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2017-06-15 鏡像の意味論その20〜22

ブログ『意味の周辺』の『鏡像の意味論』シリーズで更新した記事3本を一括して転載します。元の記事に若干の編集と補足を追加し、やや構成が変わりました:

鏡像の意味論その20 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(3)― 鏡映対の成立と鏡像認知について

| 22:01 | 鏡像の意味論その20 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(3)― 鏡映対の成立と鏡像認知についてを含むブックマーク 鏡像の意味論その20 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(3)― 鏡映対の成立と鏡像認知についてのブックマークコメント

【今回の要点】

  • 鏡映対の成立(プロセス1)は、光の反射という物理的プロセスであると同時に鏡像認知のプロセスでもある
  • 他者の鏡映対を比較する際には鏡像認知のプロセスは捨象(消去)されるので、鏡映対の成立は物理的プロセスと見なせる
  • 自己鏡像を認知する場合、鏡像を認知するプロセスと、対応する自己像の認知プロセスは異なる(厳密には存在しない)ので鏡像認知のプロセスは捨象されない。

前々回と前回では鏡映反転を認知するプロセスは2つのプロセス:(1)鏡映対の成立プロセス(プロセス1)と、(2)鏡映対の比較プロセス(プロセス2)からなること、そして(2)の鏡映対の比較プロセスは物理的なプロセスではなく思考プロセスであるとし、この比較プロセスについて考察しましたが、今回は振り返って2つのプロセスで最初の(1)鏡映対成立プロセス(プロセス1)について改めて分析してみたいと思います。


前回の考察のとおり、高野説のType3は「光学変換」とされているものの、実際には比較プロセスに該当するものであることが判明しています。要するにこのプロセスは1つの共通空間の中で2つの像(の形状)を比較するプロセスです(この共通空間についてはまた改めて検討したいと思います)。これで、高野説のType1、Type2、およびType 3はすべてプロセス1の条件の記述が欠落していることになります。三者それぞれについてイラストや具体的な状況説明はありますが、それらの状況に共通する光学的、すなわち光の鏡面反射による鏡像の成立という鏡像問題の基本前提である物理的な条件を全く素通りしています。これは、鏡映反転は物理的な現象ではなく全面的に心理的な現象であるとする高野陽太郎先生の主張に合致していますが、物理的な条件を絵を描くことと具体的な状況説明だけで済ませ、理論としては素通りして心理的なプロセスのみを考察しているのですから、物理的な条件を既存の解決済みの条件とみなしているわけで、これも一種の「論点先取りの誤謬ないしは詭弁」に相当するのではないかと思うのですがね...。


さて、それではプロセス1すなわち鏡映対の成立プロセスは本当に、あるいは純粋に物理的なプロセスであるといえるのでしょうか?


鏡映対はふつう、鏡面に対して面対称(鏡面対称)の対をなす立体像、― 大抵は人物像ですが ― として表現され、図に描かれます。例えば以前の記事で使用した次の図のような図です。この図では鏡像はB’のみで、AとA2は何れも観察者、Bは観察者A2が鏡を介さずに直接人物を見た像を表しています。

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このBとB'は鏡面に対して面対称に描かれている訳ですが、この面対称という概念はGardnerもそう述べているように数学上の概念であって、実際に実物ないしは光の像が面対称の図のように成立しているわけではありません。実際には(A)が(B')を見る光学系と、(A')が(B)を見る光学系は独立していて相互に何の関係もないのであって、一つの光学形として同時に成立している訳ではありません。以前、「鏡は光を反射するのであって像を反射するのではない」といったのはこの意味です。つまり、これは虚像である鏡像を作図するためのテクニックであって、決して物理的にこのような対が成立しているわけではない。つまり、鏡面対称という状況は数学的な概念であって、物理的にそのようなものが成立しているわけではないので、鏡映の対は単純に物理的なプロセスだけで成り立っているとは言いきれません。そもそも、これも何度も言っていますが、鏡像であっても直視像であっても像というものは心で知覚される内容であって物理的な存在では決してありません。結論を言えば、鏡映対の成立には物理的な光学プロセスと、鏡像認知という認知プロセスが同時に進行しているとでもいうより他はありません。


ただ、自分ではなく他者の鏡像を見る場合は比較する対の双方(直視像と鏡像)を認知するプロセスは共通しているので、両者の差異を見つけるときには捨象(消去)され、結局プロセス1は光学的で物理的プロセスであるといって差し支えないわけです。しかし客観的に見られる他者ではなく自分の鏡像の場合、鏡を介しない直視像は存在しないので、厳密な意味で自己鏡像の鏡映対は存在しません。ただ他者(自己の身体の一部を含めて)の鏡映反転から類推できるだけです。高野先生は自分の正面像の鏡映反転を説明しなければ鏡映反転を説明したことにはならないとおっしゃいますが、そのためにはまず他者の鏡映反転のメカニズムをきっちりと説明しなければ不可能なのです。事実高野説においても観察者とその鏡像を上から俯瞰したという、見えるはずのない絵や状況説明を行なっていますが、絵に描いたり外観を描写したりする時点でそれはもう他者の鏡映反転を考察していることに他ならないのです。例え自分自身の外観を想像できたとしても、想像した時点ですでに客観化されていて、それはもう想像上の他者なのです。


というわけで、鏡映対の成立プロセスは鏡像認知のプロセスでもあるのですが、ここで問題になるのは一般に鏡像認知の問題は即自己鏡像の認知プロセスとみなされる場合が多く、他者の鏡像を含めた鏡像認知一般についてはこれまであまり議論されていなかったのではないでしょうか?今後はこの分野の進展を願うばかりです。これは重要な問題で、これまでの鏡映反転の議論の中には鏡像認知の問題が潜んでいる場合が多いのです。そこではかなり混乱した議論が見られるように思います。 下の図は認知科学会に提出済みのテクニカルレポートで使用したもので、鏡像認知と鏡映反転の関係を描いたものです。

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(以上、2017年5月〜6月 田中潤一)

鏡像の意味論その21 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(4)― 鏡像認知の空間と座標系の概念

| 22:01 | 鏡像の意味論その21 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(4)― 鏡像認知の空間と座標系の概念を含むブックマーク 鏡像の意味論その21 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(4)― 鏡像認知の空間と座標系の概念のブックマークコメント

【今回の要点】

  • 鏡像認知は座標系の概念と深い関係がある
  • これまでの座標系を用いた解析方法を使用した理論は何れも鏡像認知の側面が欠落している
  • 鏡像認知は鏡面という平面の認知から始まる
  • 平面の認知は線や長さなどと同様に幾何学的な思考によるもので、鏡像認知空間は現場で直接見ている視空間ではなく幾何学的思考空間内で行われるが、この幾何学的思考空間は等方的である。
  • 像(イメージ)は、したがって幾何学的な形状も、思考空間の中で自由に動かすことができる。これは思考空間の等方性の一つの現れである

ちょっと前置が長くなりますが、

道具としての鏡はかなりの昔から世界中で作られていたことは確実です。それはつまり、鏡は今も昔も最初からその機能を目的に使用されていることが分かります。たいていは自分の顔を確認するためですが、見たいアングルで映るように、鏡面に垂直な方向に、適切な距離に持ってきます。この点で、鏡を見る前にすでに、鏡像認知のプロセスは無意識的ですが完了しているわけです。しかしそうでない場合もあります。街中や始めて入った建物の中などでいきなり気がつかずに鏡に遭遇して、自分自身の鏡像を他人と勘違いすることもなきにしもあらずです。もちろん周囲の光景についてもそれが言えます。うっかりすると、透明なガラスでは結構あることですが、鏡に体をぶつけるような事故もなくはありません。私自身もそういう経験があります。いずれにしても鏡像認知という、鏡像を鏡像として認知するプロセスは自己鏡像の場合に限らず、また意識的であるか無意識的であるかに関わらず、必ず存在します。


【鏡像認知を可能にする鏡映対が成立し、鏡映対の比較を可能にする空間】

前回の記事で、鏡像認知のプロセスは他者鏡像の場合には消去できる旨を説明しましたが、それは鏡映反転のプロセスであって、全体としての鏡像問題、自己鏡像の場合を含めた鏡像問題一般に共通する問題として鏡映反転の認知に先立つ鏡像認知のプロセスを欠かすことはできないでしょう。自己鏡像の場合に特有の鏡像認知問題はこのさい留保するとしても、すべての場合に共通する鏡像認知プロセスは、つまるところ他者鏡像の鏡像認知プロセスそのものとして差し支えないでしょう。すでに述べたとおり、自己鏡像の認知プロセスは他者鏡像の認知と鏡映反転から類推する他はないわけですから。自己鏡像の鏡映反転を説明できたと主張する高野陽太郎先生のType 1の場合にしてもその検証は絵を描いて、しかもその決め手には片方の腕時計という、身体の自分でも見える部分に付けたアクセサリーを使用しています。実際のところ、自分であっても頭部以外の身体の殆どはかなり、直接見ることができるわけです。自己鏡像の鏡映反転と言っても、少なくとも鏡像認知のプロセスでは実質的に他者鏡像の鏡像認知を流用しているに過ぎません。


さて、動物には鏡像認知が存在しないことはまず確実ですが、それは普通に知能、具体的には思考力に基づいていると考えられます。とはいえ、どんなに知力の優れた人物であっても、一定の条件がなければ鏡像認知は不可能だし、さらに鏡像認知が成立するにはそれを可能にする空間的枠組みが不可欠でしょう。


前回の結論の一つとして、鏡面に対して面対称である立体像の対、つまり鏡映対を認識することが鏡像認知の始まりであると言えるわけですが、鏡面対称の認識を可能にする対称面は即、鏡面であり、言葉が同じで混乱しますが、現実の鏡面、すなわち鏡や静かな水面のような表面反射する物体の表面の存在を認識することが前提になっている訳です。この表面という概念は幾何学的な平面そのものであって物質的なものではなく、厚みを持たない抽象的な平面です。これは端的に言って一つの抽象的な概念であって、少なくとも人間以外のいかなる高等動物もこんな概念を持つことは不可能に違いありません。これはもう幾何学的思考の始まりです。鏡像認知はそれ自体が幾何学的思考によるものです。この鏡面に対して反対側に同一と見られる距離に同じ特徴をすべて備えた対になる像を想定することが鏡像認知であるとすれば、これはもう私たちが直接知覚する視空間とは別の空間といえます。


例えば鏡の前で身繕いなどしているあなたの背後にだれかが現れた場合、当然その人物は鏡に映って見えますが、その人物を直接見るには後ろを振り向かねばなりません。この場合の鏡像認知空間は完全に、あなたの思考と構想力によって構成された空間であることが判ります。鏡の前の他人の姿を直接見ると同時にその人の鏡像をも見るような状態(例えば高野説のType3)はかなりこの鏡像認知空間に近いと言えますが、鏡面の存在に気が付かなければただ似た人物が並んで見えるだけで鏡像認知はなく、したがって鏡映反転の認知もありません。


この空間は座標空間とも言えます。 表面なら視野の中には鏡面以外にもいくらでもあります。鏡が裏返っていれば裏面が見えるだろうし、ガラス板があればその表面も認知は可能だろうし、他にも光沢のある平面や光沢のない平面はいくらでもあります。その中で鏡面の両側に同一距離で同じ特徴をすべて持つ立体像を認知することは鏡面を特別な意味を持つ表面として特別な意味を与えられている訳で、これは単なる感覚的な知覚ではないからです。


この空間は触覚で認知される触空間とはもちろん、視空間とも異なり、両者を含めた知覚空間、直接知覚されるのではなく概念で構成された思考空間です。ですから感覚的に認知できる位置や方向とは関係なく、紙の上に図を描いて再現することもできるわけです。そのために絶対的な位置や方向は無意味で、位置や長さや方向はすべて相対的であり、一つの点の位置を特定する場合には座標系が必要になります。その座標系は普通x、y、zの軸で表され、紙の上では各軸の正負の方向も規定されていますが、これらはすべて便宜上の約束事に過ぎません。ですから、正負の方向も相対的であるといえます。


思考空間のこのような性質を等方的(Isotropic、Isometric)な空間と表現したのは恐らくMachが最初なのだと思います。個人的にそこまで文献的知識がないので恐らくというほかないのですが。さらにこれを認識論的に位置づけたのがカッシーラーであると考えています。


この鏡像認知空間のなかで鏡映対が比較される際のメカニズムについては件のテクニカルレポートに詳しく分析しているので、そちらをお読みくだされば幸いです。そこではこの座標系、つまり鏡像認知空間の座標系しか使用していませんが、従来の諸説ではこのような座標系よりもむしろFixed reference system、あるいは固有座標系などの概念が使われています。この問題については改めて検討したいと思います。

(2017年5月〜6月 田中潤一)

鏡像の意味論その22 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(5)― 従来説における座標系(固有座標系)の扱いとその再定義

| 22:01 | 鏡像の意味論その22 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(5)― 従来説における座標系(固有座標系)の扱いとその再定義を含むブックマーク 鏡像の意味論その22 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(5)― 従来説における座標系(固有座標系)の扱いとその再定義のブックマークコメント

【今回の要点】

  • 座標系ないし座標軸のセットと方向軸(異方軸)のセットは区別しなければならない。座標軸は等方的な幾何学空間で任意に定められる3本の直交する軸であって通常 x、y、zで表現される軸上の位置は相対的で、固有のx、y、zは変数であってそれ以上の意味を持たないが、方向軸は固有の意味と価値を持つのであり、座標空間のなかではむしろベクトルに相当するものと考えられ、矢印で表現できる。
  • 鏡像問題においてこれまで固有座標系と呼ばれてきたものは個別の像空間(像が占有する内部空間)であるものと解釈できる。これに対してすべての像空間(鏡像と直視像を含め)を含む鏡像認知空間が想定できる。鏡像認知空間は、Itteleson他(1991)のphysical reference systemや従来、視覚心理学で環境座標系あるいは共有座標系などと呼ばれてきた概念と共通する要素もあるが、座標系というよりは等方的な幾何学的思考空間を意味し、明確に等方的であるために座標軸は相対的な位置を示すのみであり、意味のあるラベル(上下前後左右、東西南北など)を使用しないので、それらとは同じではない。
  • 等方的な鏡像認知空間には通常の幾何学的な座標系が適用できるのに対して、各々の像空間は異方的であり右手座標系か左手座標系かの何れかが適用できる。
  • 個別の像空間の内部ではすべての位置が異なる価値または意味を持っている(例:上下・前後・左右のセット)。そのためすべての軸は一方的な方向性を持つので方向軸と呼ぶべきであり、矢印で表現すべきである。
  • 鏡映対の各像が持つ方向軸(矢印で表せる方向を持つ)は鏡像認知空間の中で、鏡面に垂直な方向で互いに逆方向を向いているが、鏡像認知空間は等方的な幾何学的思考空間であり、その中では像は任意に回転と平行移動ができる。回転と平行移動により直交する3軸のうち2つの方向軸(の矢印の向き)を重ね合せると、残りの1軸の矢印が互いに反対方向を向くことになる。認知される鏡映反転は意識的または無意識的に行なわれたかまたは行なわれなかった操作の結果である。

今回の考察はItteleson他(1991)をレビューすることで進行できました。

Itteleson他(1991)は、まず鏡映対が互いに対掌体になっていることを前提とした上で、物理的な問題と心理学的な問題を区別するために異なった2つの座標系のセットが使用できるとし、その1つ目は鏡と物体を含めた世界に固定されたphysical system(物理系)、2つ目はobject system(物体系)と呼んでいます。そうして前者が物理的であり、後者は心理学的であるとし、従来理論では両者の概念が混同されてきたと主張しています。そうして上記の2通りの座標系ではなく、「右手系」と「左手系」の2つの座標系のみがmirror transformation(鏡映変換?)を示し、「鏡が光学的に鏡面に垂直な軸を逆転させる」ことを示すとしています。次の図はItteleson他(1991)からの引用です:

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図1. William H Ittelson, Lyn Mowafy, Diane Magid, 1991, Perception, 1991, volume 20, pages 567-584 から引用


ただ、この図で示されている座標系と呼ばれるものは、原点からプラスマイナスの方向に延びる直線として表現される普通の直交座標系ではなく、単一方向の矢印で示されています。この矢印は座標軸ではなくベクトルを表現しているとみられます。というのはこの符号を持つ矢印のセットはすでに定義済みの直交するx,y,z座標系の中で定義されているからです。


