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2018-07-08 鏡像の意味論番外編その7の転載

ブログ『意味の周辺』の記事を引き続き、今回はそのまま再録します。

鏡像の意味論、番外編その7 ― 異方空間は意味の空間であること ― 対称性は異方空間だけでは成立しないこと

10:11 | 鏡像の意味論、番外編その7 ― 異方空間は意味の空間であること ― 対称性は異方空間だけでは成立しないことを含むブックマーク 鏡像の意味論、番外編その7 ― 異方空間は意味の空間であること ― 対称性は異方空間だけでは成立しないことのブックマークコメント

前回「左右軸の従属性」の分析で示された重要な点は、人体の外的形状が左右対称的であるという印象と認識は、人類としての共通する生物学的あるいは解剖学的な外形によるものであって、個性を持った個々の人物が特定の動作と衣服やアクセサリーを伴った個々の状況における一時的な状態によるものではないことです。外部からの観察対象としての人体の上下と前後はこのような人類共通の形状に基づいているわけで、要するに左右軸の従属性は、むずかしく言えば人の外的な姿を生物学的、解剖学的な意味で把握した場合に言えるわけですが、人の姿を見てそれが誰であるか、どのような衣服やアクセサリーを身に着けているか、どのような姿勢をしているかいった偶発的な意味で把握している場合には必ずしも適用されるとは限らないということになります。これは通常の感覚に基づいた知覚空間と視空間において、人は幾何学的な形状そのものではなく形状の持つ意味を認知しているからであるといえます。端的にいって幾何学的な形状がシニフィアンであるとすれば知覚空間で認知するのはシニフィエになるということです。幾何学的な分析は、シニフィアンとしての形状の分析でありシニフィエとは関係がないということになります。


【異方空間である知覚空間は意味の空間であること】

ヒトが視覚で人の姿を認知するとき、単に人間としてしか認知しない場合もあれば、男女の区別やおおよその年齢や、さらには具体的にそれが誰であるか、また何をしているところなのかに注目したりなど、実に様々な認知の仕方があります。もちろんそれが誰であるかを認知した場合は同時に人間であることをも認知しているはずで、認知する意味は重層的であるともいえます。それでも、具体的なさまざまな属性を認知する前にそれが鳥でも猿でもなく人間であることの認知が前提になっているわけですから、少なくとも人間であること以外に何の特徴も認知する手立てがなかったり、必要もなかったりする場合で上下前後左右を判断する場合は左右ではなく上下と前後を判断し、左右の特徴は特に気に留めることもないでしょう。しかし逆立ちをしていたり横になっていたり、ヴァイオリンを弾いていたりすると頭頂部以外の方向を上方と見ることや、最初に左右の特徴の違いに気づくこともあり得ることです。また、「右向け右」の号令をかけられた直後の部隊人物を見ていたのなら、真っ先に右側の特徴に目が行くはずですね。このように、上下前後左右の特徴は、見ている対象をどのような意味で認知しているかによって異なってきます。単に人間という意味でしか見ていないか、誰であるかという意味で見ているのか、何をしているかという意味で見ているのか?― というわけで、人は知覚される形状が持つ意味から下前後左右を判断しているのであって、幾何学的な要素、長さや角度など、あるいは対称性などから上下前後左右を判断したり決めたりしているのではないことがわかります。もちろんIttelson(2001)が実験研究を行ったように純粋に幾何学的な形状で任意に上下前後左右を決められる場合は人体との類似性などから、上下前後左右を判断することはあると思いますが。

 さらに観察者の対象物に割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右は観察者の感覚質であって、定義するまでもなく、幾何学的な概念とは無縁のものです。

 という次第で、異方空間で認知するのは形状が持つ意味、つまりそれが何であるか、誰であるか、なにをしているのか、等々、実に様々な意味を認知しているのであって、幾何学的な測量をしているのではないということです。もちろん長さや角度や対称性などを認知する場合もありますが、それはその時点ですでに等方空間を想定していることになります。


対称性は異方空間で認識される性質ではないこと】

いわば幾何学的な形状やパターンそれ自体がシニフィアンであるとすれば、異方空間で直観的に認知されるのはそのシニフィエです。幾何学的な要素は思考空間である等方空間で規定され、思考されるわけで、対称性もそれに含まれる幾何学的な要素あるいは属性ということになります。

 現実に知覚空間の中で左右対称あるいは面対象の形状として認知される対象があるではないかと思われる向きもあるかと思います。例えばよく例に挙げられる宇治平等院のような建築ですね。たしかにその形状から受ける印象は左右対称という表現で語られることが多いです。しかし現実に平等院の右側と左側を、一方を手で隠すなどして別々に見た場合、同じものに見えるわけでも同じ印象を受けるわけでもありません。また砂時計の容器の上半分と下半分を別々に見た場合の印象も相当に異なり、実際、機能的にも異なっています。左右対称あるいは上下対称という表現自体が、本来は上部と下部、また右側と左側を区別して認知していたからこその表現であって、この表現を分析すれば、もともと別物として認知される右側と左側、上部と下部が幾何学的に分析すれば対称性を持っているという意味であり、左右対称という概念自体が数学的な思考プロセスに由来しているのではないでしょうか?

 ということは、ヒトは普通に視空間でものを見ている場合でもかなりの程度、等方的な思考空間を使用している、あるいは併用しているといえるように思われます。特に鏡像認知の場合は等方空間の使用が顕著に現れてくるように考えられます。


  【カッシーラーによる等方空間と異方空間の定義がそのまま対称性の概念につながる】

異方空間ではすべての位置(点)が異なる価値を持つというカッシーラーによる定義は、異方的な知覚空間で対称性が成立しないという帰結に直接つながります。なぜなら、鏡面対象性は二つの点が幾何学的に同じ価値を持つことに帰着するからです。異方空間でリアルに認知された形状であっても、対称性が認知されるには必ず等方空間が想定されていることになります。

2018年7月2日 田中潤一)

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2018-06-26 鏡像の意味論番外編その5および6

ブログ『意味の周辺』に2回に分けて上記記事を続けて掲載しましたので、ここに併せて掲載します。この二つの記事はかなり密接に繋がっていますので、最初の方から併せ読むことでさらに良くご理解いただけるのではないかと思います。なお、最初の記事は『座標系』『方向軸』との違いについて論じていますが、書き洩らした重要な要素に気付きましたので、ここで予め付記しておくことにします。

| 14:27 | ブログ『意味の周辺』に2回に分けて上記記事を続けて掲載しましたので、ここに併せて掲載します。この二つの記事はかなり密接に繋がっていますので、最初の方から併せ読むことでさらに良くご理解いただけるのではないかと思います。なお、最初の記事は『座標系』『方向軸』との違いについて論じていますが、書き洩らした重要な要素に気付きましたので、ここで予め付記しておくことにします。を含むブックマーク ブログ『意味の周辺』に2回に分けて上記記事を続けて掲載しましたので、ここに併せて掲載します。この二つの記事はかなり密接に繋がっていますので、最初の方から併せ読むことでさらに良くご理解いただけるのではないかと思います。なお、最初の記事は『座標系』『方向軸』との違いについて論じていますが、書き洩らした重要な要素に気付きましたので、ここで予め付記しておくことにします。のブックマークコメント

● 方向軸はヒトが知覚する方向感に基づいていますが、座標軸の方は感覚に由来する知覚とは関係ないもので、いわば思考空間で思考するための思考の産物です。ということは、方向軸はある意味、感覚に基づく実在性を持っていますが、座標軸にはそのような実在性は想定できないことです。

以下、二つの記事を続けてそのまま採録します。

鏡像の意味論、番外編その5 ― 等方空間を表現する「座標系」と、異方空間を表現する「方向軸」

| 14:27 | 鏡像の意味論、番外編その5 ― 等方空間を表現する「座標系」と、異方空間を表現する「方向軸」を含むブックマーク 鏡像の意味論、番外編その5 ― 等方空間を表現する「座標系」と、異方空間を表現する「方向軸」のブックマークコメント

今回は最初から端的に表題の件について説明したいと思います。


「座標系(coordinate system, reference system)」は英語でも日本語でも極めて明確な意味を持ち、かつよく使われる概念であるように見えます。一方の「方向軸(directional axis)」は、英語でも日本語でも、あるにはあるが、使われる頻度が少なく、多くの分野で共通するような定義は見られないように思います。ここで私は方向軸を、表題のように、異方空間の方向を表現する軸であると定義したいと考えます。そうすることで、等方空間と異方空間との違いを極めて簡潔にわかりやすく表現できるようになると考える次第です。ちなみにWikipediaを見ると「方向(Orientation)」と「向き(Direction)」について数学上と物理学上の定義がありますが、数学用語の素養がないために読んでも分からず、この際無視するしかありませんでした。



【等方空間における座標系】


座標系で等方空間を表現できるのは、ひとえに座標系が原点ないしはゼロ点を持つ必要があるからであるといえます。座標系では、空間内のすべての点が原点または他の点との相対的な位置関係でしか表現できません。

各々の位置は各座標軸における原点からの距離で表現されるわけですが、原点のどちら側であるかによって+か−の符号が付けられます。この際、原点からの一方はすべて+であり、同じ側にある位置はすべて同様に+であり、どちらがより大きく+であるとか、より多く−であるということはできません。ですから+と−とは方向としての意味を持つわけではなく、相対的に反対であるという区別を示すのみであって、+と−を入れ替えても何も問題はありません。財務でいう黒字と赤字のような、また電気の正負のような意味上の差異はありません。x軸上の同じ側にある二つの位置は、変数であるxの数値の大きさの差異のみで示されます。

x軸とかy軸とかz軸はどれも特定の方向を示すのではなく、相対的に90度の開きがあることを示すのみです。これらは変数を表す符号であって、方向は紙面に描く場合の約束事にすぎません。


以上のとおり、等方空間ではすべての点が平等であり、互いに相対的な位置関係でしか区別されないことが、座標系の概念によって示されているように考えられます。



【異方空間における方向軸】


以上の座標系に対し、方向軸は異方空間に特有なものです。異方空間では最初から空間内の個々の位置が決まった価値を持っています。それは固体分子の個々の位置が確定していることからの類推であるとマッハは考えたようです。いわば一定の外形を持つ物質塊であって、人体のような上下前後左右の方向を持つ個々の物体やその像を外部から見る場合にはその外形から判断して、正立する人物像であれば頭の方が上、足の方が下というように軸方向が判断されます。このような軸は+と−で方向が判断されるわけではなく、個々の位置が方向を示す極性を持っているわけです。ですから、

  • 両側を+側と−側に分けるような原点ないしゼロ点は必要ありません。磁石のS極とN極と同様にゼロ点が無く、各位置が矢印で表される極性を持つということができます。
  • 原点が無いので同じ方向軸は無数に存在しています。
  • また上や前や右などは固有の形状から判断されるものであり、いったん確定した以上は、各点の位置は絶対的に定まっているものであって、相対的に動かしたり、入れ替えることはできません。軸を動かすことは固体の塊と同様、その全体を動かすことであり、一つの方向軸を中心に回転させると全体が回転します。直行する他の二つの軸も一緒に回転します。ですから一つ目の軸を任意の位置で確定した後は、その軸を中心とする回転平面の中でもう一つの軸を確定すると、残りの軸は同時に固定されています。これは上下前後左右の軸を任意に決定する場合、二つの軸しか決定できないことに対応しています。

こうしてみると、固有座標系という概念は、ひとえに等方空間と異方空間の概念、区別がよく理解されていなかった状況において案出された必然的な帰結であったといえるのではないでしょうか?

というわけで、簡単に一言でいえば、異方空間で定義できる「方向軸」は、少なくとも極性を持つ点で座標系とは異なることになります。


何度も述べていますが、等方空間と異方空間の差異を(おそらく) 最初に見出したのが物理学者心理学者でもあったマッハであるにも関わらず、その後に続いた心理学者がマッハのこの発見の重要さと本質に気づかず、極めて皮相的にしか空間の異方性を考察していないように見られることは極めて重大なことのように思われます。


もう一つ重要なことは、これは特にカッシーラーが(マッハはそれほどでもなく)強調していることですが、等方空間は幾何学空間と呼ばれるように、あくまで思考空間であって直接感覚的に、視覚や触覚のように感覚器官をとおして認知できるような空間ではないということです。座標系を利用して対掌体を作図したり、面対称の図形を作図したりすることは可能で、これは「変換」とも呼ばれますが、これはあくまで数学的な思考プロセスであって、現実に感覚をとおして知覚される空間でこのような「変換」が生じているとは言えないと思います。鏡像関係を光学的な変換とみなすことは伝統的な考え方のようですが、決して光学的に、一方が他方に変えられるわけではない。ただ鏡像と直視像とを見比べて一方が他方の数学的な変換に相当するに過ぎないのです。

2018年6月16日 田中潤一)

鏡像の意味論、番外編その6 ― 「左右軸の従属性」の精密化と再定義

14:27 | 鏡像の意味論、番外編その6 ― 「左右軸の従属性」の精密化と再定義を含むブックマーク 鏡像の意味論、番外編その6 ― 「左右軸の従属性」の精密化と再定義のブックマークコメント

まず前置きです。ここ数回にわたって『鏡像の意味論、番外編』というタイトルで続けてきましたが、番外編としたのは、鏡像問題や鏡映反転の問題に関係はもちろんありますが、単に鏡映反転の問題ではなくもっと根本的で意義深い問題を考えていることを示したいからに他なりません。前回、認知科学会に提出したテクニカルレポートの元になる論文を提出した際も、タイトルでそれを表現したつもりだったのですが、単に鏡映反転のケースを説明するという視点でしか評価なさらない先生がおられたのが残念です。


さて、「左右軸の従属性(Subordination of the right-left axis)」 はTabata-Okuda(2000)において提起された表現で、Corbalis(2000)でも同様の趣旨が提起されているとされるわけですが、最初この理論を日本認知科学会誌の鏡像問題特集に含まれる日本語論文で読んだときから直観的に、これは真実に近いものと感じられました。それにも関わらずどこか隙があるような印象は拭えませんでした。「左右軸の従属性」自体は鏡映反転を説明する原理ではなく、簡単にいって上下前後左右と名付けられる三つの軸方向のセットにおいて左右軸の性質を表現しているのであって、ここで左右軸の意味は非常に抽象的です。今にして言えることは、「左右軸」というシニフィアンシニフィエがはっきりしないのです。ただ説明の具体的な根拠として使用されているのは人体の形状です。そしてその表現は、両者で微妙に異なりますが、また英語と日本語でも微妙に異なるのは当然ですが、論理的な構造はだいたい同様で、対象物の上下前後左右を定義する順序において左右軸が最後に定義される点で、左右軸が従属的であるとされています。しかし人体の上方が頭頂の方向であり下方が足下の方向、前が視界の開ける方向、という風に常識的に考えると、人体の上下前後左右のどれについてもだれが定義したともいえず、最初から完全に定義済みであるという他はなく、新たに定義する必要はないはずです。とはいえ、例えば人体の状態を客観的に表現する場合、上方は、普通は頭頂の方向と重なるものの、天に向かう方向を意味するのではないでしょうか?そして人はいろんな姿勢をしますから頭頂部が常に天の方を向いているわけではありません。これは前回までにシニフィアンシニフィエとの関係で考察したところです。ですから、確かに人体に対して新たに上下前後左右を定義する可能性は確かにあるとは言えます。また人体以外の対象物やイメージに対しては何らかの基準で定義する必要が生じてくるでしょう。しかしこれはむしろ、やはり前回までに明らかにされたように、ある特定のシニフィエに対応してすでに定義済みのシニフィアンを当てはめるという意味で、「定義(define)」ではなく「適用(apply)」あるいは「割り当て(assign)」という用語を使用する方が正確であるといえます。そして割り当てられるオリジナルのシニフィエは観察者の知覚空間、体性感覚と視覚とが結びついた知覚空間の上下前後左右と考える他はないことは、先に考察したとおりです。ただし体性感覚とは別に重力方向の感覚があり、これは上下方向という一軸だけしか想定できません。



以上のように、「左右軸の従属性」原理における上下前後左右の「定義」という用語は、対象物または対象の像への、人間知覚の上下前後左右のシニフィエの「適用」または「割り当て」と言い直すことで、この原理の前提となる条件が確定できるように考えられます。ここで新たにシニフィエを割り当てられる対象物は固体物体または三次元的形状の安定した像であり、固体が占有する空間のような異方空間とみなされることは前回のとおりです。その異方空間の性質は前回明らかになったように方向軸で表現され、三次元的な三つの方向軸のうちで新たに定義できるのは二つの軸のセットであり、残りの一軸は他の二つの軸に対して固定されていることも前回あきらかにされたとおりです。従ってこの残りの一軸は「最後に定義される軸」というよりも最初の二つの軸と同時に自動的に割り当てられる軸であり、その意味で「従属性」という表現は全く適切です。ただしそれが常に左右軸になるかどうかは、また別の問題であるといえます。


他方、人体の形状が左右対称に近いことが左右軸の従属性の理由であるとされ、対称性の大きさあるいは程度という量的な側面が問題にされていますが、現実の偶発的に観察できる人物が左右対称に近いことはそれほど多くはありません。歩くときの両脚の位置は常に非対称であるし、両手の動きも大抵は、例えばバイオリンやギターを弾いているときなど完全に非対称です。またアクセサリーや持ち物が左右対称であることは稀でしょう。ただし、人類に普遍的に共通する形としては、少なくとも外見は左右対称であるといえます。Corbalis(2000)ではこれを「canonical(正規の)」と表現していますが、この言い方は正確ではないと思います。つまり個人ではなく人類共通の特徴というべきでしょう。ですから観察者が特定の他人を認知する場合、まず誰であるかよりも先にそれが人間であることを認知していることは確かです。人間一般の特徴としては外見上の左右差は見られないので、方向としてはまず上下と前後が認知されることは確かでしょう。その意味で左右軸の従属性は確かに否定できません。しかし次のような場面も想定できます。


例えば暗がりや逆光の中で人の姿はわかるが影絵のようにどちらを向いているかがわからない場合、左右を判別することで前後の向きを判断するしかありませんね。よく知っている人であれば何らかの左右の特徴が基準になるかもしれません。昔の侍なら刀を差している方が左ということになるでしょうか。これは人の場合ですが、一般に人以外のものに上下前後左右を判断する場合は、さらに左右軸の従属性が弱くなるものと思われます。


という次第で、「左右軸の従属性」原理は下記のように精密化し、さらに再定義する必要があるように考えられます:

  1. 上下前後左右の各軸の「定義(define)」の用語を「適用(apply)」または「割り当て(assign)」に変更
  2. 割り当てられるべきオリジナルの上下前後左右の「シニフィエ(signified)」は観察者の知覚空間(異方的)の上下前後左右のシニフィエであること
  3. 特定軸の「従属性」は、割り当ての順序が最後になることではなく、観察者の判断による割り当ての不可能性、もしくは他の二つの軸の割り当てによる自動決定を意味すること
  4. 左右軸の従属性は人体の場合に優勢ではあるが絶対的ではなく、人間以外の、特に道具などではそれほど顕著とは言えないこと

