長崎事件

今日、日本史の最後の授業をします。
誰も教えたがらないので、一介の日本語教師の私が教えています*1
今年は、日本史というより、日中交流史に重点を置いています。
教科書も『中日文化交流史』というものを使ってますし。


ただ、日本は日清戦争で弱い者いじめをしたみたいなイメージを中国人はもっているので、長崎事件を紹介してみようかなと思って中国語のウィキペディアと百度百科をみてみました(できるだけ中国側の資料をつかって日本側の意見を説明するっていう方式をとってます。日本人は歴史を捏造するから日本語で書かれたものなど信用しないっていう頭がおかしい人が多いので)。
「日本=悪」っていう勧善懲悪史観にいい加減うんざりしてますので・・・。
(昨日も霍元甲をテーマにした映画をTVで見たのですが、諸説あるのに霍元甲の映画はかならず日本人毒殺説しか取り上げません。これで友好とかちゃんちゃらおかしいです)


ウィキペディア(リード文のみ)
http://zh.wikipedia.org/wiki/%E9%95%BF%E5%B4%8E%E4%BA%8B%E4%BB%B6

1886年(清光绪十二年)在北洋水师造访日本长崎期间違法亂紀所引發的一起暴動事件。事件最终以双方的妥协而不是清廷的单方面退让收场,所以有人认为这是清廷在鸦片战争之后的第一次外交胜利

リード文のみあげました。「外交勝利」だそうです…。
中国側の暴動についても比較的妥当な感じです。
一部、日本語のウィキペディアとは異なる部分もありますが。
たとえば、
日「8月13日、500人からなる清国水兵が勝手に上陸を開始」
中「8月13日,日方邀请抵达长崎的北洋官兵登岸购物。」


百度百科も大体同じ感じです。というかコピペした部分もありそうです。
http://baike.baidu.com/view/1721016.htm
(こちらもリード文のみ引用)

长崎事件也称镇远骚动,日方称长崎清国水兵事件,是1886年(清光绪十二年)在北洋水师造访日本长崎期间违法乱纪所引发的一起暴动事件。事件最终以双方的妥协而不是清廷的单方面退让收场,所以有人认为这是清廷在鸦片战争之后的第一次外交胜利。

同じ文章ですね。
ただし、ウィキペディアより国内向けなので(ウィキペディアは台湾人や新がボール人なども見ますし編集もしますから)、より日本の警察が悪くなってます。
「水兵遭到日本警察有预谋的袭击又发生大规模冲突,双方死伤80余人」


「事件の影響」の部分も百度百科はコピペじゃないようです。
(どっちがどっちを写してるのかはしりませんが…。)

 “长崎事件”虽得以和平了结,但在日本当局的挑动下其民间的反华、仇华、排华的情绪却因此被煽动起来。日本朝野的军国主义思想越来越浓厚,当时深受刺激的日本海军由此发狠:“一定要打胜‘定远’。”在军国主义思想蛊惑下,一些天真稚童竟也玩起打中国军舰“定远”、“镇远”的战斗游戏。李鸿章将北洋军舰送到日本修理本来就含有威慑的意图,却没想到竟如此深深刺激了日本人的民族心理。

乱暴狼藉を働いておいて、日本側が反中感情をもつと、「帝国主義思想が濃厚になった」はやや公平な文章ではないように思います。まあ、百度百科のこの項目の編集者は、暴動の原因も日本が悪いとおもっているのでしょう・・・。


ウィキペディアのほうは

与以往处理外交事件不同的是,清廷表现出了相当强硬的态度。北洋水师總教習琅威理甚至提出了对日断交、武力解决的主張。李鸿章的外交顾问伍廷芳被认为在此事的圆满解决上起了关键作用。

1887年2月,双方达成彼此让步的协议,双方一致认定是语言不通导致了误会的发生,所以肇事者交由本国政府自行处置,而死伤人员则由对方予以抚恤。值得一提的是,日方所支付的抚恤金数额大大超出了清廷。换句话说等于向中国进行赔款。

但也有人认为,当时中国军舰的实力具有压倒性优势,如在长崎事件中采用琅威理的建议,一挫实力尚在中国之下的日本舰队,则以后中日海军强弱,必大不相同

*1:単位を集めて歴史学分野の学士号を学位授与機構からもらってますが、所詮学士号。大学で教えるのには充分でないのは本人も承知しています