その後の「希望は、戦争」

昨年の12月にはじめて言及した赤木智弘が、その後話題になって、いろいろな場所で盛んに取り上げられるようになっている。朝日新聞論説委員や東大教授(いわば赤木の打倒対象である人々)、さらには公共放送(!)なども、彼を取り上げて「右傾化」や「格差」について語るようになっている。『論座』の編集部の意図は大成功だったと言えるだろう。

ただし、彼の意見や感情が「ロスト・ジェネレーション」を代表するものではないことは、はっきりと指摘しておく必要がある。赤木は既存の「左翼」を念頭において発言しているが、圧倒的多数の若年フリーターは論壇誌を手に取ることなどまずないし、はっきり言って「左翼」「右翼」とか知識も関心もない。ただ、今の苦しい生活が「ぶっ壊れて」ほしいと漠然と思っているだけである。自分たちで「ぶっ壊す」と考えるほど向上心もバイタリティもないし、「ぶっ壊す」方法も知らなければ、そうした組織と関わる経験とはまず無縁である。この意味で「希望は戦争」というキャッチは非常に絶妙だった。若年低賃金層は、戦争がしたいと思っては別にいない。しかし戦争は、自分で頭や労力を全く使うことなく、今の呪うべき生活状態が「ぶっ壊れる」という魅力がある。この魅力に抗してまで彼らが「平和主義」で戦争に抵抗するとは考えられない。赤木はこのことを的確に指摘した。戦争が起こると最も「失うもの」が多く、「平和主義」を自明の理念としている大手新聞記者や大学教授が最も敏感に反応したのは、決して偶然ではないだろう。

だから、良くも悪くも赤木の議論は「知識人向け」「左派論壇向け」であり、明らかにそういう人たちを意識して、彼らが最も忌み嫌うような挑発的な内容を書いている。彼が「革命」ではなく「戦争」を言うのは、「革命は多数派の支持で成功するものだがフリーターは少数派に過ぎないから」と論じている。しかし、もっと身も蓋もないことを言えば、「戦争」のほうが『論座』を読むような人たちにとってショックを与える、その効果をより期待できるからなのである。

彼は確かに若年低賃金層の当事者として語っており、その情念やルサンチマンは間違いなく真剣なものだが、内容は明らかに批評家的で分析的である。論理的にも意外にしっかりしており、単なるルサンチマンの表明ではない。他の若年低賃金層の多くは、彼の議論を読んで理解できたとしても、いま一つ「ズレ」みたいなものを感じずにはいられないだろう。彼らは別に「希望は戦争」なんて思ったこともないからである。赤木は普通の評論家だったら「戦争が起これば若年低賃金層の社会的地位は向上する」と言うところを、「当事者」である立場の強みを前面に出して「フリーターの希望は戦争」と言っているのである。

だから赤木の議論を真正面から批判しても、あまり意味はない。むしろ、「戦争」「平和主義」とか「男女共同参画」「年金問題」などの個別のテーマが、若年低賃金層にとってどのような意味を持っているのかという具体的な分析に議論を向けていくべきである。彼は表現こそ乱暴ではあるが、「『平和』は守るべきものを持たないフリーターにとって何の価値も持っていない」と、明らかに特定のテーマが若年低賃金層の生活状況にどう反映するかという議論を行なっている。彼の議論から「若者の右傾化」みたいな方向に持っていく前に、そうした地道な議論を期待したいのだが。