もう一つ重要な点は、この原理自体は鏡像問題、特に鏡映反転の問題とは無関係に定義できる原理であって、鏡映反転の問題に適用する場合はさらに別の考察が必要になることは言うまでもないことで、対掌体の性質はその一つですがそれだけともいえないように思われます。それにしても左右軸の従属性は鏡像問題とは離れて、人間の視覚認知のうえで認識論的にも非常に奥深い問題ではないだろうかと思う次第です。

2018年6月25日 田中潤一)

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2018-05-03 シニフィアンとシニフィエによる分析(鏡像問題番外編その4)

シニフィアンとシニフィエによる上下前後左右の分析 ― 鏡像の意味論番外編その4

| 23:20 | シニフィアンとシニフィエによる上下前後左右の分析 ― 鏡像の意味論番外編その4を含むブックマーク シニフィアンとシニフィエによる上下前後左右の分析 ― 鏡像の意味論番外編その4のブックマークコメント

ブログ『意味の周辺』に、「鏡像の意味論番外編、その4」として5回にわたり「シニフィアンシニフィエと上下前後左右」のタイトルで掲載した記事を掲載日順に、一括して掲載します。若干の後からの変更はありますが、各回の副題は次のとおりです。

一)副題なし(2018/01/15)

二)シニフィアンの一人歩き(2018/01/18)

三)シニフィアンならぬシニフィエの一人歩き(2018/03/18)

四)多様なシニフィアンシニフィエの対応関係(2018/04/04)

五)「定義」と「割り当て」をシニフィアンシニフィエで解析する(2018/04/26)

5回分なので長くなりますが、掲載順の関係で元ブログの記事よりも分かりやすくなっていると思います。ただ、5回目最後の記事は一応全体のまとめになっていますので、最初にお読みいただいた方がインパクトがあると思います。全体的に読み返してみるといくらかの混乱があるようにも思われますが、それについては今後も再考することにして、とりあえず以下に:

シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)

23:20 | シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)を含むブックマーク シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)のブックマークコメント

「意味するもの」と「意味されるもの」という表現についてはこの鏡像の意味論シリーズでも使用したことがあります。しかし、このこれらの表現については、私はこの方面で専門的に詳しいわけでは全くありませんが、シニフィアン(signifier)とシニフィエ(signified)という公認の術語がある以上、この言語学の専門的な術語を使った方がむしろ分かりやすく、インパクトもあるように思います。

シニフィアンシニフィエとの関係は、上下前後左右という言葉たちを理解する鍵になると思います。

例えばリンゴという単語はたいていはリンゴの果実を表しますが、リンゴの木を表す場合もあり、象徴的に、また比ゆ的にも様々な意味で用いられます。しかしリンゴの場合は殆どの場合、文脈で何を意味しているかはすぐに分かるものです。ですから日常的にはいちいちリンゴという言葉が何を意味しているのかを考える必要などありません。しかし上下前後左右はそういう訳にはゆかないもので、日常的にもしばしば混乱が生じることもあります。人間だけをとってみても、上は普通、頭頂部を意味しますが、逆立ちをしている人の場合、「上」が足の下を意味することもありもます。また、いま私が使っているキーボードでは数字は1から0に至るまで左から右へと並んでいます。アルファベットではQが左端にありPが右端にあります。「右」の辞書的な定義は、ヒトが北を向いたときの東側ということですが、キーボードの前側を北に向けると、Qは東側にあり、ヒトが北を向いた時の右側に相当します。Qは本来キーボードの左側にあったので、ヒトにおける左右の定義とは逆ということになります。このように左右の場合、シニフィアンシニフィエとの関係が対象により逆転する場合が生じます。これは左右に限ったことではありません。キーボードを裏返して前側を北に向ければヒトの場合と同様に東側が右側に一致しますが、当然、上と下の関係が逆転することになります。同様に、ヒトの上下は頭や身体の各部で表現されるにしても植物の場合はそうは行きません。第一、植物には上下はあっても左右や前後はないのが普通です。

このように一見、左右だけが特別に思われがちですが、上下、前後、左右はすべてこの点では同じことです。マッハが「左右も上下や前後と同様に異方的である」と考えたのもそういうことだと思います。

ここで、例として「上」だけをとって考えてみますが、あらゆる物、あらゆる場合に共通する 「上」の概念、あるいは何故にヒトの頭の方向や植物が成長する方向に「上」という言葉が用いられるのかを考えてみる必要が当然のこととして生じます。それは、つまるところ視空間における「上」が根本的な基準ではないかというのが私の考えです ―― 視覚に関係する限り ――。天と地、あるいは地上という環境が本来の上下の基準なのではないか?という反論が呈されるかもしれません。しかし真に客観的に、この場合は物理的に考えてみると、天の方向は地球の裏側では逆になるはずです。天地、あるいは地上環境という概念自体が物理的なものではなく、ヒトという個人ではないにしても人間一般に共通する主観的な空間が起源であるとものと考えられます。

こうしてみるとヒトの知覚空間、この場合視空間はシニフィエで満たされた空間であるというができ、 つまるところ「意味されるもの」、簡単に言って「意味」そのもので満たされた空間であり、その中で方向を表す上下前後左右のそれぞれが異なった意味を持つ以上、あらゆる方向と位置で異なる意味を持つ空間であると言え、視空間は「異方的」であるということができるのだと思います。

このように空間の異方性を理解する鍵はシニフィアンシニフィエとの関係にあり、『意味』にあると思います。

シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― シニフィアンの一人歩き

23:20 | シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― シニフィアンの一人歩きを含むブックマーク シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― シニフィアンの一人歩きのブックマークコメント

前回の続きです。冒頭から余談になりますが、「シニフィアンの一人歩き」というフレーズをグーグルで完全一致検索してみると4件ほど見つかりました。紙の文献ではかなり一般的な表現のような気もしますね。

さて、一昨年の暮れに多幡先生からご提供いただいた文献の中にBennet(1990)という「左右の違い」という抽象的なテーマのみを扱った論文がありました。この論文は鏡像問題自体がテーマではなく、このテーマだけでA4くらいの二段組で18ページという長い論文でもあり、これまで読んでいなかったのですが、今回、少し覗いてみました。今の時点で全文を読むのは余りにもしんどい作業なので最初の一ページのほかは、ちらっと見た程度ですが、この著者は、マッハがカントのプロレゴーメナの一節から展開した発見を繰り返しているような印象を受けました。ただしマッハとは似て非なる方向になっているように思います。

両者の違いがどこに起因するかを考えてみると、結局、マッハはプロレゴーメナのみを参照しているのに対してBennetはプロレゴーメナの他にもう一つの初期の論文を参照していることにあるようです。というのは、カントの初期の論文では「右と左の違い」が論じられていると著者が考えているのですが、プロレゴーメナではもはや「右と左の違い」の違いではなく「右手と左手の違い」だけが取り上げられているからです。

端的にいって「右と左の違い」は「右手と左手の違い」とは全く異なります。ここにシニフィアンシニフィエの出番になるのですが、右・左と右手・左手は、シニフィアンとしては非常に強い関係があり、よく似ていてますが、シニフィエは全く違うといってよいと思います。「右と左の違い」は難しい問題ですが、「右手と左手の違い」は単純に三次元的な形状の違いに還元できるわけです。カント自身、プロレゴーメナの中では「右と左の違い」にはもはや言及していないと思いますし、マッハもここでは「右手と左手の違い」に徹して、対掌体の概念を説明するに至っているものと考えられます。

マッハは他方で「右と左の違い」を「右手と左手の違い」とは離れたところで考察した結果、「左右も上下・前後と同様に異方的である」という発見ができたのだと思います。カントは「右と左の違い」を考えたとき、「上と下の違い」や「前と後ろの違い」を考えることがなかったのに対して、マッハは心理学者生理学者でもあったので、感覚の問題として上下・前後・左右を考えることができたからではないでしょうか。カントも左右を感性あるいは直観の問題とみなしていたとは思いますが。

それにしても現代の英語圏心理学認識論の分野でマッハがあまり参照されていないように見えるのはなぜなのだろうか?という疑問がここでも起こります。 ガードナーにしても、あの有名な著書の中で、物理学者としてはマッハを非常に尊重しているのに心理学者あるいは認識論学者としてのマッハには全く言及していないのです。マッハが鏡像問題を考察しているにも関わらずです。

さて、シニフィアンシニフィエに戻りますが、以上のように上下・前後・左右をシニフィアンの視点で見直してみれば、上下・前後・左右を軸とした「固有座標系」の概念にはやはり無理があるように思います。というのは、一般に座標軸で使われるx、y、zは変数であって何の値でも良いわけですが、そういうところに上下・前後・左右を持ってくると、上下・前後・左右のシニフィアン文脈を離れて一人歩きするようになり、知らぬ間にシニフィエがすり替わったり逆転していたり、という話になりかねないと考えるわけです。これはまた数学的表現や幾何学的表現自体にもいえるのではないかと思え、早くからゲーテ数学の過剰な使用について危惧していたことも思い起こされます。

シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― シニフィアンならぬシニフィエの一人歩き

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【今回の結論】

  1. 視空間の全体(前方半分しか見えないが)は見える世界全体のイメージと重なっているが、それぞれの上下前後左右のフィニシエは両者で一致することなく常に移ろっている。
  2. 視覚像全体の上下前後左右は視空間の上下前後左右とは独立しているものの、無関係ではない。なぜなら環境としての視覚像の中心には常に観察者が存在し、観察者なしで存在しえないからである

上下・前後・左右に関してシニフィアンシニフィエの関係は考えれば考えるほど奥が深く、まことに複雑で微妙なものがあります。先にシニフィアンの独り歩きを考えてみましたが、逆のシニフィエの独り歩きも考えなければならないまでになってきたようです。

同じ「上」でも視空間の上と視覚像の上とは別物で、つまり同じ「上」でもシニフィエは異なることになります。例えば視空間の上の方向は当人がまっ直ぐに立っている場合は当然頭上の方向になり、同時に通常は当人が見ている対象に割り当てる「上」と同じ方向になるといえます。

ここで当人が、例えば畳や長椅子の上などで左側を下に横になって室内とテレビ台上のテレビなどを眺めている状況を考えてみます。こういう時はたいてい腕枕などをしているものですが、この際、頭も真横になっているとします。このとき彼は、室内全体とともに机の上面もその上のテレビもテレビに映っている人物についても、彼がまっ直ぐにしているときと同様に「上」を割り当ててそう認識していると考えるのが自然でしょう。このとき彼の身体の右側は立っている他人が見るともちろん上ですが、当人自身も自分の身体の右が上を向いていると考えることでしょう。この場合、視空間についてはどうでしょうか。まあ普通は視空間などというものは意識しないものですが、しいて言えばやはり身体の感覚に合わせて頭部の右側に相当する側を右とみなすように思われます。ところが視空間の頭頂部の方向や足元の方向についてはどのようにみなすでしょうか。どうも「上」や「下」とはみなし難いのではないでしょうか。例えばテレビのなかで人物がこちらを向いているているとすれば、その人物の方向に合わせて右または左とみなすのではないかと思われます。しかし当人の視空間の頭頂部の方向というフィニシエ自体は同じものなのです。ですからこの場合はもともと彼の視空間の「上」に相当するフィニシエが視空間内の対象イメージのフィニシアンにほうに引っ張られ、そちらの方に移動してしまったと見ることができます。

このように言葉の意味はまことに移ろいやすく同時にシニフィアンシニフィエとの結びつきも移ろいやすいものだといえます。シニフィアンシニフィエとの関係は目に見えないものであるだけに何らかの学問体系でいかに厳密に定義しても完全には統御できないもののように思われるのです。しかし逆に言えば、シニフィアンシニフィエの関係はまたとない意味分析の手段であるともいえるかと思われます。実を言えば、個人的にシニフィアンシニフィエについてはかなり昔、新書版程度の薄い入門書で知った記憶があるだけで、最近まであまり考えることもなかったのですが。

― 内側から見た環境あるいは世界のイメージは事実上、視空間と重なっている ―

こうしてみると視空間と、視空間で見る個々の物体ではなく環境全体のイメージとは完全に重なっているといえます。ただし室内空間の場合は室内という内部空間ということもできますが、青天井は文字通り天井ではなく、下方の大地もむしろ大地の表面を外側から見ているという感覚でしょう。いずれにしても視空間と完全に重なる全体としても視覚像に想定される上下前後左右は視空間の上下前後左右とは一致することなく独立していると考えざるを得ません。

しかし、環境の上下前後左右と視空間の上下前後左右を互いに独立したものと考えることはできないと思います。なぜなら環境の上下前後左右も視空間と同様に観察者の存在なしには考えられないからです。客観的な環境と考えるとつまるところ地球の形状を想定せざるを得ず、地球のこちら側と裏側では互いに逆向きになってしまいますからね。ただし個々の観察者ではなく集合的な人間集団というもの考えられると思いますが。

もう一つ重要なことは、上述のような全体としての視覚像には決して観察者自身の全体としての姿は含まれないということです。 少なくとも頭部を含む全体像については。

シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― 多様なシニフィアンとシニフィエの対応関係

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ここで一つの例を考えてみます。人が仰向けに寝ころんでまっ直ぐ正面を見ているとします。空を見ているにしろ、天井を見ているにしろ、たいていの人はこういう場合、上の方を見ていると意識するものです。ではこの場合、この人は自分の頭頂部の方向をどのように意識するのでしょうか?この人に尋ねてみると、やはり正立しているときと同様に「上」というでしょうか?これは表現力の問題にもつながりますが、もっと即物的に「頭頂部の方向」ということもできます。足元の方向も同様に、「下の方」というよりも「足元の方向」と表現することが正確でしょう。そうしてみると、仰向けになっている場合は「上の方」も「正面の方向」という方が正確で誤解を防げるように思われます。視空間で考えてみると、この人が正立しているときの視空間の前方が、この場合には上方になっているわけです。

こういう場合、この人が正立している場合の「前」のシニフィエは、知覚される重力方向による「上」 というシニフィアンに引っ張られてくっ付いてしまったようです。そうして、正立しているときの「上」のシニフィエは、別の言葉(シニフィアン)である「頭頂部の方向」に乗り換えてしまいました。同様に「下」のシニフィエであったものが、「足元の方」というシニフィアンに乗り換えてしまったことになります。もはや「前」と「後ろ」、そして「下」というシニフィアンは無用になってしまったようです。しかしこの人が仰向けになったままで本を見たり、スマホなり他のディスプレイなどで映像を見るとしましょう。再び正立しているときの「前」、「上」、「下」というシニフィアンが復活しそうです。

見方を変えてみると、上下・前後・左右の各シニフィアンには絶対的にひとつづつが1対1で対応するシニフィエというものは無いと考えた方がよさそうです。例えば英語では日本語の上下にそのまま対応できるような言葉はありません。「上」の場合、topがあてられることもありますが、aboveとかonとかupとか、別の表現が求められる場合が多いですね。「後ろ」も少なくともbackとrearの二とおりがあります。日本語でも、特に「上下」の場合は「天地」が使われる場合が多々あります。ところが面白いことに左右だけは日本語でも英語でも常に右と左、rightとleftなんですね。

では左右のシニフィアンが常に、絶対的に不動かといえばそうではないと思います。視空間の場合に限っても、上述のように仰向けではなく横になって、例えば右を上にして横になっている場合、正立しているときの視空間の「右」のシニフィエはやはり、仰向けの場合の前方と同様に「上」というシニフィアンに引っ張られて乗り換えることが多いのではないか思います。ただしこの場合は「右」というシニフィアンが残る場合も多いのではないでしょうか。両者のシニフィエが同時に共存しているのかもしれません。実験のテーマになるように思います。

上記は左右の特殊性というより、むしろ上下の特性に由来しているように思います。というのは重力方向の知覚には上下だけしかないからです。

実は、今回の稿は重力方向の知覚と視空間の上下の問題について考えていたことがきっかけだったのですが、シニフィアンシニフィエの関係で前回の続きのようにになってしまいました。

重力方向の知覚と鏡像問題の関係は興味深い問題ですが、しかし鏡像問題とくに鏡映反転の問題に限った場合、実際の現象適用するにはあまりにも複雑になりすぎるように思われ、今の段階であまり追求しても仕方がないように思います。鏡像問題、特に鏡映反転の問題では視空間の上下前後左右ではなくむしろ対象となるイメージ、つまり像の上下前後左右が問題であり、この場合の上下前後左右は観察者が独自の基準で像に割り当てるものだからです。ただし完全に任意に割り当てることができるのではなく、2つの軸だけしか任意に割り当てることができないということです。これが多幡−奥田説の「左右軸の従属性」の本質であるように考えています。ただ今回のテーマは鏡像問題から離れていますのでこの問題についてはこれまでにしておきます。

視空間の問題に戻ると、視空間自体の方向性は上下前後左右という抽象的な、シニフィエが浮動しやすい方向性ではなく、身体の構造、外形に現れる構造あるいは機能に由来するものであることが明らかになってきたようです。

今後は基礎的な知覚あるいは感覚そのものの研究で、シニフィアンシニフィエの視点による考察の展開が望まれるような気がします。実は少し前、先週ですが、次の研究をネットで見つけました。

『重力方向知覚における視覚刺激の過T向きと種類および身体の傾きの影響』根岸一平・金子寛彦・水科晴樹、東京工業大学大学院理工学研究科物理情報システム専攻 ― 光学 38, 5 (2009) 266-273

https://annex.jsap.or.jp/photonics/kogaku/public/38-05-kenkyuronbun.pdf

十分に読んではいませんが、改めて重力方向の知覚について感覚器官との関係などを含めて興味深い知見を得ることができました。ただこの種の実験的研究で特徴的なことは常に角度などの数値的なデータをとることに重点が置かれていることです。ですから有名なI.Rockの研究と同様、身体を機械的に傾けるといった多少大掛かりな装置が用いられています。とにかく現在の科学では実験に基づく定量的な研究が主流であることを物語っているように思います。それに対してシニフィアンシニフィエの視点による意味分析の方が、さらに本質的な問題に切り込んで行けるのではないかと思うものです。

シニフィアン、シニフィエと上下前後左右(鏡像の意味論、番外編その4)―― 「定義」と「割り当て」をシニフィアン・シニフィエで解析する

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いくつもの英語の鏡像問題論文を調べてみて気づくことの一つに、defineという用語が頻繁に出てくるということがあります。当然日本語の論文でもそれに対応して「定義する」という表現が頻出しているわけですが、どういう局面でそれが出てくるかといえば、要するに目に見える人や物の上下前後左右を決めることをdefineと言っているわけです。また上下などの方向、あるいは方向軸を決める場合もあります。一方で、ごく頻度は少ないですがassign「割り当てる」という用語も同じような局面でわずかに使われています。ただし使用頻度としては1/50くらいの差があるのではないでしょうか。日本語の論文でも対応して「割り当てる」とか「当てはめる」とかを使っている場合もあるようです。

ところでIttelson(1991)の論文で、有名な哲学者心理学者のW. James(1890)が引用されているのですが、そこでJamesは、一個のキューブの前後上下左右を決めるのにLabelという用語を使っています。Jamesはそこでの考察として興味深いことに、「左右」は赤や青などの色のようなものであると述べています。これは感覚質、あるいは以前有名になった言葉で、クオリアですね。

ジェームズは、人間ではなく単なるキューブに上下前後左右のラベル付けすることを言っているわけですが、このlabel という表現は日常的な表現に近いといえます。例えば木彫の彫刻家が木のブロックで最初に上下前後左右を決めたりする場合、日本語では普通は「決める」とか「決定する」などと言うと思いますが、「割り当てる」というのも不自然ではないし、ジェームズのように「ラベル」付けするという言い方もあると思います。しかし日常的にはこういう場合「定義する」とはまず言わないし、英語でも、日常語としてdefineとはあまり言わないのではないでしょうか。また木のブロックなどではなく、人物の姿や人物以外でも上下前後左右を持つように見える物体の上下前後左右を判断する場合に「定義する」というのは不自然に思われるのではないでしょうか?

