「私」という現象−自由意志なんてありませんが、何か?

著者は、なんと自由意志は存在しない、という立場に立っている。

これは怖い。実に怖い。なにしろ、怖がっている主体であるはずの「私」は存在しないというだけでも怖いのに、その怖さを避ける自由すら存在しない、と言っているに等しいのだから。

404 Blog Not Found:書評 - 脳の中の「私」はなぜ見つからないのか?

dankogaiのような天才エンジニアには、あまりにらしくない怖がり方に見える。


「私」が脳で生まれる以上、それはプログラムの実行体(仮にプロセスとする)に過ぎない。プロセスである以上、プログラムに沿った動作をするの当たり前で、すべては入力とプログラムによって決まる。しかし、それは「私」が存在しない事を意味するはずがない。現にプロセスとして存在している。

「私」の存在は、現時点においては「神」の存在以上に人類社会の根幹を成しているのだ。法律はその好例で、そこは自由意志の存在をあまりに当然のこととして仮定している。しかし決定論を認めてしまえば、実は法律は不要

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そんな事はない。法学的には便宜的に自由意志という概念を使っているかもしれないが、自由意志がなくても高度な条件判断と自己書き換え機能を持つプログラムのプロセスに対して有効なのは当然であり、「バグった」プログラムで動くプロセスは、プログラムの矯正またはプロセス自体の排除がされるだけの事だ。


『いや、違う。もっと主体的な「私」、単なるプロセス以上の「私」が居ないのは認めたくない』と仰るかもしれない。それは、計算機との対比で重要なことを見落としているだけではないか。


それは、このプロセスは「感じる」という極めて特異な機能的性質を持つと言うことだ。


これは、計算機とプログラムで再現する方法は、知られていない。そしてこの特異な機能が、すべての「私」を「私」たらしめている物でもある。プログラムは、その「感じ方」すら自己書き換えを行う。プログラムと「私」を切り離して考えるなら、「私」が感じた事自体も、またプログラムの入力となる。この極めて不可思議な機能と高度なプログラムによって織りなされる現象が「私」。


『「私」の意志』と感じるのであれば、それは「私」にとっては「私の意志」に他ならない。入力とプログラムですべてが決まっているかどうかは、恐れる程の問題には思われない。学生の頃、そう考えた*1

*1:この「感じる」は、その後某氏がクオリアとして喧伝し始め、大いに期待した。しかし、その後の氏の売れ行きと実際的展開の落差に失望を禁じ得ないでいる