この右手座標系と左手座標系による説明は多幡先生のサイト「鏡の中の左利き」で説明されているものと同じ説明で、数学的な鏡映そのものを説明するものであることがわかります。この説明の結果について言えば、Itteleson他(1991)の文脈では、ここで述べられている結論は物理的な条件を数学的に説明できたものの、この時点では心理学的な逆転認知の解明には至っていません。言い換えると、Itteleson他(1991)では物理的な問題と心理的な問題を区別するために「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」の2通りの座標系を導入したのですが、ここで右手系と左手系の関係で得られた結論は鏡映対が互いに対掌体であり、鏡面に垂直な方向で互いに逆転しているという、「物理的」な条件を再確認したまでであって、物理的問題と心理的問題を区別するために導入された「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」という2つの座標系の関係については置き去りにされてしまいました。


しかしここから、Itteleson他(1991)は上記の物理的な条件を心理的問題の前提事項であることを確認したうえで、改めて心理学的なプロセスを考察し始めます。Itteleson他(1991)はその方法として直交する3軸のそれぞれを中心として鏡映対の一方を180 度回転することと平行移動の組み合わせによる重ね合わせにより、両者が互いに逆転して認知される方向が認知されるという方法を採用し、以下の章では模型を使用して被験者を使用して実験を行うという手法を実行することになりました。ただ、ここで重ね合わせる方法としては「point for point correspondence(各点ごとの対応づけ?)」という、直感的になんとなくわかりますが明確な定義とは言い難い表現となっています。それはともかく、この実験結果をとおして、物理的な条件(鏡映対が互いに対掌体であり、任意の方向で逆転しているとみられる)を前提とした上で、心理的にどの方向が逆転してみえるかを考察し、それが像の三次元形状における対称性が最も小さい方向であるとする、いわゆる「対称性仮説」を結論付けている訳です。


「対称性仮説」の当否は後の問題として、ここでItteleson他(1991)が先に導入した「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」の2通りの座標系をなぜ利用できなかったかを考察する必要があります。「物理系」が物理的であるという論理はわかりますが、「物体系」が物理的ではなく心理的とみなさなければならなかったのはなぜなのでしょうか?それは「物体系」が上下・前後・左右の軸を持つと考えざるを得なかったからで、上下・前後・左右が物理的ではなく人間の心理に由来すると考えたからでしょう。これは先回の記事ですでに解明済みですが、鏡映対すなわち鏡像とその相手方との関係が鏡像と物体との関係ではなく、鏡像と直視像(鏡を介さずに見る像)との関係であることを認めれば解決に向かいます。つまり、鏡映対は一方が鏡像で他方が物体なのではなく、いずれも像であり、対の一方が物体の鏡像であるなら他方は同じ物体の直視像であり、いずれも客観性はあるものの、観察者によって視覚的に把握された物体の像であり、だからこそ互いに対をなすことが可能なわけで、像は物質でも物理的なものでもないからです。この鏡像と直視像の対に右手系と左手系の対をなす座標系が適用されたものとみなすことができます。これを固有座標系と呼ぶとすれば、固有座標系とは各々の像そのものと言えるのではないでしょうか?個々の像は言い換えると個々の像空間です。ここで右手系と左手系は対をなす像空間の性質とみなすことができます。その像とは人間の視覚による認知の内容であり、像空間は人間が視覚で認知する空間、すなわち視空間の中で認知されます。視空間の異方性についてはテクニカルレポートの主要論点の一つでした。前回記事の通り、マッハが発見したともいえる異方的な知覚空間ということになります。


では Itteleson他(1991)が物理系(Physical system)と名付けた方の座標系はどのような意味を持つのでしょうか?これについては端的に疑問を呈するより他はありませんが、物体が視覚によって認知される空間が視空間であるなら、視空間で認知される以前の物体そのもの、つまり感覚で認知される以前の物体にそもそも何らかの座標系などが適用されるでしょうか?物体自体が感覚を通じて認知される以前には何も認知されていないのです。そこにいかなる座標系も適用される訳がありません。したがって Itteleson他(1991)が物理系と呼んだ系とは、むしろ、視空間で各々の像が認知された後から思考力によって再構成された幾何学的な思考空間であると考える他はなく、鏡像認知空間がそれに相当します。この等方的な思考空間と異方的な知覚空間との関係こそがテクニカルレポートの中心的なテーマでした。


以上の空間定義を専門的な幾何光学の説明と比較してみたいと思います。岩波理化学事典の項目『結像』には次のように記述されています:「実在の空間を物点の集合とみなしたものを物体空間(object space),像点の集合とみなしたものを像空間(image space)という.両者は相重なるが,その屈折率などは,光学系の前のものを物体空間に,後のものを像空間にあてる.光学系による物体空間の像空間への変換が結像であり,物体を物体空間の部分空間とみれば,変換された像空間の部分空間が像である [株式会社岩波書店 岩波理化学辞典第5版]」


この定義はなかなか判りづらいものがありますが、ここでは認知のプロセスは完全に消去されています。ここでの定義をItteleson他(1991)の定義と比較してみると、Itteleson他(1991)の「物理系」は結像光学でいう物体空間に相当し、Itteleson他(1991)の「物体系」は結像光学では物体空間内の部分空間であって、個々の物体が占める部分空間に相当します。結像光学では認知のプロセスが完全に消去されていますが、「像」という概念の中に、いわばブラックボックスとして認知プロセスが閉じ込められているということもできます。ということで、Itteleson他(1991)が後に固有座標系と呼び、心理学的であるとみなした「物体系」が、結像光学における像空間の部分空間としての個々の像に対応させられます。


一方、Itteleson他(1991)が「物理系」と定義した座標系は、結像光学では全体としての物体空間に相当すると考えられます。ただし結像光学では物体空間を像空間に重ね合せています。これは物体空間の部分空間である個々の物体を個々の像と重ね合せているのに対応していますが、Itteleson他(1991)の「物理系」にはその対応が欠落しています。Itteleson他(1991)が「物体系」を心理学的とみなすことができたのは物体系を像空間の部分空間である個々の像とみなせるからであることから類推すれば、Itteleson他(1991)の論理でも結像光学と同様に「物理系」を像空間に対応させる必要があります。この像空間は結像光学では消去されていた鏡像認知プロセスにおける鏡像認知空間そのものであるとして問題はありません。


簡単に言ってしまえば、Itteleson他(1991)の「物理系(Physical system)」と「物体系(Object system)」は何れも心理学的に再定義できるものであり、前者は鏡像認知空間であり、後者は個別の像空間(結像光学では像空間の部分空間)ということになります。結像光学では後者(像空間の部分空間)は前者(像空間)の部分ということになりますが、結像光学では像の認知という心理学的プロセスが完全に消去されています。鏡像を含む空間の場合、前者は等方的な幾何学的思考空間であることを前回記事で確認したわけですが、各々の像空間についてはどうなのでしょうか?


先に検討したように、数学的な鏡映の分析により、鏡面の両側で鏡映対のそれぞれの像空間に適用できる座標系は互いに右手系と左手系の関係にあり、鏡面に垂直な方向で軸方向が互いに方向が逆向きになっているというわけですが、ここで定義されている右手系と左手系と呼ばれるものは抽象的な座標軸そのものではなく、多幡先生のサイトでは行列式との関係が言及されているいますがウィキペディアの項目『右手系』によれば線形代数学で定義される座標系と言えるそうで、このような高等数学の定義になると私としては正直なところお手上げなのですが、要するに上図には矢印で表現されているように、単なる直線でしかない座標軸ではなく方向性を示すベクトルと考えられます。したがって方向軸と表現して差し支えありません。矢印で表現されるとおり、線上の各点は等価ではなく価値的に差があります。つまり、個々の像空間の内部では無限に想定できるすべての方向において各位置が相対的な関係ではなく価値的に差があるということであり、それぞれの方向自体にも価値的に差があるということです。等方的な空間ではそれぞれの軸線は角度で相対的に表現されるだけですが、個々の像空間では方向自体にも価値的な差異があることになります。このような空間は等方的ではなく異方的と言うべきでしょう。それはマッハ(E. Mach)やカッシーラー(E. Cassirer)がそう定義したとおり、そのままです。


このような性質は、私たちが知覚、この場合は視覚で認知する視空間の上下・前後・左右という方向性に対応しています。このような方向軸は鏡像認知空間のように原点を持つ通常の座標系で表現されるのではなくベクトルのように矢印で表現されるべき方向軸を持つものであるといえます。


以上を端的に要約すると、鏡像認知が生じた時点で観察者に鏡像認知空間という等方的な空間が把握されることになり、その空間内に個々の像や鏡像が認知される訳ですが、通常は各々の像について上下・前後・左右の方向性が認知されます。Itteleson他(1991)が上述のように鏡映対を互いに重ね合せて比較することができたのは等方的な鏡像認知空間の中で、鏡映対をなす2つの像の一方を回転または平行移動することで重ね合せることができたからですが、それが可能であるのは全体を包含する鏡像認知空間が等方的な思考空間であるからであるということができます。その際の重ね合せ方について、Itteleson他(1991)は「point for point correspondence(各点ごとの対応づけ?)」と言っています。しかしこれは曖昧な表現です。上述のように方向軸が矢印で表せることが判明した今、この重ね合わせの操作は、具体的には上下・前後・左右の各矢印の向きを合せることと言うことができます。結果的に上下・前後・左右の3つの矢印のうち2つの矢印を合せると、残りの1つの矢印が互いに反対方向を向くことになる、というわけです。言い換えるとどのように動かしても3つの矢印を合わせることができないというわけで、両者が同形であれば3つの矢印を合わせることで完全に重ね合わせられます。同形でも対掌体でもなければそもそも形状のすべての特徴が一致しないのでどの矢印も合わせることができません。人間であれば他人でも上下・前後・左右の特徴が一応似ているので誰でも方向軸の矢印を合わせることができますが、全体の形状を重ね合わせることができません。


Itteleson他(1991)が行った重ね合わせの方法は結果的には上述の方向軸の重ね合わせに近い方法ですが、等方的な鏡像認知空間と異方的な視空間との関係が認識されるに至っていないため、正しい結論にたどり着くことができずに終わっています。Itteleson他(1991)の誤謬は、心理学的な問題においてもあくまでも幾何学的な概念(対称性の大きさ)で迫ろうとする方法論にあるように思われます。なぜなら、何度も指摘しているように個々の像に上下・前後・左右を定めるものは幾何学的な形状ではなく像の各部が表現する機能的な意味であるからです。Itteleson他(1991)の誤りは、幾何学的なブロックで実験を行い、機能的な意味を持つ立体で行わなかったことにも起因しています。Itteleson(1993)では体操の選手を呼んで逆立ちをしてもらう実験をしているのは興味深い実験かもしれませんね。しかし結論は変えていません。


人間の場合、上下・前後・左右のうち左右の機能的な特徴が同じであり形状も大体同じであることは確かで、左右対称に近く、対称性が大きいということはできます。しかし現実には歩くたびに片方の足を前に出したり、片手をあげたり、片方にアクセサリーを着けたり、絶えず対称性は崩れています。ただこのような特徴は交換が可能なのです。少なくとも同一人物の同一時刻には左右の形状の差が確定しています。常に左右対称に近いというわけではないのです。道具ではさらに左右の形状差は大きく、例えばグランドピアノなどはどうでしょうか?右側が高音部であるという非常に重要な機能に由来する形状の差異を持っています。また道具では、例えば砂時計など上下の差異は無いに等しいといえます。しかし普通に置かれた砂時計の鏡像が直視像と比べて上下が逆転して見えるとは言えないでしょう。このように Itteleson他(1991)の「対称性」仮説は誤りであるといえます。



以上であらゆる鏡映反転の基礎となる概念はだいたい確立できたように思います。最後の重要な問題は左右軸の従属性に関する問題ですが、これについてはテクニカルレポートで、十分ではないかも知れませんがかなり掘り下げられたものと考えています。


【補足1】

上下・前後・左右の意味的な考察については上記のItteleson他(1991)に、ジェームズ(W. James)からの興味深い引用が挿入されています。私には、ここに紹介されているジェームズの考察は直接マッハとカッシーラーの認識に繋がるように思われ、非常に興味深いのですが、論文の著者はこれに興味を示しながらも鏡像問題には寄与するものではないとして、素通りしてしまいました。左右の意味的な考察についてはテクニカルレポートで空間の異方性との関係でかなり掘り下げたつもりですがまだまだ掘り下げる、あるいは敷衍する余地はいくらでもあるように思います。


これは補足というよりも余談ではありますが、今回の考察でつくづく思うことは、座標系という言葉はいかにも厳密に定義された意味を持つような印象がありますが、その意味するところは文脈により相当に流動的で、意味を把握することは容易ではない場合も多いように思います。これは日本語であるか英語であるかには関係がないようです。


【補足2】

【要点】

  • 鏡像に上下・前後・左右を適用するプロセスと、思考プロセスで鏡映対の一方を回転または移動させて重ね合せて比較するプロセスは全く別の独立したプロセスである

前回記事の要点はまだ良く煮詰まっておらず、固有座標系の概念や右手系、左手系の意味、その他、座標系そのものについての考え方については正直なところ、数学的素養がないため、これ以上考察することは困難なので、これらの解釈については保留しておきたいと考えています。ただし、少なくとも鏡映反転の心理学的な要素である比較プロセスについては固有座標系に類する概念は無しで済ませられるものと考えています。固有座標系とか環境座標系とか、この種の概念を不用意に使用し始めるとその概念自体が流動的で扱いが難しいだけに、どこかでミスリードされかねないような不安があります。


というのは、鏡像問題に限らず知覚心理学あるいは視覚心理学で固有座標系や環境座標系などが使われる場合、上下・前後・左右とか、あるいは東西南北とか何らかの意味のある軸名が使われています。こういう概念を座標系という数学的な概念とどのようにマッチさせてよいのかわからないからです。


先に岩波理化学辞典から引用した箇所でもわかりますが、幾何光学あるいは結像光学でも固有座標系というような概念は使用されておらず、上述のように、像空間や像空間の部分空間という概念で説明されています。先にも述べましたが、「像空間の部分空間」と呼ばれているものは個々の像そのものとみなせるので、Itteleson(1993)その他が「固有座標系」と呼ぶものは個々の像が占める空間そのものと考えればすむことだと思います。それでそのような空間はマッハやカッシーラーが導入した異方的な知覚空間に相当すると考えて問題はありません。


さらに付け加えれば、そもそも座標系とは座標の数値を決めるための厳密な定義そのものであって、そのような定義なしに性質や変換や変更などあれこれ議論しても意味がないと思うのです。例えば地理では東経とか北緯とか言いますが、それは経度と緯度の厳密な定義が決めてあるからで、北とか東とかは、緯度や経度の向きに過ぎません。経度にしても緯度にしても決して定義する以前に存在するような属性でも何でもありません。固有座標系、環境座標系など、それ自体は何も意味しないと思いますが、ただ、そういう言葉で何らかの空間、空間の属性などを漠然と推定しているものとしか考えられないのですが、どうでしょうか?