ここでシニフィアンシニフィエを使って「定義する」と「割り当てる」を分析してみようと思います。

端的に言って「定義する」という言葉は本来、未だに確定したシニフィアンを持たないシニフィエに、確定したシニフィアンを与える、ということではないでしょうか?要するに、科学の分野でも、科学ではなくても、まだ名前のない新しい概念に名前を付けるということです。特に例を挙げるのも面倒だし、必要もなく、お分かりいただけると思います。それに対して「割り当てる」は、すでに確定したシニフィアンシニフィエのセットとしての言葉を特定の対象に当てはめること、ということだといえます。


彫刻家が木のブロックの方向を決める場合、 少なくとも普通の正面向きの人物立像である場合、人物の上下前後左右として「確定したシニフィアンシニフィエのセット」を木のブロックに「割り当てる」ことになると思います。

とすれば、少なくとも正立した人間の場合、上下前後左右のシニフィアンシニフィエのセットは最初から確定しているのであり、わざわざ定義などする必要はないはずです。ですから、正立した人物の姿に新たに上下前後左右を「定義する」というのも不自然です。しかし、確定しているからと言って、直ちに他人の上下前後左右を、少なくとも左右を認識できるかと言えばそうでもないでしょう。また横たわっている人物や倒立している人物にもこれらがすべて確定しているとは言えないように思われます。

そこで人物像の場合は一般的に表現するなら「定義する」よりも 「見つける」の方が、英語の場合はfindが最も適切な表現ではないかと思います。 さらに彫刻や映像作品ではよくあることですが向き合って抱擁したり、格闘したりといった集合的な人物の場合はどうでしょうか?こういう場合は観察者独自の判断によるしか定義のしようがないでしょう。芸術作品の場合は作者が決めることであるし、生け花盆栽なども審美的に決まるものでしょう。そういう場合は「定義する」がふさわしいように思われるかもしれません。しかしこの場合は対象が人間ではあっても一人ではなく複数の人間であるし、芸術作品になればそれはなおさら別物であり、つまるところ彫刻素材の木のブロックに上下前後左右を割りてるのと同じことであり、すでに他の対象(すなわち一人の人間)で確定した(定義済みの)のシニフィアンシニフィエのセットとが割り当てられたものと言えます。これは横たわっていたり倒立していたり、という正立していない一人の人間の場合にも言えることだと思います。

では、その、正立している人間の上下前後左右は一体いつだれが定義したのでしょうか?これはもう、日本語として言語的に、あるいは辞書的に定義されているとしか言いようがありません(例えば人が北を向いた時の東が右)。言語的な直観とでもいえるようにも思われます。ではそのシニフィアンに対応するシニフィエは一体何でしょうか?それを考えるときに問題になるのは、そのシニフィエはいつでも常に上下前後左右というシニフィアンと対応しているとは言えないことです。これは前回の話題になったように、あるシニフィエは常に同じシニフィアンにくっついているとは限りません。前回は自分の視空間の立場で考察してみたわけですが、他人を見ている場合も仰向けに寝ている人を見れば、普通は顔やお腹の方を上と見るのではないでしょうか。横になったり、逆立ちしたりというだけではなく、よじったり、腰を曲げたりすることができるし、絶えず動き回り、位置と姿勢が変化しています。そういう問題を避けるために位置や姿勢とは関係のない頭部だけを取り出して考察してみることもできます。他方、あらゆる人間に共通する要素を取り出してみるとすればやはり正立して動きのない状態の人間で考察すべきかもしれません。ただ簡単のために、ここでは頭部で考察を進めてみたいと思います。

しかし、単純化のために頭部だけを取り出してみても、何が上下前後左右などの方向軸あるいは方向性の(究極の)シニフィエなのかということは、色と同様、結局はそれを指し示すことでしか表現できないわけですが、やはり色もいくつかの指標で表現されているのと同様、 何とか言語的に表現しない限り話になりません。結論を言ってしまえば、それが知覚空間であり、幾何学空間の等方性に対して異方的な性質を持つということになるのだと思います。しかしその結論に至るまでを説明しようとすると、それはちょっと一筋縄ではゆかないように思います。ですから知覚空間、視空間の性質から逆にたどって他人というか、具体的な人間の身体へと対応付けてゆく方法をとるのも一つの方法だと考えます。

単に形状などのイメージと考えれば彫刻や人形と同様、それは人間そのものの写しでしかないわけです。ただしそこには人間という存在の意味が込められているわけです。ですから、それらの方向軸は先に考えたとおり、「定義された」ものではなく(意味が)「割り当てられた」ものです。ですから少なくとも外的な形状そのものではないことは確かです。第一、外的な形状では、左右について方向が区別できません。しかし知覚空間と考えるならば、左右についてもはっきりとした違いがあります。左右を逆にした文字列が読みづらいことは上下を逆にした場合と同様です。視空間の全方向的異方性についてはこれで十分だと思います。

こうしてみると、具体的な個々の人間(の身体)の方向軸のシニフィエも他の物体やイメージと同様に「定義する」ものでも「定義された」ものでもなく、「割り当てる」ものであり、その割り当てられるオリジナルのシニフィアンシニフィエのセットは、視空間のものであるということができます。

というわけで上下前後左右に相当する(常に上下前後左右という言葉で表現されるとは限らないものの)究極の、根源的なシニフィエ幾何学的な形状が持つものでも、物質的な身体のが持つものでもなく、視空間という知覚空間が持つ方向感覚が反映されたものと思われます。ではそれは何に由来するのかといえば視覚自体に由来するとは言えないと思います。それは身体感覚か、生理学医学で言われる体性感覚などに由来するとしか考えられません。というのも、視覚を持たない人にも、目を閉じているときでもそのような感覚はあるからです。

視覚自体もそうですが、こういった知覚は主観的なもので、他人の知覚をそのまま認知することはできないものです。そこで、端的に言って、他人の姿、つまり像に自分を重ねて、擬人的に推定するしか比較しようが無いものです。この点で、高野陽太郎先生が鏡像問題の議論において鏡像を擬人化して左右を判断しているのは自然なことであり、そのこと自体は良いとしても、それで鏡像問題、鏡映反転の問題が解決したといわれてもねー?ということですね。そこから鏡像問題よりも視空間の問題へと広がれば良かったと思うのですが。全般に鏡像問題の論文で、少なくとも意識的に、「視空間」という用語を使用して考察を進めたものがなかったことも問題であると考えています。

(2018年5月3日 田中潤一)

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2017-12-03

非光沢PCディスプレイ画面に光沢塗装することで得られる目覚ましい画質向上

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このブログでは今回が初めてですが、ちょっとした技術的な試みについてレポートしたいと思います。技術的な実験とはいっても、中味はだれにでも考えられそうなことで、実際にすでに実行している方々もあるのでないかと思います。しかし個人的に非常に目覚ましい効果が得られたので、こういう方法がもっと普及しても良いのではないかと思えるし、科学技術的にも興味深い問題を含んでいると考え、本ブログで公開することにしました。まず下の2枚の写真をご覧ください。

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両方の写真に写っているのは同じもので、手前のノートパソコンの向こう側に大型のディスプレイを後付け追加したものです。どちらも昨年に購入したもので、いずれのディスプレイも4Kですが、ノートパソコンの方は光沢画面であるのに対して後付けの大型ディスプレイは非光沢つまり艶消し画面であったものに水溶性の「つやだしニス」を刷毛で塗った状態です。塗装する前の状態は写真に撮っていないのですが、とりあえず、塗装で得られた効果についてご報告したいと思います。

定量的に一言で表現すれば、元の艶消し状態と完全な光沢ガラス面との中間であると言えますが、実際には両者の長所のみが強化され、両者の短所が共に軽減されているといっても過言ではないでしょう。一例として次の写真を見てください。

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赤い矢印の先は塗り残した部分です。こうしてみると、艶消しが残っている部分には右に映りこんでいるランプの光が拡散し、視覚的には映り込み部分と殆ど変わらないほどの光を反射しているのに対し、下の塗装面は事実上画面の黒さがほぼ維持されています。こういった個所を含め、塗装面を正面から見る限り、少なくとも光沢ガラスと同程度の乱反射防止能力は得られていると思います。実際に絵や文字を映した結果もその通りで、画面を正面から見る限り手前のノートパソコンの光沢面にくらべて遜色のない鮮明さを得ていると感じました。

一方、上の2枚の写真に戻ってみると、どちらにも上方の2つのランプはもちろん、やや明るい部分の映り込みが見られます。しかし映り込みの明瞭度に加え明るさの点でも、塗装面では光沢ガラス面に比べてかなり緩和され、穏やかでノイズ感が軽減されています。加えて光沢ガラスの方では四方に光芒が見られますが、これは多分ガラス下部の液晶構造によるものでしょう。上のディスプレイではその替わりにちょっとした笠のようなものが見られます。おそらく液晶組織の大きさや構造によるもので、塗装とは関係がないかもしれません。いずれにしても後付けディスプレイの塗装面の方が穏やかなことは確かです。

塗装は水彩絵の具用として販売されている「水溶性つやだしニス」というアクリル系の製品を刷毛塗りで行いました。下は最初に現在はあまり使用していない古い17インチディスプレイで試し塗りしてみたものです。下の写真のとおりです。

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上の、4Kディスプレイの方も塗り方が下手で相当にムラがありますが、こちらは初めて塗っただけあって、ある意味でさらに汚い表面になっていますが、使用感には全く影響はなく、画像でも文字でも以前に比べて一段と鮮明で美しい諧調表現を得ています。塗りムラも手作業の跡が、自分で塗ったせいもあり、大げさに言えば手作りの温もりのような効果で、かえって心地よいくらいです。明るい物体が映り込んだ場合などにはムラが強調されますが、光沢ガラスの映り込みよりもずっと穏やかで、ムラ自体はかえって愛嬌というか、面白みになるくらいですね。以下、結論に加えてその他いくらかの考察を行ってみたいと思います。

  • 現在、液晶ディスプレイに通常使われている非光沢ガラスの表面は、光沢ガラス面に比べてむしろ弊害の方が大きいのではないかと思われる。明確な映り込みは防止できるものの、有害な反射面はむしろ拡大される傾向がある。
  • 非光沢に比べて光沢ガラスのほうがカラー画像の画質向上はもちろん、文字の読みやすさにおいても優れている。例えばMS明朝のように線が細く白っぽいフォントの場合、全般にPCディスプレイでは全体が明るすぎて眼にも負担が大きくなるが、非光沢画面の場合はさらに細い線がやや拡散するような傾向があってなおさら読みづらく眼の負担になるのではないかと思う。少なくとも個人的な印象ではこの点でも光沢面の方が眼に優しく、眼の疲労が軽減される。
  • クリア塗装は、少なくとも非光沢ガラス面にアクリル系水性塗料を使用した場合、光沢ガラス面に比べて遜色のない画質向上の効果が得られ、映り込みにおいても、光沢ガラス面よりも大幅にノイズ感が低減される。
  • 上述の塗装はムラのある稚拙な手塗りでも全く問題なく効果が得られ、完璧な平面度の光沢ガラス面に比べて心理的にはむしろ良好な影響をもたらすのではないかと思われる。これは芸術心理の領域ともいえるが、大げさに言えば油絵のマチエールのような効果、あるいは工芸の手作り感のようなメリットもあるのではないだろうか。
  • 今のところ個人的な印象にとどまるが、現在の非光沢ガラスの乱反射は量的にも質的に最適化されているとは言えない。同じ乱反射でも紙などの乱反射に比べて何らかの規則性があり、この規則性がノイズ感を生み出しているような印象がある。

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専門的にはもっと高度な解析も、思い付きとしても、もっと多面的に考察できると思いますが、とりあえずこの程度で十分でしょう。ちなみに、使用した塗料は上記のとおり水彩絵画用として500円で市販されているものを用いました。水彩画ではないので水で薄めて問題なく使用できました。ディスプレイを立てて塗ると塗装面がだれ落ちるので水平にして塗る必要があります。刷毛の毛抜けにさえ注意すれば特に難しくはないと思います。

なお、PCディスプレイが眼の疲労に与える影響については別のブログでも最近、取り上げています

http://takaragaku.blogspot.com/2017/09/pc-el.html

そのうち、ノートパソコンの光沢ガラスの方にも塗ってみようかと考えています。

以上。

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2017-10-27 鏡像の意味論・番外編その1&2

ブログ『意味の周辺』に掲載した記事2本を合わせてこちらに再録します。今回の2つの記事を「鏡像の意味論・番外編」としたわけは、ひとつは「虚像」、もう一つは「上下・前後・左右の概念」という単に鏡像の問題であることを超えた問題を抽出した形で扱っているからですが、鏡像問題からこのような重要で多様な個別問題が浮上してきたという点で鏡像問題が実に意義の深い問題であったことが明らかになってきたように思います。その意味ではこれまでのシリーズ記事とはそう変わりはありません。

虚像(光学的)の一人歩き(「鏡像の意味論」番外編)

| 16:39 | 虚像(光学的)の一人歩き(「鏡像の意味論」番外編)を含むブックマーク 虚像(光学的)の一人歩き(「鏡像の意味論」番外編)のブックマークコメント

岩波理化学辞典には「像(image)」の項目で実像と虚像の区別が定義されている。それによれば「光学系を通過した光線が実際に像点を通過する場合」が実像で、「光線を逆向きに延長したものが像点を通る場合には虚像という」、とされている。ウィキペディアには「虚像」の項目があり、同じような定義が説明されている。またこちらには「レンズの公式」という項目がリンクされていて、それによれば虚像の場合は、実像の場合には正数で表される特定の値を負数で表すことで、同じ公式で表現できると説明されている。鏡像問題で散々、いろいろと思案を重ねてきたいま、改めてこのような定義を見てみると、幾何光学というものは事実上は良くも悪くも科学であるというよりは技術であるという現実に直面せざるを得なくなる。


端的に言って、上記の定義では眼、具体的にいえば眼球の存在が抜け落ちている。実際、虚像でもレンズ系の作る虚像の場合、多少ともまともな説明では眼球と水晶体が描かれている。つまり眼球内にフォーカスする実像なしに虚像はあり得ないのである。だから、眼球の役割を除外した虚像の定義は科学的には明らかに欠陥があるといわざるを得ないと私は思う。ただ技術上の目的には必要はないとはいえる。


一方、同じ虚像である鏡像の場合、少なくとも鏡像問題などの場合に眼そのものは大まかに表現されることはあっても、眼球の構造まで表現されることは恐らく、断言はできないものの、これまでは皆無だったのではなのではないだろうか?


鏡像は普通、虚像という言葉で表現されず、単に鏡像と言われる。ある意味これも当然であって、「鏡像」は単に実際の鏡像を意味するだけではなく、面対称の図形や面対称の構造を持つ物体そのものをも意味することが多く、そういうものは少なくとも光学的な虚像とは言えないからである。しかし困ったことに(と私は考えるのですが)、逆に光学的な虚像であるはずの現実の鏡像の問題においても、単なる面対称の図形や物体の意味での「鏡像」がそのまま逆輸入されることになり、的が外れた単純化や逆に不要な複雑化あるいは錯覚が持ち込まれることも無きにしも非ずではないかと思う。あげくの果ては某最高学府心理学名誉教授のように、鏡像が鏡の表面にできる平面パターンであると考えて論旨を進めるような理論も出現することになる(必ずしも他人ごととは言えないところが怖い)。


以上は言葉としての「鏡像」の一人歩きと言えよう。ところが、言葉ではなく現実に鏡像としての虚像そのものが一人歩きするところがまた奥深くもあり、面白くもあるところなのである。 この場合の「虚像の一人歩き」は鏡像の観察者の知覚と思考の内部で生じる。簡単に言えば、記憶された鏡像が思考空間の中で操作され、比較されたりすることである。この場合は当人の思考により操作されているわけだから一人歩きというより、歩かされている、あるいは動かされている、というべきかも知れないが、まあ元々一人歩きという擬人化表現を用いる以上、そこまで厳密にいう必要もないだろう。


こう考えてくると、鏡像のみならず、あらゆる像にそれが言えることになる。つまり鏡を介さずに直接に見る像である。なぜなら直接に見る像も鏡像と同様に眼球内に結像する光学的実像に対応する虚像に他ならないからである。要するに普段私たちが見ているもの、言い方を変えると視覚的に近くしている対象は物体そのものではなく鏡像と同様に像なのであり、あらゆる像は虚像に他ならないいことがわかるのである。



虚像の定義でもう一つ問題というか、注目すべきと思うは、上述のように特定の値を負にすることで実像と同じように扱えるという点である。というのは、特定の値にマイナス記号を付けるだけなのだが、マイナス記号を付けることの意味がマイナス記号の中でいわば全くブラックボックスとなっていることなのである。特定の値につけられたマイナス記号に、マイナス記号だけからは想像も及びもつかない意味が込められていることになる。このマイナス記号に人の眼の構造と機能が込められているともいえるのである。実像の場合は、眼の存在は直接には、少なくとも虚像が関わるような意味では関わらない。実像は写真に固定したり、テレビ画面に映し出したりできるので現実に、あるいは物理的に一人歩きできるともいえる。

上下・前後・左右の決め方 ― その1(鏡像の意味論、番外編その2)

| 16:39 | 上下・前後・左右の決め方 ― その1(鏡像の意味論、番外編その2)を含むブックマーク 上下・前後・左右の決め方 ― その1(鏡像の意味論、番外編その2)のブックマークコメント

『視空間』とされるものは、それ自体は文字どおり空虚な空間であって物質ではないのはもちろん、その中に成立する像そのものでもない。しかしそれには厳然として上下・前後・左右の三つの方向軸で表される方向を持っている。それに対して物体、それも個体である物体も、同じように上下・前後・左右の方向あるいは「側」ともいえるが、そういう方向を持つとされる。しかし一体何を基準にこのような方向が定義されるのだろうか。


