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2017-06-15 鏡像の意味論その20〜22

ブログ『意味の周辺』の『鏡像の意味論』シリーズで更新した記事3本を一括して転載します。元の記事に若干の編集と補足を追加し、やや構成が変わりました:

鏡像の意味論その20 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(3)― 鏡映対の成立と鏡像認知について

| 22:01 | 鏡像の意味論その20 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(3)― 鏡映対の成立と鏡像認知についてを含むブックマーク 鏡像の意味論その20 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(3)― 鏡映対の成立と鏡像認知についてのブックマークコメント

【今回の要点】

  • 鏡映対の成立(プロセス1)は、光の反射という物理的プロセスであると同時に鏡像認知のプロセスでもある
  • 他者の鏡映対を比較する際には鏡像認知のプロセスは捨象(消去)されるので、鏡映対の成立は物理的プロセスと見なせる
  • 自己鏡像を認知する場合、鏡像を認知するプロセスと、対応する自己像の認知プロセスは異なる(厳密には存在しない)ので鏡像認知のプロセスは捨象されない。

前々回と前回では鏡映反転を認知するプロセスは2つのプロセス:(1)鏡映対の成立プロセス(プロセス1)と、(2)鏡映対の比較プロセス(プロセス2)からなること、そして(2)の鏡映対の比較プロセスは物理的なプロセスではなく思考プロセスであるとし、この比較プロセスについて考察しましたが、今回は振り返って2つのプロセスで最初の(1)鏡映対成立プロセス(プロセス1)について改めて分析してみたいと思います。


前回の考察のとおり、高野説のType3は「光学変換」とされているものの、実際には比較プロセスに該当するものであることが判明しています。要するにこのプロセスは1つの共通空間の中で2つの像(の形状)を比較するプロセスです(この共通空間についてはまた改めて検討したいと思います)。これで、高野説のType1、Type2、およびType 3はすべてプロセス1の条件の記述が欠落していることになります。三者それぞれについてイラストや具体的な状況説明はありますが、それらの状況に共通する光学的、すなわち光の鏡面反射による鏡像の成立という鏡像問題の基本前提である物理的な条件を全く素通りしています。これは、鏡映反転は物理的な現象ではなく全面的に心理的な現象であるとする高野陽太郎先生の主張に合致していますが、物理的な条件を絵を描くことと具体的な状況説明だけで済ませ、理論としては素通りして心理的なプロセスのみを考察しているのですから、物理的な条件を既存の解決済みの条件とみなしているわけで、これも一種の「論点先取りの誤謬ないしは詭弁」に相当するのではないかと思うのですがね...。


さて、それではプロセス1すなわち鏡映対の成立プロセスは本当に、あるいは純粋に物理的なプロセスであるといえるのでしょうか?


鏡映対はふつう、鏡面に対して面対称(鏡面対称)の対をなす立体像、― 大抵は人物像ですが ― として表現され、図に描かれます。例えば以前の記事で使用した次の図のような図です。この図では鏡像はB’のみで、AとA2は何れも観察者、Bは観察者A2が鏡を介さずに直接人物を見た像を表しています。

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このBとB'は鏡面に対して面対称に描かれている訳ですが、この面対称という概念はGardnerもそう述べているように数学上の概念であって、実際に実物ないしは光の像が面対称の図のように成立しているわけではありません。実際には(A)が(B')を見る光学系と、(A')が(B)を見る光学系は独立していて相互に何の関係もないのであって、一つの光学形として同時に成立している訳ではありません。以前、「鏡は光を反射するのであって像を反射するのではない」といったのはこの意味です。つまり、これは虚像である鏡像を作図するためのテクニックであって、決して物理的にこのような対が成立しているわけではない。つまり、鏡面対称という状況は数学的な概念であって、物理的にそのようなものが成立しているわけではないので、鏡映の対は単純に物理的なプロセスだけで成り立っているとは言いきれません。そもそも、これも何度も言っていますが、鏡像であっても直視像であっても像というものは心で知覚される内容であって物理的な存在では決してありません。結論を言えば、鏡映対の成立には物理的な光学プロセスと、鏡像認知という認知プロセスが同時に進行しているとでもいうより他はありません。