さて、以上の問題と関連すると考えるのですが、冒頭に要点として掲げた一点は特に重要で、強調しておく必要があると思います。


たとえば、右肩に鞄をかけた人物が鏡に映っているのが観察される場合、鏡像に正しく上下・前後・左右を適用した場合、左肩に鞄を掛けているように見えるはずです。本人、つまり人物を直接見ると右肩に鞄を掛けているのだから、左右が逆転して見えるということ自体は間違いとは言えません。しかし、この論理は、鏡映関係にはない他人との比較でも言えることです。単に右肩に鞄をかけた人物と、同じ鞄を左肩にかけた人物を比較した際にもこの点で左右が逆転しているということはできます。


この点で鏡像認知プロセスが完了していることが前提ですが、鏡像に上下・前後・左右を適用した後でも、もちろん適用する前でも、可能性としては鏡像認知空間という等方的な空間では2つの像の一方を回転させたり平行移動させたりして重ね合せることによる比較はあり得ます。第一、鞄を右か左のどちらかに掛けているという明瞭な差異が常に見られるとは限りません。2つの形状、特に立体の差異が微妙な場合、どうしても全体を重ね合せて比較しなければ正確な差異は見つけられませんから。要は、比較は常に相対的であり、上下とか前後とか左右といった意味を持つ方向は関係がないということです。この比較が可能なことが幾何学的な思考空間の性質に由来するわけです。


ただし、人は普通、上下と前後についてははっきりと意識しますが、左右についてはあまり意識しない、言い換えるとどちらが左でどちらが右であるかは意に介さない、という傾向はあると思います。とくに人物の場合は左右対称に近いことに加え、左右の特徴が入れ替え可能である(例えば同じ人でも右足を前に出しているときもあれば左足を前に出しているときもある)という特性があり、通常はどちらの場合もあり得るところを、鏡像の場合は左右の方向を改めて確認し、それだけで左右の逆転を意識するということは十分にあり得ることだと思います。この点でItteleson(1991)の「対称性仮説」には一定の範囲内で程度の合理性はあると思われます。また「左右軸の従属性」も一定の合理性はあると思われます。ただし、Itteleson(1991)の「対称性仮説」ですべてが説明される訳でもなく、一方の「左右軸の従属性」も「左右軸の決定順序」という固定した規則として定義されていることには問題があると考えます。左右軸の決定順序ではなく、むしろ左右軸の傾向性ともいえる性質として再定義するべきだと考え、テクニカルレポートではそのように再定義したわけです。


以上のような左右軸の性質、さらに上下・前後・ 左右のそれぞれの性質を含め、一切を知覚空間の異方性として捉えることで、鏡映反転を包括的に説明できると考えるものです。ですから鏡映反転を一括して左右逆転の問題と捉えることは諦めるるべきであって、個々のさまざまなケースについて必要ならばは個別のさまざまな条件で考察し、場合によっては実験も行なう必要が生じてくると考えるべきではないでしょうか。


今回は非常に込み入った説明でわかりずらいものになってしまいましたが、テーマ自体が像空間(したがって視空間)の異方性というわかりづらいものであるためやむを得ないところもあります。いずれもう少しわかりやすい説明の仕方が、見つかればと思います。ただ、テクニカルレポートでは固有座標系、右手系といった難しい座標系の概念を使用せずに一応の説明はできたものと考えています。


これで「鏡像の意味論」シリーズは一段落ということで、今後はまた別の形で考察を続けてゆきたいと考えています。もちろん補足や訂正を含めてこれでこのシリーズは打ち切りということではありませんが…

(以上 1017年5月〜6月 田中潤一)

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2017-05-09 鏡像の意味論その17〜19

ブログ『意味の周辺』に4月18日から今月7日にかけて掲載済みの「鏡像の意味論その17」から「その19」までを多少編集、変更を加えて一括して掲載します。多少長くなりますが、作成順になりますので読みやすくなっていると思います。なお「その19」に多少重要な修正があり、太字にしています。

鏡像の意味論その17 ― 常に像、光、および物体、三者の存在を想定しなければならないこと

| 13:25 | 鏡像の意味論その17 ― 常に像、光、および物体、三者の存在を想定しなければならないことを含むブックマーク 鏡像の意味論その17 ― 常に像、光、および物体、三者の存在を想定しなければならないことのブックマークコメント

【今回のキーポイントまたは結論】

  • 鏡映反転を含め鏡像の問題はすべて立体像すなわち三次元の像を基本として考察しなければならない

先回には像、光、および物体、三者間の区別の重要性について考えてみましたが、今回は鏡像の問題を考える際には必ずこの三者(三種類)の存在(存在形態)を想定しなければならないことを強調したいと思います。

例えば文字の場合、文字が物質性を持たない平面であること、さらに抽象的な記号としての形状であること、この二重の意味で物質性を持つ物体からは切り離して検討することはできます。しかし、そもそも現実の鏡面で生じる鏡映反転という現象は、物質性を持つ物体を欠いては絶対に生じない現象なのです。

【光】

光は照明により物体から乱反射を介する場合と発光体がそのまま鏡に映る場合とがありますが、何れも光の存在が不可欠であることは自明のことでしょう。

【物体】

鏡については、これも物体ですが、この際一応鏡面という抽象的な機能が問題になっているので必ずしも物体としての鏡を想定する必要はないかもしれません。しかし、鏡面で反射する光の光源としての物体は、絶対に想定しなくてはいけません。そうして物体は常に三次元の存在であることも忘れられてはならないことです。

【像】

鏡像の問題なのだから像の存在が前提であることもまた自明であるといえます。ここで重要なことは、像は抽象的な形状つまり幾何学的な形状そのものではないことです。幾何学的な形状は像の属性と考えることができますが、像そのものは全体としても部分的にも何らかの意味を持つので、単に幾何学的な形状ではないということです。また像の存在は常に観察者の存在をも想定していることになります。

以上から、一つの帰結として、鏡像の問題は常に三次元の立体でなければならない物体の存在を前提として考察する必要があることがわかります。

何度も繰り返しになりますが、高野陽太郎先生の「表象反転」は、抽象的な記号としての文字だけを他の場合と完全に切り離して全く異なった原理、つまり他のケースと共通する原理を含めずに説明している点でも、今回の要請からも容認できないものです。記号としての文字であっても鏡映が実現するには何らかの物体表面に書かれていなければなりません。どんなに薄い紙であっても、透明フィルムに書かれていようとも、質量を持つ物体なしに鏡像は成立しえないわけですから。

もちろん、抽象的な記号としての文字の鏡映反転を考察することは可能であるとしても、一つの付加的な条件として、すべての鏡映反転に共通する条件への付加的な条件として考察すべきものです。(2017年4月18〜20日 田中潤一)

鏡像の意味論その18 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(1)

| 13:25 | 鏡像の意味論その18 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(1)を含むブックマーク 鏡像の意味論その18 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(1)のブックマークコメント

【今回のキーポイント】

  1. 鏡映反転のプロセスには鏡映対をなす2つの像が成立するプロセスと、この2つの像を比較するプロセスとの2つの主な要素に分けられる。前者は基本的に幾何光学的プロセスであり、後者は認知プロセスである。
  2. 2つの像を比較することは詰まるところ2つの像の差異を認知し、その差異を表現することである。従って比較される2つの像に客観的に識別できる差異(観察者個人の認知ではなく科学的に表現できる差異)があるかどうかを判定しなければならない。
  3. 2つの像すなわち鏡映対のあいだに客観的に(科学的に)表現できる差異がなければ鏡映反転は純粋に認知の問題であって幾何光学的プロセス、言い換えると物理的プロセスとは無関係であることになるが、客観的に(科学的に)表現できる差異がある場合は観察者がその差異を認識できるか、またどのように表現できるかが、認知の問題となる。
  4. 2つの像を客観的に、すなわち科学的に比較するための方法としては幾何学的な形状の比較以外にありえない。形状には当然、表面のパターンや色の分布も含まれる。
  5. 鏡映対は同形ではなく互いに対掌体であることが明らかにされている。したがって両者には幾何学的に表現できる差異がある。
  6. 認知過程としての比較プロセスは思考過程である

前回のとおり、像、光、および物体の三者の区別が必要であることは鏡像問題においてこの三者の存在が前提になっているからですが、仮にも鏡像の問題、鏡映反転に限らず、鏡像が関わる事象では、この三者と観察者の存在が前提になります。(この三者と観察者を含めた四者間の関係は単に「科学的に」規定できるようなものではないと私は思います。科学以前の常識あるいは科学を超えた認識論的視点にも焦点があてられる可能性があります。というのも、光と物体は物理的な存在であるのに対して像は物理的な存在ではなく、観察者の直接的な認知対象であり認知内容ともいえるものであるからです。しかし逆にいえば、認識論的な問題や主張を科学面から検証することにつながる可能性もあると考えられるわけで、そういう意味でも鏡像問題は単なる一つの問題ではなく、きわめて意義深いものになるのではないかと思う次第なのです。)

観察者を除き、三者のうち物体としては鏡と鏡に映る物体の2つですが、光(正確には光線)は普通物体とは言われません。ただし物体と光は共に物理的な存在であり、物体と光との関係を科学的に説明するには物理的な関係として説明する以外にありません。これだけで、仮にも鏡像が関係する問題には物理的な関係あるいは条件の関与は必須条件であり、いかなる具体的な状況であれ、物理的な条件を抜きに心理的な条件のみで鏡像問題を語ることはそれだけで間違いであるか不完全であることは自明ではないでしょうか?光と物体との相互関係を無視しては鏡像の問題は消えてしまいます。これは自明のことです。鏡像問題それ自体は数学の問題のように厳密に規定されていないとはいえ、鏡像を他の像から区別する意味がなくなってしまえば鏡像の問題ではなくなりますからね。

さらに、物理的といってもここで問題になっているのは光と物体との関係であり、それも鏡像に関わる限りの関係ですから、それに関わる物理学の分野としては必然的に光学、それも幾何光学を置いて他に考えられません。確かに光が物体に作用して物体の運動や化学変化に影響を与えることもあるでしょうし、眼の仕組みに関しては実際にその種の作用が問題になるでしょうが、それは像が成立する以前の問題であり、本文のタイトルのような像、光、および物体の三者の関係では眼の構造や原理については捨象、つまり消去して考える他はないので、鏡像の問題に関わる物理学としては幾何光学だけで十分といえるでしょう。

ところが、例えばMorris説を読み始めると鏡映反転を説明する理論としてのPhysical Rotation(物理的ないし身体的回転)説 やMental Rotation(心的回転)説などが光学説と共に、並列的に列挙されています。次に引用してみます:「Many psychological explanations have been advanced to explain left-right reversal in mirror images, but Gregory and Haig have each proposed a physical explanation for the reversal.(多くの心理学的説明が鏡像の左右逆転の説明を進展させたたが、そこにグレゴリーとヘイグがそれぞれ「逆転」についての物理的な説明を提起した。)」ここではGregory(1987)の「Physical Rotation」とHaig(1993)の光学的説明が共に「物理的な説明」として一括されているわけです。

このように、物理学としては幾何光学だけで十分だと思われる鏡像問題に、なぜか「物理的な回転」という説明が使われているのですが、この論文では従来説として次の4種の説明が列記されています:

Optical Explanation(光学的説明):Haig(1993)

Physical object rotation(物体の物理的な回転):Gregory(1987)

Symmetry(対称性):Pearth(1952)、Ittelson(1991)

Mental rotation(心的回転):Gardner(1990)

ちなみにMorris説では言及されていませんがMayo(1958)ではPhysicalとかMentalなどを付けずに単に「Rotation」として「Reverse」と比較対照されています。「3」の対称性についていえば、対称性自体は幾何学的な概念または性質であって物理的プロセスではありませんが、「2」のPhysical object rotationは「4」のMental rotationとどこが違うのでしょう?実際のところ、Gregory説のPhysical rotationとはつまり、鏡の前の人が鏡と向き合うために180度回転することをこう表現しているわけです 。「鏡と向き合うために」回転すると言っていますが、Gregory(1987)が実際に意図していることは回転する前の人の姿と回転後の人の姿を比較しているのです。つまり同じ人の2つの姿を重ねて比較しているのであって、回転運動は(鏡の前の人物本人ではなく著者が)2つの姿を比較するための手段なのです。最終的にはそれらの像を鏡像と比較するためという他はないでしょう。 このような比較は本来、鏡像との比較が目的であったはずであり、つまるところ比較が目的であるという意味では「4」のMental rotationと同じで、どちらもMental rotationなのです。「4」のMental Rotationは、鏡像の方だけを回転することですが、これも実際に目に見えるように行うことは不可能なので、Mentalというのも当然でしょう。

Mayo(1958)では回転の他に、さらに「Reverse」や「Transform」が並行的に比較されています。その「Reverse」や「Transform」というは物体の各点が一つの方向だけで逆転することで、つまり鏡面対象の形に変形するということそのままであって、こうなると移動や回転といった物体の動きとしては不可能な変化で、あり得ない「変形」になってしまいます。

ここでこれ以上Gregory説やGardner説あるいはMayo説に深入りすることは煩瑣になるので避けたいと思います。以上の例で私が言いたいことは、これらの文脈でRotation(回転)やReverssal(逆転)など呼ばれているものはつまるところ二つの形状を比較するための操作であり、比較アルゴリズムともいえることです。これは物理的なプロセスではなく、むしろ思考プロセス、それも幾何学的思考のプロセスというべきです。それがMorris説ではHaig(1998)の光学的説明と併せて物理的な説明として一括され、心理学的な説明と対置されていたわけです。このような命名や分類は本人にとっても後に続く研究者にとってもミスリーディングという他はありません。

ともあれ、鏡像問題において物理学的なプロセスは幾何光学的なプロセスのみであり、後は光学的なプロセスで成立した2つの像を観察者が比較するプロセスであることが明らかになったわけです。

以上の光学的プロセスと認知プロセスのそれぞれについてさらに掘り下げる前に、従来説では鏡映反転という事象をこれらの2つの要素に分析することなく一つの現象として説明していたことに注目する必要があると思います。「鏡像問題は物理学で解ける問題なのか?心理学的に解くべき問題なのか?」というような二者択一的な問いかけもその表れといえるでしょう。

高野陽太郎先生が従来説のどれをも「単一の原理によって生み出される単一の現象とみなす点で共通していた」(認知科学VOL. 15, NO.3 Sep.2008)と解釈したのはこの点で部分的に理解できるものです。ただし引用部の後半「・・・単一の現象とみなす点で共通していた」には同意できますが、「単一の原理によって生み出される・・・」という規定は明らかに従来の諸説を歪曲した表現であると思います。例えばMorris(1993)はGardner(1990)を「Mental rotation(心的回転)」という一つの熟語で表現していますが、Takano(1998)は同じGardner説を「Conventional description hypothesis(言語習慣説)」と呼んでいます。「心的回転」と「言語習慣」とは全く意味が違いますが、こうなったのは結局Takano(1998)もMorris(1993)もGardner説の主張の一部を取り出してこの説を名付けているだけということでしょう。単一の原理を暗示するように命名したからといってGardner説を単一原理による説明とは言えないでしょう。Gardner説にも光学プロセスが潜んでいない保証はありません。

高野先生はTakano(1998)においてGardner(1990)を引用していますが、そこでGardnerは次のように述べています「Such a reversal [mirror reversal] automatically changes an asymmetric figure to its enantiomorph」。ここでGardnerが言っていることは、鏡映対が互いに対掌体になっているということで、これは幾何光学的なプロセスが原因なのです。ですから、Gardner説には幾何光学的な結果が前提として含まれているわけです。

高野説による従来説の解釈は詰まるところ、従来説において結論の前提となる諸々の条件を差し置いて結論の部分だけを取り出しているだけだと思います。高野説自体についてもそれが言えると思います。例えば高野説の「Type 1 Reversal(視点反転)」では観察者と鏡面と鏡像とを上から俯瞰した絵が描かれています。観察者自身が絶対に見ることのできない観察者自身や鏡の裏側に生じる鏡像を上から俯瞰したような絵はどうして描けるのでしょう?これは幾何光学の結果を利用したものに他ならないのではありませんか?同様に「Type 2(光学反転)」についても、「Type ?(表象反転)」についても別個にイラストレーションがありますが、何れも幾何光学の結果を表現したものになっています。対掌体という表現を用いるとこれら3通りだけではなくすべての鏡映対の形状が対掌体という一つの言葉で表現できるのです。ですから対掌体に基づく理論では絵を描いたり、といったケースごとの具体的なイラストレーションは必要ないのです。これであらゆる鏡像問題の少なくとも前提となる部分については包括的な説明が実現されているわけです。(2017年4月26日 田中潤一)

鏡像の意味論その19 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(2)― 比較プロセスは思考プロセスであり、任意選択を含む

| 13:25 | 鏡像の意味論その19 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(2)― 比較プロセスは思考プロセスであり、任意選択を含むを含むブックマーク 鏡像の意味論その19 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(2)― 比較プロセスは思考プロセスであり、任意選択を含むのブックマークコメント

【今回の要点】

  1. 比較プロセスは思考プロセスであり、選択肢からの選択プロセスが含まれる。
  2. 回転、移動、逆転、反転、変形、変換などは比較を行なうための操作、手順であるか、差異の表現形式でもある。
  3. 鏡は、物体を光源とする光を反射することで鏡像の成立に寄与するが、それは鏡映対の一方だけであり、他方の成立には寄与していない。言い換えると鏡映対は互いに独立した光学系に基づいて独立して成立している。したがって鏡が他方の像を変形したり鏡像に変換することもその逆もない。
  4. 鏡は、光源にならない空虚な空間を反射したり空間に何らかの作用を及ぼしたりすることはあり得ない。当然、ある空間を別の空間に変換することもあり得ない。 したがって鏡の向こう側全体をこちらの空間とは異なる性質を持つ別空間と見ることに意味はなく、観察者にとっては同じ一つの視空間である。
  5. したがって鏡のこちら側と向こう側で異なる空間を表すために異なる座標系や座標の変換を考えることは無意味である。鏡映関係は個々の像の形状と位置についての関係であり空間の関係ではない。
  6. 鏡像は相手(直視像)と比較した場合にのみ鏡像としての特徴を示すのであり、両者間の差異は相対的である。

前回の考察で、鏡映反転のプロセスは鏡映対の成立プロセスと両者を比較するプロセスとの2つに分けて考える必要があることが明らかになりましたが、後者の比較プロセスは思考プロセスであることが最大の要点ともいえます。そしてこの思考プロセスには任意選択の要素が含まれるはずです。というのも、対掌体は任意の1つの方向で、つまりどのような1つの方向で形状が逆転しているともみられるので、事実上は無限の方向で逆転が認知される可能性があるわけです。


