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r_shinehaの日記

2011-11-21

「欠如モデル」と「欠如モデル批判」についての覚書

TwitterとかFacebookで書いたものについて、ブログでも公開することにした。
第一弾は、「欠如モデル」と「欠如モデル批判」について。

とある原稿で「欠如モデル」について書くので、その下書きというかメモ。
(4月にFacebookに書いたもののコピーです。あしからず。。。)


一気に書きなぐった文章なので、まだ文章が硬すぎる・すっきりしない・分かりにくい。。。orz
またちょっと長いので、もうちょっとシンプルにかつ短くまとめないといけないけれど、そのあたりはご容赦ください。


あくまでメモということで。

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欠如モデル
「欠如モデル(Deficit model)」とは、一般の人々が科学技術を受容しないことの原因は、科学的知識の欠如にあるとして、専門家が人々に知識を与え続けることで、一般の人々の科学受容や肯定度が上昇するという考え方を指す。このような考え方は、1980年代までの「科学の公衆理解(Public Understanding of Science: PUS)」・コミュニケーションにおいて主流となる考え方であった。しかし、イギリスの科学技術論研究者であるブライアン・ウィン(Brian Wynne)を中心として、1980年代後半から繰り返し批判が加えられることとなる(「欠如モデル」という呼称もウィンによるものである)。

現在までに欠如モデル型の「科学の公衆理解(Public Understanding of Science: PUS)」・コミュニケーションからの脱却が図られるようになっている。1980年代以降における欠如モデルに依拠したコミュニケーション実践とその反省、ならびに多くの研究成果から、科学技術に関する知識量の多寡が、科学技術の肯定的な受容に必ずしも働くわけではないこと、つまり欠如モデルの想定する「知識増加による科学受容促進」の考え方の前提自体の持つ誤謬が指摘されるようになったということが一つの背景である。その過程で明らかとなってきたことの例としては、例えば人々の科学技術に対する意識に対して、知識以上にモラルや価値観といった心理的側面がより大きな影響を与えるということであった。加えて、リスク多様性に対する認識や文化的背景といった要素も大きな影響を与え得ることも指摘されている。また知識の増加が意識に影響を与える場合でも、知識・情報の量(informedness)が直接的に科学技術の需要促進につながるということではなく、むしろ知識の増加により、新規な成果のベネフィットなどには懐疑的になる一方で、リスクの過剰評価は避けられるようになるなど、複雑な影響を与えることを示唆されている(例えば欧州においてバイオテクノロジーを題材にした大規模な社会調査が実施されている)。いずれにせよ、「欠如モデル」が想定する「知識増加⇒科学技術の受容」という素朴なスキームでは対応・説明できない知見の蓄積があることは認識に値すると言える。

素朴な形での欠如モデル型コミュニケーションでは、一般の人々の科学受容促進には至らないということは、近年における科学技術政策やガバナンスを巡るコミュニケーションにおいて一つのコンセンサスとなっていると言ってよいだろう。欠如モデルからの脱却という方向性は、例えば2000年にイギリスで発行された報告書「科学と社会(Science and Society)」(The House of the Lord 2000)などで明確に言及されており、双方向性を主眼におくコミュニケーション推進の鏑矢となったと言える。
但し、欠如モデルを巡る議論において一点だけ注意を促しておきたい。欠如モデルを想定したPUS活動、情報提供活動が、一般の人々における「科学技術の受容」にそのままつながらないことを確認してきた。しかし、このことは(多くは一方向にならざるを得ない)情報提供そのものの重要性について否定しているものでは決してないということに、十分の注意が必要である。欠如モデルに対する批判の本来の対象は、「科学技術情報を与えれば、科学技術受容も促進される」という思考であり、それに伴う専門家による中央集権トップダウン型の情報管理・情報提供への偏りにあったと見ることが妥当である。「欠如モデル」に対する批判の本懐とは、そのような情報流通の体制と考え方に対する批判であり、関係するアクターネットワークにおいて、一方向・双方向含めたより裾野の広い知識・情報・意見の共有を目指す所にあると言える。その目指す情報の流通(コミュニケーション)においては、情報の共有とは重要な前提条件に他ならず、その意味で情報提供とは現代的なコミュニケーションの基礎をなすものと位置付けられる。



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参考文献付け忘れていたので追加
※まあ基本的にはWynneの議論の経緯をベースにしている記事です。

Allum, N., Boy, D., Bauwe, W, M. (2002) 'European regins and the knowledge deficit model', in M. W. Bauer & G. Gaskell (ed), Biotechnology-The making of a global controversy: Cambridge University Press): 224-43.

Bucchi, M., Neresini, F. (2002) 'Biotechnology remains unsolved by the more informed: The media may be providing the message-but is anyone heeeding the call?', Nature 416: 261.

