですが、「比較」という用語があまり重要な概念として使用されていないことも気になっていたと言えます。今にして言えることではありますが、私自身にしてみれば鏡像問題はつまるところ二つの形象を比較することに他ならないと思えるし、比較のプロセスを分析することこそ重要なのではと思われるのですが、どの論文でも「比較」の概念が等閑視されていた印象だったのです。違和感と抵抗を感じつつ、いくつかの論文を読み、同時にこの数年間、自らの語法を模索しながら鏡像問題を考えるうちに、次第にこの二つの用語の概念について分析することの重要性に気づかされてきた次第なのです。以下、抽象的な言葉の議論で恐縮ですが、この問題について、考察してみたいと思います。


【比較の対象と変換の対象】

もっとも一般的に考えて、いやしくも「比較」という概念を使用する以上は少なくとも二つの対象の存在が前提になる。三つ以上になると一度に比較することができないから、普通は二つで比較される。これに対して「変換」は一つの対象を別のものに変えることであるから対象は一つであるともいえるが、普通何かを変換するといえばそれは物質的なものではなくて画像とかデータとかそういうものだろう。たとえば運動エネルギーが熱に変わったり物質がエネルギーに変わったりする場合は普通変換とは言わずに転換とか変化とか言う言葉を使う。画像とかデータなどは物質ではないからあるものを何かに変換しても変換元がなくなるわけではないことは、録音や録画、コンピュータでデータを変換することが日常的になっている現在、誰もが身に染みて理解していることだろうと思う。というわけで、変換の場合も対象は二つあるとは言えるのだが、ただ変換の場合は結果的に二つの対象ができたわけで、元は一つであるともいえる。とはいえ、あるものを別のものに変えようというのであるから、変える目的物としての対象は最初からあるともいえる。してみると、比較の場合も変換の場合も同様に二つの対象があるのだが、つまるところ「比較」の場合の二つの対象は最初から平等な、同じカテゴリーの対象として存在しなければならないのに対して、「変換」の場合は変換する前の対象と変換後の対象という、質的に異なった対象を扱うというべきだろう。

こういう次第で、「変換」の場合も二つの対象の存在が前提になっていると言えるのだが、変換を行う対象そのものは一つであるので、変換のプロセスなり原理なりを考察しているうちに当初の二つの前提となる存在を忘れがちになるのではあるまいか?「変換」の場合も当初から二つの対象が存在することが前提なのだ。その二つの対象に相違点と共通点とが想定できるからこそ、一方をどのように変化させれば他方になるかというプロセスを考察するわけであり、変換の前には常に比較があると言うべきではないだろうか。

★ 以上の、この項での結論を鏡像の問題、具体的に鏡映反転と呼ばれる鏡像問題に適用してみよう。鏡像問題の対象はよく「実物」と「鏡像」との比較の問題のように言われるが、本当は決してそうではない。実際は一人の観察者が「実物」から乱反射される光を直接眼で受け止めて見る場合の像と、光を鏡に反射させて見る場合の像との二つの像を比較しているのであって、光の経路が異なるだけであり、どちらも実物自体ではなく像なのである。対象が人物であるとすれば、どちらもその人自身ではなくその人の像なのであり、直接見る人物も鏡を介して見る人物も同じ人物像であって、光の経路が異なるだけなのである。だから自分自身の鏡像を見る場合、少なくとも顔や後姿は、自分自身が直接見ることができないわけだから、鏡像に対応する直接の像は存在しないのである。

こういう次第で、実物が鏡像に「変換」されると考えたとすればそれは明らかに錯覚である。また直接見る像が、対応する鏡像に「変換」されると考えるのもまた錯覚である。どちらの像も独立に成立するのである。一方の像が他方の像に変化したわけでもない。どちらも平等に、別個の像として存在するのである。比較の対象としても平等に存在するのである。ただ後から、「一方の像から他方の像に変化させられると仮定すればどのような手順で変化させられるのか」を考える場合に変換という概念が使用できるのではないだろうか。

従って、変換を行ったり、変換のプロセス、変換のメカニズムを考察したりするには前提として変換前の形状と変換後の形状の差異を認識した上で、どのような操作を行えばそのように変換できるのだろうか?という問題を解く形で考察していると考えるべきだろう。変換のプロセスを考察する以前に、ある程度の比較が行われていると考えるべきである。鏡像を含めて一切の像は、二つを比較する場合、違いを直感的に見つけるのは基本的には二つの像の重ねあわせだろう。

