Hatena::ブログ(Diary)

雷太の奇書探訪

2014-09-14

『愛ぬすびと』 (藤子不二雄A著) 中央公論社

f:id:raita24:20140913231216j:image:medium:left草森紳一さんの初期評論に、「オバQと正ちゃんは同一人物である」(『オバケのQ太郎8』虫コミックス 1970 所収 〜HP 藤子不二雄FC “評論ロボット”の表題で検索可)という傑出したまんが評がある。藤子不二雄著『オバケのQ太郎』の構造を具体的な例を引きながら精密に考察したものだが、オバQ=正ちゃんという草森さんの奇抜な発想は、この時初めて生まれたわけではない。雑誌『COM』(虫プロ商事)に掲載されたまんが家論藤子不二雄の巻−精神家医のギャグ−(1967年7月号 〜,らい梁衞召呂泙鵑家研究、で完結 この評論はまだ書籍化されていないようだが、全編に発見があり斬新な視点が垣間見られる。特に楳図かずお篇が傑作で、“好奇心”という言葉を手掛かりに恐怖のメカニズムの本質を解明していくあたりは、人間の不安心理を鋭く付いており圧巻。)に、そのアイデアの萌芽が窺える。(“影”の扱い方に違いが見られるが)その件を紹介してみよう。

「これら特殊能力をもった主人公たちのそばには、かならず読者の影の存在がある。『オバケのQ太郎』の正ちゃん、『怪物くん』のひろし、『忍者ハットリくん』のケン一である。」

これらの人物たちをあえて“従”と規定し、この覚束ない者を補う役目を負っているのがオバケのQ太郎達で、それ故彼等はやっと主役足り得ていると説く。一見主人公だと思われていたものが、実は脇役の存在でしかないことをさらりと見抜いてみせる分析能力には、いつものことながら舌を巻く。終盤で藤子まんがの未来を予見しているような言葉も見受けられる。

「人間は生きているかぎり変わる。生きているあいだは、まだ作品ではない。死んではじめて作品となる。」

まるで手塚まんがにも通じるような言い回しだが、以後の藤子まんがの幾多の変貌をある程度予感しているような口ぶりだ。それに引き続く文に「藤子不二雄の世界も、今後どう変わるかわからない。『シルバー・クロス』のようなハードボイルド・まんがを読んでわたしたちは、なにも驚くことはない。・・・」ここで『シルバー・クロス』を引き合いに出しているのでも判る通り、どちらかいうと藤子F不二雄さんではなく藤子不二雄Aさんのまんがの変転を暗示しているように感じらなくもない。事実、次第に青年漫画誌に力を注いでいくAさんのその後の足跡を見ればそれは明らかだ。

そんな変化を望むAさんの新たなる挑戦が女性誌への進出だったと思われる。藤子さん(以降この呼称で統一)の俗に言われる変身モノに目を通す機会に偶然恵まれ、その流れで本書に辿り着いたのだが、残念ながら『オヤジ坊太郎』(全二巻 ブッキング)『無名くん』(全二巻 リイド社)『ミス・ドラキュラ』(全七巻 ブッキング)などの変身三部作には、あまり共感が持てなかった。(『ブラック商会 変奇郎』『魔太郎がくる!!』は、同系列とは思えないので除外 〜『無名くん』『ミス・ドラキュラ』にそれぞれ一篇だけ、変身前の主人公に好感を持つ男と女の話があり(『無名くん』第二巻 P159〜、『ミス・ドラキュラ』第1巻 Episode6 P22〜)この回のみ胸騒ぎを覚えたのは、人の好みの多彩さを改めて教示してくれたからだろう)変身前の主人公に無能ぶりを同僚に見せつけ、変身後に陰で非難を浴びせていた連中が巻き込まれた災難を鮮やかな手付きで救ってみせるといった、主人公だけの自己満足に取られ兼ねない設定に、どうして賛同の意を表せなかったのだ。『魔太郎がくる!!』のように変身前の主人公を周りの連中が甚振るのではなく、隠れたところで暖かい眼差しを送ってくれているからこそ、主人公は毎度同僚達を手助けをしたくなる衝動に駆られるのだろうが、復讐心が渦巻く『魔太郎がくる!!』の凄まじい毒に犯されていた者には、救いの手を差し伸べる心安らぐ変身ものは、やはり食い足りないと言わざるを得ない。