Gaskell, G., Allum, N., Wagner, W., Kronberger, N., Torgerse, H., Hampel, J., Bardes, J. (2004) 'GM Foods and the Misperception of Risk Perception', Risk Analysis 24/1: 185-94.

Hansen, J., L. Holm, et al. (2003) 'Beyond the knowledge deficit: recent research into lay and expert attitudes to food risks', Appetite 41/2: 111-21.

Midden, C., Boy, D., Einsiedel, E., Fjaestad, B., Liakopoulos, M., Miller, J. D., Susanna, O., Wagner, W. (2002) 'The structure of public perception', in M. Bauer & G. Gaskell (ed), Biotechnology - the Making of a Global Controversy: Cambridge University Press): 203-23.

Strurgis, P., Allum, N. (2004) 'Science in society: re-evaluating the deficit model of public attitudes', Public Understanding of Science 13/1: 55-74.

Wynne, B. (1991) 'Knowledege in Context', Science, Technology & Human Values 16/1: 111-21.

Wynne, B. (1993) 'Public uptake of science: A case for institutional reflexivity', Public Understanding of Science 2/4: 321-37.

Wynne, B. (1996) 'Misunderstood misunderstandings: social identities and public uptake of science', in Alan Irwin & brian Wynne (ed), Misunderstanding science? The public reconstruction of science and technology: Cambridge University Press): 19-46.

Wynne, B. (2001) 'CREATING PUBLIC ALIENATION: Expert Cultures of Risk and Ethics on GMOs.', Science as Culture 10/4: 445-81.

Wynne, B. (2006) 'Public Engagement as a Means of Restoring Public Trust in Science -- Hitting the Notes, but Missing the Music?', Community Genetics 9/3: 211-20.

廣野喜幸 藤垣裕子 (編), 科学コミュニケーション論: 東京大学出版会

fab4wingsfab4wings 2011/11/21 23:42 一時期、リテラシーという言葉で、啓蒙的に基礎をお勉強してない君たちが悪いという態度を示してた人達がたくさんいました。これも欠如モデルに当てはまると考えたほうが良いですか?

r_shinehar_shineha 2011/11/21 23:47 具体的な状況が想像できているかちょっと自信ないですが、「基礎を勉強すれば、理解して、納得して、受け入れるはずだ」という前提(勉強の成果が態度の決定に対してある程度一方向に定まる)を持って話していたとすれば、欠如モデル的な言論・態度に分類されるかと思います。

masudakomasudako 2011/11/22 09:49 欠如モデル批判のほうがあたっている場合も、もちろんあると思います。
ただ、科学者の側から、批判者の科学リテラシーを批判したくなる筋もあるのです。
専門家コミュニティはそれぞれに用語体系(後期Kuhnのいうlexicon)を持っています。専門外の人がそれをすぐに理解できないのは当然として、同じ用語を使っていても批判者の常識と違う意味であるかもしれないとも考えずに批判しているのを聞くと、Sokalのように怒りたくなってしまうわけです。
望ましいのは、専門の用語体系を理解して通訳できる能力をもち(Collins and Evansのいうinteractional expert)、しかし専門家集団の利害を共有しない人がいて、議論をmoderateすることだと思います。そういう人はどうしたら育つか、どのようにして食えるか、という問題がもちろんありますが。

r_shinehar_shineha 2011/11/22 14:00 Twitterでも書きましたが、ある人Aさんが「科学者」といったものが、Bさんにとっても同じイメージを想起させるとは限らない点には留意が必要と思います。これは集合名詞全般に言える問題ではありますが。

例えば、Aさんがいう「科学者」という言葉で主に例えば学術会議にいるような老害系の人を想定しているとしても、科学者という音だけ聞いたときにBさんは、隣の机で頑張っている同僚の研究者を思い浮かべるかもしれません。
そういう集合名詞の取り扱い、必ずしも同じイメージを抱くとは限らないことには注意が必要でしょう。

r_shinehar_shineha 2011/11/22 14:01 その上で、間に立つ人の問題群はその通りとしてあると思います。

fab4wingsfab4wings 2011/11/22 21:28 自分が体験したリテラシー問題は、当初、法律家の人の行動で、一般の人は間違ってる我々が啓蒙するという、異論反論を検討せずに見下して、基本を勉強すればこれが正しいという使い方でしたね。
それはともかく、集合名刺だけでなく、今話題の、欠如モデル、リテラシーなども、イメージに幅がありそうだし、パラダイムのように、定義が曖昧なほど使われ易い言葉になるのかもしれませんね。
kikulogで、丁度、masudakoさんがおっしゃってるのと同じような場面が、リスクとか想定という言葉を巡ってやり取りが続いてることがありました。
自分もいろいろいいたいことあったのですが、そのときは、専門家側の言葉の定義と、一般人側の言葉の定義が最後まで噛み合わず、感情的になって菊池さんが管理者責任でコメントを閉鎖したのですが・・・。
自分なりに両サイドに説明してみたいことがあったけど、説明するのは難しいですよね。
両サイドに、間に立つ役入れると、3者間に「信頼」必要なんですよね・・・。