ただ、自分ではなく他者の鏡像を見る場合は比較する対の双方(直視像と鏡像)を認知するプロセスは共通しているので、両者の差異を見つけるときには捨象(消去)され、結局プロセス1は光学的で物理的プロセスであるといって差し支えないわけです。しかし客観的に見られる他者ではなく自分の鏡像の場合、鏡を介しない直視像は存在しないので、厳密な意味で自己鏡像の鏡映対は存在しません。ただ他者(自己の身体の一部を含めて)の鏡映反転から類推できるだけです。高野先生は自分の正面像の鏡映反転を説明しなければ鏡映反転を説明したことにはならないとおっしゃいますが、そのためにはまず他者の鏡映反転のメカニズムをきっちりと説明しなければ不可能なのです。事実高野説においても観察者とその鏡像を上から俯瞰したという、見えるはずのない絵や状況説明を行なっていますが、絵に描いたり外観を描写したりする時点でそれはもう他者の鏡映反転を考察していることに他ならないのです。例え自分自身の外観を想像できたとしても、想像した時点ですでに客観化されていて、それはもう想像上の他者なのです。


というわけで、鏡映対の成立プロセスは鏡像認知のプロセスでもあるのですが、ここで問題になるのは一般に鏡像認知の問題は即自己鏡像の認知プロセスとみなされる場合が多く、他者の鏡像を含めた鏡像認知一般についてはこれまであまり議論されていなかったのではないでしょうか?今後はこの分野の進展を願うばかりです。これは重要な問題で、これまでの鏡映反転の議論の中には鏡像認知の問題が潜んでいる場合が多いのです。そこではかなり混乱した議論が見られるように思います。 下の図は認知科学会に提出済みのテクニカルレポートで使用したもので、鏡像認知と鏡映反転の関係を描いたものです。

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(以上、2017年5月〜6月 田中潤一)

鏡像の意味論その21 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(4)― 鏡像認知の空間と座標系の概念

| 22:01 | 鏡像の意味論その21 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(4)― 鏡像認知の空間と座標系の概念を含むブックマーク 鏡像の意味論その21 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(4)― 鏡像認知の空間と座標系の概念のブックマークコメント

【今回の要点】

  • 鏡像認知は座標系の概念と深い関係がある
  • これまでの座標系を用いた解析方法を使用した理論は何れも鏡像認知の側面が欠落している
  • 鏡像認知は鏡面という平面の認知から始まる
  • 平面の認知は線や長さなどと同様に幾何学的な思考によるもので、鏡像認知空間は現場で直接見ている視空間ではなく幾何学的思考空間内で行われるが、この幾何学的思考空間は等方的である。
  • 像(イメージ)は、したがって幾何学的な形状も、思考空間の中で自由に動かすことができる。これは思考空間の等方性の一つの現れである

ちょっと前置が長くなりますが、

道具としての鏡はかなりの昔から世界中で作られていたことは確実です。それはつまり、鏡は今も昔も最初からその機能を目的に使用されていることが分かります。たいていは自分の顔を確認するためですが、見たいアングルで映るように、鏡面に垂直な方向に、適切な距離に持ってきます。この点で、鏡を見る前にすでに、鏡像認知のプロセスは無意識的ですが完了しているわけです。しかしそうでない場合もあります。街中や始めて入った建物の中などでいきなり気がつかずに鏡に遭遇して、自分自身の鏡像を他人と勘違いすることもなきにしもあらずです。もちろん周囲の光景についてもそれが言えます。うっかりすると、透明なガラスでは結構あることですが、鏡に体をぶつけるような事故もなくはありません。私自身もそういう経験があります。いずれにしても鏡像認知という、鏡像を鏡像として認知するプロセスは自己鏡像の場合に限らず、また意識的であるか無意識的であるかに関わらず、必ず存在します。


【鏡像認知を可能にする鏡映対が成立し、鏡映対の比較を可能にする空間】

前回の記事で、鏡像認知のプロセスは他者鏡像の場合には消去できる旨を説明しましたが、それは鏡映反転のプロセスであって、全体としての鏡像問題、自己鏡像の場合を含めた鏡像問題一般に共通する問題として鏡映反転の認知に先立つ鏡像認知のプロセスを欠かすことはできないでしょう。自己鏡像の場合に特有の鏡像認知問題はこのさい留保するとしても、すべての場合に共通する鏡像認知プロセスは、つまるところ他者鏡像の鏡像認知プロセスそのものとして差し支えないでしょう。すでに述べたとおり、自己鏡像の認知プロセスは他者鏡像の認知と鏡映反転から類推する他はないわけですから。自己鏡像の鏡映反転を説明できたと主張する高野陽太郎先生のType 1の場合にしてもその検証は絵を描いて、しかもその決め手には片方の腕時計という、身体の自分でも見える部分に付けたアクセサリーを使用しています。実際のところ、自分であっても頭部以外の身体の殆どはかなり、直接見ることができるわけです。自己鏡像の鏡映反転と言っても、少なくとも鏡像認知のプロセスでは実質的に他者鏡像の鏡像認知を流用しているに過ぎません。