では、『ミス・ドラキュラ』が女性誌で好評だった(全251話でも実証される)のは一体何故なのか。男性と違って主人公の親切と真心を従順に受け止める度量の深さを女性陣が兼ね備えていたことに起因しているのか。そう素直に感じ取れない節がある。『ミス・ドラキュラ』には、外見・性格ともに少々疑問符を投げ掛けたくなるような“フーコ”というOLが度々登場する。女性読者はフーコと自己を比較させ、自身の優位性(美貌・性格ともに)を再確認して、言い知れぬ愉悦を満喫していたのではないだろうか。フーコの隠された優しさや容姿が多少なりとも周りから評価されるような場面に遭遇すると少なからず違和感を覚え、それらがラストでいつも通り全てが否定されると、心の片隅で微かな笑みを浮かべていたように思えるのだ。そう、フーコを自分と照らし合わせて己れの幸せに安堵し、裏では何とも言えない悪の愉しみを実感しながら、そこにまんがを読む喜びを見出していたに違いない。極端な言い方をすれば、女性の驕慢さを満足させた結果が、高評価へと繋がったは言えまいか。少々捻くれた見方のようにも思えるが、『ミス・ドラキュラ』が評判が良かった事実を聞かされると、どうしても素直な目でみることが出来ない。フーコと酷似した役回りの佐木(『無名くん』にも登場)を男が女と同じ上から目線で見れないのは、佐木の窮状がいつ自身にも降りかかるかわからないと切実に感じているからだ。とても客観的な立場で観察する余裕はない。

以下、詳細に内容を紐解くことで、一筋縄でいかない男女の愛の機微に迫りたいと思う。

まずは、本書を読むきっかけとなった『ミス・ドラキュラブッキングの最終巻の作者あとがき(『ミス・ドラキュラ』に変身するまで・・・)の一端を少々長いが引いてみる。

「『愛ぬすびと』の主人公は愛誠という名の男だ。彼には最愛の妻がいるが、彼女は不治の病にかかっている。その治療費をかせぐために、毎週女性を一人づづだましていく・・・というシチュエーションだった。“愛のために、愛を裏切る・・・”というのがキャッチコピーだった。(!?)僕の初めての女性漫画『愛ぬすびと』は幸いとても人気があった。増井さん(当時の「週刊女性セブン」編集長)に「もっと続けてほしい」とたのまれたが、その頃少年誌にやたら連載をかかえていたので、最初の約束どおり十三回で終りにした。」(P139 〜括弧内は筆者追記)

ここで注目したいのが、十三という数字である。以前『魔太郎がくる!!』の書評で、“七”の数字に拘ったが、今回も同様に数字に対して引っ掛かりを覚えた。

冒頭頁を開くと最終章は“愛の終り”で、前章は“愛の11”となっており、きちんと順を追えば、最終は“愛の12”となる。他の章に前後二回に分かれたものが含まれていれば計十三回と見做すことも可能なのだが、中身からはそれは汲み取れない。何が言いたいのかというと、藤子さんは本当は十三回でこの物語を閉じたくなかったのではないかという思いが頭を過ったのだ。十三という不吉な数字に被らせて悲惨な愛の結末を予定通り描き切った場合、そこには僅かの救いも生まれず、恵まれない人生を送った者には、永遠の愛を掴む資格がないと断定しているかのように見えてしまうのを極端に恐れたのではないだろうか。あえて十三の手前の十二で終了させることで、死の匂いが全面を覆い尽し兼ねない最終部で、僅かながらの生の可能性(匂い)をそこに残したかったように思えてならない。(HP藤子不二雄ファンはここにいる”に、“『愛たずねびと』は全五話(連載十四回分)”と明記されており、十三は連載回数に由来した数字ではないことが判った)