r_shinehar_shineha 2011/11/23 00:55 欠如モデルについては、定義があいまいというよりも、関係者の中で、元論文と背景を押さえなさすぎなだけというのはあるかと。これまでTwitterでも書きましたが、せめて例えば科コミの実践系であっても、教員の立場ならそのくらいはちゃんと押さえるべきなので。

fab4wingsfab4wings 2011/11/23 07:54 なるほど、自分も彼らが社会学者だと名乗ることに、違和感を感じていましたが、ここ読んで、知見の断片を知ったので、押さえるべきを押さえてない人達だと言うことに納得です。
ところで、脳は、少ないリソースを有効活用するために、人の顔などを写真のように正確な画像として覚えるのではなく、目が小さい、頭でかい、鼻高い、頬赤い、おでこ広い、誰々あるいは何かに似てるなど、緩いイメージの連携で覚えてるようです。メモリーの節約と同時に、髪形服装が変わったり、数年ぶりに会ったとしても、何か外見の変化に関係なく認識できる柔軟さを手に入れてるそうです。
このときの柔軟な役割をするイメージは、チョムスキーらの言うように言語の役割で、言語があって始めて整理出来ます。
だから、イメージの広がる傾向はデフォルトで、言葉の定義はこうである。こうである勉強を皆がすればすべて解決。勉強してください。とするのは、「欠如モデル」の可能性があるかと。
一方で、人の身体おおよそ全ての仕組みに、拮抗作用(と場合によっては複数の装飾作用含む)が対の仕組みとして組み込まれてます。
よくブレーキとアクセルに例えられる、交感神経と副交感神経のように、どちらも人の身体を正常にたもつ正しい作用を持ちながら、対立する関係で、むしろ対立することで、恒常性の維持を柔軟に実現してます。
言葉の定義も、いくら自由に広がるイメージと相性良くてもバラバラだと、コミュニケーションに不向きとなって、言語の役割の大きなひとつが失われてしまいます。
もしかしたら、「リテラシー」と「欠如モデル」は、両方セットで使われるべきで、拮抗作用(場合によっては他の項目による服飾作用含む)によって、少しだけハンドルの遊びのような幅のある範囲で、議論の方向を右にきったり左にきったりして、常に解決方向に進める役割をするのかもしれないと、思えてきました。

------ 2011/11/23 20:52 ファブヨンウザい。
お前がでたらめな俺様解釈でわめいていたから総スカン喰らったんだろ。
知られていないと思っていい加減なこと言うなよ。

fab4wingsfab4wings 2011/11/23 22:38 変な人分離用に、「モトケン氏のとこで暗躍してた自演ネカマすちゅわーです」をトゥギャりました。 togetter.com/li/218111

------ 2011/11/24 00:21 墓穴堀り乙
参考サイト
http://miorosuneko.blog22.fc2.com/

forrestal51forrestal51 2011/11/27 16:15 ブログ開設おめでとうございます。いろいろと参考、勉強になります。私もデータをいろいろといじっていますが
時間がない・・・orz. 1点だけ私の聞いた話ではやはり専門家の説明は難しいよね、という事ですね、ただ、easyとsimpleは全く異なる
ので悩ましい所ではあります。ウィナー博士のようにはいきませんね。コミュニケーションで言えば認知・認識の差が最大のリスク要因にn
なりますので、その溝をどう埋めていけるのかでしょうか。言い換えると前提条件が共有されていない非対称型の情報のやり取りでは「ゆらぎ」
が生じるのでそこからどういう戦略で送り手ー受け手の間に最適解が出せるかしか現状は対応が難しいのかかなと漠然と想っております。

forrestal51forrestal51 2011/11/27 16:17 ブログ開設おめでとうございます。いろいろと参考、勉強になります。私もデータをいろいろといじっていますが時間がない・・・orz.
1点だけ私の聞いた話ではやはり専門家の説明は難しいよね、という事ですね、ただ、easyとsimpleは全く異なりますしね。
ので悩ましい所ではあります。ウィナー博士のようにはいきませんね。コミュニケーションで言えば認知・認識の差が最大のリスク要因にn
なりますので、その溝をどう埋めていけるのかでしょうか。言い換えると前提条件が共有されていない非対称型の情報のやり取りでは「ゆらぎ」
が生じるのでそこからどういう戦略で送り手ー受け手の間に最適解が出せるかしか現状は対応が難しいのかかなと漠然と想っております。

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