さて、動物には鏡像認知が存在しないことはまず確実ですが、それは普通に知能、具体的には思考力に基づいていると考えられます。とはいえ、どんなに知力の優れた人物であっても、一定の条件がなければ鏡像認知は不可能だし、さらに鏡像認知が成立するにはそれを可能にする空間的枠組みが不可欠でしょう。


前回の結論の一つとして、鏡面に対して面対称である立体像の対、つまり鏡映対を認識することが鏡像認知の始まりであると言えるわけですが、鏡面対称の認識を可能にする対称面は即、鏡面であり、言葉が同じで混乱しますが、現実の鏡面、すなわち鏡や静かな水面のような表面反射する物体の表面の存在を認識することが前提になっている訳です。この表面という概念は幾何学的な平面そのものであって物質的なものではなく、厚みを持たない抽象的な平面です。これは端的に言って一つの抽象的な概念であって、少なくとも人間以外のいかなる高等動物もこんな概念を持つことは不可能に違いありません。これはもう幾何学的思考の始まりです。鏡像認知はそれ自体が幾何学的思考によるものです。この鏡面に対して反対側に同一と見られる距離に同じ特徴をすべて備えた対になる像を想定することが鏡像認知であるとすれば、これはもう私たちが直接知覚する視空間とは別の空間といえます。


例えば鏡の前で身繕いなどしているあなたの背後にだれかが現れた場合、当然その人物は鏡に映って見えますが、その人物を直接見るには後ろを振り向かねばなりません。この場合の鏡像認知空間は完全に、あなたの思考と構想力によって構成された空間であることが判ります。鏡の前の他人の姿を直接見ると同時にその人の鏡像をも見るような状態(例えば高野説のType3)はかなりこの鏡像認知空間に近いと言えますが、鏡面の存在に気が付かなければただ似た人物が並んで見えるだけで鏡像認知はなく、したがって鏡映反転の認知もありません。


この空間は座標空間とも言えます。 表面なら視野の中には鏡面以外にもいくらでもあります。鏡が裏返っていれば裏面が見えるだろうし、ガラス板があればその表面も認知は可能だろうし、他にも光沢のある平面や光沢のない平面はいくらでもあります。その中で鏡面の両側に同一距離で同じ特徴をすべて持つ立体像を認知することは鏡面を特別な意味を持つ表面として特別な意味を与えられている訳で、これは単なる感覚的な知覚ではないからです。


この空間は触覚で認知される触空間とはもちろん、視空間とも異なり、両者を含めた知覚空間、直接知覚されるのではなく概念で構成された思考空間です。ですから感覚的に認知できる位置や方向とは関係なく、紙の上に図を描いて再現することもできるわけです。そのために絶対的な位置や方向は無意味で、位置や長さや方向はすべて相対的であり、一つの点の位置を特定する場合には座標系が必要になります。その座標系は普通x、y、zの軸で表され、紙の上では各軸の正負の方向も規定されていますが、これらはすべて便宜上の約束事に過ぎません。ですから、正負の方向も相対的であるといえます。


思考空間のこのような性質を等方的(Isotropic、Isometric)な空間と表現したのは恐らくMachが最初なのだと思います。個人的にそこまで文献的知識がないので恐らくというほかないのですが。さらにこれを認識論的に位置づけたのがカッシーラーであると考えています。


この鏡像認知空間のなかで鏡映対が比較される際のメカニズムについては件のテクニカルレポートに詳しく分析しているので、そちらをお読みくだされば幸いです。そこではこの座標系、つまり鏡像認知空間の座標系しか使用していませんが、従来の諸説ではこのような座標系よりもむしろFixed reference system、あるいは固有座標系などの概念が使われています。この問題については改めて検討したいと思います。

(2017年5月〜6月 田中潤一)

鏡像の意味論その22 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(5)― 従来説における座標系(固有座標系)の扱いとその再定義

| 22:01 | 鏡像の意味論その22 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(5)― 従来説における座標系(固有座標系)の扱いとその再定義を含むブックマーク 鏡像の意味論その22 ― 像、光、および物体、三者の相互関係からの推論(5)― 従来説における座標系(固有座標系)の扱いとその再定義のブックマークコメント