またしても前振りが長くなった。

実際の物語を覗いてみたい。P12下段の仕事の事務机に座っている主人公の上半身の一コマだが、コマの周りは縦の細かい斜線で縁取られ、まるで人が檻にでも入っているかのように見える。顔は虚ろ気で、表情は塞ぎ込みがち、上司に外出許可を申し出た際「えっ? きみィ またかい」と嫌みを言われてもまるで意に介さない素振りをみせる。悪く言えば世捨て人で、他人からの忠告やアドバイスなども全て拒絶し兼ねないかのような深く暗い影を宿しているのだ。

その彼が結婚式場で知り合った女性にふと見せる寛いだ仕草(まゆげを下げる独特の表情)とのギャップにこちらは思わず戸惑ってしまう。悪魔に対する天使とまでは言えないが、この息抜きのポーズがその後頻繁に顔を出す。本人はこの瞬間の自分を天使のようだとはもちろん思っていない。(相手も主人公をそのような眼差しで見てはいないが、徐々に純真無垢な邪念のない人間だと思い込み、自然と警戒心を解いていく)“愛の1”では、お金を貸してくれた女性に入金中の妻を紹介する場面でも明らかなように、主人公は相手の女性を騙すつもりはさらさらなく、おそらくこの時点では僅かの期間お金を借用しようと心底から思っていたようだ。女性は主人公が結婚しているという事実を知らされたショックでお金を返してもらう気力を失う(呆然自失で忘れる?)悲惨な結末を招く。追い打ちをかけるように主人公は叫ぶ。逃げるように遠ざかっていく女性の足元から発せられる、“カン、カン、カン”という靴音は、まるで読者の脳髄の奥に響き渡る不快な金属音のようにも聞こえ、そこに「昌子さーん ぼく 独身だなんて いちどもいったことないですよねーっ!!」という主人公からのあまりにも残酷な台詞が被る。本人は全く罪の意識を持たないでこの言い回しを口にしている。男が見せるとぼけた振る舞いに相手の女性が気を許し、安易な借金の要求に容易く応じてくれる実態を掴んだ主人公は、“愛の2”でその所作を結婚詐欺として活用出来るのではないかと真剣に考えて、やがてそれを実行に移す。他の結婚詐欺師と違うのが、愛誠という名前から連想される自分にとっての“真”(字は違うが)を貫き、<名は体を表す>という諺を具現化してみせるのだ。P41上部の〈ある結婚詐欺師の手記より〉の鉄則がそれに呼応する。

「嘘をつくときはまず自分にそれが真(まこと)だと思いこませるのです 自分が信じていったことばがはじめて相手の心をとらえるのです」主人公は自分に忠実な行動を取ることで、自然と結婚詐欺に必要不可欠な要素を手元に引き寄せていたのだ。P43では自分がふと漏らした言葉で思わず涙してしまう境地にまで達する。主人公が他の詐欺師と一線を画すのはこの部分であって、自分でも嘘か本当かの見極めが付かなくなる場面が度々訪れる。

“愛の3”での〈ある結婚詐欺師の手記より〉中の「なにしろ女性は自分への賛辞はいくら聞いても聞き飽きることはないのだ」と言いながらも、心のこもっていない褒め言葉には決して気持ちを動かされることはない。この微妙な察知能力は女性独自の臭覚で鈍感な男には判らないはずだ。P50の目を真剣に向き合って述べる台詞の数々は、おそらく主人公にとってはその場で感知したことを忌憚無くありのままに語っているに過ぎない。それで女性が心を揺さぶられないのなら、こちらも諦めるといった妙な割り切りもあり、自分を卑下して相手の女性を心地よい雰囲気で包み込むことも決して忘れないのだから、女性には人畜無害な透き通った空気に近い存在のように感じられるのだろう。