視空間の上下・前後・左右は基本的に(言い換えると既定の位置で)身体の上下・前後・左右と一致している。その人間の身体そのものの上下は基本的に(既定の位置で)天と地の方向、言い換えると重力の方向と一致している。前後はそのものずばりで、あらゆる意味合いで前方と後方に一致している。左右軸はそのあとで、つまり最後に決まるので、大阪府立大学名誉教授の多幡先生によって「左右軸の従属性」という概念が与えられている。(この考え方については、少なくとも人間と眼を持つ動物については受け入れられる有意義な概念であると考えます。ただ異なった表現もできるとも思いますが、別の機会に譲りたいと思います)。


このように視空間の上下・前後・左右はだれにとっても普遍的一義的に決まっているとしてまったく問題はないと考えられる。


ところが人間以外の動物や道具や無機物など物体一般の場合にもいつもこのように上下・前後・左右が一義的に決まるとは思えない。幾何学的な形状の場合にはなおさらそうである。この点で、幾何学的な形状や性質、例えば対称性などで上下・前後・左右が決まるという、よくある説は、まったく受け入れることができない。


単なる物質の塊を考えてみよう。例えば宇宙のどこから来たかもわからない隕石などがそうです。ただし、当座の目的で観察者の上方と一致する側を上とすることは自然であるし、対面する側を前と決めることは有りだとはいえる。しかし、それは本当にその観察者のそのとき限りでの定義に過ぎない。したがって単なる物質の塊には一義的に決まる上下・前後・左右はないと言える。


動物の場合はどうだろうか。改めて振り返ってみると、幾何学的に上下前後左右のバランスで人間に近い動物は事実上、類人猿タツノオトシゴくらいなものだろう。トンボなど、空飛ぶ昆虫は、鳥類もそうですが、羽を広げると上下が薄っぺらくなる。カニなど、地を這う生き物も上下が高くない。殆どの動物に共通する特徴は、眼が向かう方向と移動するときに進む方向が前方という点だろう。しかしヒラメのように前が見えるかどうかは別として目が殆ど上を向いている動物もある。


移動する方向で見ると、カニは左右方方向で、それも左右のどちら側へも移動できる。カニの場合は眼の向きと移動する方向は一致しないと言える。また最後に決まる方向が左右であるという表現もカニの場合に限って適用されるかどうかは問題がなきにしもあらずである。というのも、カニの場合は前後の形状が比較的に似ていて、遠くからみるとまず動く方向が目に付くのではないか。最もどちらが右でそちらが左かは、それではわからないが。それでも最初に判断できるのが左右の方向になる場合も少なくないだろうと思われる。


動物の場合に普遍的に言えることは、1)正立した人間の視空間で、同様に正立した動物を見た場合に人間の視空間の上下と一致する方向が上下であること、そして2)眼の向きと進行方向の2つの要素で人間の視空間の前後と一致する方向が前後である場合が殆どである。ただし、後者にはカニのような例外もある。


道具や機械の場合は動物の場合とはまた異なる面がある。乗り物の場合は簡単で、まず例外なく搭乗する人間の方向に一致している。 ところが乗り物以外の場合は人間とも動物とも、もちろん無機物とも異なる問題がある。ピアノの鍵盤を考えてみるとわかりやすいのだが、普通は高音側を右といい、低音側を左としているのではないだろうか。一方、演奏する人に向かう側を前とみなすのが普通と思われるが、そうすると左右の方向が人間や動物とは逆になる。一般に道具や機械は人間が両手で操作するものである。だから右手に対応する方向を右とし、左手に対応する方向を左と決めのが自然なのだ。つまり道具や機械の左右は人間の都合に合わせて決められるのである。これは左右の定義が逆になるということであり、私はこれを本ブログ論文で「意味的な逆転」と称している。普通に左右の辞書的な定義とされる「人が北を向いたときの東側が右である」という点で逆になる(西側が左)のだから「意味的な逆転」というのは正当だと考える。


植物や地形(山河や湖など)などの場合、上下はどの場合もまず例外なく人間の視空間の上下と一致している。前後と左右については植物学地形学で決められる場合もあるだろうし、もっと実用的または技術的な目的で、あるいは美的な判断で適当に決められる場合もあるだろう。それ以外の場合は最初に挙げた隕石のように単なる無機物の塊と同様、視空間との関係でその場限りの定義を与えるほかはないだろう。


このように考察を進めてくると、一般に生物や道具や機械の前後と左右はその機能的な特徴で決まるといえる。機能と考えると、動物の場合はその動物自身にとっての機能と言えるが道具の場合は人間にとっての機能になる。植物の場合は、動物にとっても言えることだが、多分に人間にとっての機能になる可能性が高いといえる。


さて、現下の目的は視覚認知の研究である。対象の機能といっても視覚的に認知できる限りでの機能その他の特徴であり視覚的に判断するほかはない。つまり視覚像、端的に言って眼でとらえた像で判断するほかはないのであり、これは直接見る場合も、眼鏡や望遠鏡を通してみる場合も鏡を介してみる場合も同じことである。つまるところ視空間の中の像で判断しているのである。機能と表現しようが、単に特徴あるいは性質と表現しようが、像あるいは像の部分の形状や色などの視覚的特徴で判断しているのであり、つまるところそれは形状や色の持つ「意味」というよりほかはないものである。


音の場合、そのさまざまな特徴からそれが何の音なのか、誰の声なのか、音楽なのか雑音なのか、さらには音楽の場合には音楽が表現する内容が認知できなければ音を聞く意味も音楽を聴く意味もないのと同様、言葉の場合は当然、言葉の表す意味が認識できなければそれは言葉ではなくなる。このように言葉の本質は当然意味であり、同様に知覚される音の本質も音の意味であるのと同様、視空間で認知される像、形状や色をっ持つ像の本質も他の感覚による知覚と同様、何らの内容を意味するものであり、意味の内容でもある。


例えば絵や写真を逆さにすると印象の全然異なるものになり、何の絵かわからない場合もあればまったく違ったものを意味するようになる場合さえある。しかし幾何学的な形状自体は逆さにしたところで何も変わっていないのである。像の形状その他の特徴が視空間の上下・前後・左右と不可分の関係にある。上述の人や生物や道具の機能を含め、さらには美というような芸術的な意味を含め、視空間で把握される意味は上下・前後・左右の要素と不可分の関係にあり、上下・前後・左右の方向自体もそれ自体が意味であるともいえる。


幾何学的な性質も図形の持つ意味とはいえるかもしれない。しかし長さや角度などの幾何学的性質は相対的に規定されるものであり、視空間の上下・前後・左右とは関係のないものである。対称性、具体的に鏡面対象とも呼ばれる面対称にしても相対的な関係である。面対称を「左右対称」と呼んだりすることがあるからややこしくなるのであって、面対称または鏡面対象は左右とは無関係である。上下と前後に対する左右の特殊性は別のところにある(文末注)。要するに幾何学的特徴は対称性をも含めてすべて異方的な視空間ではなく等方的な幾何学空間の属性である。


というように、視空間は意味の空間なのだが、この空間、上下・前後・左右を持つ空間は眼球という一種の臓器、逆の言い方をすると、一種の臓器である眼球という物体と、完全な対応関係にあり、それも一つの重要な問題といえるのである。


(10月17日追記注記)

例えばピアノの高音部と低音部の関係をみると、それが外形に表れているのはグランドピアノだけであって、アップライトピアノは形状では左右の区別がつかない。また機能的にも左右を入れ替えることが不可能なわけでもない。人間を含め多くの動物についてもそれが言えるので、対称性が左右と本質的な関係があるのではないかという疑いが生じることは理解できる。しかし、これも上下でこういう対称性を持つ機能がないわけではない。例えば砂時計を想起してみよう。

2017年10月16日 田中潤一)

ブログ『意味の周辺』に掲載した記事2本を合わせてこちらに再録します。今回の2つの記事を「鏡像の意味論・番外編」としたわけは、ひとつは「虚像」、もう一つは「上下・前後・左右の概念」という単に鏡像の問題であることを超えた問題を抽出した形で扱っているからですが、鏡像問題からこのような重要で多様な個別問題が浮上してきたという点で鏡像問題が実に意義の深い問題であったことが明らかになってきたように思います。その意味ではこれまでのシリーズ記事とはそう変わりはありません。

虚像(光学的)の一人歩き(「鏡像の意味論」番外編)

| 16:42 | 虚像(光学的)の一人歩き(「鏡像の意味論」番外編)を含むブックマーク 虚像(光学的)の一人歩き(「鏡像の意味論」番外編)のブックマークコメント

岩波理化学辞典には「像(image)」の項目で実像と虚像の区別が定義されている。それによれば「光学系を通過した光線が実際に像点を通過する場合」が実像で、「光線を逆向きに延長したものが像点を通る場合には虚像という」、とされている。ウィキペディアには「虚像」の項目があり、同じような定義が説明されている。またこちらには「レンズの公式」という項目がリンクされていて、それによれば虚像の場合は、実像の場合には正数で表される特定の値を負数で表すことで、同じ公式で表現できると説明されている。鏡像問題で散々、いろいろと思案を重ねてきたいま、改めてこのような定義を見てみると、幾何光学というものは事実上は良くも悪くも科学であるというよりは技術であるという現実に直面せざるを得なくなる。

端的に言って、上記の定義では眼、具体的にいえば眼球の存在が抜け落ちている。実際、虚像でもレンズ系の作る虚像の場合、多少ともまともな説明では眼球と水晶体が描かれている。つまり眼球内にフォーカスする実像なしに虚像はあり得ないのである。だから、眼球の役割を除外した虚像の定義は科学的には明らかに欠陥があるといわざるを得ないと私は思う。ただ技術上の目的には必要はないとはいえる。

一方、同じ虚像である鏡像の場合、少なくとも鏡像問題などの場合に眼そのものは大まかに表現されることはあっても、眼球の構造まで表現されることは恐らく、断言はできないものの、これまでは皆無だったのではなのではないだろうか?

鏡像は普通、虚像という言葉で表現されず、単に鏡像と言われる。ある意味これも当然であって、「鏡像」は単に実際の鏡像を意味するだけではなく、面対称の図形や面対称の構造を持つ物体そのものをも意味することが多く、そういうものは少なくとも光学的な虚像とは言えないからである。しかし困ったことに(と私は考えるのですが)、逆に光学的な虚像であるはずの現実の鏡像の問題においても、単なる面対称の図形や物体の意味での「鏡像」がそのまま逆輸入されることになり、的が外れた単純化や逆に不要な複雑化あるいは錯覚が持ち込まれることも無きにしも非ずではないかと思う。あげくの果ては某最高学府心理学名誉教授のように、鏡像が鏡の表面にできる平面パターンであると考えて論旨を進めるような理論も出現することになる(必ずしも他人ごととは言えないところが怖い)。

以上は言葉としての「鏡像」の一人歩きと言えよう。ところが、言葉ではなく現実に鏡像としての虚像そのものが一人歩きするところがまた奥深くもあり、面白くもあるところなのである。 この場合の「虚像の一人歩き」は鏡像の観察者の知覚と思考の内部で生じる。簡単に言えば、記憶された鏡像が思考空間の中で操作され、比較されたりすることである。この場合は当人の思考により操作されているわけだから一人歩きというより、歩かされている、あるいは動かされている、というべきかも知れないが、まあ元々一人歩きという擬人化表現を用いる以上、そこまで厳密にいう必要もないだろう。

こう考えてくると、鏡像のみならず、あらゆる像にそれが言えることになる。つまり鏡を介さずに直接に見る像である。なぜなら直接に見る像も鏡像と同様に眼球内に結像する光学的実像に対応する虚像に他ならないからである。要するに普段私たちが見ているもの、言い方を変えると視覚的に近くしている対象は物体そのものではなく鏡像と同様に像なのであり、あらゆる像は虚像に他ならないいことがわかるのである。

虚像の定義でもう一つ問題というか、注目すべきと思うは、上述のように特定の値を負にすることで実像と同じように扱えるという点である。というのは、特定の値にマイナス記号を付けるだけなのだが、マイナス記号を付けることの意味がマイナス記号の中でいわば全くブラックボックスとなっていることなのである。特定の値につけられたマイナス記号に、マイナス記号だけからは想像も及びもつかない意味が込められていることになる。このマイナス記号に人の眼の構造と機能が込められているともいえるのである。実像の場合は、眼の存在は直接には、少なくとも虚像が関わるような意味では関わらない。実像は写真に固定したり、テレビ画面に映し出したりできるので現実に、あるいは物理的に一人歩きできるともいえる。

上下・前後・左右の決め方 ― その1(鏡像の意味論、番外編その2)

| 16:42 | 上下・前後・左右の決め方 ― その1(鏡像の意味論、番外編その2)を含むブックマーク 上下・前後・左右の決め方 ― その1(鏡像の意味論、番外編その2)のブックマークコメント

『視空間』とされるものは、それ自体は文字どおり空虚な空間であって物質ではないのはもちろん、その中に成立する像そのものでもない。しかしそれには厳然として上下・前後・左右の三つの方向軸で表される方向を持っている。それに対して物体、それも個体である物体も、同じように上下・前後・左右の方向あるいは「側」ともいえるが、そういう方向を持つとされる。しかし一体何を基準にこのような方向が定義されるのだろうか。

視空間の上下・前後・左右は基本的に(言い換えると既定の位置で)身体の上下・前後・左右と一致している。その人間の身体そのものの上下は基本的に(既定の位置で)天と地の方向、言い換えると重力の方向と一致している。前後はそのものずばりで、あらゆる意味合いで前方と後方に一致している。左右軸はそのあとで、つまり最後に決まるので、大阪府立大学名誉教授の多幡先生によって「左右軸の従属性」という概念が与えられている。(この考え方については、少なくとも人間と眼を持つ動物については受け入れられる有意義な概念であると考えます。ただ異なった表現もできるとも思いますが、別の機会に譲りたいと思います)。

このように視空間の上下・前後・左右はだれにとっても普遍的一義的に決まっているとしてまったく問題はないと考えられる。

ところが人間以外の動物や道具や無機物など物体一般の場合にもいつもこのように上下・前後・左右が一義的に決まるとは思えない。幾何学的な形状の場合にはなおさらそうである。この点で、幾何学的な形状や性質、例えば対称性などで上下・前後・左右が決まるという、よくある説は、まったく受け入れることができない。

単なる物質の塊を考えてみよう。例えば宇宙のどこから来たかもわからない隕石などがそうです。ただし、当座の目的で観察者の上方と一致する側を上とすることは自然であるし、対面する側を前と決めることは有りだとはいえる。しかし、それは本当にその観察者のそのとき限りでの定義に過ぎない。したがって単なる物質の塊には一義的に決まる上下・前後・左右はないと言える。

動物の場合はどうだろうか。改めて振り返ってみると、幾何学的に上下前後左右のバランスで人間に近い動物は事実上、類人猿タツノオトシゴくらいなものだろう。トンボなど、空飛ぶ昆虫は、鳥類もそうですが、羽を広げると上下が薄っぺらくなる。カニなど、地を這う生き物も上下が高くない。殆どの動物に共通する特徴は、眼が向かう方向と移動するときに進む方向が前方という点だろう。しかしヒラメのように前が見えるかどうかは別として目が殆ど上を向いている動物もある。

移動する方向で見ると、カニは左右方方向で、それも左右のどちら側へも移動できる。カニの場合は眼の向きと移動する方向は一致しないと言える。また最後に決まる方向が左右であるという表現もカニの場合に限って適用されるかどうかは問題がなきにしもあらずである。というのも、カニの場合は前後の形状が比較的に似ていて、遠くからみるとまず動く方向が目に付くのではないか。最もどちらが右でそちらが左かは、それではわからないが。それでも最初に判断できるのが左右の方向になる場合も少なくないだろうと思われる。

動物の場合に普遍的に言えることは、1)正立した人間の視空間で、同様に正立した動物を見た場合に人間の視空間の上下と一致する方向が上下であること、そして2)眼の向きと進行方向の2つの要素で人間の視空間の前後と一致する方向が前後である場合が殆どである。ただし、後者にはカニのような例外もある。

道具や機械の場合は動物の場合とはまた異なる面がある。乗り物の場合は簡単で、まず例外なく搭乗する人間の方向に一致している。 ところが乗り物以外の場合は人間とも動物とも、もちろん無機物とも異なる問題がある。ピアノの鍵盤を考えてみるとわかりやすいのだが、普通は高音側を右といい、低音側を左としているのではないだろうか。一方、演奏する人に向かう側を前とみなすのが普通と思われるが、そうすると左右の方向が人間や動物とは逆になる。一般に道具や機械は人間が両手で操作するものである。だから右手に対応する方向を右とし、左手に対応する方向を左と決めのが自然なのだ。つまり道具や機械の左右は人間の都合に合わせて決められるのである。これは左右の定義が逆になるということであり、私はこれを本ブログ論文で「意味的な逆転」と称している。普通に左右の辞書的な定義とされる「人が北を向いたときの東側が右である」という点で逆になる(西側が左)のだから「意味的な逆転」というのは正当だと考える。

植物や地形(山河や湖など)などの場合、上下はどの場合もまず例外なく人間の視空間の上下と一致している。前後と左右については植物学地形学で決められる場合もあるだろうし、もっと実用的または技術的な目的で、あるいは美的な判断で適当に決められる場合もあるだろう。それ以外の場合は最初に挙げた隕石のように単なる無機物の塊と同様、視空間との関係でその場限りの定義を与えるほかはないだろう。

このように考察を進めてくると、一般に生物や道具や機械の前後と左右はその機能的な特徴で決まるといえる。機能と考えると、動物の場合はその動物自身にとっての機能と言えるが道具の場合は人間にとっての機能になる。植物の場合は、動物にとっても言えることだが、多分に人間にとっての機能になる可能性が高いといえる。

さて、現下の目的は視覚認知の研究である。対象の機能といっても視覚的に認知できる限りでの機能その他の特徴であり視覚的に判断するほかはない。つまり視覚像、端的に言って眼でとらえた像で判断するほかはないのであり、これは直接見る場合も、眼鏡や望遠鏡を通してみる場合も鏡を介してみる場合も同じことである。つまるところ視空間の中の像で判断しているのである。機能と表現しようが、単に特徴あるいは性質と表現しようが、像あるいは像の部分の形状や色などの視覚的特徴で判断しているのであり、つまるところそれは形状や色の持つ「意味」というよりほかはないものである。

音の場合、そのさまざまな特徴からそれが何の音なのか、誰の声なのか、音楽なのか雑音なのか、さらには音楽の場合には音楽が表現する内容が認知できなければ音を聞く意味も音楽を聴く意味もないのと同様、言葉の場合は当然、言葉の表す意味が認識できなければそれは言葉ではなくなる。このように言葉の本質は当然意味であり、同様に知覚される音の本質も音の意味であるのと同様、視空間で認知される像、形状や色をっ持つ像の本質も他の感覚による知覚と同様、何らの内容を意味するものであり、意味の内容でもある。

例えば絵や写真を逆さにすると印象の全然異なるものになり、何の絵かわからない場合もあればまったく違ったものを意味するようになる場合さえある。しかし幾何学的な形状自体は逆さにしたところで何も変わっていないのである。像の形状その他の特徴が視空間の上下・前後・左右と不可分の関係にある。上述の人や生物や道具の機能を含め、さらには美というような芸術的な意味を含め、視空間で把握される意味は上下・前後・左右の要素と不可分の関係にあり、上下・前後・左右の方向自体もそれ自体が意味であるともいえる。