こう考えてくると郄野陽太郎先生の「光学反転」、すなわちTakano(1998)のType?の説明はこの点でもおかしいことに気付かれないでしょうか?光学的プロセスという物理的なプロセスでこのような思考が進行しているわけはありません。思考プロセスはあくまで観察者の心の中にあります。これはType?(視点反転)と同様、一種の擬人化と言えます(Type?では鏡像が実在人物であるかのような擬人化)。科学上の表現にも擬人化はつきもので避けられない場合あるいは局面もあるでしょうが、擬人化が一人歩きするようになるととんでもない地点にまで行き着く危うさがあります。


Type?の「反転」は、鏡の前で人物が肩の片方を鏡に向けている、つまり鏡面に対して横を向いているときに他の観察者が当の人物とその鏡像を見た場合に限定した説明です。この場合、両者の正面像に近い姿を同時に観察できるわけで、確かに左右逆転を認知する可能性が高いと思います。Takanao(1998)はその説明として光学的には鏡は鏡面に垂直な方向を逆転させる(これはGardner(1990)なども言っていることですが)ので、この場合は鏡の前の人物の左右方向が鏡面に垂直な方向なので、左右が逆転しているように見えるというわけです。


しかし「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」という表現は意味的に明確である、あるいは一意的であるとは言えないのではないでしょうか?。このような表現を行なっているGardner自身、鏡映の対は互いに対掌体であり、任意の1方向で特徴が逆転していると見ることができる旨を指摘しています。ですから鏡映反転の趣旨から言えば、光学的には鏡面に垂直な方向で形状が逆転していると見ることだけが正しくそれ以外は間違いであるとは言えないはずです。この例のような状況でも想像力の逞しい観察者が、鏡像または直接見る人物像のどちらかを上下軸を中心に180度回転させて(平行移動するだけではなく)両者を重ね合わせると、人物像の前後の逆転が観察される可能性を否定できません。

要するに、光学的プロセスが空間の特定の方向軸を逆転させるなどということはないのです。 きわめておおざっぱな比喩に過ぎないのです。実際のプロセスとしては鏡面対称(面対称)の図を描く場合の作図方法に過ぎないのです。すでに何度か述べてきたように思いますが、鏡は光線を反射しますが像を反射したり反転したりは絶対にしません。光は像ではないのです(英語ではどちらも「reflect」とい言いますが)。これについても言い換えると、鏡面対称を作図する場合は一方を鏡面に対して反転させて描きますが、現実の鏡映対は両者が独立した光学的プロセスで成立しているということですね。

高野説は、Gardner説などに含まれていた誤謬だけを徹底させた結果のような気がします。

ここでもう一度、Type?の説明に戻りますが、このような状況の場合、人はなぜ左右の逆転が認知されるような像の合せ方(回転方向)をするのだろうか?という方向に考察を進めてゆくべきでしょう。Type?の場合と同様に、左右の逆転を選択しがちであることは、Ittelson(1991)なども考察しているような左右軸の特殊性に着目することは自然な流れであるように思われます。せっかくのこの流れを押しとどめてしまってはつまりません。多幡達夫先生のTabata-Okuda(2000)やCorbalis(2000)の「左右軸の従属性」はこの流れの一つの帰結であるように思います。先般の日本認知学会に提出したテクニカルレポートはこの「左右軸の従属性」を再定義したといえる部分があります。ただし左右軸の特殊性だけにこだわることも一つの停滞であるように思います。左右のみならず上下・前後・左右、さらに知覚空間の一つである視空間全体にまで問題を拡張すべきです。実は、古くはE. Machがそういう知覚空間について述べているのですが、鏡像問題文献のほとんどが無視しているようです。著書の他の部分でマッハの功績を称えているGardner(1990)でさえ、これには言及していません。確かにマッハは視空間の性質と鏡像問題を結びつけることはなかったようですが、一方で鏡像の問題についても論じているし、対掌体に相当する概念で説明しています。少なくともカントよりも本格的に論じています。このこと(マッハを等閑視)自体、非常に興味深いことであると、私は考えています。(2017年5月5日、6日 田中潤一)

鏡像の意味論その19 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(2 - 続)― Gardner説の矛盾 ― 対掌体と鏡面対称の違い

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以下、前回にそのまま続きます。

【今回のキーポイント】

  • 鏡面対称と対掌体対とは明確に区別しなければならない

ところで、Gardnerの主張の矛盾は何に由来するのでしょうか。この矛盾はよく考えると非常に重要な問題であることに気付きました。まずこの矛盾を整理してみましょう。

次の三段論法が成り立ちます:

(1)鏡面対称の2つの立体は互いに対掌体である。

(2)対掌体の対は任意の1方向で互いに逆転していると見られる。

(3)故に鏡面対称の対は任意の1方向で互いに逆転していると見られる。

鏡面対称の図は「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させるので、鏡映対は鏡面に垂直な方向で逆転が認知される」という高野陽太郎先生の説:Takano(1998)のType?の根拠となっているものですが、「任意の1方向」と「鏡面に垂直な方向」は明らかに異なります。実際、可能性としては鏡面に垂直な1方向以外のいかなる方向でも逆転が認知される可能性はあるはずです。やはり「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」という表現と主張におかしいところがあるのではないでしょうか?

上記の三段論法の帰結である「任意の1方向で互いに逆転していると見られる」が光学プロセスの帰結であるとすれば、「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」も間違いとは言えないように見えます。しかし、後者の表現では、鏡面に垂直な方向以外の任意の方向で逆転しているとも見られる可能性が覆い隠されているとは言えないでしょうか?

実は、Gardner(1990)は「数学的に意味では、鏡は上下と左右はそのままで前後軸だけを逆転している」と述べています。つまり数学的な鏡映(reflection、mirror operation)、すなわち幾何学的な鏡面対称のことを言っているようです。

見方をかえると、鏡面対称の状態であるということは、鏡映対が互いに対掌体であるという条件に加えて鏡面対称であるという両者の位置関係の状態が付加されているということができます。この位置関係というのは表現が難しいですが、両者の「特定の方向軸が鏡面に垂直な方向で互いに逆転している」というように表現できると思います。この方向軸という概念が座標系の座標軸と紛らわしいのですが、少なくとも数値座標を表すものではない限り座標軸と呼ぶ必要はないし、座標系を想定する必要もないと考えるものです。単に方向を示す軸と考えていただきたいのですが、この「特定の方向軸が鏡面に垂直な方向で互いに逆転している」という場合、鏡面の両側の各像が互いに鏡面に対して垂直に特定の方向軸で逆転しているといえます。実はこの問題を述べたのが本シリーズ「鏡像の意味論 ― その6」で、イラストを使って説明していることなのです。

結論は、鏡面対称の状態は、対掌体の対が互いに特定の方向軸で逆転している、すなわち向かい合っている、あるいは対面状態にあるということです。対掌体の対はそれだけでは互いの位置関係については何も規定されていません。例えば自分の左手の上に右手を重ねたような状態は鏡映関係ではあり得ないのですが互いに対掌体の形状であることに違いはありません。ですから対が互いに対掌体であることと特定の方向で向かい合っているという鏡面対称の状態であることは全く異なる意味、あるいは条件ということができます。対掌体の対が特定の方向軸で互いに向き合っている場合、本来どの1軸で(方向)形状が逆転しているとも見なせるわけですから、当然この方向での逆転が認知されて不思議はありません。特定の方向軸の逆転という意味では、このような状態は鏡像が存在しなくても日常的に無数にあるのです。早い話が、二人の人物が互いに向かい合っている状態がこの状態そのものです。Takano(1998)のType 3に似た例でいえば、横並びの人物像の一方のが鏡像ではなく別人が後ろを向いていたり、こちらを向いていても逆立ちをしていたりした場合、両者の左右は逆転しているので左右が逆転していると言えます。つまりType 3で左右が逆転して見えるプロセスは鏡像であるかないかとは関係のないプロセスなのです。確かに一方の人物像が他方の人物像と同じ上下と前後を向きながら左右が逆転しているのは一方が他方の鏡像であるからですが、この場合一方が他方の鏡像であることが分からなければ、両者で左右の逆転に気付くこともありません。鏡像であることが認知されれば、なぜ鏡像ではこうなるのか?という疑問が当然出てくるはずです。

以上のように、Takano(1998)のType 3の「光学反転」もType 1およびType 2の場合と同様、鏡像の問題を事実上放棄したにも等しいといえるのではないでしょうか。

余談になりますが、このように鏡面対称と対掌体は区別すべきで、紛らわしい使用法は避けた方が良いのではないかと思います。例えば化学では鏡像異性体というような用語がありますが、こういう用語はあまり適切ではないのではないでしょうか?


【5月11日補足】

Takano(1998)のType 3の「光学反転」が誤りであるというのは、表現の形式でいえば、「光学反転」説はこの場合の逆転の認知が光学的な原理によるものとし、他の場合と区別している点です。

つまり、光学的には、鏡面対称の対は互いに対掌体であると同時に、特定の軸方向が鏡面に垂直な方向で向き合っています。Type 3の場合はこの軸方向が左右軸である場合ですが、この場合は鏡面に垂直な方向軸が左右軸と一致しているので左右の軸が逆転して見えるというわけなのです。この鏡面に対して垂直な軸が左右軸であるというのは光学的なプロセスとは関係のない条件であって、むしろ2つの像を比較する際の条件であって、比較プロセスに属すことです。したがって、この場合もすでに明らかになっているように、光学プロセスと比較プロセス(心理的で思考を含む)の両者が関係しているということです。補足前の記事ではこの点が明確でなかったように思います。

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2017-03-29

前回記事「鏡像の意味論その15」では「今回でひとまず一段落となりそうです」と書いてしまいましたが、ブログ『意味の周辺』と同様、「その16」を公開します。内容は27日の『意味の周辺』記事に多少の編集と追記を行ったものです。

鏡像の意味論その16 ― 像、光、および物体の三者を区別すべきこと

17:47 | 鏡像の意味論その16 ― 像、光、および物体の三者を区別すべきことを含むブックマーク 鏡像の意味論その16 ― 像、光、および物体の三者を区別すべきことのブックマークコメント

前回記事では「Haig説、Morris説、および高野説を併せて批判する」という副題を掲げていましたが、Morris説についてはTakano(1998)中の引用との関連で言及した限りで批判したまでで、そこで全体としてのMorris説について批判にはなっていませんでした。ただこれまで読込んだ限りで感じることは、既存の諸説についてOptical explanateion、Explanation based on symmetry、Physical rotation、Mental rotation、などと命名しているのですが、こういう命名がそれぞれの説をどこまで的確に表現しているか、あるいはこういう名称がその後に一人歩きして他人の研究に影響を与えすることで混乱が生じていないか、少々危ういものを感じます。特に「Symmetry(対称性)に基づいた説明」を単に「Symmetry」という単語だけで見出しとして使用していることは非常に問題だと思います。

さて、前回記事と前々回記事ではHaig説における2通りの説明のうち最初の説明を私が高く評価していることがご理解いただけると思います。だからこそ、Haig説を「たらいの中の赤ん坊」に喩え、赤ん坊を流してしまったMorris説と高野説を批判したわけです。というのも、この説明では鏡映反転において比較される対象は何(何と何)かという、本質的でありながら意外と忘れられがちな問題が期せずして示されているからです。今回もまた同じ図を転載します:

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この図では鏡像が表現されていません。それというのもHaig氏は光線という物理的な存在だけで説明しようとしているからですが、同じような状況で鏡像を表現した図を私が作成したことがあり、次にその図を掲げます:

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この図ではHaig(1993)の点Eに相当するのが(A)で、Eの共役点Fに相当するのが(A2)です。

さて、鏡像問題のテーマそのものである「Reversal」、「逆転」、「反転」、「変換」などが論じられる際に、鏡像はいったい何に対して逆転しているのかを規定せざるを得ないはずですが、それがどうも自明と言うわけには行きません。初期の論文であるPears(1952)には「Counterpart」と表現されています。確かにそうですが、これでは何のことか分かりません。大抵の著述では「Object」あるいは日本語の場合「実物」と表現されることが多いようです。

「実物」と表現されることは一見、自明のように見えますが、本当に自明といえるでしょうか?自己鏡像の場合は言葉の上から当然、「自分自身」ということになり、多くの著者はそのように表現しています。しかし、肩から下の自分自身で見える部分は別として、自分自身では絶対に直接見ることのできない顔や頭部について、どうして逆転が観察できるのでしょうか?

他者鏡像の場合は確かに鏡像と同様に他者そのものを直接眺めることができ、場合によっては同一視野の中で同時に見比べることもできます。しかし幾何光学が明らかにしているところによれば、鏡像はその他者の表面から発散する光線が鏡に反射することで観察者の眼に見えるのであり、光線を眼で受け止めることによって見ているという点で、鏡を介さずに見る場合と全く同じです。つまり、他者から出る光線がいわば二手に分かれて違う方向から観察者の眼に到達することで2つの像を見ているのであり、その人物自身を見ているという点で両者に違いはありません。したがって、鏡映反転における「逆転」は「鏡像と実物(物体自体、本人自身)」との関係であるとは言えないのです。

以上のように、逆転は鏡像と、いわば直視像との2つの像を比較した上で観察されるものであり、一方が他方に「Transform」あるいは「変換」されたなどと考えることは誤った結論に導かれる原因になりかねません。

鏡像と対になる、あるいは比較される対象が「実物(物自体)」ではなく「直視像」とでも言うべき「像」であるといえる根拠は他にいくつも挙げることができます。例えば:

◆ 鏡像も直視像も照明光の存在で生じるものであるのに対し、物自体は常に存在している

◆ 色や平面パターンは眼で観察することで始めて認知されるものである。つまり物自体ではなく像に生じる属性である

◆ 物の形状は幾何学的な計測で把握し、表現できるとしても、結局のところすべては感覚に基づいているのであり、そのようなデータも結局のところ「像」と言うほかはない

今は思いつかないものの他にも根拠はいくつも挙げられるように思います。


最後に、鏡映の関係が何と何との関係であるかを明らかにすることは鏡像問題の根本であり、これを曖昧にしたり取り違えたままでは鏡像問題になりません。高野説は、文字の鏡映反転認知は文字の記憶と比較することで生じるとしています。このプロセスはレオナルド・ダ・ヴィンチが使ったと言われる左右が逆になった文字列、いわゆる鏡文字あるいは反転文字が通常の文字とは逆転していることに気付くプロセスと何も変わりません。ただ逆転に気付くというだけの話であって、こうなればもう鏡像問題そのものを放棄したに等しいといえます。

 (以上、2017年3月29日 田中潤一)

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2017-03-18

昨日に引き続き、3月15日にブログ『意味の周辺』で公開した「鏡像の意味論その15」を転載します。なお、今回の記事と関係がありますが、昨日公開済みの「その13」の一部を訂正して更新しています。

鏡像の意味論シリーズは今回でひとまず一段落となりそうです。これまでのこのシリーズは従来の考え方を要素的に分析あるいは掘り下げるといった内容でした。すでにお知らせしていますが、日本認知科学会に提出済みの2つのテクニカルレポートでは従来になかった新しい視点で従来のさまざまな方法論と視点を包括できたものと考えていますので、お読み頂ければ幸いです: 鏡像を含む視空間の認知構造と鏡像問題の基礎

鏡像の意味論その15 ― (光学的)虚像について ― Haig説、Morris説、および高野説を併せて批判する

17:16 | 鏡像の意味論その15 ― (光学的)虚像について ― Haig説、Morris説、および高野説を併せて批判するを含むブックマーク 鏡像の意味論その15 ― (光学的)虚像について ― Haig説、Morris説、および高野説を併せて批判するのブックマークコメント

鏡像の「像」、英語ではMirror Imageの「Image」とは何でしょうか?