やがて主人公の振舞いは段々とエスカレートし、“愛の5”で禁じ手ともいえる「ぼくと結婚して下さい!」との懇願を口にする。主人公はまるで自分が映画の主役になったよう幻覚に囚われ、自身の言辞に酔い痴れているようにさえみえる。ここに至って主人公が考えた心理ゲーム(愛情ゲーム)は、完全な犯罪へと辿り着く。この自覚は主人公にとっては結婚という夢を完成させる手段でもあった。

“愛の8”中での旅行会社の同僚との会話「というと橘さんは結婚しているってことは夢がないっていうんですか」(誠)「そうさ!だれかが結婚とは憧れを捨てることだといっていたが正に名言だね」(橘〜風貌が藤子さんにそっくりなところから推測すると、この言葉は自身の体験が反映しているのかも)結婚への幻滅、愛の喪失が切々と語られるが、主人公の心中にはP163でホステスが呟く台詞「あなたはまるっきり女に無関心かそれとも・・・・・・だれかひとりの女性をよっぽど愛しているか そのどちらかなのね」に対する答えが頭の中をちらついていたのではないか。主人公は同僚におそらくこう切り返したかったのだろう。“ぼくは結婚した女性を犯罪に手を染めてまでも深く愛しています”と。

愛する者の為には社会のルールをも犯すあたりは、同じ漫画『地獄の戦鬼』(全三巻 東史朗原作(映画評論家 西脇英夫さんの変名だが、『アウトローの挽歌』白川書院 という秀逸な評論がある)前田俊夫劇画 芸文社 〜バイオレンス物の裏代表作が『地獄の戦鬼』ならば、表は『血の罠』(全六巻 サン出版)だろう。(後半主題がぼやけるのが気になるが))に通じる。この漫画も本書同様、愛する娘の血液交換に必要な入院費用を捻出する為に、あえて殺人に加担せざるを得ない状況に主人公が追い込まれるのだが、途中で自身が漏らす「正義も真実も俺には関係ない 俺はただ俺の道を行くだけさ・・・・・・舞子と一緒の地獄道を!!」(第二巻P184)主人公はここで己れとともに娘をも地獄に落とすことを覚悟している。殺人を代償にして得た“命”は、生きていく上でそれだけ大きな罪を背負うことでもある。

片や本編の主人公誠はどうか。愛する妻優子の命を、血塗れの殺人行為などではなく、愛情を操作する心理犯罪(金銭も絡む)で救えれば二人とも自責の念から逃れられるとでも思ったのであろうか。女性の心の隙間に入り込む非難されるべき挙措を、相手の“あさはかさ”と捉え、自身から悪行の負い目を拭い去ろうとする。P169の主人公の言葉「ギャンブルもしょせんは夢の世界のものだ おぼれると夢と現実のけじめが見えなくなってしまうからな とくに女の人はね・・・・・・」がそれを助長してしている。まるで『笑ゥせぇるすまん喪黒福造の皮肉混じりの助言のようで、バーのママさんとホステスの意地の張り合いも、蓋を開ければギャンブルの延長線上にあって、恋愛と賭け事を天秤にかける女性へのしっぺ返しは犯罪とは言えず、あたかも天罰だとでも言いたいかのようだ。その報復が自身にも降りかかるのだから皮肉な話だ。“愛の9”では声を掛けた相手の女性が同じ結婚詐欺師だったという落ちが待ち受けているのだが、これを主人公はある程度予期していたようにもみえ、あまり同情出来ない。(女性の宿泊の誘いを拒否したのも、自分の最低限のプライドをみせつけて、相手に恥をかかせたかったように思えるのだ)