幾何学的な性質も図形の持つ意味とはいえるかもしれない。しかし長さや角度などの幾何学的性質は相対的に規定されるものであり、視空間の上下・前後・左右とは関係のないものである。対称性、具体的に鏡面対象とも呼ばれる面対称にしても相対的な関係である。面対称を「左右対称」と呼んだりすることがあるからややこしくなるのであって、面対称または鏡面対象は左右とは無関係である。上下と前後に対する左右の特殊性は別のところにある(文末注)。要するに幾何学的特徴は対称性をも含めてすべて異方的な視空間ではなく等方的な幾何学空間の属性である。

というように、視空間は意味の空間なのだが、この空間、上下・前後・左右を持つ空間は眼球という一種の臓器、逆の言い方をすると、一種の臓器である眼球という物体と、完全な対応関係にあり、それも一つの重要な問題といえるのである。

(10月17日追記注記)

例えばピアノの高音部と低音部の関係をみると、それが外形に表れているのはグランドピアノだけであって、アップライトピアノは形状では左右の区別がつかない。また機能的にも左右を入れ替えることが不可能なわけでもない。人間を含め多くの動物についてもそれが言えるので、対称性が左右と本質的な関係があるのではないかという疑いが生じることは理解できる。しかし、これも上下でこういう対称性を持つ機能がないわけではない。例えば砂時計を想起してみよう。

2017年10月16日 田中潤一)

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2017-10-04 鏡像の意味論その24

ブログ『意味の周辺』に、昨日、更新した記事をそのまま転載します。結果的に一応、これまでの鏡像問題記事すべての簡単なまとめ、あるいは簡単な結論のような形になったようです。

鏡像の意味論その24 ― 等方的な幾何学空間としての鏡像認知空間と異方的な知覚空間としての視空間

| 16:49 | 鏡像の意味論その24 ― 等方的な幾何学空間としての鏡像認知空間と異方的な知覚空間としての視空間を含むブックマーク 鏡像の意味論その24 ― 等方的な幾何学空間としての鏡像認知空間と異方的な知覚空間としての視空間のブックマークコメント

【今回の要点】

  1. 視空間は、各自の眼球内に物理的に結像する実像に対応する。換言すると実像に基づいて同時的に成立する虚像空間であり、異方的な知覚空間である。
  2. 鏡像認知空間は、記憶された虚像(鏡像としての虚像および直視像としての虚像)をその中で移動や回転など思考操作する等方的な幾何学空間である。
  3. 上下・前後・左右は、基本的に各自の視空間それぞれに固有の直交する三方向軸(座標軸ではない)である。このような空間は各点が固有の価値をもつので異方的な空間と定義されている(マッハ、カッシーラーによる)
  4. 鏡像認知空間で比較操作される各像は視空間で認知された上下・前後・左右をそのまま引き継いでいるが、それらを包含する全体としての空間は等方的であり、上下・前後・左右などの区別はなく、位置も長さも方向も相対的に規定されるのみである。
  5. 観察者は常にこの両方の空間を使用するが、認知プロセスにおいてあるときは視空間を選択し、ある時は鏡像認知空間を使用する。その際に個人と環境の条件により大幅な差異が生じる。

+

先般の2回のテクニカルレポート:(1)鏡像を含む視空間の認知構造と鏡像問題の基礎、(2)鏡像を含む空間の認知構造の解明に向けての予備的考察 はいずれも、等方的な幾何学空間と異方的な知覚空間との対比に基づいた鏡映反転の認知メカニズムを骨子として鏡像の問題を扱っていたのですが、十分に理解を得るのが難しかったようです。いま改めて反省してみれば、自分でも明確に把握できていない部分があったことも事実です。等方空間についても異方空間についてもただ抽象的に論ずるだけで、それが現実のプロセスでどの局面で妥当するのか、どの空間に該当するのかという具体性の点で、今一つ明らかにできていなかったように思います。


そもそも視空間だけで認知し、鏡像認知空間をまったく用いなければ鏡像を鏡像として認知できず、直接見る像と区別できないことになります。他方鏡像認知空間だけで考察すると、単に対掌体の説明で終わることになります。人間に固有の能力か他の高等動物にも見られるかは別として、鏡像を直視像と比較する場合は必ず両方の空間を使用しているといえるでしょう。

高野説は基本的に視空間だけしか考察していないと言えます。ただ、文字や記号の場合だけ「記憶」というものを加味しています。一方、高野説が考慮していない等方的な鏡像認知空間は記憶像の存在が前提となっています。思考操作するには記憶像がなければ始まりません。ですから鏡像認知空間を使用する場合は、わざわざ新たに記憶を持ち込む必要はないのです。


今回は殆ど要点のみで簡単ですが、これまでとします。

(2017年10月3日 田中潤一)

(タイトル中「その23」が前回と重複していましたので24に訂正しました。10月5日)

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2017-08-04 鏡像の意味論その23 ― 擬人化と「固有座標系」との深い関係

ブログ「意味の周辺」に掲載済みの鏡像問題関連記事に追加、一部変更、訂正、その他、多少編集して再録します。

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【今回の要点】

  1. 鏡像を擬人化することで語りうる事柄は、鏡像の問題に固有の問題ではない
  2. 知覚心理学で使われている「固有座標系」などの概念は物体や空間の擬人化に由来する。
  3. 固有座標系の概念に関連する問題は鏡像の問題、+特に鏡映反転の問題に特有の、あるいはあらゆる鏡映反転に共通する問題ではない。
  4. 基本的に上下・前後・左右の問題は、鏡像に固有の問題ではない。

鏡像問題との関連で擬人化の問題については何度か言及したことがあります。特に高野説、つまり高野陽太郎先生の多重プロセス理論の「視点反転」、今回参照している Takano (1998) におけるType I で鏡像の Viewpoint(視点)に基づいた説明、つまり、自分の鏡像を見ている場合、鏡像自身の左右は人物としての鏡像自身の視点で鏡像氏自身の右手と左手を見ることで判断するので、観察者自信の左右とは方向が逆になっているという考え方ですが、これは明らかに鏡像を擬人化した説明になっています。


擬人化だから直ちに間違いであるとか、良くないというわけではありませんが、擬人化が持つ意味をよく考えてみる必要があるでしょう。鏡像を擬人化することはすなわち鏡像を現実の人物に見立てることです。つまり、逆に考えると、鏡像を擬人化することで語ることが可能な事柄は、現実の人物についても該当する事柄であるということになります。 要するに、観察者が現実の他の人物と対面している場合に、対面する相手自身の左右を判断する場合と同じ考え方であるということです。もちろん、これだけで鏡映反転を説明するには不都合なので、高野先生は光学的な説明を付加的な条件として加味しています。次はTakano (1998)、Psychonomic bulletin & Review からの引用です。

"To explain the Type I reversal precisely, the optical transformation by the mirror has to be taken into account. As stated earlier, the mirror reverses an optical layout along an axis perpendicular to its surface."


この条件を「光学的変形(変換)」と呼ぶのには賛成できませんが、光学的な条件が関与していることには間違いありません。むしろこちらの条件が鏡映反転の中心的なメカニズムであるはずですが、高野先生はこちらの条件を副次的な条件のように考え、それ以上は深く掘り下げて分析することなく、「光学的変換」という一言で済ませ、その後はむしろ「視点反転」について込み入った分析を開始し、そこから「固有座標系」という概念を導入しています。

一部の知覚心理学者によって ― 必ずしも鏡像の問題について考察するためではなく ― 導入されていた「固有座標系」の概念を使用することで、高野先生はそれ以降、Type II 以後の鏡映反転について長く複雑な議論を展開しています。


この、固有座標系を使った解析は鏡像問題において、高野先生以外の何人かの論者で使用されています。しかし全く使用していない論文もあります。ただ、日本語では「固有座標系」としてほぼ統一的に呼ばれていますが、英文の論文ではかなりいろいろな用語が使用されていて、定義が極めてあいまいなのです。例えば、「object axis system」「frame of reference」、「intrinsic reference system」、「internal reference system」、「intrinsic coordinate system」、「viewer centered coordinate system」、「object centered coordinate system」といった具合です。Ittelson (1991) ではさらに流動的で、「reference systems or axes」、「physical system」、「object axes」といった具合で、systemとaxisが同じような意味で使用され、これらのすべてを単純に「固有座標系」あるいは「〜座標系」と置き換えることは無理でしょう。 ちなみにIttelson (1991) では「coordinate system」は他とは区別されているようです。


つまるところ、固有座標系の類の概念で論議されているのは、鏡像問題に限らず、観察者自身以外の人物や道具などの物体あるいは対象の固有の上下・前後・左右を決定する基準なのです。ここでまた擬人化が問題になるのは、物体の場合はその物体固有の上下・前後・左右を決めるだけなのですが、人間の場合、身体の上下・前後・左右だけではなく、本人が知覚する右方や左方などの空間的な方向感が問題になることです。言わば彼の人物の身体外部の空間についても上下・前後・左右が問題になるわけです。普通はこういう感覚は物体に適用されることはありません。物体に適用されたとすれば物体が擬人化されています。自動車など乗り物の場合はこういう擬人化がありそうです。


固有座標系に類する概念は、人間が知覚する方向感覚が物体にまで擬人的に適用された結果、ひいては空間そのものまで擬人化された結果であるということができます。鏡映反転の場合は 2つの像の形状の差異、相対的な逆転を問題にしています。そこで鏡像は人間の鏡像であってもあくまで像であって感覚や知覚を持つわけではなく、道具などの物体と同様にそれ自身の上下・前後・左右などが決まればよいのであって、像の外側の空間はどうでもよいのです。また形状の逆転は相対的な関係であるので、逆転が認知された軸方向が単に左右の軸方向であるかどうかがわかればよく、どちらが右でどちらが左かは関係ないのです。


そのためか、固有座標系の概念を用いた理論は途中で挫折、あるいは諦めているか混乱している場合が多く、少なくとも決定的な条件とは考えられません。個人的には座標軸として上下・前後・左右を用いるような座標系の概念自体に疑問を持っています。


【基本的に上下・前後・左右のに関係する問題は鏡像に固有の問題ではない】

鏡映反転の問題がいまだに未解決であるといわれるのは、それが左右逆転の謎として提起され、左右逆転の謎が解明されない限り鏡映反転あるいは鏡像問題が解決したとはみなされないとされていることが大きく関係していると考えられます。また自己鏡像の反転の問題として提起されることも多かったことも関係しています。しかし、あらゆる場合に適用される鏡映反転の問題自体は対掌体の見え方の問題である点で、ある意味、もう結論がでているともいえます。鏡映反転全体に共通するメカニズムは対掌体である鏡映対の見え方に還元されるのであり、逆転して見える方向は左右に限らないことが早くから知られています。ですから、鏡映反転を包括的に記述するには左右逆転にこだわることは諦める必要があるのです。また自己鏡像の場合は自己鏡像の認知プロセスが必要であり、たいていは他者鏡像の鏡映反転から類推できるものである以上、他者の鏡映反転を基礎とすべきであり、他者の鏡映反転に限ればもうすでに大枠では明らかになっているといっても差し支えありません。


とはいえ、なぜ上下や前後ではなく左右が逆転して見える場合が多いのかという問題は依然として気になる重要な問題であることには相違ありません。それは鏡映反転に固有の問題を離れた空間認知の問題が反映されているのであり、鏡像問題において集約的というか、特殊で極端な形になって表れていると言えます。ですから、鏡映反転と鏡像問題を区別することも一つの利点になると考えます。さらに鏡像問題を超えた空間認知の問題にも寄与できる可能性が多いのであり、開かれた問題として今後とも大いに議論を展開すべきであり、すでに自身の理論で鏡像問題が決着していると考える著者も少なくはないかもしれませんが、しかしそうだとすれば、それは偏狭な態度というべきでしょう。

2017年7月30日 田中潤一)

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2017-06-15 鏡像の意味論その20〜22

ブログ『意味の周辺』の『鏡像の意味論』シリーズで更新した記事3本を一括して転載します。元の記事に若干の編集と補足を追加し、やや構成が変わりました:

鏡像の意味論その20 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(3)― 鏡映対の成立と鏡像認知について

| 22:01 | 鏡像の意味論その20 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(3)― 鏡映対の成立と鏡像認知についてを含むブックマーク 鏡像の意味論その20 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(3)― 鏡映対の成立と鏡像認知についてのブックマークコメント

【今回の要点】

  • 鏡映対の成立(プロセス1)は、光の反射という物理的プロセスであると同時に鏡像認知のプロセスでもある
  • 他者の鏡映対を比較する際には鏡像認知のプロセスは捨象(消去)されるので、鏡映対の成立は物理的プロセスと見なせる
  • 自己鏡像を認知する場合、鏡像を認知するプロセスと、対応する自己像の認知プロセスは異なる(厳密には存在しない)ので鏡像認知のプロセスは捨象されない。

前々回と前回では鏡映反転を認知するプロセスは2つのプロセス:(1)鏡映対の成立プロセスプロセス1)と、(2)鏡映対の比較プロセスプロセス2)からなること、そして(2)の鏡映対の比較プロセスは物理的なプロセスではなく思考プロセスであるとし、この比較プロセスについて考察しましたが、今回は振り返って2つのプロセスで最初の(1)鏡映対成立プロセスプロセス1)について改めて分析してみたいと思います。


前回の考察のとおり、高野説のType3は「光学変換」とされているものの、実際には比較プロセスに該当するものであることが判明しています。要するにこのプロセスは1つの共通空間の中で2つの像(の形状)を比較するプロセスです(この共通空間についてはまた改めて検討したいと思います)。これで、高野説のType1、Type2、およびType 3はすべてプロセス1の条件の記述が欠落していることになります。三者それぞれについてイラストや具体的な状況説明はありますが、それらの状況に共通する光学的、すなわち光の鏡面反射による鏡像の成立という鏡像問題の基本前提である物理的な条件を全く素通りしています。これは、鏡映反転は物理的な現象ではなく全面的心理的現象であるとする高野陽太郎先生の主張に合致していますが、物理的な条件を絵を描くことと具体的な状況説明だけで済ませ、理論としては素通りして心理的プロセスのみを考察しているのですから、物理的な条件を既存の解決済みの条件とみなしているわけで、これも一種の「論点先取りの誤謬ないしは詭弁」に相当するのではないかと思うのですがね...。


さて、それではプロセス1すなわち鏡映対の成立プロセスは本当に、あるいは純粋に物理的なプロセスであるといえるのでしょうか?


鏡映対はふつう、鏡面に対して面対称(鏡面対称)の対をなす立体像、― 大抵は人物像ですが ― として表現され、図に描かれます。例えば以前の記事で使用した次の図のような図です。この図では鏡像はB’のみで、AとA2は何れも観察者、Bは観察者A2が鏡を介さずに直接人物を見た像を表しています。

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このBとB'は鏡面に対して面対称に描かれている訳ですが、この面対称という概念はGardnerもそう述べているように数学上の概念であって、実際に実物ないしは光の像が面対称の図のように成立しているわけではありません。実際には(A)が(B')を見る光学系と、(A')が(B)を見る光学系は独立していて相互に何の関係もないのであって、一つの光学形として同時に成立している訳ではありません。以前、「鏡は光を反射するのであって像を反射するのではない」といったのはこの意味です。つまり、これは虚像である鏡像を作図するためのテクニックであって、決して物理的にこのような対が成立しているわけではない。つまり、鏡面対称という状況は数学的な概念であって、物理的にそのようなものが成立しているわけではないので、鏡映の対は単純に物理的なプロセスだけで成り立っているとは言いきれません。そもそも、これも何度も言っていますが、鏡像であっても直視像であっても像というものは心で知覚される内容であって物理的な存在では決してありません。結論を言えば、鏡映対の成立には物理的な光学プロセスと、鏡像認知という認知プロセスが同時に進行しているとでもいうより他はありません。


ただ、自分ではなく他者の鏡像を見る場合は比較する対の双方(直視像と鏡像)を認知するプロセスは共通しているので、両者の差異を見つけるときには捨象(消去)され、結局プロセス1は光学的で物理的プロセスであるといって差し支えないわけです。しかし客観的に見られる他者ではなく自分の鏡像の場合、鏡を介しない直視像は存在しないので、厳密な意味で自己鏡像の鏡映対は存在しません。ただ他者(自己の身体の一部を含めて)の鏡映反転から類推できるだけです。高野先生は自分の正面像の鏡映反転を説明しなければ鏡映反転を説明したことにはならないとおっしゃいますが、そのためにはまず他者の鏡映反転のメカニズムをきっちりと説明しなければ不可能なのです。事実高野説においても観察者とその鏡像を上から俯瞰したという、見えるはずのない絵や状況説明を行なっていますが、絵に描いたり外観を描写したりする時点でそれはもう他者の鏡映反転を考察していることに他ならないのです。例え自分自身の外観を想像できたとしても、想像した時点ですでに客観化されていて、それはもう想像上の他者なのです。


というわけで、鏡映対の成立プロセスは鏡像認知のプロセスでもあるのですが、ここで問題になるのは一般に鏡像認知の問題は即自己鏡像の認知プロセスとみなされる場合が多く、他者の鏡像を含めた鏡像認知一般についてはこれまであまり議論されていなかったのではないでしょうか?今後はこの分野の進展を願うばかりです。これは重要な問題で、これまでの鏡映反転の議論の中には鏡像認知の問題が潜んでいる場合が多いのです。そこではかなり混乱した議論が見られるように思います。 下の図は認知科学会に提出済みのテクニカルレポートで使用したもので、鏡像認知と鏡映反転の関係を描いたものです。

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(以上、2017年5月〜6月 田中潤一)

鏡像の意味論その21 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(4)― 鏡像認知の空間と座標系の概念

| 22:01 | 鏡像の意味論その21 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(4)― 鏡像認知の空間と座標系の概念を含むブックマーク 鏡像の意味論その21 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(4)― 鏡像認知の空間と座標系の概念のブックマークコメント

【今回の要点】

  • 鏡像認知は座標系の概念と深い関係がある
  • これまでの座標系を用いた解析方法を使用した理論は何れも鏡像認知の側面が欠落している
  • 鏡像認知は鏡面という平面の認知から始まる
  • 平面の認知は線や長さなどと同様に幾何学的な思考によるもので、鏡像認知空間は現場で直接見ている視空間ではなく幾何学的思考空間内で行われるが、この幾何学的思考空間は等方的である。
  • 像(イメージ)は、したがって幾何学的な形状も、思考空間の中で自由に動かすことができる。これは思考空間の等方性の一つの現れである