【今回の要点】

  • 座標系ないし座標軸のセットと方向軸(異方軸)のセットは区別しなければならない。座標軸は等方的な幾何学空間で任意に定められる3本の直交する軸であって通常 x、y、zで表現される軸上の位置は相対的で、固有のx、y、zは変数であってそれ以上の意味を持たないが、方向軸は固有の意味と価値を持つのであり、座標空間のなかではむしろベクトルに相当するものと考えられ、矢印で表現できる。
  • 鏡像問題においてこれまで固有座標系と呼ばれてきたものは個別の像空間(像が占有する内部空間)であるものと解釈できる。これに対してすべての像空間(鏡像と直視像を含め)を含む鏡像認知空間が想定できる。鏡像認知空間は、Itteleson他(1991)のphysical reference systemや従来、視覚心理学で環境座標系あるいは共有座標系などと呼ばれてきた概念と共通する要素もあるが、座標系というよりは等方的な幾何学的思考空間を意味し、明確に等方的であるために座標軸は相対的な位置を示すのみであり、意味のあるラベル(上下前後左右、東西南北など)を使用しないので、それらとは同じではない。
  • 等方的な鏡像認知空間には通常の幾何学的な座標系が適用できるのに対して、各々の像空間は異方的であり右手座標系か左手座標系かの何れかが適用できる。
  • 個別の像空間の内部ではすべての位置が異なる価値または意味を持っている(例:上下・前後・左右のセット)。そのためすべての軸は一方的な方向性を持つので方向軸と呼ぶべきであり、矢印で表現すべきである。
  • 鏡映対の各像が持つ方向軸(矢印で表せる方向を持つ)は鏡像認知空間の中で、鏡面に垂直な方向で互いに逆方向を向いているが、鏡像認知空間は等方的な幾何学的思考空間であり、その中では像は任意に回転と平行移動ができる。回転と平行移動により直交する3軸のうち2つの方向軸(の矢印の向き)を重ね合せると、残りの1軸の矢印が互いに反対方向を向くことになる。認知される鏡映反転は意識的または無意識的に行なわれたかまたは行なわれなかった操作の結果である。

今回の考察はItteleson他(1991)をレビューすることで進行できました。

Itteleson他(1991)は、まず鏡映対が互いに対掌体になっていることを前提とした上で、物理的な問題と心理学的な問題を区別するために異なった2つの座標系のセットが使用できるとし、その1つ目は鏡と物体を含めた世界に固定されたphysical system(物理系)、2つ目はobject system(物体系)と呼んでいます。そうして前者が物理的であり、後者は心理学的であるとし、従来理論では両者の概念が混同されてきたと主張しています。そうして上記の2通りの座標系ではなく、「右手系」と「左手系」の2つの座標系のみがmirror transformation(鏡映変換?)を示し、「鏡が光学的に鏡面に垂直な軸を逆転させる」ことを示すとしています。次の図はItteleson他(1991)からの引用です:

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図1. William H Ittelson, Lyn Mowafy, Diane Magid, 1991, Perception, 1991, volume 20, pages 567-584 から引用


ただ、この図で示されている座標系と呼ばれるものは、原点からプラスマイナスの方向に延びる直線として表現される普通の直交座標系ではなく、単一方向の矢印で示されています。この矢印は座標軸ではなくベクトルを表現しているとみられます。というのはこの符号を持つ矢印のセットはすでに定義済みの直交するx,y,z座標系の中で定義されているからです。


この右手座標系と左手座標系による説明は多幡先生のサイト「鏡の中の左利き」で説明されているものと同じ説明で、数学的な鏡映そのものを説明するものであることがわかります。この説明の結果について言えば、Itteleson他(1991)の文脈では、ここで述べられている結論は物理的な条件を数学的に説明できたものの、この時点では心理学的な逆転認知の解明には至っていません。言い換えると、Itteleson他(1991)では物理的な問題と心理的な問題を区別するために「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」の2通りの座標系を導入したのですが、ここで右手系と左手系の関係で得られた結論は鏡映対が互いに対掌体であり、鏡面に垂直な方向で互いに逆転しているという、「物理的」な条件を再確認したまでであって、物理的問題と心理的問題を区別するために導入された「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」という2つの座標系の関係については置き去りにされてしまいました。


