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2017-03-29

前回記事「鏡像の意味論その15」では「今回でひとまず一段落となりそうです」と書いてしまいましたが、ブログ『意味の周辺』と同様、「その16」を公開します。内容は27日の『意味の周辺』記事に多少の編集と追記を行ったものです。

鏡像の意味論その16 ― 像、光、および物体の三者を区別すべきこと

17:47 | 鏡像の意味論その16 ― 像、光、および物体の三者を区別すべきことを含むブックマーク 鏡像の意味論その16 ― 像、光、および物体の三者を区別すべきことのブックマークコメント

前回記事では「Haig説、Morris説、および高野説を併せて批判する」という副題を掲げていましたが、Morris説についてはTakano(1998)中の引用との関連で言及した限りで批判したまでで、そこで全体としてのMorris説について批判にはなっていませんでした。ただこれまで読込んだ限りで感じることは、既存の諸説についてOptical explanateion、Explanation based on symmetry、Physical rotation、Mental rotation、などと命名しているのですが、こういう命名がそれぞれの説をどこまで的確に表現しているか、あるいはこういう名称がその後に一人歩きして他人の研究に影響を与えすることで混乱が生じていないか、少々危ういものを感じます。特に「Symmetry(対称性)に基づいた説明」を単に「Symmetry」という単語だけで見出しとして使用していることは非常に問題だと思います。

さて、前回記事と前々回記事ではHaig説における2通りの説明のうち最初の説明を私が高く評価していることがご理解いただけると思います。だからこそ、Haig説を「たらいの中の赤ん坊」に喩え、赤ん坊を流してしまったMorris説と高野説を批判したわけです。というのも、この説明では鏡映反転において比較される対象は何(何と何)かという、本質的でありながら意外と忘れられがちな問題が期せずして示されているからです。今回もまた同じ図を転載します:

f:id:quarta:20170317144505j:image

この図では鏡像が表現されていません。それというのもHaig氏は光線という物理的な存在だけで説明しようとしているからですが、同じような状況で鏡像を表現した図を私が作成したことがあり、次にその図を掲げます:

f:id:quarta:20170329173456p:image

この図ではHaig(1993)の点Eに相当するのが(A)で、Eの共役点Fに相当するのが(A2)です。

さて、鏡像問題のテーマそのものである「Reversal」、「逆転」、「反転」、「変換」などが論じられる際に、鏡像はいったい何に対して逆転しているのかを規定せざるを得ないはずですが、それがどうも自明と言うわけには行きません。初期の論文であるPears(1952)には「Counterpart」と表現されています。確かにそうですが、これでは何のことか分かりません。大抵の著述では「Object」あるいは日本語の場合「実物」と表現されることが多いようです。

「実物」と表現されることは一見、自明のように見えますが、本当に自明といえるでしょうか?自己鏡像の場合は言葉の上から当然、「自分自身」ということになり、多くの著者はそのように表現しています。しかし、肩から下の自分自身で見える部分は別として、自分自身では絶対に直接見ることのできない顔や頭部について、どうして逆転が観察できるのでしょうか?

他者鏡像の場合は確かに鏡像と同様に他者そのものを直接眺めることができ、場合によっては同一視野の中で同時に見比べることもできます。しかし幾何光学が明らかにしているところによれば、鏡像はその他者の表面から発散する光線が鏡に反射することで観察者の眼に見えるのであり、光線を眼で受け止めることによって見ているという点で、鏡を介さずに見る場合と全く同じです。つまり、他者から出る光線がいわば二手に分かれて違う方向から観察者の眼に到達することで2つの像を見ているのであり、その人物自身を見ているという点で両者に違いはありません。したがって、鏡映反転における「逆転」は「鏡像と実物(物体自体、本人自身)」との関係であるとは言えないのです。

以上のように、逆転は鏡像と、いわば直視像との2つの像を比較した上で観察されるものであり、一方が他方に「Transform」あるいは「変換」されたなどと考えることは誤った結論に導かれる原因になりかねません。

鏡像と対になる、あるいは比較される対象が「実物(物自体)」ではなく「直視像」とでも言うべき「像」であるといえる根拠は他にいくつも挙げることができます。例えば:

◆ 鏡像も直視像も照明光の存在で生じるものであるのに対し、物自体は常に存在している

◆ 色や平面パターンは眼で観察することで始めて認知されるものである。つまり物自体ではなく像に生じる属性である

◆ 物の形状は幾何学的な計測で把握し、表現できるとしても、結局のところすべては感覚に基づいているのであり、そのようなデータも結局のところ「像」と言うほかはない

今は思いつかないものの他にも根拠はいくつも挙げられるように思います。


最後に、鏡映の関係が何と何との関係であるかを明らかにすることは鏡像問題の根本であり、これを曖昧にしたり取り違えたままでは鏡像問題になりません。高野説は、文字の鏡映反転認知は文字の記憶と比較することで生じるとしています。このプロセスレオナルド・ダ・ヴィンチが使ったと言われる左右が逆になった文字列、いわゆる鏡文字あるいは反転文字が通常の文字とは逆転していることに気付くプロセスと何も変わりません。ただ逆転に気付くというだけの話であって、こうなればもう鏡像問題そのものを放棄したに等しいといえます。

 (以上、2017年3月29日 田中潤一)

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