重ねあわせの際、平面と立体との違いは重要である。平面画像の違いを見つけることは比較的簡単である。単に並べてみるだけでも比較はできる。しかし立体となるとそうは行かない。平面の場合は一つを裏返しても方向が異なるだけで、同じ像が見えるが、立体を裏返すと全く異なった像が見える。従って二つの立体像を比較するには単に並べて見比べるだけではなく、裏返したりひっくり返したり、さまざまな操作が必要になる。こういう立体を比較する操作は相当に知的な操作であり、鏡像認知とともに人間の成人にしかできない認知作用と言えるだろう。

以上のように二つある像の一方あるいは両方を空間的に動かして比較するプロセスは決して「変換」のプロセスではない。「変換」以前のプロセスであり、「変換」は両者の違いを説明する一つの手段に過ぎない。比較プロセスで認識される差異は直感的なものである。変換は直感的な認知を概念的に説明するしかたであるともいえよう。


【「変換」の対象】

前項でも触れたが、「変換」は、それに似た言葉である「転換」や「変化」とは異なった対象に用いられる。変換は他動詞である。主語はまず人間に限られると言えよう。他方、目的語は何でもありといえるかもしれないが、多くの場合はデータとか形とかそういったものであろう。一方の「転換」は自動詞であって、主語は人間に限らず、多くは自然物やエネルギーである。

変換も転換も日本語であって、当然どの国語でもこれに相当する用語があるわけではないが、少なくともこの種の用語が他動詞的に使われる場合は本来は人間が主語であって、自然物に使われる場合は比喩あるいは擬人化と言えよう。

あまり推論する時間もないので端的に言って、変換の対象は現在では主に情報と呼ばれるもののようだ。他方変換のプロセスそのものはなんだろうか。どうも数学的、あるいは幾何学的な操作のように思われる。デジタル用語辞典によると、「変換」は「ある情報を異なる形式に変える処理」とある。この種の理論についてはよく知らないが、具体的に何を変えるかと言えば、記号を変えるというようなこともあるように思われる。座標軸のXをYに変えたり、プラスをマイナスに変えたりという具合。

★鏡像問題で座標系あるいは座標軸が用いられる場合に上下・前後・左右の軸が用いられることが多い。ここで相対的に逆転という「変換」を考えてみる場合、上下軸の上下方向や左右軸の左右の方向を逆転あるいは反転することだと言える。それはどういうことだろうか?それは言葉を変えることであり、反対の言葉を使用することである。言葉を変えること、互いに正反対の言葉を使用することは、詰まるところ、「意味」を変えること、「意味」を逆転させることに他ならない。

変換操作で上下を逆転させることや左右を逆転させることはすべて自由で何でもありである。単に記号や言葉を変えるだけで済む。しかし現実にはどうだろうか。頭のある方を下といい、足のある方を上と見ることはあり得るだろうか?逆立ちをしている人についてそういうことはいえるかもしれない。しかしこの場合は環境の上下が基準になっているのである。地上の環境も人間の場合と同様に上下があり、環境の上下が人間の上下に優先するということだろう。

表と裏の関係はかなり微妙である。人の手を考えてみた場合、手の甲を表と言うこともできるし、裏と見ることもできる。しかし、いったんどちらが表でどちらが裏であるかを決めた以上、鏡に映さない手と鏡に映った手を比べてみて表と裏の意味を逆転させることは許されないことだと言える。上下・前後・左右もすべて同様である。鏡像の問題を考える場合に限っては、上下・前後・左右の意味を逆転させてみることはあり得ないか、間違った見方であると言えよう。左右の場合は人間の場合は差が小さいから、逆転してみることはあり得るだろう。しかしそれは立体としての形を正しく見ていないのであり、間違った認知である。平面としてみるならば、可能であるとは言えるのだが。

こういう次第で、上下や前後や左右の軸を一つでも逆転してものを見るということは、形を正確に見るという観点からは許されないことである。あるいは平面的に見て、立体としての形状を無視していると言えるかもしれない。

鏡は平面だから鏡像も平面だと言う人がいるがそれは当然のこと間違いである。鏡像であろうが直接見る像であろうが、平面的にしか認知しない場合はいくらでもある。現実のところ、どのように表現すべきか、難しい問題だが、当面のところ簡単に言って立体と平面の中間で移ろっているとでもいうしかないようだ。

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