しかしここから、Itteleson他(1991)は上記の物理的な条件を心理的問題の前提事項であることを確認したうえで、改めて心理学的なプロセスを考察し始めます。Itteleson他(1991)はその方法として直交する3軸のそれぞれを中心として鏡映対の一方を180 度回転することと平行移動の組み合わせによる重ね合わせにより、両者が互いに逆転して認知される方向が認知されるという方法を採用し、以下の章では模型を使用して被験者を使用して実験を行うという手法を実行することになりました。ただ、ここで重ね合わせる方法としては「point for point correspondence(各点ごとの対応づけ?)」という、直感的になんとなくわかりますが明確な定義とは言い難い表現となっています。それはともかく、この実験結果をとおして、物理的な条件(鏡映対が互いに対掌体であり、任意の方向で逆転しているとみられる)を前提とした上で、心理的にどの方向が逆転してみえるかを考察し、それが像の三次元形状における対称性が最も小さい方向であるとする、いわゆる「対称性仮説」を結論付けている訳です。


「対称性仮説」の当否は後の問題として、ここでItteleson他(1991)が先に導入した「物理系(物理的)」と「物体系(心理的)」の2通りの座標系をなぜ利用できなかったかを考察する必要があります。「物理系」が物理的であるという論理はわかりますが、「物体系」が物理的ではなく心理的とみなさなければならなかったのはなぜなのでしょうか?それは「物体系」が上下・前後・左右の軸を持つと考えざるを得なかったからで、上下・前後・左右が物理的ではなく人間の心理に由来すると考えたからでしょう。これは先回の記事ですでに解明済みですが、鏡映対すなわち鏡像とその相手方との関係が鏡像と物体との関係ではなく、鏡像と直視像(鏡を介さずに見る像)との関係であることを認めれば解決に向かいます。つまり、鏡映対は一方が鏡像で他方が物体なのではなく、いずれも像であり、対の一方が物体の鏡像であるなら他方は同じ物体の直視像であり、いずれも客観性はあるものの、観察者によって視覚的に把握された物体の像であり、だからこそ互いに対をなすことが可能なわけで、像は物質でも物理的なものでもないからです。この鏡像と直視像の対に右手系と左手系の対をなす座標系が適用されたものとみなすことができます。これを固有座標系と呼ぶとすれば、固有座標系とは各々の像そのものと言えるのではないでしょうか?個々の像は言い換えると個々の像空間です。ここで右手系と左手系は対をなす像空間の性質とみなすことができます。その像とは人間の視覚による認知の内容であり、像空間は人間が視覚で認知する空間、すなわち視空間の中で認知されます。視空間の異方性についてはテクニカルレポートの主要論点の一つでした。前回記事の通り、マッハが発見したともいえる異方的な知覚空間ということになります。


では Itteleson他(1991)が物理系(Physical system)と名付けた方の座標系はどのような意味を持つのでしょうか?これについては端的に疑問を呈するより他はありませんが、物体が視覚によって認知される空間が視空間であるなら、視空間で認知される以前の物体そのもの、つまり感覚で認知される以前の物体にそもそも何らかの座標系などが適用されるでしょうか?物体自体が感覚を通じて認知される以前には何も認知されていないのです。そこにいかなる座標系も適用される訳がありません。したがって Itteleson他(1991)が物理系と呼んだ系とは、むしろ、視空間で各々の像が認知された後から思考力によって再構成された幾何学的な思考空間であると考える他はなく、鏡像認知空間がそれに相当します。この等方的な思考空間と異方的な知覚空間との関係こそがテクニカルレポートの中心的なテーマでした。


以上の空間定義を専門的な幾何光学の説明と比較してみたいと思います。岩波理化学事典の項目『結像』には次のように記述されています:「実在の空間を物点の集合とみなしたものを物体空間(object space),像点の集合とみなしたものを像空間(image space)という.両者は相重なるが,その屈折率などは,光学系の前のものを物体空間に,後のものを像空間にあてる.光学系による物体空間の像空間への変換が結像であり,物体を物体空間の部分空間とみれば,変換された像空間の部分空間が像である [株式会社岩波書店 岩波理化学辞典第5版]」


この定義はなかなか判りづらいものがありますが、ここでは認知のプロセスは完全に消去されています。ここでの定義をItteleson他(1991)の定義と比較してみると、Itteleson他(1991)の「物理系」は結像光学でいう物体空間に相当し、Itteleson他(1991)の「物体系」は結像光学では物体空間内の部分空間であって、個々の物体が占める部分空間に相当します。結像光学では認知のプロセスが完全に消去されていますが、「像」という概念の中に、いわばブラックボックスとして認知プロセスが閉じ込められているということもできます。ということで、Itteleson他(1991)が後に固有座標系と呼び、心理学的であるとみなした「物体系」が、結像光学における像空間の部分空間としての個々の像に対応させられます。


