逃げない少年たち/「小さき勇者たち〜GAMERA〜」のカタルシス

ふと思い立ってyahoo!ムービーのガメラ掲示板を見にいった。yahoo!ムービー見にいくなんかデビルマン以来だよ……。

この映画中盤以降何度も「逃げない」って言葉が出てくるけど、序盤の透って逃げまくりなんだよな。なにしろ父親の孝介に嘘しかつかないんだから。
「食堂だから生き物は飼えない」という前提はあるにしても、母親がいれば透は孝介の説得を頼んだかも知れないし、母親に説得されて飼うことをあきらめたかも知れない。そもそも母親がいれば、そこまでトトに執着しなかったのかとも思う。
嘘ついた最大の理由は孝介を説得するのが面倒だった(すごく乱暴な言い方だけど)からだと思うんだ。そういう気持ちはすごいよく分かる。なんでかというと自分がそうだから(笑。
逃げているのは透だけじゃなくて、孝介も微妙に透から逃げてる。冒頭「かあさん空から見てるから」という言葉に「そういうの良いから」と返す透に「そういうのってなんだよ」とは返すけど、きっとそれ以上食い下がってなにか言うわけじゃない。
「トトがガメラになった日」で津田さんが孝介のことを「透を愛してないわけじゃない。愛はすごくあるんだけど、ガメラの自爆を見た時に時計が壊れた男なんだと思う」と言ってて、一度ガメラを見た後だった私はすごい納得した。
この映画、ギャオスに襲われる町から逃げた孝介が、ガメラの自爆によって救われたことを知った人々に混じって見つめる33年前のガメラの消えた伊勢志摩が、現在の伊勢志摩に切り替わるところから始まる。この映画において孝介の視点ってけっこう絶対的なもので、例えばジーダスを追い払ってくれたガメラが人間を襲うかもとは誰も考えない、また襲ってきたらきっと戦ってくれると思ってるそれは、孝介がそう思ってるからなんだよ。
孝介って、「罪悪感抱えて生きるなら自分が死んじゃった方が楽」と思ってしまうタイプなんだと思う。
卑怯な人間でも臆病な人間でもない。むしろ透の友達だからというだけで、自分の危険を顧みずに助けにいく人間。だけど怪獣に襲われるような町で父親の孝介が死んでしまったら、母親のいない透を誰が守るんだろう。
そんな人間が自分達のために自爆するガメラを見てしまったら?
心に棚を作れない孝介は、ガメラに関しては「ガメラは人間を守るためになんでか知らないけど戦ってくれる。人間がガメラにできることはなにもない」と思考停止することで自分を守ったんだ。その歪みが自分の息子にさえ強く言えない人格を作ってる。
もしもジーダスが出る以前に孝介がトト=ガメラの存在を知ったら、孝介は迷わず自衛隊とかに連絡しただろう。「人間がガメラのためにできることはガメラの気持ちに答えて逃げることだけ」というトラウマを抱えた孝介にはそれが限界だ。透とトトの関係への理解は、ジーダスの出現を経て守護神ガメラを必要とする世界になってしまった、いわば極限状況ではじめて成立する。
そうはいっても、ガメラの出現が孝介になんの影響も与えてないわけじゃなく、幼ガメラ・トトの存在で孝介の時計は動き出したんだと思う。避難所で孝介が透と向かい合い、「透とトトのこと、はじめからとうさんに話してくれないか」というシーンを、私がすごく好きなのはそのせいだ。

私は「トトはみんなが逃げるために戦っているんだ」という予告見て見にいった人間だけど、あの予告を見てそれでも透が「逃げない」と思った人ってそんなにいないと思う。たいていは逃げるけどその後、とかの展開を想像したと思う。でもこの映画って、「逃げないこと」が正しい、って視点で作られてんだよ。赤い石のリレーで子供たちの邪魔をするのは、怪獣の脅威ではなく彼等を「守ろうとする」自衛隊や警察だ。それが間違っているとはもちろん言わないが、逃げないことが正しいこともある、というのがこの映画の正義だ。だから孝介はクライマックスで「分かった。だが父さんも一緒に行く」というんである。

公開も終わりがけだから言うわけでもないが、透がトトに石渡すシーン長過ぎ!(心理的葛藤は階段を上がる間にモノローグとかで半分くらい済ませられなかったんだろうか。全体的に、言葉が必要な相手=人間と、言葉の必要のない相手=トトに対する言葉のバランスが悪い気がする)とか、トトが餌を食べなくて悩む描写とかは入れるべきだったよね、とか、せめて自衛隊の出動シーンに「住民の避難を優先せよ」みたいなアナウンス入れとけば、とか不満はないわけじゃない。しかし逃げなかった子供たち(時計が止まってた孝介を含む)がトトを守るラストは私にはカタルシスだったんですがあれじゃあかんのでしょうか。
それが怪獣映画かといえば違うかも分かんないけど、私にはなかなか見応えのある怪獣プロレスだったんですが。

わりと感心したのは、「逃げない」ことを正しいこととして描ける田崎監督って若いんだなあ、ってことなんだけど。
40過ぎて出せる答えじゃない気がするよ。良いか悪いかは別として。
そういう意味じゃ、これだけ子供の視点に立った映画もない気がするなあ。

追記

画面を視ずして映画が観れるか: 黒猫亭日乗」がこの辺論理的に分析されてます。(TBしたかったが失敗したっぽい。)
自分はわざわざ書きませんでしたが、赤い石のリレーのシーンで、モブが迫力ありすぎて恐かったのもおっしゃるとおり。
しかし独身者の浅はかさな発言なのは承知の上で言いますが、“ファミリー映画”の面白さが親世代の管理的視点で水をさされるのってどうなんだろうと思ってしまうのですよ。フィクションはフィクションと割り切って意図だけ受け止めることって、子供にだってそんな難しくないと思うんですが。