ちょっと前置が長くなりますが、

道具としての鏡はかなりの昔から世界中で作られていたことは確実です。それはつまり、鏡は今も昔も最初からその機能を目的に使用されていることが分かります。たいていは自分の顔を確認するためですが、見たいアングルで映るように、鏡面に垂直な方向に、適切な距離に持ってきます。この点で、鏡を見る前にすでに、鏡像認知のプロセスは無意識的ですが完了しているわけです。しかしそうでない場合もあります。街中や始めて入った建物の中などでいきなり気がつかずに鏡に遭遇して、自分自身の鏡像を他人と勘違いすることもなきにしもあらずです。もちろん周囲の光景についてもそれが言えます。うっかりすると、透明なガラスでは結構あることですが、鏡に体をぶつけるような事故もなくはありません。私自身もそういう経験があります。いずれにしても鏡像認知という、鏡像を鏡像として認知するプロセスは自己鏡像の場合に限らず、また意識的であるか無意識的であるかに関わらず、必ず存在します。


【鏡像認知を可能にする鏡映対が成立し、鏡映対の比較を可能にする空間】

前回の記事で、鏡像認知のプロセス他者鏡像の場合には消去できる旨を説明しましたが、それは鏡映反転のプロセスであって、全体としての鏡像問題、自己鏡像の場合を含めた鏡像問題一般に共通する問題として鏡映反転の認知に先立つ鏡像認知のプロセスを欠かすことはできないでしょう。自己鏡像の場合に特有の鏡像認知問題はこのさい留保するとしても、すべての場合に共通する鏡像認知プロセスは、つまるところ他者鏡像の鏡像認知プロセスそのものとして差し支えないでしょう。すでに述べたとおり、自己鏡像の認知プロセス他者鏡像の認知と鏡映反転から類推する他はないわけですから。自己鏡像の鏡映反転を説明できたと主張する高野陽太郎先生のType 1の場合にしてもその検証は絵を描いて、しかもその決め手には片方の腕時計という、身体の自分でも見える部分に付けたアクセサリーを使用しています。実際のところ、自分であっても頭部以外の身体の殆どはかなり、直接見ることができるわけです。自己鏡像の鏡映反転と言っても、少なくとも鏡像認知のプロセスでは実質的に他者鏡像の鏡像認知を流用しているに過ぎません。


さて、動物には鏡像認知が存在しないことはまず確実ですが、それは普通に知能、具体的には思考力に基づいていると考えられます。とはいえ、どんなに知力の優れた人物であっても、一定の条件がなければ鏡像認知は不可能だし、さらに鏡像認知が成立するにはそれを可能にする空間的枠組みが不可欠でしょう。


前回の結論の一つとして、鏡面に対して面対称である立体像の対、つまり鏡映対を認識することが鏡像認知の始まりであると言えるわけですが、鏡面対称の認識を可能にする対称面は即、鏡面であり、言葉が同じで混乱しますが、現実の鏡面、すなわち鏡や静かな水面のような表面反射する物体の表面の存在を認識することが前提になっている訳です。この表面という概念は幾何学的な平面そのものであって物質的なものではなく、厚みを持たない抽象的な平面です。これは端的に言って一つの抽象的な概念であって、少なくとも人間以外のいかなる高等動物もこんな概念を持つことは不可能に違いありません。これはもう幾何学的思考の始まりです。鏡像認知はそれ自体が幾何学的思考によるものです。この鏡面に対して反対側に同一と見られる距離に同じ特徴をすべて備えた対になる像を想定することが鏡像認知であるとすれば、これはもう私たちが直接知覚する視空間とは別の空間といえます。


例えば鏡の前で身繕いなどしているあなたの背後にだれかが現れた場合、当然その人物は鏡に映って見えますが、その人物を直接見るには後ろを振り向かねばなりません。この場合の鏡像認知空間は完全に、あなたの思考と構想力によって構成された空間であることが判ります。鏡の前の他人の姿を直接見ると同時にその人の鏡像をも見るような状態(例えば高野説のType3)はかなりこの鏡像認知空間に近いと言えますが、鏡面の存在に気が付かなければただ似た人物が並んで見えるだけで鏡像認知はなく、したがって鏡映反転の認知もありません。


この空間は座標空間とも言えます。 表面なら視野の中には鏡面以外にもいくらでもあります。鏡が裏返っていれば裏面が見えるだろうし、ガラス板があればその表面も認知は可能だろうし、他にも光沢のある平面や光沢のない平面はいくらでもあります。その中で鏡面の両側に同一距離で同じ特徴をすべて持つ立体像を認知することは鏡面を特別な意味を持つ表面として特別な意味を与えられている訳で、これは単なる感覚的な知覚ではないからです。


この空間は触覚で認知される触空間とはもちろん、視空間とも異なり、両者を含めた知覚空間、直接知覚されるのではなく概念で構成された思考空間です。ですから感覚的に認知できる位置や方向とは関係なく、紙の上に図を描いて再現することもできるわけです。そのために絶対的な位置や方向は無意味で、位置や長さや方向はすべて相対的であり、一つの点の位置を特定する場合には座標系が必要になります。その座標系は普通x、y、zの軸で表され、紙の上では各軸の正負の方向も規定されていますが、これらはすべて便宜上の約束事に過ぎません。ですから、正負の方向も相対的であるといえます。


思考空間のこのような性質を等方的(Isotropic、Isometric)な空間と表現したのは恐らくMachが最初なのだと思います。個人的にそこまで文献的知識がないので恐らくというほかないのですが。さらにこれを認識論的に位置づけたのがカッシーラーであると考えています。


この鏡像認知空間のなかで鏡映対が比較される際のメカニズムについては件のテクニカルレポートに詳しく分析しているので、そちらをお読みくだされば幸いです。そこではこの座標系、つまり鏡像認知空間の座標系しか使用していませんが、従来の諸説ではこのような座標系よりもむしろFixed reference system、あるいは固有座標系などの概念が使われています。この問題については改めて検討したいと思います。

2017年5月〜6月 田中潤一)

鏡像の意味論その22 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(5)― 従来説における座標系(固有座標系)の扱いとその再定義

| 22:01 | 鏡像の意味論その22 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(5)― 従来説における座標系(固有座標系)の扱いとその再定義を含むブックマーク 鏡像の意味論その22 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(5)― 従来説における座標系(固有座標系)の扱いとその再定義のブックマークコメント

【今回の要点】

  • 座標系ないし座標軸のセットと方向軸(異方軸)のセットは区別しなければならない。座標軸は等方的な幾何学空間で任意に定められる3本の直交する軸であって通常 x、y、zで表現される軸上の位置は相対的で、固有のx、y、zは変数であってそれ以上の意味を持たないが、方向軸は固有の意味と価値を持つのであり、座標空間のなかではむしろベクトルに相当するものと考えられ、矢印で表現できる。
  • 鏡像問題においてこれまで固有座標系と呼ばれてきたものは個別の像空間(像が占有する内部空間)であるものと解釈できる。これに対してすべての像空間(鏡像と直視像を含め)を含む鏡像認知空間が想定できる。鏡像認知空間は、Itteleson他(1991)のphysical reference systemや従来、視覚心理学で環境座標系あるいは共有座標系などと呼ばれてきた概念と共通する要素もあるが、座標系というよりは等方的な幾何学的思考空間を意味し、明確に等方的であるために座標軸は相対的な位置を示すのみであり、意味のあるラベル(上下前後左右、東西南北など)を使用しないので、それらとは同じではない。
  • 等方的な鏡像認知空間には通常の幾何学的な座標系が適用できるのに対して、各々の像空間は異方的であり右手座標系か左手座標系かの何れかが適用できる。
  • 個別の像空間の内部ではすべての位置が異なる価値または意味を持っている(例:上下・前後・左右のセット)。そのためすべての軸は一方的な方向性を持つので方向軸と呼ぶべきであり、矢印で表現すべきである。
  • 鏡映対の各像が持つ方向軸(矢印で表せる方向を持つ)は鏡像認知空間の中で、鏡面に垂直な方向で互いに逆方向を向いているが、鏡像認知空間は等方的な幾何学的思考空間であり、その中では像は任意に回転と平行移動ができる。回転と平行移動により直交する3軸のうち2つの方向軸(の矢印の向き)を重ね合せると、残りの1軸の矢印が互いに反対方向を向くことになる。認知される鏡映反転は意識的または無意識的に行なわれたかまたは行なわれなかった操作の結果である。

今回の考察はItteleson他(1991)をレビューすることで進行できました。

Itteleson他(1991)は、まず鏡映対が互いに対掌体になっていることを前提とした上で、物理的な問題と心理学的な問題を区別するために異なった2つの座標系のセットが使用できるとし、その1つ目は鏡と物体を含めた世界に固定されたphysical system(物理系)、2つ目はobject system(物体系)と呼んでいます。そうして前者が物理的であり、後者は心理学的であるとし、従来理論では両者の概念が混同されてきたと主張しています。そうして上記の2通りの座標系ではなく、「右手系」と「左手系」の2つの座標系のみがmirror transformation(鏡映変換?)を示し、「鏡が光学的に鏡面に垂直な軸を逆転させる」ことを示すとしています。次の図はItteleson他(1991)からの引用です:

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図1. William H Ittelson, Lyn Mowafy, Diane Magid, 1991, Perception, 1991, volume 20, pages 567-584 から引用


ただ、この図で示されている座標系と呼ばれるものは、原点からプラスマイナスの方向に延びる直線として表現される普通の直交座標系ではなく、単一方向の矢印で示されています。この矢印は座標軸ではなくベクトルを表現しているとみられます。というのはこの符号を持つ矢印のセットはすでに定義済みの直交するx,y,z座標系の中で定義されているからです。


この右手座標系と左手座標系による説明は多幡先生のサイト「鏡の中の左利き」で説明されているものと同じ説明で、数学的な鏡映そのものを説明するものであることがわかります。この説明の結果について言えば、Itteleson他(1991)の文脈では、ここで述べられている結論は物理的な条件を数学的に説明できたものの、この時点では心理学的な逆転認知の解明には至っていません。言い換えると、Itteleson他(1991)では物理的な問題と心理的な問題を区別するために「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」の2通りの座標系を導入したのですが、ここで右手系と左手系の関係で得られた結論は鏡映対が互いに対掌体であり、鏡面に垂直な方向で互いに逆転しているという、「物理的」な条件を再確認したまでであって、物理的問題と心理的問題を区別するために導入された「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」という2つの座標系の関係については置き去りにされてしまいました。


しかしここから、Itteleson他(1991)は上記の物理的な条件を心理的問題の前提事項であることを確認したうえで、改めて心理学的なプロセスを考察し始めます。Itteleson他(1991)はその方法として直交する3軸のそれぞれを中心として鏡映対の一方を180 度回転することと平行移動の組み合わせによる重ね合わせにより、両者が互いに逆転して認知される方向が認知されるという方法を採用し、以下の章では模型を使用して被験者を使用して実験を行うという手法を実行することになりました。ただ、ここで重ね合わせる方法としては「point for point correspondence(各点ごとの対応づけ?)」という、直感的になんとなくわかりますが明確な定義とは言い難い表現となっています。それはともかく、この実験結果をとおして、物理的な条件(鏡映対が互いに対掌体であり、任意の方向で逆転しているとみられる)を前提とした上で、心理的にどの方向が逆転してみえるかを考察し、それが像の三次元形状における対称性が最も小さい方向であるとする、いわゆる「対称性仮説」を結論付けている訳です。


対称性仮説」の当否は後の問題として、ここでItteleson他(1991)が先に導入した「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」の2通りの座標系をなぜ利用できなかったかを考察する必要があります。「物理系」が物理的であるという論理はわかりますが、「物体系」が物理的ではなく心理的とみなさなければならなかったのはなぜなのでしょうか?それは「物体系」が上下・前後・左右の軸を持つと考えざるを得なかったからで、上下・前後・左右が物理的ではなく人間の心理に由来すると考えたからでしょう。これは先回の記事ですでに解明済みですが、鏡映対すなわち鏡像とその相手方との関係が鏡像と物体との関係ではなく、鏡像と直視像(鏡を介さずに見る像)との関係であることを認めれば解決に向かいます。つまり、鏡映対は一方が鏡像で他方が物体なのではなく、いずれも像であり、対の一方が物体の鏡像であるなら他方は同じ物体の直視像であり、いずれも客観性はあるものの、観察者によって視覚的に把握された物体の像であり、だからこそ互いに対をなすことが可能なわけで、像は物質でも物理的なものでもないからです。この鏡像と直視像の対に右手系と左手系の対をなす座標系が適用されたものとみなすことができます。これを固有座標系と呼ぶとすれば、固有座標系とは各々の像そのものと言えるのではないでしょうか?個々の像は言い換えると個々の像空間です。ここで右手系と左手系は対をなす像空間の性質とみなすことができます。その像とは人間の視覚による認知の内容であり、像空間は人間が視覚で認知する空間、すなわち視空間の中で認知されます。視空間の異方性についてはテクニカルレポートの主要論点の一つでした。前回記事の通り、マッハが発見したともいえる異方的な知覚空間ということになります。


では Itteleson他(1991)が物理系(Physical system)と名付けた方の座標系はどのような意味を持つのでしょうか?これについては端的に疑問を呈するより他はありませんが、物体が視覚によって認知される空間が視空間であるなら、視空間で認知される以前の物体そのもの、つまり感覚で認知される以前の物体にそもそも何らかの座標系などが適用されるでしょうか?物体自体が感覚を通じて認知される以前には何も認知されていないのです。そこにいかなる座標系も適用される訳がありません。したがって Itteleson他(1991)が物理系と呼んだ系とは、むしろ、視空間で各々の像が認知された後から思考力によって再構成された幾何学的な思考空間であると考える他はなく、鏡像認知空間がそれに相当します。この等方的な思考空間と異方的な知覚空間との関係こそがテクニカルレポートの中心的なテーマでした。


以上の空間定義を専門的な幾何光学の説明と比較してみたいと思います。岩波理化学事典の項目『結像』には次のように記述されています:「実在の空間を物点の集合とみなしたものを物体空間(object space),像点の集合とみなしたものを像空間(image space)という.両者は相重なるが,その屈折率などは,光学系の前のものを物体空間に,後のものを像空間にあてる.光学系による物体空間の像空間への変換が結像であり,物体を物体空間の部分空間とみれば,変換された像空間の部分空間が像である [株式会社岩波書店 岩波理化学辞典第5版]」


この定義はなかなか判りづらいものがありますが、ここでは認知のプロセスは完全に消去されています。ここでの定義をItteleson他(1991)の定義と比較してみると、Itteleson他(1991)の「物理系」は結像光学でいう物体空間に相当し、Itteleson他(1991)の「物体系」は結像光学では物体空間内の部分空間であって、個々の物体が占める部分空間に相当します。結像光学では認知のプロセスが完全に消去されていますが、「像」という概念の中に、いわばブラックボックスとして認知プロセスが閉じ込められているということもできます。ということで、Itteleson他(1991)が後に固有座標系と呼び、心理学的であるとみなした「物体系」が、結像光学における像空間の部分空間としての個々の像に対応させられます。


一方、Itteleson他(1991)が「物理系」と定義した座標系は、結像光学では全体としての物体空間に相当すると考えられます。ただし結像光学では物体空間を像空間に重ね合せています。これは物体空間の部分空間である個々の物体を個々の像と重ね合せているのに対応していますが、Itteleson他(1991)の「物理系」にはその対応が欠落しています。Itteleson他(1991)が「物体系」を心理学的とみなすことができたのは物体系を像空間の部分空間である個々の像とみなせるからであることから類推すれば、Itteleson他(1991)の論理でも結像光学と同様に「物理系」を像空間に対応させる必要があります。この像空間は結像光学では消去されていた鏡像認知プロセスにおける鏡像認知空間そのものであるとして問題はありません。


簡単に言ってしまえば、Itteleson他(1991)の「物理系(Physical system)」と「物体系(Object system)」は何れも心理学的に再定義できるものであり、前者は鏡像認知空間であり、後者は個別の像空間(結像光学では像空間の部分空間)ということになります。結像光学では後者(像空間の部分空間)は前者(像空間)の部分ということになりますが、結像光学では像の認知という心理学プロセスが完全に消去されています。鏡像を含む空間の場合、前者は等方的な幾何学的思考空間であることを前回記事で確認したわけですが、各々の像空間についてはどうなのでしょうか?


先に検討したように、数学的な鏡映の分析により、鏡面の両側で鏡映対のそれぞれの像空間に適用できる座標系は互いに右手系と左手系の関係にあり、鏡面に垂直な方向で軸方向が互いに方向が逆向きになっているというわけですが、ここで定義されている右手系と左手系と呼ばれるものは抽象的な座標軸そのものではなく、多幡先生のサイトでは行列式との関係が言及されているいますがウィキペディアの項目『右手系』によれば線形代数学で定義される座標系と言えるそうで、このような高等数学の定義になると私としては正直なところお手上げなのですが、要するに上図には矢印で表現されているように、単なる直線でしかない座標軸ではなく方向性を示すベクトルと考えられます。したがって方向軸と表現して差し支えありません。矢印で表現されるとおり、線上の各点は等価ではなく価値的に差があります。つまり、個々の像空間の内部では無限に想定できるすべての方向において各位置が相対的な関係ではなく価値的に差があるということであり、それぞれの方向自体にも価値的に差があるということです。等方的な空間ではそれぞれの軸線は角度で相対的に表現されるだけですが、個々の像空間では方向自体にも価値的な差異があることになります。このような空間は等方的ではなく異方的と言うべきでしょう。それはマッハ(E. Mach)やカッシーラー(E. Cassirer)がそう定義したとおり、そのままです。


このような性質は、私たちが知覚、この場合は視覚で認知する視空間の上下・前後・左右という方向性に対応しています。このような方向軸は鏡像認知空間のように原点を持つ通常の座標系で表現されるのではなくベクトルのように矢印で表現されるべき方向軸を持つものであるといえます。


以上を端的に要約すると、鏡像認知が生じた時点で観察者に鏡像認知空間という等方的な空間が把握されることになり、その空間内に個々の像や鏡像が認知される訳ですが、通常は各々の像について上下・前後・左右の方向性が認知されます。Itteleson他(1991)が上述のように鏡映対を互いに重ね合せて比較することができたのは等方的な鏡像認知空間の中で、鏡映対をなす2つの像の一方を回転または平行移動することで重ね合せることができたからですが、それが可能であるのは全体を包含する鏡像認知空間が等方的な思考空間であるからであるということができます。その際の重ね合せ方について、Itteleson他(1991)は「point for point correspondence(各点ごとの対応づけ?)」と言っています。しかしこれは曖昧な表現です。上述のように方向軸が矢印で表せることが判明した今、この重ね合わせの操作は、具体的には上下・前後・左右の各矢印の向きを合せることと言うことができます。結果的に上下・前後・左右の3つの矢印のうち2つの矢印を合せると、残りの1つの矢印が互いに反対方向を向くことになる、というわけです。言い換えるとどのように動かしても3つの矢印を合わせることができないというわけで、両者が同形であれば3つの矢印を合わせることで完全に重ね合わせられます。同形でも対掌体でもなければそもそも形状のすべての特徴が一致しないのでどの矢印も合わせることができません。人間であれば他人でも上下・前後・左右の特徴が一応似ているので誰でも方向軸の矢印を合わせることができますが、全体の形状を重ね合わせることができません。