一方、Itteleson他(1991)が「物理系」と定義した座標系は、結像光学では全体としての物体空間に相当すると考えられます。ただし結像光学では物体空間を像空間に重ね合せています。これは物体空間の部分空間である個々の物体を個々の像と重ね合せているのに対応していますが、Itteleson他(1991)の「物理系」にはその対応が欠落しています。Itteleson他(1991)が「物体系」を心理学的とみなすことができたのは物体系を像空間の部分空間である個々の像とみなせるからであることから類推すれば、Itteleson他(1991)の論理でも結像光学と同様に「物理系」を像空間に対応させる必要があります。この像空間は結像光学では消去されていた鏡像認知プロセスにおける鏡像認知空間そのものであるとして問題はありません。


簡単に言ってしまえば、Itteleson他(1991)の「物理系(Physical system)」と「物体系(Object system)」は何れも心理学的に再定義できるものであり、前者は鏡像認知空間であり、後者は個別の像空間(結像光学では像空間の部分空間)ということになります。結像光学では後者(像空間の部分空間)は前者(像空間)の部分ということになりますが、結像光学では像の認知という心理学的プロセスが完全に消去されています。鏡像を含む空間の場合、前者は等方的な幾何学的思考空間であることを前回記事で確認したわけですが、各々の像空間についてはどうなのでしょうか?


先に検討したように、数学的な鏡映の分析により、鏡面の両側で鏡映対のそれぞれの像空間に適用できる座標系は互いに右手系と左手系の関係にあり、鏡面に垂直な方向で軸方向が互いに方向が逆向きになっているというわけですが、ここで定義されている右手系と左手系と呼ばれるものは抽象的な座標軸そのものではなく、多幡先生のサイトでは行列式との関係が言及されているいますがウィキペディアの項目『右手系』によれば線形代数学で定義される座標系と言えるそうで、このような高等数学の定義になると私としては正直なところお手上げなのですが、要するに上図には矢印で表現されているように、単なる直線でしかない座標軸ではなく方向性を示すベクトルと考えられます。したがって方向軸と表現して差し支えありません。矢印で表現されるとおり、線上の各点は等価ではなく価値的に差があります。つまり、個々の像空間の内部では無限に想定できるすべての方向において各位置が相対的な関係ではなく価値的に差があるということであり、それぞれの方向自体にも価値的に差があるということです。等方的な空間ではそれぞれの軸線は角度で相対的に表現されるだけですが、個々の像空間では方向自体にも価値的な差異があることになります。このような空間は等方的ではなく異方的と言うべきでしょう。それはマッハ(E. Mach)やカッシーラー(E. Cassirer)がそう定義したとおり、そのままです。


このような性質は、私たちが知覚、この場合は視覚で認知する視空間の上下・前後・左右という方向性に対応しています。このような方向軸は鏡像認知空間のように原点を持つ通常の座標系で表現されるのではなくベクトルのように矢印で表現されるべき方向軸を持つものであるといえます。


以上を端的に要約すると、鏡像認知が生じた時点で観察者に鏡像認知空間という等方的な空間が把握されることになり、その空間内に個々の像や鏡像が認知される訳ですが、通常は各々の像について上下・前後・左右の方向性が認知されます。Itteleson他(1991)が上述のように鏡映対を互いに重ね合せて比較することができたのは等方的な鏡像認知空間の中で、鏡映対をなす2つの像の一方を回転または平行移動することで重ね合せることができたからですが、それが可能であるのは全体を包含する鏡像認知空間が等方的な思考空間であるからであるということができます。その際の重ね合せ方について、Itteleson他(1991)は「point for point correspondence(各点ごとの対応づけ?)」と言っています。しかしこれは曖昧な表現です。上述のように方向軸が矢印で表せることが判明した今、この重ね合わせの操作は、具体的には上下・前後・左右の各矢印の向きを合せることと言うことができます。結果的に上下・前後・左右の3つの矢印のうち2つの矢印を合せると、残りの1つの矢印が互いに反対方向を向くことになる、というわけです。言い換えるとどのように動かしても3つの矢印を合わせることができないというわけで、両者が同形であれば3つの矢印を合わせることで完全に重ね合わせられます。同形でも対掌体でもなければそもそも形状のすべての特徴が一致しないのでどの矢印も合わせることができません。人間であれば他人でも上下・前後・左右の特徴が一応似ているので誰でも方向軸の矢印を合わせることができますが、全体の形状を重ね合わせることができません。