幸いなことに、語源についてはいざ知らず、日本語の像と英語のimageはだいたい同じ意味で(専門用語としても一般用語としても)使われているようです。 ただ日本語の「像」は漢字の熟語として使われる意外には単独ではあまり使われず、かわりに「イメージ」が使われることが多いですね。


「像」も「イメージ」も実に多様な意味で使われています。そういったわけで像とは何かという議論になるとあまりにも多岐にわたる議論になって、とても収拾がつかなくなるでしょうし、鏡像問題の枠を超えてしまいます。ただし、鏡像問題で重要な要素である光学あるいは幾何光学的に定義される「像」については、明確にして理解しておく必要があります。というのも、そもそも鏡像が光の存在下で生じていることはまあ、光学の知識などを知らなくても普通の人なら理解しているとはいえますが、なぜ実際に鏡で見ているように見えるのかということは、光学の知識なしでは絶対に理解できないからです。本当は眼のしくみについても理解しなければならないはずですが、それは当面ブラックボックスに入れておくとしても、光の直進と反射の理屈を知る必要があります。


鏡映反転の謎はプラトンを悩ませたと言われています。プラトンのような超天才でも鏡映反転の謎が解けなかった理由の少なくとも一つは、プラトンの時代には幾何光学が成立していなかったためでしょう。プラトン幾何学者ではあったけれども幾何光学はまだ存在もしていなかったというわけですね。しかしプラトンは当時のあり合わせの知識で安易な説明を付けて満足するようなことはしなかったわけで、これは逆にプラトンが真の科学者でもあったことを示すものだと思います。


ということで、鏡映反転の問題がまともに議論されるようになったのは光学の、少なくとも光の直進と反射の法則が明らかになった後、つまりヨーロッパルネッサンス時代以降のことになるのではないでしょうか。 たとえば哲学者のカント。


数学者科学者でもあったカントが鏡映反転の問題を考えたと言われています。これは私見ですが、カントはどうも鏡映反転の問題を考えているうちに、いつしかもっと抽象的な空間の問題に移行してしまい、具体的な鏡映反転の問題を置き去りにしてしまったように思います。というのは鏡映反転の問題からもっと抽象的な空間の問題に移行することで、後の学者などによって幾何学的な対掌体の概念がやがて明らかになってくるからです。ここではこういう歴史的な問題は余談ということにしておきます。(注:私はプロレゴ−メナの日本語訳しかカントの著作は知らないので、上記カントの考察について考えたことは、プロレゴ−メナから読み取れる限りのことです。)


さて、以上のような次第で幾何光学の基礎、少なくとも幾何光学における像の定義を知らずに鏡映反転のメカニズムを考察することは現代では無意味であることが分かります。


とは言え、幾何光学で「像」の概念が完璧に定義されているかといえば、必ずしもそうはいえず、「像」の本質を問うような議論はあまりされていないのではないでしょうか? ただし、幾何光学(この場合は結像光学という分野もあるようですが)で取り扱われる限りの実像と虚像の定義、少なくともそれらの像が成立する位置や大きさなどは厳密に定義されているはずで、それらを正しく扱わない限り、幾何光学を論じること自体が無意味です。


日本人の場合、少なくとも高校までに幾何光学の基礎、光の直進と反射の理論については習っているのではないでしょうか?例え習っただけで十分に理解していないとしても、 少なくとも専門家には鏡像成立のメカニズムが理解されていることを納得しているので、鏡を見ても不思議に思わず、安心していられるのではないでしょうか。光の反射による鏡映のメカニズムが知られるまでは、鏡の作用は日本でも神秘現象だったのです。もっとも何らかの自然現象であるらしいことは経験的に分かっていたでしょうし、多分、江戸時代くらいにもなれば、殆どの場合は特別な神秘現象ではないらしいという程度のことも経験的には感づいていたとは思いますが。とは言え、鏡や水面の向こう側にこちら側の景色が映って見えること自体は謎であり、不思議なことだったのです。幾何光学によって少なくとも大幅にこの謎が解明されたわけですから、幾何光学の理論を無視したり、理解せずに鏡映反転の謎を解くことは無謀であり、知的後退と言わざるをえません。


ただ、現在の科学は数多くの専門分野にわかれており、例えば小林秀雄もどこかで、「科学者も自分の専門分野以外のことでは素人と変わらない」と書いていたように記憶しています。 それは全くそのとおりでしょう。前回に考察したHaig氏の説明を見ても、Haig氏は心理学者を、「光学を知らない」ということで批判していますが、当のHaig氏は光という物理的な存在について考察しているだけで、「像」という物理的ではない存在については非常に無理解のままです。一方の高野先生は幾何光学の基本的な概念を理解していません。これについてはHaig氏の心理学者に対する批判がそのまま該当するのかも知れません。


そうはいっても、科学が多くの専門分野に分かれているとはいえ、心理学は感覚や知覚の問題を扱わざるを得ないのであって、生理学を通じて物理化学と不可分とも言えるのではないでしょうか。だからこそ、マッハのような物理学者が心理学の発展に貢献しているのではないのでしょうか? ですから、少なくとも知覚心理学のような分野で、特に視覚に関連する分野で幾何光学を正しく、少なくとも必要な範囲で、理解していないことは致命的な結果をもたらすと言わざるを得ません。


そこで前回の続きですが、ここでもう一度Haig論文の図を次に引用します。

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前回は私の考えによるHaig説の批判でした。その際、特に必要はなかったのでHaig説の具体的で詳細な説明はしませんでしたが、今回、高野先生によるHaig説批判を検討するに当たってはそうも行かないので、まず簡単にHaig説の主張そのものを要約しておきます。なお、以下の数節は今回のテーマ「虚像について」とは必ずしも関係なく、また煩雑なので、青色文字にしてあります。適当に飛ばしてお読みください。


Haig説では次の2つの異なる方法(どちらも上図に基づいていますが)で鏡映の左右逆転を説明しています。ただし基本的な原因が光の反射の法則にあるとする点が両者に共通しています(Morris氏や高野先生などはこれを「光学仮説」と呼んでいます。要するに幾何光学に基づく説明のことです):


(1)上図で顔(face、右側の四角形)から出る光を鏡(mirror、左側の四角形)で反射させてEの位置で見た像を、Fの位置(conjugate point、共役点)で直接見た像と比較すると、上下(AC)は逆にならないが、左右(BD)は逆になる


(2)上図で(a)のように入射光の作る面(APQC)と反射光の作る面(PQE)が重ならない方向(Tangential)の場合は方向が逆転しないのに対して(b)のように、入射光の作る面(STBD)と反射光が作る面(STE)が重なる(同一面)場合には方向が逆転して見える


以上の(1)と(2)の二通りの説明をしているわけですが、高野先生はまずMorris(1993)を引用して?を否定しています。その根拠は、Eの位置で鏡像を見ている人がFの位置に歩いて移動して直接(鏡を透過させるか鏡を取り除いて)顔を見た場合を鏡像と比較すると確かに左右だけが逆転するが、歩いて移動せずに上から飛び込むように、つまり逆立ちした状態でFの位置まで移動した場合は左右ではなく上下が逆転するではないか?だからHaig説は間違いである、と言うものです。

端的に言ってこのMorris(1993)による批判は間違っています。確かに観察者が上から飛び込むように、つまり逆立ちした状態でEからFに移動したとすれば左右ではなく上下で逆転しますが、だからといって、普通に歩いてEからFに移動した場合に左右が逆転することまでを否定することにはなりません。何れの場合も上下か左右のどちらかで逆転しています。要するにMorris(1993)の説明はHaig説に条件を付けているだけであって、これでHaig説のすべてを全面的に否定することはできないのです。前回記事で私が説明したように、対象が平面であって「鏡映で左右が逆転するのはなぜか?」という問いかけに対する回答である限り、Haig説(上記?の説明)が間違いであるとは言えないのです。

次にTakano(1998)では上記?の説明を、次のように否定しています。「 If his explanation were correct, an up-down reversal would be observed by the eye located on the elongation of AC in Figure I A because the optical layout becomes essentially identical to that in Figure I B, producing what Haig called a "sagittal view" (pp. 864865).」

これは正当な批判であると考えられます。確かにACの延長線上、例えばCの下方で鏡を見た場合は上下方向をHaig(1993)のいう「Sagittal」面で見ているのにも関わらず上下が逆転して見えることにはなりません。この点でHaig説は誤りです。ただし、この説明が誤りであるからといって?の説明までを否定できるわけではありません。(1)の説明と(2)の説明は、両者が光反射の法則に基づいている点で共通していますが、一方が否定されたら他方も否定されるという関係ではありません。(1)の説明が、例え条件付きであっても有効である以上、「光学仮説」を全体として否定することはできないのです。Morris(1993)とTakanao(1998)によるHaig説の否定は、よく使われる喩えを使えば、たらいのお湯と共に赤ん坊までを流し去ってしまうことだと思います。


Haig説の問題は、「Sagittal」という用語の用い方にもあるようです。手元にあった2つの理化学事典岩波理化学事典と研究社理化学和英辞典)で調べてみましたが、光学にはSagittal plane、Sagittal rayなどの専門用語があるものの、「回点対称な結像系」で定義される用語だそうです。つまり凸レンズなどによる実像についてのみ、意味を持つ用語ではないかと思います。鏡像は虚像であるし、文字通り鏡面対称であって回転対称な結像系ではなく、光学用語としての「Sagittal」にはあまり意味がないと考えるのですがどうでしょうか。

前回の記事で私は「Sagittal」を解剖学用語として理解したのですが、確かに光学、具体的には結像光学でこの用語が使われているようです。しかし鏡像の問題では結像光学で使われるこの用語と概念に意味はないことになります。ただし、この用語「Sagittal」を解剖学の用語と意味で解釈すると鏡像問題において重要な意味を与えることができます。(解剖学用語としてのSagittalについては、インターネットで画像検索すればすぐに分かります)。

というのは、解剖学用語としての「Sagittal」は人間の上下・前後・左右に関わる用語であるからです。上記Morris(1993)の批判に見られるように、観察者の姿勢と向きは鏡映反転において重要な意味を持っています。ところがHaig説では観察者を含めてすべて1つの点でしか表現されていないのです。そこにSagittalという解剖学にある用語が入ってきたので、私はその前後をきちんと読まずに、ここに観察者の姿勢と方向の要因が加えられているのかなと考えた次第なのです。しかし光学的な定義ではSagittalにさしたる意味はなさそうです。

もしかすると、Haig説では観察者、つまりEで示される眼を持つ観察者の上下・前後・左右の三つの軸の一つである前後軸が、光学でいうSagittal planeという概念にすり替えられているのではないかと思われるのです。上図には観察者は眼の位置だけで表現されています。しかし、観察者が正立して鏡面に向かっていることは暗黙の中に了解されています。Eの位置にいる観察者がFの位置に移動するとすれば、観察者の前後軸と左右軸は逆転しますが、上下軸は逆転しません。長くなるのでこの問題についてはこれまでとします。



以上はHaig説の問題点あるいは誤りと言えますが、今回のテーマである虚像に関連する問題として高野説には上記引用の後の2つの節で重要な誤りが見つかります。引用すると長くなるので省略しますが、次の節とその次の節では、鏡像を、鏡面上に生じた平面パターンのことであると認識した上で議論が展開されています。現に、Haig(1993)からの引用された上図に高野先生が追加された説明には、「The mirror image, PQ, of the vertical line segment,」と書かれていますが、PQをmirror imageというのは明らかな誤りで、幾何光学の定義に反しています。PQは、鏡像でも鏡像中の線分でもありません。前回の記事で私が述べたように、この図には鏡像は表現されていません。この部分を分析してみようと思いましたが、これらの節では「Optical layout」という定義されない曖昧な表現がキーワードのように使われているので、分析するのは非常に難しいです。ただ、この用語が幾何光学で定義されている虚像(この場合は鏡像)を意味しているように受取ることができます。とすれば、高野先生はここで鏡像の二重定義を行っていることになります。これは高野説のその後の展開の基礎になっていますので、この辺の論理を明確にしておくことは重要だと思います。高野先生は鏡像が平面であるという理由で鏡像が相手の対掌体であることを否定しておられますが、幾何光学で定義される鏡像は平面パターンではなく、鏡の表面に生じるものでもないのです。


まず、この文脈で言えばOptical layoutという表現で何を意味しているのかを具体的に、明確にする必要があります。Layoutの本来の意味からは外れますが、上図のような幾何光学の光路図を指しているのでしょうか?その場合は場合によっては具体的にどの図のどの部分であるかを示す必要もあります。あるいは新たに図を作成する必要があるかも知れません。


ここでは、私は専門家でもないので詳しく説明しませんが、幾何光学では鏡像を含めて虚像について厳密にその位置と大きさ、また方向もきちんと定義されています。それらの定義に反する説明は現在の幾何光学の大系そのものを否定することになり、否定するのであればその根拠を示す必要があります。


とはいえ、幾何光学で厳密に定義される虚像というのは、最初の方でも述べましたが、位置とか大きさとか、要するに技術的な展開が可能な範囲でしか定義されず、像そのものについて何ら明確な定義はおこなわれていないように思います。そもそも簡単に辞書的な「定義」で済ませることは不可能な問題であるのかも知れません。しかしそれこそが心理学者、認知科学者、あるいは認識論学者の仕事であり、使命なのではないでしょうか?


虚像について考えることは像そのものについて考える上で最上の手がかりです。



今回の引用参考文献:

Nigel D Haig, 1993 "Reflections on inversion and reversion" Perception1993, volume 22, pages 863-868


Reg C Morris, 1993 "Mirror image reversal: Is what we see what we

present?" Perception, 1993, volume 22, pages 869-876


Yohtaro Takano, 1998 "Why does a mirror image look left-right reversed?

A hypothesis of multiple processes" Psychonomic Bulletin & Review 1998,5 (1), 37-55


以上(2017年3月15日 田中潤一)

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2017-03-17

前回、先にブログ『意味の周辺』に掲載した「鏡像の意味論その12」を多少編集して掲載しましたが、その後同じ「その12」として2つの記事と捕捉を追加していますので、今回また多少編集した上で「その13」および「その14」として併せてこちらに転載します。またその後「その15」も公開していますので、引き続き「その15」もこちらに転載する予定です。

鏡像の意味論その13 − 鏡像の意味論その12、平面パターンと文字の鏡映反転について ― Haig氏の理論に関連して

| 15:22 | 鏡像の意味論その13 − 鏡像の意味論その12、平面パターンと文字の鏡映反転について ― Haig氏の理論に関連してを含むブックマーク 鏡像の意味論その13 − 鏡像の意味論その12、平面パターンと文字の鏡映反転について ― Haig氏の理論に関連してのブックマークコメント

【今回のキーポイント】

● 光(光線)は物理的な存在であるのに対して、像(イメージ)は物理的な存在ではない。像は知覚される内容(あるいは意味)である。

● 人は記憶力で像を記憶したり、想像力と思考力で像を動かしたり、回転したり、あるいは見えない部分を補うこともできる。ただし、これらについては相当な個人差がある。

● 鏡は光を反射するのであって、像を反射したり変換したりといったことはできない。

● ヒトが眼(網膜)を通して見るのは像であって、光ではない。

さて前回、「次回は鏡映反転において対掌体の性質が持つ意義について考えてみたい」と書きましたが、今回はそれとの関連で、前回の最後の話題になった平面パターンと文字の場合に焦点を合わせる方向で、考察してみたいと思います。

少々横道にそれますが、私自身が鏡像の問題でこのシリーズのような記事を書いたり論文を公表したりしていますが、正直なところ今でも他の人が書いた鏡像問題の論文や記事を読むのは苦手で気が重く、英文であっても日本語であっても相当に苦労します。最初の頃、多幡先生から認知科学誌の論文集(日本語)をお送りいただいた時も最初はあまりにも読みづらいために、1年間ほどそのまま放置していたのです。その時点では自分で論文を書いて発表し、諸先生方と議論したいなどとは思っても見ませんでした。

しかし当時、ちょうどカッシーラーという哲学者の書いた『シンボル形式の哲学』を遅々としながら1日あたり数ページといった調子で読んでいたのです。特に素養もないのに何故その時期にのような哲学書を読もうと思ったのかという話になると、この記事を終えることができなくなるので止めますが、翻訳者木田元氏による解説で、この書が「20世紀哲学の最大の成果であると考える」、と書かれていたことにも鼓舞されて、私にはあまりないことなのですが、最後まで一通り読むことは読んだのです。

全体としてどれほど理解できたかは心許ないものの、なぜか『第二巻 神話的思考』で、幾何学空間と知覚空間という二つの空間が比較されている個所を読んだときには最初から非常な、衝撃ともいえるほどの感銘を受けたのです。それが鏡像問題と関係がありそうに思えたことについてはこのブログでも書いたのですが、これが心理学や認知科学方面の先生方の目にとまった様子もなく、自分で展開してゆくほかはないな、と思うようになったという次第ということになりますか。

そんなわけで、他の人の論文を読むのは今でも本当に難しいと思います。その理由などを考え始めるとまた横道にそれるので、以下、論題について端的に進めたいと思います。

前回、文字の鏡映反転の問題で検討した高野陽太郎先生の、米国心理学会のPsychonomic bulletinに掲載されているTakanao(1998)を再読し始めたところ、最初の方で図1としてHaig(1993)から転用された図が用いられています。この図によるHaig氏の理論に対する批判が述べられているのですが、Haig 理論に問題があることには同意できるものの、高野先生はHaig 理論とこの図を正しく理解していないのではないかと思われたので、Haig 論文そのものを見なければならないことになりました。幸いなことに、ちょうど昨年末に、また多幡先生がHaig 論文を含むいくつかの外国の論文を送ってくださっていたのです。以下にHaig 論文から問題の図を引用してみます。この図について著者の説明を最初から紹介すると煩雑になるのでやめますが、とりあえず「mirror」と「face」で鏡と顔が表され、EとFで視点、つまり眼が表現されています。

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Haig(Perception, 1993、Volume 22, pages 863-868)から引用

この図に対するTakano(1998)に見られるコメントについては後に触れますが、とりあえずこの図によるHaig氏の説明には、図を見るだけで、少なくとも3つの、興味深くはありますが、致命的な欠陥があることが指摘できます。それは:

1) 複雑な人体の一部で凹凸のあるべき人の顔が真っ平らな平面で表現されていること

2) 画像であると仮定したとしても、人の顔が四角形でしか表現されず、 上下と左右を表す基準が何も示されていないこと

3) 形状の逆転(鏡映反転)の根拠が光線の方向のみで説明され、像(Image)で説明されていないこと。

【1(顔が真っ平らな平面で表現されていること)について】

上下・前後・左右が問題になっている鏡映反転の問題で、人様の顔を平面で表現するなど、妖怪漫画のお化けではないのだから、乱暴というか、暴論というより他はありませんね。その結果、一切の前後方向の要素が欠落することになってしまいました。

【2(上下と左右を示す基準が表現されていないこと)について】

著者はこの図で上下と左右および前後を定義していますが、本来上下・前後・左右は空間についても個物についても任意に、勝手に定義できるものではありません。具体的なヒトやモノ、空間を離れた抽象的な上下・前後・左右はありません。著者は本文中では解剖学の用語を使って、結果的には、上下・前後・左右の根拠になっています。しかし、この図を元に説明している以上、図にその根拠を表現する義務があります。仮に上下と左右を認めるとしても、このような二次元の平面では前後を表現しようがありません。仮に正面を向いた顔の絵が描かれているとしても、後ろから見ると後頭部が見えるわけではなく、同じ顔の絵を裏から見た像が見えるはずです。

一方、著者はこの図によって左右の逆転は物理光学的に説明できるとしていますが、本文中で解剖学用語(sagittal、矢状)と概念を使用しています。これでは単に物理光学的な論証とは言えないと思います。

【3(鏡映反転が像ではなく光線の方向で説明されていること)について】

人が見るのは像であって、光あるいは光線ではありません。物理的な物体を見るには光で照明を当てる必要があります。光に光の照明を当てられるでしょうか?