Itteleson他(1991)が行った重ね合わせの方法は結果的には上述の方向軸の重ね合わせに近い方法ですが、等方的な鏡像認知空間と異方的な視空間との関係が認識されるに至っていないため、正しい結論にたどり着くことができずに終わっています。Itteleson他(1991)の誤謬は、心理学的な問題においてもあくまでも幾何学的な概念(対称性の大きさ)で迫ろうとする方法論にあるように思われます。なぜなら、何度も指摘しているように個々の像に上下・前後・左右を定めるものは幾何学的な形状ではなく像の各部が表現する機能的な意味であるからです。Itteleson他(1991)の誤りは、幾何学的なブロックで実験を行い、機能的な意味を持つ立体で行わなかったことにも起因しています。Itteleson(1993)では体操の選手を呼んで逆立ちをしてもらう実験をしているのは興味深い実験かもしれませんね。しかし結論は変えていません。


人間の場合、上下・前後・左右のうち左右の機能的な特徴が同じであり形状も大体同じであることは確かで、左右対称に近く、対称性が大きいということはできます。しかし現実には歩くたびに片方の足を前に出したり、片手をあげたり、片方にアクセサリーを着けたり、絶えず対称性は崩れています。ただこのような特徴は交換が可能なのです。少なくとも同一人物の同一時刻には左右の形状の差が確定しています。常に左右対称に近いというわけではないのです。道具ではさらに左右の形状差は大きく、例えばグランドピアノなどはどうでしょうか?右側が高音部であるという非常に重要な機能に由来する形状の差異を持っています。また道具では、例えば砂時計など上下の差異は無いに等しいといえます。しかし普通に置かれた砂時計の鏡像が直視像と比べて上下が逆転して見えるとは言えないでしょう。このように Itteleson他(1991)の「対称性」仮説は誤りであるといえます。



以上であらゆる鏡映反転の基礎となる概念はだいたい確立できたように思います。最後の重要な問題は左右軸の従属性に関する問題ですが、これについてはテクニカルレポートで、十分ではないかも知れませんがかなり掘り下げられたものと考えています。


【補足1】

上下・前後・左右の意味的な考察については上記のItteleson他(1991)に、ジェームズ(W. James)からの興味深い引用が挿入されています。私には、ここに紹介されているジェームズの考察は直接マッハとカッシーラーの認識に繋がるように思われ、非常に興味深いのですが、論文の著者はこれに興味を示しながらも鏡像問題には寄与するものではないとして、素通りしてしまいました。左右の意味的な考察についてはテクニカルレポートで空間の異方性との関係でかなり掘り下げたつもりですがまだまだ掘り下げる、あるいは敷衍する余地はいくらでもあるように思います。


これは補足というよりも余談ではありますが、今回の考察でつくづく思うことは、座標系という言葉はいかにも厳密に定義された意味を持つような印象がありますが、その意味するところは文脈により相当に流動的で、意味を把握することは容易ではない場合も多いように思います。これは日本語であるか英語であるかには関係がないようです。


【補足2】

【要点】


前回記事の要点はまだ良く煮詰まっておらず、固有座標系の概念や右手系、左手系の意味、その他、座標系そのものについての考え方については正直なところ、数学的素養がないため、これ以上考察することは困難なので、これらの解釈については保留しておきたいと考えています。ただし、少なくとも鏡映反転の心理学的な要素である比較プロセスについては固有座標系に類する概念は無しで済ませられるものと考えています。固有座標系とか環境座標系とか、この種の概念を不用意に使用し始めるとその概念自体が流動的で扱いが難しいだけに、どこかでミスリードされかねないような不安があります。


というのは、鏡像問題に限らず知覚心理学あるいは視覚心理学で固有座標系や環境座標系などが使われる場合、上下・前後・左右とか、あるいは東西南北とか何らかの意味のある軸名が使われています。こういう概念を座標系という数学的な概念とどのようにマッチさせてよいのかわからないからです。


先に岩波理化学辞典から引用した箇所でもわかりますが、幾何光学あるいは結像光学でも固有座標系というような概念は使用されておらず、上述のように、像空間や像空間の部分空間という概念で説明されています。先にも述べましたが、「像空間の部分空間」と呼ばれているものは個々の像そのものとみなせるので、Itteleson(1993)その他が「固有座標系」と呼ぶものは個々の像が占める空間そのものと考えればすむことだと思います。それでそのような空間はマッハやカッシーラーが導入した異方的な知覚空間に相当すると考えて問題はありません。


さらに付け加えれば、そもそも座標系とは座標の数値を決めるための厳密な定義そのものであって、そのような定義なしに性質や変換や変更などあれこれ議論しても意味がないと思うのです。例えば地理では東経とか北緯とか言いますが、それは経度と緯度の厳密な定義が決めてあるからで、北とか東とかは、緯度や経度の向きに過ぎません。経度にしても緯度にしても決して定義する以前に存在するような属性でも何でもありません。固有座標系、環境座標系など、それ自体は何も意味しないと思いますが、ただ、そういう言葉で何らかの空間、空間の属性などを漠然と推定しているものとしか考えられないのですが、どうでしょうか?


さて、以上の問題と関連すると考えるのですが、冒頭に要点として掲げた一点は特に重要で、強調しておく必要があると思います。


たとえば、右肩に鞄をかけた人物が鏡に映っているのが観察される場合、鏡像に正しく上下・前後・左右を適用した場合、左肩に鞄を掛けているように見えるはずです。本人、つまり人物を直接見ると右肩に鞄を掛けているのだから、左右が逆転して見えるということ自体は間違いとは言えません。しかし、この論理は、鏡映関係にはない他人との比較でも言えることです。単に右肩に鞄をかけた人物と、同じ鞄を左肩にかけた人物を比較した際にもこの点で左右が逆転しているということはできます。


この点で鏡像認知プロセスが完了していることが前提ですが、鏡像に上下・前後・左右を適用した後でも、もちろん適用する前でも、可能性としては鏡像認知空間という等方的な空間では2つの像の一方を回転させたり平行移動させたりして重ね合せることによる比較はあり得ます。第一、鞄を右か左のどちらかに掛けているという明瞭な差異が常に見られるとは限りません。2つの形状、特に立体の差異が微妙な場合、どうしても全体を重ね合せて比較しなければ正確な差異は見つけられませんから。要は、比較は常に相対的であり、上下とか前後とか左右といった意味を持つ方向は関係がないということです。この比較が可能なことが幾何学的な思考空間の性質に由来するわけです。


ただし、人は普通、上下と前後についてははっきりと意識しますが、左右についてはあまり意識しない、言い換えるとどちらが左でどちらが右であるかは意に介さない、という傾向はあると思います。とくに人物の場合は左右対称に近いことに加え、左右の特徴が入れ替え可能である(例えば同じ人でも右足を前に出しているときもあれば左足を前に出しているときもある)という特性があり、通常はどちらの場合もあり得るところを、鏡像の場合は左右の方向を改めて確認し、それだけで左右の逆転を意識するということは十分にあり得ることだと思います。この点でItteleson(1991)の「対称性仮説」には一定の範囲内で程度の合理性はあると思われます。また「左右軸の従属性」も一定の合理性はあると思われます。ただし、Itteleson(1991)の「対称性仮説」ですべてが説明される訳でもなく、一方の「左右軸の従属性」も「左右軸の決定順序」という固定した規則として定義されていることには問題があると考えます。左右軸の決定順序ではなく、むしろ左右軸の傾向性ともいえる性質として再定義するべきだと考え、テクニカルレポートではそのように再定義したわけです。


以上のような左右軸の性質、さらに上下・前後・ 左右のそれぞれの性質を含め、一切を知覚空間の異方性として捉えることで、鏡映反転を包括的に説明できると考えるものです。ですから鏡映反転を一括して左右逆転の問題と捉えることは諦めるるべきであって、個々のさまざまなケースについて必要ならばは個別のさまざまな条件で考察し、場合によっては実験も行なう必要が生じてくると考えるべきではないでしょうか。


今回は非常に込み入った説明でわかりずらいものになってしまいましたが、テーマ自体が像空間(したがって視空間)の異方性というわかりづらいものであるためやむを得ないところもあります。いずれもう少しわかりやすい説明の仕方が、見つかればと思います。ただ、テクニカルレポートでは固有座標系、右手系といった難しい座標系の概念を使用せずに一応の説明はできたものと考えています。


これで「鏡像の意味論」シリーズは一段落ということで、今後はまた別の形で考察を続けてゆきたいと考えています。もちろん補足や訂正を含めてこれでこのシリーズは打ち切りということではありませんが…

(以上 1017年5月〜6月 田中潤一)

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2017-05-09 鏡像の意味論その17〜19

ブログ『意味の周辺』に4月18日から今月7日にかけて掲載済みの「鏡像の意味論その17」から「その19」までを多少編集、変更を加えて一括して掲載します。多少長くなりますが、作成順になりますので読みやすくなっていると思います。なお「その19」に多少重要な修正があり、太字にしています。

鏡像の意味論その17 ― 常に像、光、および物体、三者の存在を想定しなければならないこと

| 13:25 | 鏡像の意味論その17 ― 常に像、光、および物体、三者の存在を想定しなければならないことを含むブックマーク 鏡像の意味論その17 ― 常に像、光、および物体、三者の存在を想定しなければならないことのブックマークコメント

【今回のキーポイントまたは結論】

  • 鏡映反転を含め鏡像の問題はすべて立体像すなわち三次元の像を基本として考察しなければならない

先回には像、光、および物体、三者間の区別の重要性について考えてみましたが、今回は鏡像の問題を考える際には必ずこの三者(三種類)の存在(存在形態)を想定しなければならないことを強調したいと思います。

例えば文字の場合、文字が物質性を持たない平面であること、さらに抽象的な記号としての形状であること、この二重の意味で物質性を持つ物体からは切り離して検討することはできます。しかし、そもそも現実の鏡面で生じる鏡映反転という現象は、物質性を持つ物体を欠いては絶対に生じない現象なのです。

【光】

光は照明により物体から乱反射を介する場合と発光体がそのまま鏡に映る場合とがありますが、何れも光の存在が不可欠であることは自明のことでしょう。

【物体】

鏡については、これも物体ですが、この際一応鏡面という抽象的な機能が問題になっているので必ずしも物体としての鏡を想定する必要はないかもしれません。しかし、鏡面で反射する光の光源としての物体は、絶対に想定しなくてはいけません。そうして物体は常に三次元の存在であることも忘れられてはならないことです。

【像】

鏡像の問題なのだから像の存在が前提であることもまた自明であるといえます。ここで重要なことは、像は抽象的な形状つまり幾何学的な形状そのものではないことです。幾何学的な形状は像の属性と考えることができますが、像そのものは全体としても部分的にも何らかの意味を持つので、単に幾何学的な形状ではないということです。また像の存在は常に観察者の存在をも想定していることになります。

以上から、一つの帰結として、鏡像の問題は常に三次元の立体でなければならない物体の存在を前提として考察する必要があることがわかります。

何度も繰り返しになりますが、高野陽太郎先生の「表象反転」は、抽象的な記号としての文字だけを他の場合と完全に切り離して全く異なった原理、つまり他のケースと共通する原理を含めずに説明している点でも、今回の要請からも容認できないものです。記号としての文字であっても鏡映が実現するには何らかの物体表面に書かれていなければなりません。どんなに薄い紙であっても、透明フィルムに書かれていようとも、質量を持つ物体なしに鏡像は成立しえないわけですから。

もちろん、抽象的な記号としての文字の鏡映反転を考察することは可能であるとしても、一つの付加的な条件として、すべての鏡映反転に共通する条件への付加的な条件として考察すべきものです。(2017年4月18〜20日 田中潤一)

鏡像の意味論その18 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(1)

| 13:25 | 鏡像の意味論その18 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(1)を含むブックマーク 鏡像の意味論その18 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(1)のブックマークコメント

【今回のキーポイント】

  1. 鏡映反転のプロセスには鏡映対をなす2つの像が成立するプロセスと、この2つの像を比較するプロセスとの2つの主な要素に分けられる。前者は基本的に幾何光学プロセスであり、後者は認知プロセスである。
  2. 2つの像を比較することは詰まるところ2つの像の差異を認知し、その差異を表現することである。従って比較される2つの像に客観的識別できる差異(観察者個人の認知ではなく科学的に表現できる差異)があるかどうかを判定しなければならない。
  3. 2つの像すなわち鏡映対のあいだに客観的に(科学的に)表現できる差異がなければ鏡映反転は純粋に認知の問題であって幾何光学プロセス、言い換えると物理的プロセスとは無関係であることになるが、客観的に(科学的に)表現できる差異がある場合は観察者がその差異を認識できるか、またどのように表現できるかが、認知の問題となる。
  4. 2つの像を客観的に、すなわち科学的に比較するための方法としては幾何学的な形状の比較以外にありえない。形状には当然、表面のパターンや色の分布も含まれる。
  5. 鏡映対は同形ではなく互いに対掌体であることが明らかにされている。したがって両者には幾何学的に表現できる差異がある。
  6. 認知過程としての比較プロセスは思考過程である

前回のとおり、像、光、および物体の三者の区別が必要であることは鏡像問題においてこの三者の存在が前提になっているからですが、仮にも鏡像の問題、鏡映反転に限らず、鏡像が関わる事象では、この三者と観察者の存在が前提になります。(この三者と観察者を含めた四者間の関係は単に「科学的に」規定できるようなものではないと私は思います。科学以前の常識あるいは科学を超えた認識論的視点にも焦点があてられる可能性があります。というのも、光と物体は物理的な存在であるのに対して像は物理的な存在ではなく、観察者の直接的な認知対象であり認知内容ともいえるものであるからです。しかし逆にいえば、認識論的な問題や主張を科学面から検証することにつながる可能性もあると考えられるわけで、そういう意味でも鏡像問題は単なる一つの問題ではなく、きわめて意義深いものになるのではないかと思う次第なのです。)

観察者を除き、三者のうち物体としては鏡と鏡に映る物体の2つですが、光(正確には光線)は普通物体とは言われません。ただし物体と光は共に物理的な存在であり、物体と光との関係を科学的に説明するには物理的な関係として説明する以外にありません。これだけで、仮にも鏡像が関係する問題には物理的な関係あるいは条件の関与は必須条件であり、いかなる具体的な状況であれ、物理的な条件を抜きに心理的な条件のみで鏡像問題を語ることはそれだけで間違いであるか不完全であることは自明ではないでしょうか?光と物体との相互関係を無視しては鏡像の問題は消えてしまいます。これは自明のことです。鏡像問題それ自体は数学の問題のように厳密に規定されていないとはいえ、鏡像を他の像から区別する意味がなくなってしまえば鏡像の問題ではなくなりますからね。

さらに、物理的といってもここで問題になっているのは光と物体との関係であり、それも鏡像に関わる限りの関係ですから、それに関わる物理学の分野としては必然的に光学、それも幾何光学を置いて他に考えられません。確かに光が物体に作用して物体の運動や化学変化に影響を与えることもあるでしょうし、眼の仕組みに関しては実際にその種の作用が問題になるでしょうが、それは像が成立する以前の問題であり、本文のタイトルのような像、光、および物体の三者の関係では眼の構造や原理については捨象、つまり消去して考える他はないので、鏡像の問題に関わる物理学としては幾何光学だけで十分といえるでしょう。

ところが、例えばMorris説を読み始めると鏡映反転を説明する理論としてのPhysical Rotation(物理的ないし身体的回転)説 やMental Rotation(心的回転)説などが光学説と共に、並列的に列挙されています。次に引用してみます:「Many psychological explanations have been advanced to explain left-right reversal in mirror images, but Gregory and Haig have each proposed a physical explanation for the reversal.(多くの心理学的説明が鏡像の左右逆転の説明を進展させたたが、そこにグレゴリーとヘイグがそれぞれ「逆転」についての物理的な説明を提起した。)」ここではGregory(1987)の「Physical Rotation」とHaig(1993)の光学的説明が共に「物理的な説明」として一括されているわけです。

このように、物理学としては幾何光学だけで十分だと思われる鏡像問題に、なぜか「物理的な回転」という説明が使われているのですが、この論文では従来説として次の4種の説明が列記されています:

Optical Explanation(光学的説明):Haig(1993)

Physical object rotation(物体の物理的な回転):Gregory(1987)

Symmetry(対称性):Pearth(1952)、Ittelson(1991)

Mental rotation(心的回転):Gardner(1990)

ちなみにMorris説では言及されていませんがMayo(1958)ではPhysicalとかMentalなどを付けずに単に「Rotation」として「Reverse」と比較対照されています。「3」の対称性についていえば、対称性自体は幾何学的な概念または性質であって物理的プロセスではありませんが、「2」のPhysical object rotationは「4」のMental rotationとどこが違うのでしょう?実際のところ、Gregory説のPhysical rotationとはつまり、鏡の前の人が鏡と向き合うために180度回転することをこう表現しているわけです 。「鏡と向き合うために」回転すると言っていますが、Gregory(1987)が実際に意図していることは回転する前の人の姿と回転後の人の姿を比較しているのです。つまり同じ人の2つの姿を重ねて比較しているのであって、回転運動は(鏡の前の人物本人ではなく著者が)2つの姿を比較するための手段なのです。最終的にはそれらの像を鏡像と比較するためという他はないでしょう。 このような比較は本来、鏡像との比較が目的であったはずであり、つまるところ比較が目的であるという意味では「4」のMental rotationと同じで、どちらもMental rotationなのです。「4」のMental Rotationは、鏡像の方だけを回転することですが、これも実際に目に見えるように行うことは不可能なので、Mentalというのも当然でしょう。

Mayo(1958)では回転の他に、さらに「Reverse」や「Transform」が並行的に比較されています。その「Reverse」や「Transform」というは物体の各点が一つの方向だけで逆転することで、つまり鏡面対象の形に変形するということそのままであって、こうなると移動や回転といった物体の動きとしては不可能な変化で、あり得ない「変形」になってしまいます。

ここでこれ以上Gregory説やGardner説あるいはMayo説に深入りすることは煩瑣になるので避けたいと思います。以上の例で私が言いたいことは、これらの文脈でRotation(回転)やReverssal(逆転)など呼ばれているものはつまるところ二つの形状を比較するための操作であり、比較アルゴリズムともいえることです。これは物理的なプロセスではなく、むしろ思考プロセス、それも幾何学的思考のプロセスというべきです。それがMorris説ではHaig(1998)の光学的説明と併せて物理的な説明として一括され、心理学的な説明と対置されていたわけです。このような命名や分類は本人にとっても後に続く研究者にとってもミスリーディングという他はありません。

ともあれ、鏡像問題において物理学的なプロセス幾何光学的なプロセスのみであり、後は光学的なプロセスで成立した2つの像を観察者が比較するプロセスであることが明らかになったわけです。

以上の光学プロセスと認知プロセスのそれぞれについてさらに掘り下げる前に、従来説では鏡映反転という事象をこれらの2つの要素に分析することなく一つの現象として説明していたことに注目する必要があると思います。「鏡像問題は物理学で解ける問題なのか?心理学的に解くべき問題なのか?」というような二者択一的な問いかけもその表れといえるでしょう。