Itteleson他(1991)が行った重ね合わせの方法は結果的には上述の方向軸の重ね合わせに近い方法ですが、等方的な鏡像認知空間と異方的な視空間との関係が認識されるに至っていないため、正しい結論にたどり着くことができずに終わっています。Itteleson他(1991)の誤謬は、心理学的な問題においてもあくまでも幾何学的な概念(対称性の大きさ)で迫ろうとする方法論にあるように思われます。なぜなら、何度も指摘しているように個々の像に上下・前後・左右を定めるものは幾何学的な形状ではなく像の各部が表現する機能的な意味であるからです。Itteleson他(1991)の誤りは、幾何学的なブロックで実験を行い、機能的な意味を持つ立体で行わなかったことにも起因しています。Itteleson(1993)では体操の選手を呼んで逆立ちをしてもらう実験をしているのは興味深い実験かもしれませんね。しかし結論は変えていません。


人間の場合、上下・前後・左右のうち左右の機能的な特徴が同じであり形状も大体同じであることは確かで、左右対称に近く、対称性が大きいということはできます。しかし現実には歩くたびに片方の足を前に出したり、片手をあげたり、片方にアクセサリーを着けたり、絶えず対称性は崩れています。ただこのような特徴は交換が可能なのです。少なくとも同一人物の同一時刻には左右の形状の差が確定しています。常に左右対称に近いというわけではないのです。道具ではさらに左右の形状差は大きく、例えばグランドピアノなどはどうでしょうか?右側が高音部であるという非常に重要な機能に由来する形状の差異を持っています。また道具では、例えば砂時計など上下の差異は無いに等しいといえます。しかし普通に置かれた砂時計の鏡像が直視像と比べて上下が逆転して見えるとは言えないでしょう。このように Itteleson他(1991)の「対称性」仮説は誤りであるといえます。



以上であらゆる鏡映反転の基礎となる概念はだいたい確立できたように思います。最後の重要な問題は左右軸の従属性に関する問題ですが、これについてはテクニカルレポートで、十分ではないかも知れませんがかなり掘り下げられたものと考えています。


【補足1】

上下・前後・左右の意味的な考察については上記のItteleson他(1991)に、ジェームズ(W. James)からの興味深い引用が挿入されています。私には、ここに紹介されているジェームズの考察は直接マッハとカッシーラーの認識に繋がるように思われ、非常に興味深いのですが、論文の著者はこれに興味を示しながらも鏡像問題には寄与するものではないとして、素通りしてしまいました。左右の意味的な考察についてはテクニカルレポートで空間の異方性との関係でかなり掘り下げたつもりですがまだまだ掘り下げる、あるいは敷衍する余地はいくらでもあるように思います。


これは補足というよりも余談ではありますが、今回の考察でつくづく思うことは、座標系という言葉はいかにも厳密に定義された意味を持つような印象がありますが、その意味するところは文脈により相当に流動的で、意味を把握することは容易ではない場合も多いように思います。これは日本語であるか英語であるかには関係がないようです。


【補足2】

【要点】

  • 鏡像に上下・前後・左右を適用するプロセスと、思考プロセスで鏡映対の一方を回転または移動させて重ね合せて比較するプロセスは全く別の独立したプロセスである

前回記事の要点はまだ良く煮詰まっておらず、固有座標系の概念や右手系、左手系の意味、その他、座標系そのものについての考え方については正直なところ、数学的素養がないため、これ以上考察することは困難なので、これらの解釈については保留しておきたいと考えています。ただし、少なくとも鏡映反転の心理学的な要素である比較プロセスについては固有座標系に類する概念は無しで済ませられるものと考えています。固有座標系とか環境座標系とか、この種の概念を不用意に使用し始めるとその概念自体が流動的で扱いが難しいだけに、どこかでミスリードされかねないような不安があります。


というのは、鏡像問題に限らず知覚心理学あるいは視覚心理学で固有座標系や環境座標系などが使われる場合、上下・前後・左右とか、あるいは東西南北とか何らかの意味のある軸名が使われています。こういう概念を座標系という数学的な概念とどのようにマッチさせてよいのかわからないからです。


先に岩波理化学辞典から引用した箇所でもわかりますが、幾何光学あるいは結像光学でも固有座標系というような概念は使用されておらず、上述のように、像空間や像空間の部分空間という概念で説明されています。先にも述べましたが、「像空間の部分空間」と呼ばれているものは個々の像そのものとみなせるので、Itteleson(1993)その他が「固有座標系」と呼ぶものは個々の像が占める空間そのものと考えればすむことだと思います。それでそのような空間はマッハやカッシーラーが導入した異方的な知覚空間に相当すると考えて問題はありません。