もっとも、光そのものではなく光源を見ているとは言えます。それは眼の網膜に投影された光源のパターンが元になって網膜像が成立しているからですが、網膜上の光源のパターンと網膜像はまた別ものです。詳しい専門的な用語は調べていませんが、私の定義では網膜像は網膜パターンを元にその人物が認知する像のことと考えています。この、現実に認知する像が立体であることは自明であると言っても良いと思います。現に私たちが周囲の人や物や環境を立体として認知しているわけですから。このような現実の視空間の像が網膜パターンからどのように認知されるかは解明されていませんが、Haig氏が「The question of how mirror-reflected objects are perceived remains, of course, a psychological one」と言っているのは恐らくこのことでしょう。脳科学で研究されていると言われますが、おそらく科学的には永久に解明できないのではないでしょうか?

いずれにしてもHaig説のように光線の方向あるいは位置で説明する限り、網膜パターンという平面に対応させざるを得ないので、Haig氏は顔をも平面で表現せざるを得なかったのではないかと考えられます。

これは別の面からも言えます。仮に図の四角い「face(ABCD)」に凹凸(前後方向)が表現されていたとしましょう。例えばface平面に直交する線上でf「face(ABCD)」の前と後ろに1つずつ点があったとします。図に書いていないので分かりにくいかも知れませんが、この2点から眼に到達する2つの光線の方向の違いによって遠近、つまり前後が表現できるでしょうか?結局それらは左右の差となって表現される他はありません。言い換えると「前後方向の差は左右の差に変換される」ということで、物理的なの光線の作図による限り、顔の前後方向は表現され得ないわけです。しかしヒトそのものや顔面に限らず鏡に映すあらゆるモノが立体ではないということはあり得ないので、このような方法では現実を正しく表現し得ないということが分かります。Haig氏は「鏡は実際には鏡に向かう人物の前後軸を逆転している」というGardner説を否定していますが、そもそも前後軸を消去してしまうような方法論と図を用いているわけで、これは完全な誤りであることが分かります。

一言で言えば「光と像は全く異なるものであり、鏡像問題の対象は光ではなく像である」ということです。

では像とは何でしょうか?また像と光の違いは何でしょうか?今はこのような議論を始めてもまた収拾がつかなくなるので止めます。ただ、物体をを直接見る場合と、鏡像として見る場合の何れの場合も、次の2点は確実に言えると思います。

1)光は物理的な存在であるのに対して、像は知覚される内容(あるいは意味)であり、物理的な存在ではない。

2)人は記憶力で像を記憶したり、想像力と思考力で像を動かしたり、回転したり、あるいは見えない部分を補うこともできる。ただし、これについては相当な個人差があることは確かです。

ここではHaig(1993)説自体については説明していませんが、それでも上の図を元にしていることだけで、それが行き過ぎた単純化による暴論であることがわかります。しかし上記の3つの問題をを指摘できたことは、この図が鏡像問題の本質を叩き出すいわばたたき台としてきわめて興味深いと思うのです。同時に、この図によるHaig氏の説明に優れた、正当な部分があることも認めざるを得ないのです。

まず、三つの問題点のうちで(1)に付いて言えば、この説明が正しいとしてもそれは平面パターンにについてしか適用されないとことが明らかで、当面これ以上の説明は必要がありません。そこで残りの(2)と(3)について、このような誤りがその後の考察にどのように影響しているかを考えてみたいと思います。

今述べたように、この図には1つ以上の優れた点あるいはメリットがあります。その1つは光の経路という物理的な存在のみを表現し、鏡像という非物理的存在を描いていないことです(この点を理解せずに批判する人もありますが)。具体的に言うと、Haig氏はEの位置(眼の位置)で顔(ABCD)を鏡で反射させて見た場合の像と、Fの位置で鏡を透明とみなして顔(ABCD)を直接見た場合の像を比較しているので、鏡像も直接見た像も描いていません。強いて言えばどちらの像も顔(ABCD)そのもので表し、顔(ABCD)を正面から見た場合がFの位置で見た像に近く、おなじ顔(ABCD)を裏側から見た場合がEの位置から見た鏡像に近いと言えるでしょう。この表現は私の考え方、つまり、鏡映の関係とは実物と鏡像との二者関係ではなく、実物を直接見た場合の像と、同じ実物を鏡に反射させてみた像との二者関係であるという考え方を示す点では適切であると考えます。鏡映反転を表現する図では、よく上から俯瞰した鏡像を描きますが、それは虚像といわれるように、鏡を見る本人以外に外部から客観的に見えるはずがありません。(もう1つの優れた点は観察者自身の視点ではなく他人の視点で考察していることですが、これについては今回は触れません)

とはいえ、鏡を見る人(E)が実際に眼をとおして見るのは先にも触れたように、光でも光線でもなく、像(イメージ)なのであり、 図をもとに説明する以上は像を表現する必要があると思います。結果的に、この図では光線のみが表現されているので、像を見る人が正立している場合には必ず左右で鏡映反転が生じることになり、人が横向き、つまり寝そべった状態で見ている場合は必ず上下逆転というように確定してしまいます。

これは、像が平面パターンである限り、「鏡像は左右が逆転するのはなぜか?」という問いかけに対する解答としては間違ってはいないし、一つの正解であるとも言えます。文字の場合もこれに該当します。ちなみに、文字の場合は平面であると同時に、形状が著しく単純であったり、逆に複雑であったりするために、左右を逆転させたり回転させたりしても同じ形状になったり、逆に全く別の形して認識され、全く読めなくなったりするという特徴が指摘できると思います。文字の特徴としてよく指摘されることで、上下と左右が定められていることは別に文字に限ったことではないし、また洋書背表紙のように横向きに表示される場合もあります。

ところが、鏡像問題は「左右が逆転するのはなぜか」という問いかけに限られないことはすでにはっきりしています。上下や前後が逆転して認識されることについてはすでに多くの指摘があるとおりです。これは像が物理的存在ではないことに関係していると言えるでしょう。

先に述べたとおり、像(イメージ)は物理的な存在ではないので、それを記憶したり、想像力と思考力を駆使して位置を移送させたり回転させたりといった操作ができます。これは当然、その場のさまざまな条件と見る人の個性や能力にも影響されることです。自分自身が動くことを想像するとしても結局は相対的な問題なので同じことです(「回転仮説」だとか「回り込み」だとか色々と回りくどい表現がなされていますが)。ですから平面パターンの場合でも、普通は左右の逆転と見られる場合にも、想像力をたくましく働かせれば上下の逆転とみることも可能なわけです。

このような鏡映反転の問題を、平面パターンだけではなくあらゆる場合を含めて包括的に説明するのが対掌体の概念であり、また等方的な幾何学空間と異方的な知覚空間の概念であると言える、ということです。

今回はHaig先生のhaig(1993)を分析することで、結果として平面パターンの鏡映反転について考えてみました。次回はhaig(1993)に対する高野先生のコメントを契機に、高野先生のTakano(2008)を再び検討することで、虚像の問題、鏡像は虚像であることの意味を考えてみたいと思います。

鏡像の意味論その13およびその14 − 前回記事(鏡像の意味論その13)の捕捉(変換という言葉の危うさ)

| 15:22 | 鏡像の意味論その13およびその14 − 前回記事(鏡像の意味論その13)の捕捉(変換という言葉の危うさ)を含むブックマーク 鏡像の意味論その13およびその14 − 前回記事(鏡像の意味論その13)の捕捉(変換という言葉の危うさ)のブックマークコメント

前回記事に関して、タイトルの範囲からは多少それますが、若干の捕捉をします。

冒頭に箇条書きで4つのキーポイントを掲げましたが、その3番目は次のとおりでした:

● 鏡は光を反射するのであって、像を反射したり変換したりといったことはできない。

これについては理解されがたいか、あるいは異論をもたれるかも知れませんので、少々説明したいと思います。いずれにしても比喩ですが比喩といっても妥当な比喩もあれば不適切な比喩もあります。

例えばデパートだとか、何らかの商業施設の中などの広い空間で、壁面が大きな鏡になっているような場所があると思います。そういう鏡から、いくらか離れた位置に1人の人物がいて、その人を直接見ることも、鏡に映った姿を見ることもできるとしましょう。あなたが鏡に映った人物を最初に見て、その後に直接その人物を見ることも十分あり得ることです。もちろんその逆もあります。清潔で品質の良い鏡なら、鏡に映る人物を見てそれを鏡像だと気付かない場合もまた十分にあり得ることです。

映るという言葉の語源と関係があるかどうかは分かりませんが、現実に実際の人物が鏡の向こう側に移動したということも、コピーされたということも、また鏡のこちら側にコピーされたということもありえないのは自明のことです。

つまりあなたが視覚で認知しているのは、直接見る場合も、鏡を通してみる場合も同様に、その人の姿であり、像であるということです。ところが鏡を通して見る場合だけ像と呼ばれるのに対して直接見る場合には像と呼ばれません。しかし「姿」という日本語があります。和英辞典をを見るとshapeとfigureが挙げられています。

また横道にそれてしまいそうですが、このように考えてくると、鏡像に対応するものは直接見た姿に他ならないので、私は昨年末に認知科学会に提出した件のテクニカルレポートではそれを呼ぶのに「直視像」という言葉を用いました。この直視像と鏡像はどちらかが他方に変換されたというようなものではないと思います。どちらかが他方に変換されたり、コピーされたり、ということではないからです。

鏡映反転の問題として左右の形状の逆転が観察される場合、それは変換されたのではなく、あなたが直接見た姿と鏡像との2つの像を比較して逆転が観察されるということでしょう。例えば直接見た人物が右肩に鞄をかけているのに対して、鏡像は左肩に鞄をかけているとか。

この逆転はどちらが鏡像で、どちらが直視像であるかには関係のないことです。簡潔に言えば相対的な逆転なのです。ですから必ず二者を比較する必要があります。問題はなんらかの自動的な変換ではなく、あなた、すなわち観察者による能動的な比較なのです。以前に「変換」という言葉の曖昧さ、危うさについて考察したことがありますが、それはこういうことなのです。鏡映反転の原因、あるいはメカニズムを「変換」という一言で表現する説明には非常な危うさを感じてしまいます。

というのは、ここで「変換」という場合、鏡が主語として想定されています。たいていの説明では「鏡が(形、像、姿、等々を)を映す」とか、「鏡が(形、像、姿、等々を)反転する」とか「鏡が(形、像、姿、等々を)逆転させる」といったような表現が用いられていますからね。こういう表現は鏡の擬人化ですが、こういう表現もやむを得ないところは確かにあります。

鏡を主語として考えると、鏡は光を反射させているだけで像を反射させたりしているのではないとはいえ、鏡像の成立に関与していることは確かです。 ところが、あなたが鏡像と比較しているもう一つの像、つまり先の言葉で言えば直視像ですが、この直視像の成立には、鏡はまったく関与していません。2つの像の一方にしか関与していない鏡が、一方の像を他方の像に「変換」しているなどと言えるでしょうか。私は言えないと思います。少なくともここで「鏡が(あるいは光学的原理が)〜を変換している」と言い切ってしまえばそれ以上のメカニズムの分析が不要になってしまい、結局は覆い隠されることにならないか、と言いたいのです。

さて、以上から鏡は2つの像のうちで鏡像の方にしか関与していませんが、2つの像を比較する観察者の存在は、2つの像の両方に関与していることが自明といえます。鏡あるいは光学原理が鏡映反転という「変換」を行っているというような考え方をすると、観察者の存在、観察者の個性や能力と言った要因を無視することに繋がります。ここから次のような2とおりの誤りが生じてくると思うのです。

A.鏡映反転の原因はひとえに物理的(幾何光学)なものであるという考え方

B.鏡映反転の原因として物理的ではない(例えば心理学的)原因を考えざるを得ないとき、その原因は、ひとえに心理学的な原因であるという考え方。

端的に言って、Aの考え方は前回のHaig説を始めとする、多数派ではないかと思います。一方Bの考え方の代表は、高野先生の多重プロセス理論と言えるのではないかと考えるのです。「多重プロセス」という考え方は、常に2とおりのプロセスが進行しているという意味にとれば、あるいは鏡映反転のタイトルとして適切かも知れないと思いますが、常に2とおりのプロセスが進行しているのではなく、ある場合(例えば観察者自身が鏡に対面している場合)に一方のプロセスだけで説明し、別の場合(例えば観察者自身が鏡に対して横を向いている場合)にもう一方のプロセスだけで説明するのは、単なるご都合主義ではないかと思えるのですが・・・・・。

(以上。田中潤一)

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2017-01-02 鏡像の意味論その11および12

鏡像の意味論その11および12

| 15:48 | 鏡像の意味論その11および12を含むブックマーク 鏡像の意味論その11および12のブックマークコメント

そもそも平面とか立体、あるいは二次元とか三次元とかいう表現が何を意味するのかという問題は、一般人にとっても科学者にとっても改めて再考する必用があるように思います。あるいは少なくとも視覚像や映像の問題を考察する場合には根本的に再考する必用があるのではないかと考えています。そのようなことは幾何学的には自明のことのように思われるかもしれませんが、いざ現実のイメージにそれらを適用した場合、平面にしても立体にしても幾何学的な理解をそのまま感覚的な像に適用して問題はないのかを考えてみると、大いに問題があるように思われます。だいたい二次元とか三次元とかといった幾何学的な概念を持っていない時代の人たちは二次元の像とか三次元の像などと感じたはずがないので、そういう幾何学的というか、数学的な概念で本当の感覚的な視覚を表現しているとは言えないとも思えるのです。

例えば、鏡は平面だから鏡に映る像は平面の像であると単純に考える人も少なくないように思いますが、これは「映る」という言葉がこのように使用されていることの意味を深く考えずに、ただ「平面、二次元」とか「鏡」とか、「映る」という言葉を字義通りというか、表面的にしか考えないことによるのでしょう。ただ、鏡像や凸レンズで見る像を虚像ということや、虚像の幾何光学的な原理については殆どの人は学校で教わっているはずではあります。とはいえ、この問題は鏡像などの虚像の問題に限らず、また映像などの画像の問題にも限らず、もっと根本的な、「像」一般の問題、視覚そのものについても反省を促す問題であるように思います。


とりあえず今回は鏡像問題との関連で、平面や立体の意味について、少々掘り下げてみたいと思います。

鏡像の意味論 その11、鏡像と虚像 ― 鏡像は平面パターンであるという初歩的な誤解 ― 鏡像は単独では直接の像と区別できないこと

| 15:48 | 鏡像の意味論 その11、鏡像と虚像 ― 鏡像は平面パターンであるという初歩的な誤解 ― 鏡像は単独では直接の像と区別できないことを含むブックマーク 鏡像の意味論 その11、鏡像と虚像 ― 鏡像は平面パターンであるという初歩的な誤解 ― 鏡像は単独では直接の像と区別できないことのブックマークコメント