高野陽太郎先生が従来説のどれをも「単一の原理によって生み出される単一の現象とみなす点で共通していた」(認知科学VOL. 15, NO.3 Sep.2008)と解釈したのはこの点で部分的に理解できるものです。ただし引用部の後半「・・・単一の現象とみなす点で共通していた」には同意できますが、「単一の原理によって生み出される・・・」という規定は明らかに従来の諸説を歪曲した表現であると思います。例えばMorris(1993)はGardner(1990)を「Mental rotation(心的回転)」という一つの熟語で表現していますが、Takano(1998)は同じGardner説を「Conventional description hypothesis(言語習慣説)」と呼んでいます。「心的回転」と「言語習慣」とは全く意味が違いますが、こうなったのは結局Takano(1998)もMorris(1993)もGardner説の主張の一部を取り出してこの説を名付けているだけということでしょう。単一の原理を暗示するように命名したからといってGardner説を単一原理による説明とは言えないでしょう。Gardner説にも光学プロセスが潜んでいない保証はありません。

高野先生はTakano(1998)においてGardner(1990)を引用していますが、そこでGardnerは次のように述べています「Such a reversal [mirror reversal] automatically changes an asymmetric figure to its enantiomorph」。ここでGardnerが言っていることは、鏡映対が互いに対掌体になっているということで、これは幾何光学的なプロセスが原因なのです。ですから、Gardner説には幾何光学的な結果が前提として含まれているわけです。

高野説による従来説の解釈は詰まるところ、従来説において結論の前提となる諸々の条件を差し置いて結論の部分だけを取り出しているだけだと思います。高野説自体についてもそれが言えると思います。例えば高野説の「Type 1 Reversal(視点反転)」では観察者と鏡面と鏡像とを上から俯瞰した絵が描かれています。観察者自身が絶対に見ることのできない観察者自身や鏡の裏側に生じる鏡像を上から俯瞰したような絵はどうして描けるのでしょう?これは幾何光学の結果を利用したものに他ならないのではありませんか?同様に「Type 2(光学反転)」についても、「Type ?(表象反転)」についても別個にイラストレーションがありますが、何れも幾何光学の結果を表現したものになっています。対掌体という表現を用いるとこれら3通りだけではなくすべての鏡映対の形状が対掌体という一つの言葉で表現できるのです。ですから対掌体に基づく理論では絵を描いたり、といったケースごとの具体的なイラストレーションは必要ないのです。これであらゆる鏡像問題の少なくとも前提となる部分については包括的な説明が実現されているわけです。(2017年4月26日 田中潤一)

鏡像の意味論その19 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(2)― 比較プロセスは思考プロセスであり、任意選択を含む

| 13:25 | 鏡像の意味論その19 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(2)― 比較プロセスは思考プロセスであり、任意選択を含むを含むブックマーク 鏡像の意味論その19 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(2)― 比較プロセスは思考プロセスであり、任意選択を含むのブックマークコメント

【今回の要点】

  1. 比較プロセスは思考プロセスであり、選択肢からの選択プロセスが含まれる。
  2. 回転、移動、逆転、反転、変形、変換などは比較を行なうための操作、手順であるか、差異の表現形式でもある。
  3. 鏡は、物体を光源とする光を反射することで鏡像の成立に寄与するが、それは鏡映対の一方だけであり、他方の成立には寄与していない。言い換えると鏡映対は互いに独立した光学系に基づいて独立して成立している。したがって鏡が他方の像を変形したり鏡像に変換することもその逆もない。
  4. 鏡は、光源にならない空虚な空間を反射したり空間に何らかの作用を及ぼしたりすることはあり得ない。当然、ある空間を別の空間に変換することもあり得ない。 したがって鏡の向こう側全体をこちらの空間とは異なる性質を持つ別空間と見ることに意味はなく、観察者にとっては同じ一つの視空間である。
  5. したがって鏡のこちら側と向こう側で異なる空間を表すために異なる座標系や座標の変換を考えることは無意味である。鏡映関係は個々の像の形状と位置についての関係であり空間の関係ではない。
  6. 鏡像は相手(直視像)と比較した場合にのみ鏡像としての特徴を示すのであり、両者間の差異は相対的である。

前回の考察で、鏡映反転のプロセスは鏡映対の成立プロセスと両者を比較するプロセスとの2つに分けて考える必要があることが明らかになりましたが、後者の比較プロセスは思考プロセスであることが最大の要点ともいえます。そしてこの思考プロセスには任意選択の要素が含まれるはずです。というのも、対掌体は任意の1つの方向で、つまりどのような1つの方向で形状が逆転しているともみられるので、事実上は無限の方向で逆転が認知される可能性があるわけです。


こう考えてくると郄野陽太郎先生の「光学反転」、すなわちTakano(1998)のType?の説明はこの点でもおかしいことに気付かれないでしょうか?光学プロセスという物理的なプロセスでこのような思考が進行しているわけはありません。思考プロセスはあくまで観察者の心の中にあります。これはType?(視点反転)と同様、一種擬人化と言えます(Type?では鏡像が実在人物であるかのような擬人化)。科学上の表現にも擬人化はつきもので避けられない場合あるいは局面もあるでしょうが、擬人化が一人歩きするようになるととんでもない地点にまで行き着く危うさがあります。


Type?の「反転」は、鏡の前で人物が肩の片方を鏡に向けている、つまり鏡面に対して横を向いているときに他の観察者が当の人物とその鏡像を見た場合に限定した説明です。この場合、両者の正面像に近い姿を同時に観察できるわけで、確かに左右逆転を認知する可能性が高いと思います。Takanao(1998)はその説明として光学的には鏡は鏡面に垂直な方向を逆転させる(これはGardner(1990)なども言っていることですが)ので、この場合は鏡の前の人物の左右方向が鏡面に垂直な方向なので、左右が逆転しているように見えるというわけです。


しかし「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」という表現は意味的に明確である、あるいは一意的であるとは言えないのではないでしょうか?。このような表現を行なっているGardner自身、鏡映の対は互いに対掌体であり、任意の1方向で特徴が逆転していると見ることができる旨を指摘しています。ですから鏡映反転の趣旨から言えば、光学的には鏡面に垂直な方向で形状が逆転していると見ることだけが正しくそれ以外は間違いであるとは言えないはずです。この例のような状況でも想像力の逞しい観察者が、鏡像または直接見る人物像のどちらかを上下軸を中心に180度回転させて(平行移動するだけではなく)両者を重ね合わせると、人物像の前後の逆転が観察される可能性を否定できません。

要するに、光学プロセスが空間の特定の方向軸を逆転させるなどということはないのです。 きわめておおざっぱな比喩に過ぎないのです。実際のプロセスとしては鏡面対称(面対称)の図を描く場合の作図方法に過ぎないのです。すでに何度か述べてきたように思いますが、鏡は光線を反射しますが像を反射したり反転したりは絶対にしません。光は像ではないのです(英語ではどちらも「reflect」とい言いますが)。これについても言い換えると、鏡面対称を作図する場合は一方を鏡面に対して反転させて描きますが、現実の鏡映対は両者が独立した光学プロセスで成立しているということですね。

高野説は、Gardner説などに含まれていた誤謬だけを徹底させた結果のような気がします。

ここでもう一度、Type?の説明に戻りますが、このような状況の場合、人はなぜ左右の逆転が認知されるような像の合せ方(回転方向)をするのだろうか?という方向に考察を進めてゆくべきでしょう。Type?の場合と同様に、左右の逆転を選択しがちであることは、Ittelson(1991)なども考察しているような左右軸の特殊性に着目することは自然な流れであるように思われます。せっかくのこの流れを押しとどめてしまってはつまりません。多幡達夫先生のTabata-Okuda(2000)やCorbalis(2000)の「左右軸の従属性」はこの流れの一つの帰結であるように思います。先般の日本認知学会に提出したテクニカルレポートはこの「左右軸の従属性」を再定義したといえる部分があります。ただし左右軸の特殊性だけにこだわることも一つの停滞であるように思います。左右のみならず上下・前後・左右、さらに知覚空間の一つである視空間全体にまで問題を拡張すべきです。実は、古くはE. Machがそういう知覚空間について述べているのですが、鏡像問題文献のほとんどが無視しているようです。著書の他の部分でマッハの功績を称えているGardner(1990)でさえ、これには言及していません。確かにマッハは視空間の性質と鏡像問題を結びつけることはなかったようですが、一方で鏡像の問題についても論じているし、対掌体に相当する概念で説明しています。少なくともカントよりも本格的に論じています。このこと(マッハを等閑視)自体、非常に興味深いことであると、私は考えています。(2017年5月5日、6日 田中潤一)

鏡像の意味論その19 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(2 - 続)― Gardner説の矛盾 ― 対掌体と鏡面対称の違い

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以下、前回にそのまま続きます。

【今回のキーポイント】

  • 鏡面対称と対掌体対とは明確に区別しなければならない

ところで、Gardnerの主張の矛盾は何に由来するのでしょうか。この矛盾はよく考えると非常に重要な問題であることに気付きました。まずこの矛盾を整理してみましょう。

次の三段論法が成り立ちます:

(1)鏡面対称の2つの立体は互いに対掌体である。

(2)対掌体の対は任意の1方向で互いに逆転していると見られる。

(3)故に鏡面対称の対は任意の1方向で互いに逆転していると見られる。

鏡面対称の図は「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させるので、鏡映対は鏡面に垂直な方向で逆転が認知される」という高野陽太郎先生の説:Takano(1998)のType?の根拠となっているものですが、「任意の1方向」と「鏡面に垂直な方向」は明らかに異なります。実際、可能性としては鏡面に垂直な1方向以外のいかなる方向でも逆転が認知される可能性はあるはずです。やはり「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」という表現と主張におかしいところがあるのではないでしょうか?

上記の三段論法の帰結である「任意の1方向で互いに逆転していると見られる」が光学プロセスの帰結であるとすれば、「鏡は光学的に鏡面に垂直な方向を逆転させる」も間違いとは言えないように見えます。しかし、後者の表現では、鏡面に垂直な方向以外の任意の方向で逆転しているとも見られる可能性が覆い隠されているとは言えないでしょうか?

実は、Gardner(1990)は「数学的に意味では、鏡は上下と左右はそのままで前後軸だけを逆転している」と述べています。つまり数学的な鏡映(reflection、mirror operation)、すなわち幾何学的な鏡面対称のことを言っているようです。

見方をかえると、鏡面対称の状態であるということは、鏡映対が互いに対掌体であるという条件に加えて鏡面対称であるという両者の位置関係の状態が付加されているということができます。この位置関係というのは表現が難しいですが、両者の「特定の方向軸が鏡面に垂直な方向で互いに逆転している」というように表現できると思います。この方向軸という概念が座標系の座標軸と紛らわしいのですが、少なくとも数値座標を表すものではない限り座標軸と呼ぶ必要はないし、座標系を想定する必要もないと考えるものです。単に方向を示す軸と考えていただきたいのですが、この「特定の方向軸が鏡面に垂直な方向で互いに逆転している」という場合、鏡面の両側の各像が互いに鏡面に対して垂直に特定の方向軸で逆転しているといえます。実はこの問題を述べたのが本シリーズ「鏡像の意味論 ― その6」で、イラストを使って説明していることなのです。

結論は、鏡面対称の状態は、対掌体の対が互いに特定の方向軸で逆転している、すなわち向かい合っている、あるいは対面状態にあるということです。対掌体の対はそれだけでは互いの位置関係については何も規定されていません。例えば自分の左手の上に右手を重ねたような状態は鏡映関係ではあり得ないのですが互いに対掌体の形状であることに違いはありません。ですから対が互いに対掌体であることと特定の方向で向かい合っているという鏡面対称の状態であることは全く異なる意味、あるいは条件ということができます。対掌体の対が特定の方向軸で互いに向き合っている場合、本来どの1軸で(方向)形状が逆転しているとも見なせるわけですから、当然この方向での逆転が認知されて不思議はありません。特定の方向軸の逆転という意味では、このような状態は鏡像が存在しなくても日常的に無数にあるのです。早い話が、二人の人物が互いに向かい合っている状態がこの状態そのものです。Takano(1998)のType 3に似た例でいえば、横並びの人物像の一方のが鏡像ではなく別人が後ろを向いていたり、こちらを向いていても逆立ちをしていたりした場合、両者の左右は逆転しているので左右が逆転していると言えます。つまりType 3で左右が逆転して見えるプロセスは鏡像であるかないかとは関係のないプロセスなのです。確かに一方の人物像が他方の人物像と同じ上下と前後を向きながら左右が逆転しているのは一方が他方の鏡像であるからですが、この場合一方が他方の鏡像であることが分からなければ、両者で左右の逆転に気付くこともありません。鏡像であることが認知されれば、なぜ鏡像ではこうなるのか?という疑問が当然出てくるはずです。

以上のように、Takano(1998)のType 3の「光学反転」もType 1およびType 2の場合と同様、鏡像の問題を事実上放棄したにも等しいといえるのではないでしょうか。

余談になりますが、このように鏡面対称と対掌体は区別すべきで、紛らわしい使用法は避けた方が良いのではないかと思います。例えば化学では鏡像異性体というような用語がありますが、こういう用語はあまり適切ではないのではないでしょうか?


【5月11日補足】

Takano(1998)のType 3の「光学反転」が誤りであるというのは、表現の形式でいえば、「光学反転」説はこの場合の逆転の認知が光学的な原理によるものとし、他の場合と区別している点です。

つまり、光学的には、鏡面対称の対は互いに対掌体であると同時に、特定の軸方向が鏡面に垂直な方向で向き合っています。Type 3の場合はこの軸方向が左右軸である場合ですが、この場合は鏡面に垂直な方向軸が左右軸と一致しているので左右の軸が逆転して見えるというわけなのです。この鏡面に対して垂直な軸が左右軸であるというのは光学的なプロセスとは関係のない条件であって、むしろ2つの像を比較する際の条件であって、比較プロセスに属すことです。したがって、この場合もすでに明らかになっているように、光学プロセスと比較プロセス心理的で思考を含む)の両者が関係しているということです。補足前の記事ではこの点が明確でなかったように思います。

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2017-03-29

前回記事「鏡像の意味論その15」では「今回でひとまず一段落となりそうです」と書いてしまいましたが、ブログ『意味の周辺』と同様、「その16」を公開します。内容は27日の『意味の周辺』記事に多少の編集と追記を行ったものです。

鏡像の意味論その16 ― 像、光、および物体の三者を区別すべきこと

17:47 | 鏡像の意味論その16 ― 像、光、および物体の三者を区別すべきことを含むブックマーク 鏡像の意味論その16 ― 像、光、および物体の三者を区別すべきことのブックマークコメント

前回記事では「Haig説、Morris説、および高野説を併せて批判する」という副題を掲げていましたが、Morris説についてはTakano(1998)中の引用との関連で言及した限りで批判したまでで、そこで全体としてのMorris説について批判にはなっていませんでした。ただこれまで読込んだ限りで感じることは、既存の諸説についてOptical explanateion、Explanation based on symmetry、Physical rotation、Mental rotation、などと命名しているのですが、こういう命名がそれぞれの説をどこまで的確に表現しているか、あるいはこういう名称がその後に一人歩きして他人の研究に影響を与えすることで混乱が生じていないか、少々危ういものを感じます。特に「Symmetry(対称性)に基づいた説明」を単に「Symmetry」という単語だけで見出しとして使用していることは非常に問題だと思います。

さて、前回記事と前々回記事ではHaig説における2通りの説明のうち最初の説明を私が高く評価していることがご理解いただけると思います。だからこそ、Haig説を「たらいの中の赤ん坊」に喩え、赤ん坊を流してしまったMorris説と高野説を批判したわけです。というのも、この説明では鏡映反転において比較される対象は何(何と何)かという、本質的でありながら意外と忘れられがちな問題が期せずして示されているからです。今回もまた同じ図を転載します:

f:id:quarta:20170317144505j:image

この図では鏡像が表現されていません。それというのもHaig氏は光線という物理的な存在だけで説明しようとしているからですが、同じような状況で鏡像を表現した図を私が作成したことがあり、次にその図を掲げます:

f:id:quarta:20170329173456p:image

この図ではHaig(1993)の点Eに相当するのが(A)で、Eの共役点Fに相当するのが(A2)です。

さて、鏡像問題のテーマそのものである「Reversal」、「逆転」、「反転」、「変換」などが論じられる際に、鏡像はいったい何に対して逆転しているのかを規定せざるを得ないはずですが、それがどうも自明と言うわけには行きません。初期の論文であるPears(1952)には「Counterpart」と表現されています。確かにそうですが、これでは何のことか分かりません。大抵の著述では「Object」あるいは日本語の場合「実物」と表現されることが多いようです。

「実物」と表現されることは一見、自明のように見えますが、本当に自明といえるでしょうか?自己鏡像の場合は言葉の上から当然、「自分自身」ということになり、多くの著者はそのように表現しています。しかし、肩から下の自分自身で見える部分は別として、自分自身では絶対に直接見ることのできない顔や頭部について、どうして逆転が観察できるのでしょうか?

他者鏡像の場合は確かに鏡像と同様に他者そのものを直接眺めることができ、場合によっては同一視野の中で同時に見比べることもできます。しかし幾何光学が明らかにしているところによれば、鏡像はその他者の表面から発散する光線が鏡に反射することで観察者の眼に見えるのであり、光線を眼で受け止めることによって見ているという点で、鏡を介さずに見る場合と全く同じです。つまり、他者から出る光線がいわば二手に分かれて違う方向から観察者の眼に到達することで2つの像を見ているのであり、その人物自身を見ているという点で両者に違いはありません。したがって、鏡映反転における「逆転」は「鏡像と実物(物体自体、本人自身)」との関係であるとは言えないのです。

以上のように、逆転は鏡像と、いわば直視像との2つの像を比較した上で観察されるものであり、一方が他方に「Transform」あるいは「変換」されたなどと考えることは誤った結論に導かれる原因になりかねません。

鏡像と対になる、あるいは比較される対象が「実物(物自体)」ではなく「直視像」とでも言うべき「像」であるといえる根拠は他にいくつも挙げることができます。例えば:

◆ 鏡像も直視像も照明光の存在で生じるものであるのに対し、物自体は常に存在している

◆ 色や平面パターンは眼で観察することで始めて認知されるものである。つまり物自体ではなく像に生じる属性である

◆ 物の形状は幾何学的な計測で把握し、表現できるとしても、結局のところすべては感覚に基づいているのであり、そのようなデータも結局のところ「像」と言うほかはない

今は思いつかないものの他にも根拠はいくつも挙げられるように思います。


最後に、鏡映の関係が何と何との関係であるかを明らかにすることは鏡像問題の根本であり、これを曖昧にしたり取り違えたままでは鏡像問題になりません。高野説は、文字の鏡映反転認知は文字の記憶と比較することで生じるとしています。このプロセスレオナルド・ダ・ヴィンチが使ったと言われる左右が逆になった文字列、いわゆる鏡文字あるいは反転文字が通常の文字とは逆転していることに気付くプロセスと何も変わりません。ただ逆転に気付くというだけの話であって、こうなればもう鏡像問題そのものを放棄したに等しいといえます。

 (以上、2017年3月29日 田中潤一)

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