さらに付け加えれば、そもそも座標系とは座標の数値を決めるための厳密な定義そのものであって、そのような定義なしに性質や変換や変更などあれこれ議論しても意味がないと思うのです。例えば地理では東経とか北緯とか言いますが、それは経度と緯度の厳密な定義が決めてあるからで、北とか東とかは、緯度や経度の向きに過ぎません。経度にしても緯度にしても決して定義する以前に存在するような属性でも何でもありません。固有座標系、環境座標系など、それ自体は何も意味しないと思いますが、ただ、そういう言葉で何らかの空間、空間の属性などを漠然と推定しているものとしか考えられないのですが、どうでしょうか?


さて、以上の問題と関連すると考えるのですが、冒頭に要点として掲げた一点は特に重要で、強調しておく必要があると思います。


たとえば、右肩に鞄をかけた人物が鏡に映っているのが観察される場合、鏡像に正しく上下・前後・左右を適用した場合、左肩に鞄を掛けているように見えるはずです。本人、つまり人物を直接見ると右肩に鞄を掛けているのだから、左右が逆転して見えるということ自体は間違いとは言えません。しかし、この論理は、鏡映関係にはない他人との比較でも言えることです。単に右肩に鞄をかけた人物と、同じ鞄を左肩にかけた人物を比較した際にもこの点で左右が逆転しているということはできます。


この点で鏡像認知プロセスが完了していることが前提ですが、鏡像に上下・前後・左右を適用した後でも、もちろん適用する前でも、可能性としては鏡像認知空間という等方的な空間では2つの像の一方を回転させたり平行移動させたりして重ね合せることによる比較はあり得ます。第一、鞄を右か左のどちらかに掛けているという明瞭な差異が常に見られるとは限りません。2つの形状、特に立体の差異が微妙な場合、どうしても全体を重ね合せて比較しなければ正確な差異は見つけられませんから。要は、比較は常に相対的であり、上下とか前後とか左右といった意味を持つ方向は関係がないということです。この比較が可能なことが幾何学的な思考空間の性質に由来するわけです。


ただし、人は普通、上下と前後についてははっきりと意識しますが、左右についてはあまり意識しない、言い換えるとどちらが左でどちらが右であるかは意に介さない、という傾向はあると思います。とくに人物の場合は左右対称に近いことに加え、左右の特徴が入れ替え可能である(例えば同じ人でも右足を前に出しているときもあれば左足を前に出しているときもある)という特性があり、通常はどちらの場合もあり得るところを、鏡像の場合は左右の方向を改めて確認し、それだけで左右の逆転を意識するということは十分にあり得ることだと思います。この点でItteleson(1991)の「対称性仮説」には一定の範囲内で程度の合理性はあると思われます。また「左右軸の従属性」も一定の合理性はあると思われます。ただし、Itteleson(1991)の「対称性仮説」ですべてが説明される訳でもなく、一方の「左右軸の従属性」も「左右軸の決定順序」という固定した規則として定義されていることには問題があると考えます。左右軸の決定順序ではなく、むしろ左右軸の傾向性ともいえる性質として再定義するべきだと考え、テクニカルレポートではそのように再定義したわけです。


以上のような左右軸の性質、さらに上下・前後・ 左右のそれぞれの性質を含め、一切を知覚空間の異方性として捉えることで、鏡映反転を包括的に説明できると考えるものです。ですから鏡映反転を一括して左右逆転の問題と捉えることは諦めるるべきであって、個々のさまざまなケースについて必要ならばは個別のさまざまな条件で考察し、場合によっては実験も行なう必要が生じてくると考えるべきではないでしょうか。


今回は非常に込み入った説明でわかりずらいものになってしまいましたが、テーマ自体が像空間(したがって視空間)の異方性というわかりづらいものであるためやむを得ないところもあります。いずれもう少しわかりやすい説明の仕方が、見つかればと思います。ただ、テクニカルレポートでは固有座標系、右手系といった難しい座標系の概念を使用せずに一応の説明はできたものと考えています。


これで「鏡像の意味論」シリーズは一段落ということで、今後はまた別の形で考察を続けてゆきたいと考えています。もちろん補足や訂正を含めてこれでこのシリーズは打ち切りということではありませんが…

(以上 1017年5月〜6月 田中潤一)

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