【画像と鏡像の比較】

とりあえず鏡像が立体であり、二次元パターンではないことを、簡単に図示してみよう。次の図は前面が写真などの画像になっているパネル状の物体を上から見たところとする。前面前害が画像である。

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当然、Aの位置とBの位置ではそれぞれ異なって見えるが、特に大きく異なるのは全体の横幅である。しかし描かれている画像は平面パターンだから全体が見えることに変わりなく、正面向きの顔が表現されているとすれば、どこでも同じ正面向きの顔が見えることに変わりはない。これは図を描くまでもなく分かることである。

一方、鏡像ではどうだろうか?下の図は鏡像の説明である。ちなみに矢印付き直線は光の進行を表し、波線は上図と同様、視角を表している。

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人物Bは真正面から自分の鏡像を見ているのに対し、Aの位置では斜め横向きの顔が見える。AにはB君の右ほほにある斑点は見えないだろう。逆にB君は四角い顔の両側面は本人には見えないだろう。しかしA君にはB君の左側側面がよく見える。

視角に付いて言えば、上図の画像の場合、Aの位置ではBの位置でよりも狭くなっているが、下図のAの位置では逆にBの位置でよりも大きくなり、画像の場合とは逆になっている。もちろんこれは常にそうなるのではなく、像の形状によるものではあるが。

確かにヒトの視覚では物の表面しか見えない。しかしこれは鏡像であることとは関係がない。同時に顔の正面と横顔を同時に見ることはできないが、これも鏡を通さず直接見る姿でも同じことである。

またこの絵の状況では確かに鏡に映った顔の後ろや上から見た姿も見ることはできない。 しかし直接他人を見る場合でもそのような状況はきわめて普通である。どちらの場合も光源の位置と目の位置を動かすことで、どの角度からも見ることができるのである。要するに、鏡を介さずに見ている対象が立体であるといえるのであれば、鏡像も立体であり、鏡像と鏡を介さない像とを区別することはできない。


【虚像について】

光学、正確に言えば幾何光学では鏡像は虚像と呼ばれる。鏡像は虚像の一種である。虚像とは何か、要するに目に見える物と目との間に光を反射あるいは屈折させる物体が介在するだけのことである。だから鏡像はもちろん虚像だが、ルーペで見る像も虚像と呼ばれる。鏡像とルーペで見る像が虚像であればメガネで見る像も虚像ということになる。当然、近視や乱視のメガネもそうである。どんなに度のゆるいメガネであっても、始めてメガネをかけたとき、肉眼だけで見るときとは異なった位置と大きさで見えるものである。だから肉眼で見るのとは異なる像を見ていることになる。これはれっきとした虚像である。

このように見てくると、肉眼で見る像もつまるところ、虚像に他ならないのである。あらゆる視覚像は虚像である。結局のところ、すべて網膜に映った像が元になって知覚している像に他ならない。


【網膜像について】

網膜に映った像が平面パターンであるから、結局のところヒトが認知する像自体も立体ではないと考える向きがある。しかしヒトは自分の目の網膜像を見ているのではない。

いったい、自分の目の網膜像、正確には曲面ではあるが、とりあえず網膜上の平面パターンを見た人がいるだろうか。網膜像を平面パターンとして見るには網膜を別の眼で見なければならない。

普通、網膜像が平面パターンであるということは、人は知識として知っているだけであって、実際にそのようなものを見た人はいない。

網膜像は眼の解剖学的な知見と、凸レンズの幾何光学的知見とから想定される概念以上のものではない。 もちろん、概念として厳然として存在することは確かである。しかし、目で見える像ではないし、まして、上記のように自分の目の網膜像を見られる筈もない。

このように、人は平面的な網膜像というものを知っているが、それは解剖学と幾何光学の先達の遺産をそのまま意識せず、感謝もせずに受けとっているだけなのである。

鏡像の場合も同様。鏡の幾何光学をよくよく理解することなく、鏡像の問題を語ることはできないのである。

【画像の場合】

画像の場合も一定の条件付きで平面ではなく立体像であるといえる。なぜなら、画像として表現されたイメージ自体は立体像である以上、それは立体と見なさなければならない。

人が画像を見る場合、同時に2つの異なるものを見ているのである。一つは物質としての二次元的表面であり、もう一つは画像に表現されている像である。上質の画像を正面から見るとき、鏡像と同様に、三次元の本物と間違うこともまれではない。そのときは、画像の表面を見ていないのである。紙の場合はアート紙や、ビニール張りなど、光沢を付けるのは表面を見えなくするための努力に他ならない。映像の場合も、ひたすら表面を見えなくするための努力が続けられて来たといえる。

もちろん鏡像が立体であるのと同じ条件で立体とはいえない。正確に認知するには真正面から見る場合に限られるし、画像に表現されていない部分は絶対に見ることはできないのはもちろんである。網膜による像の認知もある意味これと共通する要素があるかもしれないが、網膜の場合は表面を見ることは絶対に不可能である。

従って、真正面から上質の画像を見る限り、立体像という点で条件付きで鏡像と比較することもできよう。

鏡像の意味論その12 ― 鏡像問題における記憶の意義

| 15:48 | 鏡像の意味論その12 ― 鏡像問題における記憶の意義を含むブックマーク 鏡像の意味論その12 ― 鏡像問題における記憶の意義のブックマークコメント

このシリーズで、前回は平面パターンと立体の認知の問題について再考してみましたが、この問題を掘り下げるには記憶の問題について多少とも考察せざるを得なることに気付きます。端的に言って記憶力なしでは視覚認知自体が、他の認知問題と同様、存在しないでしょう。記憶はあまりにもあらゆる認知に深く関わっている故、記憶力そのものがテーマとして研究され、記憶力自体の研究が目的ではない他の分野では、記憶力はあらゆる認知において遍在するものとして、表面に浮上することは少ないのではないかと考えられます。


ヒトの視覚では原理的に物の表面しか見ることができません。だからといって、立体を見る場合でも目に見える部分だけで形状を認識しているとは言えず、たとえ人物の正面だけしか見えなくても、その姿を人間として認知している以上は三次元の立体像として見ているのであって、正面だけのマスクや張りぼてのような表面として認識しているわけではありません。当然、目に見えない部分を想定して認知しているのであり、家族のような身近な人物の場合はいつでも前後左右あるいは上下についても良く記憶している上に特定の時点を取ってみても、その直前まで後ろ姿を見ていたのならまず間違いなくかなりの正確さで立体としての全体像を把握していいます。

都会の往来を歩くときなどはたいていそうですが、まったくの他人を始めて見る場合でも衣服や髪型などを含め、正面から見るだけでかなり正確な全体像を認知しているといえます。記憶には長期記憶と短期記憶とがあると言われていますが、このような場合は長期記憶が大きく作用しているに違いありません。

そもそも知らない人でも、遠くから見えるぼんやりした姿でも人間として、さらには男女や人種やその他諸々の特長の記憶により、そういう人物として認識できるのはやはり人間として、その種の人物としての特長を記憶しているからに他ならないでしょう。そう認識できると言うより、実際そのようにしか認識できないでしょう。これは対象を直接見る場合も鏡やレンズを介して見る場合もなんら異なることがないのは、前回(その11)検討してきたとおりです。


このように直接見る像にしても鏡像にしても同様に記憶、詳しく言えば長期記憶と短期記憶の両方が関わっているのですから、鏡映反転の原因あるいはメカニズムにおいて記憶が重要な要因となっているということは考えにくいことです。鏡映反転は二つの像を比較することで成立する認知ですから、どちらの認知にも同様に機能している記憶の問題は消去されるはずです。


2007年の毎日新聞で取り上げられ、鏡映反転を説明する理論として有名な「多重プロセス理論」と呼ばれる郄野陽太郎東大名誉教授の理論では、文字が鏡で左右反転して見えるプロセスを特別に「表象反転」と名付け、この場合に限って記憶が主要な役割を果たしているとしています。確かに、文字のような記号の場合、一般的な記号としての形状を認識していることが特徴ですから、一見、この説には人の興味を引くところがあります。しかし文字ではなく人物像の場合でも、ヒト一般の特徴、頭が上にあり足が下にあって二足歩行し、大抵は衣服を着けているという特徴は、詰まるところ記号に他ならず、すでに見てきたとおり、記憶に基づいています。何も文字に限られているわけではないのです。左右の特徴にしても、例えばジャケットには必ず左側に胸ポケットが付いています。日本の道路では車は左側通行です。普通の人はこういうことは記憶していますから、注意して鏡を見れば左右が逆になっていることに気付く人は気づくでしょう。

こう見てくると鏡映反転の機構を説明する概念として記憶を主要因とする「多重プロセス理論」の「表象反転」には意味がないことが分かります。確かに文字の場合に鏡像の認知プロセスにおいて長期の記憶が主要な役割を果たしていることが多いのは事実ですが、長期記憶だけでは間違える場合も当然あります。世の中にはレオナルド・ダ・ヴィンチも使ったと言われるいわゆる「鏡文字」というものがあり得ます。またアルファベットのEの左右を反転するとカタカナのヨになります。ですから、正確には鏡像は直接見る像と比較しなければ差異を判別できないものです。これは文字であってもなくても関係ありません。

別の面から言えば、何らかのプロセスを説明し得たところで原因を突き止めたことにはなりません。そのプロセスのどこに原因があるか、そのプロセスに原因が含まれているかを示す必用があるでしょう。

また文字の場合の鏡映反転に付いて特に着目すべき点は、それが記号であるということではなく、二次元の形状であること、それと、形状の上下と左右のあり方に特徴があることといえます。しかし今回のテーマは記憶なので、この問題についてはこれまでにしておきます。


次回は鏡映反転において対掌体の性質が持つ意義について考えてみたいと思います。

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2016-12-23 鏡像問題関連のテクニカルレポート提出のお知らせ このエントリーを含むブックマーク このエントリーのブックマークコメント

2014年に日本認知科学会に提出したレポートに引き続き、鏡像問題関連のテーマによるテクニカルレポートを同学会に提出しましたのでお知らせします。すでに別のブログサイト『意味の周辺』でお知らせしましたので、下記にそれをコピーします。ただし当日時点ではまだ日本認知学会のサイトからダウンロードできる状態になっておらず、当方のサイトからのみダウンロードできるようにしていましたが、現在、すでに日本認知学会の発行ページからダウンロード可能な状態になっています。

以下に、上記ブログサイトに掲載した内容をコピーしますす:

日本認知科学会にテクニカルレポートを提出しました。受理され、インターネットで発行されることになりましたが、私のサイトからも同じものをダウンロードできるようにしました。ファイル名は異なりますが、内容は同じです。


なお、認知科学会のダウンロードサイトでは恐らく技術的な問題で、まだ発行されていませんが、近日中に発行されるとのことです。


私のサイトから:

http://www.te-kogei.com/kagaku/Kyozo_Shikuukan_J_Tanaka.pdf


日本認知科学会のダウンロードサイト

http://www.jcss.gr.jp/contribution/technicalreport/states.html


この論文は前回、2,014年の論文を発展させたものです。今回も前回同様、学会誌への投稿を目標に作成したのですが、査読の結果で採録されず、前回同様、テクニカルレポートとして投稿することになった次第です。


内容と表現上の問題に関して言えば、どうも投稿論文としては多くの内容を盛り込みすぎたようです。この点ではこれまで鏡像問題の考察では取り上げられなかった要素や、重視されてこなかったようなな要素を考察、説明する必用がありました。列記すると次のような問題です。


? 等方的な思考空間と異方的な視空間についての説明(マッハとカッシーラーによる)

? 鏡像認知(鏡映反転ではなく)のメカニズムの一部に触れること

? 鏡像認知と鏡映反転との関係を分析すること

? 鏡像問題で考察される「逆転」そのものを詳細に分析すること

? 鏡像問題自体の再定義と体系化



端的に言って、いわばこれまでの鏡像問題の考察では表面に現れてこなかったいくつもの基本的な問題を掘り起こして考察し、説明することから始める必用があり、そうなってくると単に鏡映反転の問題を超えることにもなり、それらをすべて漏れなくかつ判りやすく説明するには一冊の本が必用で、一つの投稿論文にまとめて理解してもらうには無理があったということだと、自分では考えている次第なのです。


最終的に、投稿論文としてまとめた草稿にかなり長めの注釈をいくつか追加したうえで、いったん長さに制限のないテクニカルレポートとして提出することにしました。


今後の方向としては、雑誌に投稿できるような長さで鏡映反転の問題に焦点を絞った新しい論文をかくことと、鏡像問題を超えた広範なテーマで本を書きたいという、二つの方向性を考えています。特に後者の方は実現が難しそうですが、一応は目標にしています。


以上。 

田中潤

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2015-12-17 鏡像の意味論―その10―問題の分析

鏡像の意味論―その10―問題の分析

| 11:47 | 鏡像の意味論―その10―問題の分析を含むブックマーク 鏡像の意味論―その10―問題の分析のブックマークコメント


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図1 鏡像認知の一部分としての自己鏡像認知と他者の鏡映反転

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図2 自己鏡像の認知と他者の鏡映反転の組み合わせからなる自己鏡像の鏡映反転

【問題の純化と問題の分析(要素分析)】


問題の純化と分析は、科学的方法の基本事項ではないでしょうか。しかし鏡像問題では従来、どうもこの点がすっきりしていないようでです。


前々回「鏡像の意味論その10」では「問題の純化」と題してこの問題に取り組み、問題純化の1段階に成功したものと考えます。今回は表題のとおり、問題の1つの分析を行ってみたいと思います。



【鏡像認知問題と鏡像問題(鏡映反転)】


現在、鏡像認知問題といえば普通、自己鏡像の認知の問題とみなされ、英語の「mirror self-recognition」に相当するようです。では自己像に限らない文字通りの鏡像認知問題、英語にすると「mirror recognition」という問題が研究や論議されているかといえば、そういうことはなさそうです。英語でも「mirror self-recognition」という用語は学術用語として見つかりますすが、「mirror recognition」という用語はやはり日本語と同様に「mirror self-recognition」の簡略表現として使われているように見えます。この辺に一つの鍵が潜んでいるように思われます。


つまり、字義に即して考えると鏡映反転は鏡像認知の一部分であるとの印象を受けます。その鏡像認知の問題は事実上、自己鏡像の認知の問題とみなされています。したがって、鏡映反転の問題も自己鏡像認知の一部分であるならば、自己鏡像の認知の問題に限られることになります。そのため、鏡映反転の問題も自己鏡像の問題として考察されてきたのではないかと思うのです。


しかし、鏡像の認知は自己鏡像の認知に限って存在しているわけではないことは自明なことではないでしょうか?現実に鏡映反転の問題では自己以外の他者や文字などについても議論されています。鏡像認知の問題でも他者像の認知の問題あるいは自己と他者を含めた、あるいは共通する問題が存在するはずです。


このように、自己鏡像以外すなわち他者の鏡像を含めた「(あらゆる)鏡像認知」を認めれば、「自己鏡像の認知」は「(あらゆる)鏡像認知」の一部分であり、同時に「他者の鏡映反転」も「あらゆる鏡像認知」の一部分であることになります。最初の図1は、これを表しています。



【自己鏡像の鏡映反転は他者の鏡映反転問題と自己鏡像認知問題との2要素に分析できる】


鏡像問題を考察する場合、たいていは絵を描いて考察し、説明をします。絵を描かないまでも言葉で対象を表し、空間的なイメージを客観的に表現することが不可欠です。その場合、自己鏡像の鏡映反転を考察する場合でも観察者の姿とその鏡像を描くことが普通に行われています。それは絵に描かれた人物を観察者に見立てているわけですが、そこには観察者が見ている光景そのものは表現されていません。そのような図は描くことができるにしてもせいぜい両腕やメガネの枠あるいは無理をすれば眉や鼻の一部などを描けるでしょうが、観察者の全体像は不可能です。従って、自己鏡像の鏡映反転を考察するとは言いながら、他者として対象化された姿を考察しているわけで、客観的な対象としては他者であり、その他者の認知を推定しているにすぎません。描かれた図は当然、単なる図形であり、身体感覚はもとより、認知能力などあるはずもなく、図から説明できることはあくまで視覚的な情報にとどまります。つまり、視覚に関する限り、他者の鏡映反転を考察していることになります。


以上から、自己鏡像の鏡映反転問題は、他者の鏡映反転メカニズムと自己鏡像の認知の問題に分析できることがわかります。


鏡映反転の問題は視覚に関する限りの問題であり、基本的に他者の鏡映反転問題から出発すべきであり、他者の鏡映反転メカニズムが解明されれば鏡映反転の問題自体はそれで解決されたものとみなしてよいことになります。自己鏡像の鏡映反転の問題は、したがって、むしろ自己鏡像の認知問題と鏡映反転の問題の2つに分析できることになります。鏡映反転の問題が自己鏡像の認知問題に含まれるわけではないのです。これを表現したものが図2です。


以上のとおり、鏡映反転の問題は他者の鏡映反転の認知について考察すれば鏡映反転の問題自体としてはそれで十分であると言えます。

【鏡像問題(Mirror problem)と鏡映反転(Mirror inversion)】

用語として「鏡像問題」と「鏡映反転」の両方が使用されているわけですが、以上の考察から、「鏡像問題」は自己鏡像の鏡映反転を含めた問題とし、「鏡映反転」は「客観的に認知可能な鏡映反転」すなわち「他者の鏡映反転の認知」と定義することが適切ではないでしょうか。

多幡達夫多幡達夫 2016/11/08 09:26 "Mirror self-recognition" は、心理学では、人間以外の動物が自己を認識し得るかどうかを鏡を使ってテストすることからきている言葉で、「自己認識の能力」を意味するものとなっているようです。
参考:
―Mirror Self-Recognition
The ability to recognise oneself as an individual; lower animals, in particular birds, often attack mirrors, as the image is perceived to be that of another animal (Segen's Medical Dictionary)
(http://medical-dictionary.thefreedictionary.com/Mirror+Self-Recognition)
―Mirror test
The mirror test, sometimes called the mark test or the mirror self-recognition test (MSR), is a behavioural technique developed in 1970 by psychologist Gordon Gallup Jr. as an attempt to determine whether a non-human animal possesses the ability of self-recognition.[1] The MSR test is the traditional method for attempting to measure self-awareness, however there has been controversy whether the test is a true indicator.
(https://en.wikipedia.org/wiki/Mirror_test)

quartaquarta 2016/11/28 21:31 ご教示ありがとうございます。確かに、研究史的には動物心理学の研究テーマとして始まったのだと思います。ただ多くの場合、人間の幼児の成長期と動物とを比較することで、動物と人間の比較が重要な意味を持っていたのではないでしょうか。そのため、人間における自己鏡像認知のメカニズムを明らかにする必要があると思うのですが、鏡像問題において自己鏡像認知の問題との関係を明らかにすることは、この問題にも大いに資するところがあるのではないかと思います。

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2015-12-11 鏡像問題における問題の純化

ブログ「意味の周辺」に鏡像問題に関する2つの記事を追加しましたので、2つを併せてこちらに転載します:

鏡像の意味論―その8―問題の純化―なぜ三種類の逆転を区別する必要があるのか

| 14:12 | 鏡像の意味論―その8―問題の純化―なぜ三種類の逆転を区別する必要があるのかを含むブックマーク 鏡像の意味論―その8―問題の純化―なぜ三種類の逆転を区別する必要があるのかのブックマークコメント

鏡像は鏡像だけを単独で見る限り、通常の像、つまり鏡を介さないで見ている像と何も変わるところはありません。鏡の像を直接の像と間違えることは結構よくあることです。鏡の像は平面的だとか、奥行きが少ないとかいう人がいますが、鏡を通さない像でも同様に平面的に見える時も見えない時もあります。片目でしか見えない部分が生じたりするにしても、そういうことは鏡を通さない光景でもよくあることです。鏡像が鏡像を介さない像と異なるのは、同じ対象を鏡像と鏡像を介さない像とで比較した場合だけです。なお鏡を介さない像を「実物」と表現する場合がありますが、視覚を問題にする以上、「実物」とは表現しないほうが良いと思います。


ですから、鏡像に特有の認知現象をあつかう際には鏡像特有の問題に純化する必要があります。したがって鏡像ではない場合にも生じる現象を排除する必要があるのですが、これが徹底されていないところに鏡像問題がなかなか解決しない一つの原因があるように思われます。このシリーズの「その5」で、指摘したような「三種類の逆転」を明確に区別することはこの意味で重要です。


端的に言って、鏡像に特有の問題に関係するのは「形状の逆転」だけです。「意味的逆転」と「方向軸の逆転」とは鏡像に特有の逆転ではなく、鏡像であるかないかにかかわらず極めて普通に生じうる逆転現象であると言えるでしょう。例えば、向かい合っている人の左右を自分自身の左右で判断した結果、左右を取り違えることはよくあることです。左右がはっきりしない対象の場合、よく「向かって右」というような表現をしますが、これはこの間違いを犯さないための配慮にほかなりません。鏡像問題の考察で「共有座標系」を使った理論というか説明がありますが、どうもこの理論は結果的に「意味的逆転」のことを指しているのではないかと思うのです。とすれば、その議論は鏡像に特有の現象を指しているのではないことになります。


一方、「方向軸の逆転」を「形状の逆転」と区別することは、さらに複雑な問題になります。というのも、「形状の逆転」は通常、「方向軸の逆転」を伴って認知されるからです。しかし、方向軸の逆転は鏡像に関係なく、日常的に極めて普通にみられる現象です。例えば人と対面しているとき、人は明らかに対面している人物の前後が自分とは逆向きであることを認知しているはずです。また逆立ちしている人がいれば、明らかに普通に立っている人とは上下が逆転していると認知することでしょう。


鏡像で例を挙げれるとすれば、静かな水面に映った光景などの場合、だれもが上下が逆に映っていると判断します。さらに注意すれば、「左右が逆に映っていないのに上下だけが逆転するのはなぜか?」、という疑問に発展しますが、左右の問題に気付く以前に、逆立ちしている人の場合と同様、誰もが上下の逆転に気づきます。この時点では鏡像に特有の「形状の逆転」ではなく「方向軸の逆転」だけが認知されていると言えます。方向軸の逆転だけが認知される場合に加えて形状の逆転の認知の両方が共存して認知される場合があるというだけのことです。


鏡像に向かい会っている人の場合も同様のことが言えます。鏡に向き合っている人物の姿とその鏡像とは互いに前後が逆転していることに誰もが気づくはずです。この逆転は二人の人物が互いに向かい合っている場合と同じ種類の逆転なのです。ただし二人の別人が向き合っている場合は左右も同時に逆転しています。しかし鏡像の場合に二つの人物像で左右が逆転していないことに気付く認識に至れば、形状の逆転に気づいたといえるでしょう。従って鏡像の場合は前後一方向だけの逆転となります。形状の逆転は一方向のみの逆転になるからです。しかしこのような状況で形状の逆に気づくとき、たいていの人は前後ではなく左右が逆転していると考えるわけです。実際には形状の逆転の場合、前後で逆転していると見ることも左右で逆転していると見ることもできるし、さらに想像力をたくましくすれば、上下で逆転しているとみることも、その他の方向で逆転しているとみることもできるわけですが、そこまで想像力をめぐらす人はあまりいないでしょう。


以上の通り、形状の逆転が認知される場合、必ずそれ以前に方向軸の逆転が認知されています。したがって、鏡像に特有の認知現象を考察するには単純な方向軸の逆転のみの認知を排除しなければなりません。これがなかなか困難であるといえます。それを確実にする方法は、条件に形状の逆転、言い換えれば形状の差異、つまり対象を直接見る像と鏡を介してみる像との形状の差異が認知されることを条件に加えることが必要です。


上述の意味で、鏡像と直接像との違いの認知現象において、対掌体の成立を、原因から排除することは許されないことだと考えます。もちろん対掌体という用語や概念を使わずとも、この種の形状の逆転が表現されていればそれでよいわけです。


鏡像関係において形状の逆転とはより正確には「二つの形状に何らかの規則的な差異が生じている 」と表現すべきでしょう。「形状の逆転」は、この表現、すなわち「形状の逆転」という表現自体では正確に表現しきれないからです。それをこのシリーズの「その5」で説明しているわけですが、とりあえず「逆転」という概念を使って簡単に表現するとすれば「形状の逆転」としか表現しようがないように思えます。


次回は形状そのものについて、もう少し掘り下げて考察してみたいと思います。「特定の形状は意味を持つ」ということについて、逆に形状は単に点の集まりに過ぎないと考えることが如何におおざっぱで、安易な誤った考えであるか、について考察したいと思います。

鏡像の意味論―その9―形状と意味

| 14:12 | 鏡像の意味論―その9―形状と意味を含むブックマーク 鏡像の意味論―その9―形状と意味のブックマークコメント

【意味するものと意味されるもの】

言語学や言語論、あるいは記号論というべきか、言語学的な分野で「意味するもの」と「意味されるもの」との区別が研究されていることについて、詳しく専門的に立ち入った知識はありませんが、この区別を多少とも意識することは、幾何光学などの物理学とされる分野を含め、像、画像、映像など、あるいは視覚をあつかう心理学研究にとって極めて有意義ではないかと思います。特に「形」あるいは「形状」という言葉の使用については、この問題を避けることはできない時点に到っているものと考えています。


極めて単純素朴に考えても、形という言葉は幾何学的形状そのものと、「何々の形」とういう場合の「何々」すなわち「意味」あるいは「意味されるもの」を表現している場合の二通りが考えられます。


「形」の場合、さらに問題になるのは、この二重性(幾何学的形状と意味)が言葉だけではなく「図形」、あるいは「絵」(以降、表現を堅固にするために「描画」と呼ぶことにします)についてもいえることです。ひいては人が知覚する像そのものについてもこの二重性が存在することになります。


この問題そのものをこれ以上にここで掘り下げ続けることは無理なので、以上を単に前置きとして、以下の検討に入りたいと思います。



【形または像と意味】

鏡像問題の議論では普通に人物の像について問題にされるため、頭とか足、あるいは右手といった、身体の部分について位置関係や形状について論じられますが、その根拠となるのは象の形状といえます。その幾何学的形状をもとに頭とか右手とかを判断するわけですが、その頭とか右手というのは頭という概念あるいは右手という概念であって、幾何学的形状そのものではなく、具体的な意味を持つもの(足なら足という生物学的機能を持つ実態の意味)すなわち意味されるものを表していることになります。


頭が上で足が下、右手は右、顔や胸、腹は前で背中は後ろ、といった上下・前後・左右の意味は人間という概念について言えることであって、偶然に人間に似た幾何学的な形状があったてしてもそれには適用されないものです。幾何学空間は等方的であり、視空間や知覚空間は異方的であるというのはこの意味です。しかし単なる形状物であっても人形などは人形という意味を持つ以上、単なる幾何学的な形状ではないので上下・前後・左右を持つといえます。こういう形状の意味は人間の直感的な認識によるもので、幾何学的形状のように数や量で表現することはできないものです。


以上の観点は、心理学としてはゲシュタルト心理学と呼ばれる学派の成果と重なる部分があるのかもわかりません(私自身は専門的に心理学を専攻してきたわけでもなく直接ゲシュタルト学派の文献から学んだわけではありません)。しかしゲシュタルト学派そのものは現在あまり主流ではないようです。たとえば、I. Rockの「Orientation and Form」では、この学派は主流ではない単なる心理学の一派であり、当該本の主題に関して、ゲシュタルト学派の主張をあまり尊重していないように見られます。Rockの「Orientation and Form」は、吉村浩一教授による鏡像問題の論文「Relationship between frames of reference and mirror-image reversals」中に重要な参考文献として挙げられていましたのでアマゾンを通じて古書を入手して一通り読んでみました。この本は表題の通り形状と方向との関係を心理学的に扱った研究書ですが、視空間の異方性について次のような記述があります。

「In any case it would be misleading to think of form changes induced by changes in orientation as exemplifying anisotropy(いずれの場合にも、方向の変化によって生じる形状の変化を、異方性の例として考察することは誤りであろう)」


上述のRockの考え方には問題があると思います。そのような考え方こそ間違いではないかとさえ思います。Rockは視空間の異方性を量的にしかとらえていないように思われます。


ところがRock自身、方向による形状の変化の例として次のような例を挙げているのです。


f:id:quarta:20151211140106j:image

図:I. Rock著「Oriatetion and Form」より引用



この図で、上の三つは180度回転すると全く別人の顔と服装に見えるというもので、下左は子犬、下右はあごひげを生やした老人に見立てられ、それぞれ90度回転すると子犬はシェフの横顔、老人の横顔はアメリカの地図に変化して見えるというものです。形状のこの変化は明らかに意味の変化であって長さやその他の尺度の量的な変化とは言えません。異方性を量的な差異ととらえる限り、確かにここで異方性は重要な意味を持っていませんが、形状の方向における異方性を形状が「意味するもの(形状によってい意味されるもの)」の差異ととらえるならば、これは視空間の異方性を示す見事な例となるはずです。


【数値と意味】

鏡像の問題に戻ると、上下・前後・左右の各方向は、形状の意味に基づいて決まるのであって、幾何学的な形状そのものではないことがわかります。この形状の持つ意味は人間の意識で直感的に把握できるもので、幾何学的形状のように数量や数式で表現できるものではありません。


座標系を用いると確かに形状を数値や数式で表現できるでしょうが、数値や数式から図形の持つ意味を把握できるわけではありません。 CGでは座標系を用いて形状を数値に変換しますが、それは数値で計算処理をしたあと、再びディスプレイ上に目に見える形状に戻すことが最終的な目的です。ディスプレイから見て取るのは意味を持つ形であり、すでにそこから数値も数式も読み取ることは不可能です。これからも、上下・前後・左右を決めるのは幾何学的形状の数値データではなく形状の「意味」であることが分かります。


ただし、二つの形状を比較する際には数値や座標系は重要です。 もちろん意味としての形状の比較ではなく幾何学的形状の比較です。形状の比較は二つの点の位置関係と距離という相対的な数値で決まるのものであるからです。鏡像問題における形状の逆転はつまるところ二つの形状の規則的な変化(差異)に基づき、その差異が対掌体の概念で表現できるわけです。

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2015-05-25

17:18 | ■を含むブックマーク ■のブックマークコメント

ブログ「意味の周辺」の記事を2本追加しました。

何れの記事も当ブログのテーマと重なる内容で、これまでも転載してきましたが、今回はリンクということにしました。

1) 鏡像の意味論―その7―擬人化と鏡像問題

2) 科学哲学について思うこと ― 『科学哲学への招待(野家啓一著)』および『科学哲学(ドミニック・ルクー著)』の読後メモ

最近は、といってももう何年にもなると思いますが、当ブログの方針というか、当初からの構想として実行していたようにBBCニュースやNYタイムズ、そして日本の有名新聞サイトなどの科学記事から興味を引くトピックを見つけ出して何か気になる問題をみつけて記事にするということがなくなりました。いわば息切れで努力が続かなくなったということになりますが、それでもいくらかの成果が少なくとも個人的には得られたことも事実で、いくつかの重要な問題がピックアップされ、多少なりともそれらを追求というか、考究し続けるという形で、散発的にではあれ、このブログをなんとか継続してこられたように思います。とくに鏡像問題に関しては当ブログの後から開設した「意味の周辺」のテーマと重なることから、「意味の周辺」のテーマとしてそちらのブログに引き継がれてしまったように思いますが、それでも発端はこちらのブログにあり、多くは当ブログに転載してきました。

一方の温暖化問題で、諸々の記事を契機に得られた結論は最初の重要な成果であったように思います。当ブログを開始した2007年当時、当時IPCC報告を契機に新聞メディア、特にBBCニュースとNYタイムズ温暖化問題に関する記事が殺到したことがきっかけで、当方が前世紀末に購入しながら読むことを怠っていた、その名も『世紀末の気象(根本潤吉著)』を読了するに至った次第ですが、結局、この前世紀後半に書かれた書物に温暖化の原因についてのほぼ完全な解答が存在することに気付かされたわけです。これをきっかけに改めて大学時代の正統的な地球化学の教科書を再点検してみても、少なくとも人為的CO2発生が原因で地球温暖化が発生したわけではないことは、単なる直感的な受け入れによる受け売りではなく、確たる科学的な確信を基礎に記事を書くことができたものと考えています。

鏡像問題と地球温暖化問題とはずいぶん遠く離れた問題のように見えますが、いずれも科学哲学や科学論、科学社会学、あるいは生物学哲学といった近来の研究分野に関わりが深いことが、いよいよ明らかになってきたように思います。直接的には、鏡像問題の方は認識問題や言葉の問題との関係において、一方、地球温暖化問題の方は地球温暖化地球科学的な研究そのものよりもむしろ、エコロジー思想や科学社会学の対象自体へと移行して行くことにおいて言えることだと思います。

以上のような次第で、今後も「意味の周辺」との重複やそちらへのリンクだけ、ということが多くなりそうです。しかし、また条件が変われば、あるいは機が熟せば以前のようなスタイルでの記事も作って行きたいとも考えています。

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