様々な女性との関わり合いの中で、優子以外の女性をある程度客観視していた主人公だが、徐々に女性の心奥を探る癖が出始め、やがてそれが命取りになっていく。

“愛の10”での結婚写真などはその典型だ。出会いの発端から相手から激しく煙たがられているのも関わらず、女性の過去を詮索したがるのは最終目的のお金の無心というよりも、女(人間)の内面の複雑さをどうしても覗き見たかったからではないのか。女詐欺師との出会いあたりから男とは違った女性特有の結婚感を知ることが、自分が行なっている詐欺師の罪の重さを量る尺度になるとでも考えたのだろう。

女心を弄ぶことの罪深さは、“愛の11で決定的なものになる。優子とそっくりな女性可憐から投げ掛けられたP232の言葉「いくら似てたってあたいはその優子って女の代用品じゃないんだよ・・・以下略」続いて「どんな人間だって人それぞれ心があるんだ! あんたはあたいの心をふみにじった! だからしかえしをしてやったのさ!」ととどめを刺される。藤子さんはその次のコマで、”誠ははじめて深い痛みを感じた!!“と記す。そう、主人公は今まで罪を重ねてもそれを痛みとしては捉えていなかったのだ。

主人公の中にはお金を受け取ったとしても、常に自分の心に素直に従ったのだから、その真心が相手に少なからず伝わったはずだと思い込んでいたいや思いこもうとしていた。結果お金という心のないものを失ったとしても、相手は決して不幸になっていないと考えていたのだ。でも、それは主人公の勝手な解釈で、隠された本当の胸中は見抜けないことを、優子に瓜二つの可憐(コインの裏側が可憐ともいえる)に指摘され、心の痛苦が芽生え出す。

終章“愛の終り”では、妻優子との出会いと結婚までの道程が細密に綴られる。その中で、優子が散歩させていた子犬が猫を目がけて突如走り出し、それを追いかけた優子が車に跳ねられる件がある。偶々現場に出くわした主人公は彼女を病院に運び込み、このことをきっかけに二人は急速に接近し、やがて結婚へと結ぶ付く。主人公は交際過程の中で、優子に菫(すみれ)のブローチをプレゼントする。主人公は「スミレの花の花ことばは愛と誠です だからスミレの花はぼくの花なんです」(P242)と言い添える。

やや説明口調になってしまったが、ここで登場する犬・猫・菫(すみれ)を最近起こった私自身の出来事と強引に結び付けてみたい。但し、犬を私(男性)、猫を女性(沼正三著『ある夢想家の手帖から』全六巻 潮出版 中で女性を猫に例えるケースが多々見受けられる。二巻「家畜への変身」第五十章〜第五十四章で言及しているが、特に第五十章『犬と猫』が白眉。「猫の生は猫自身のためにある」「犬には猫のようなナルチスムスがない」「犬の生は人間への奉仕のためにある」という卓見が随所に盛り込まれており、最終的に「猫は家畜の中の自由人であり、犬は家畜の中の奴隷であるといえよう」との結論で締め括られる。“家畜“を”社会“に差し替えてみると、犬=男性、猫=女性の図式がより一層明確になってくる。社会に死ぬまで奴隷のように尽くし、やがて身も心もボロボロになっていく男(犬)に比べ、社会とは距離を保ちながら自由を謳歌することも決して忘れない女(猫)、この判然たる違いは限りなく大きい。)に置換して読んでみてほしい。

その日、庭にいた野良猫を追い払いに外へ出た。猫は驚いて素早く傍の花壇に逃げ込み、庭に植えられていた菫の花の真上からまともに腰を下ろしてしまう。踏みつけられた菫は根元から全て茎が折れてしまい、数日後あっけなく枯れ果てた。このごくありきたりの日常風景が何を意味するのか。

愛と誠の象徴たる菫、その菫が短命であることを忘れてはならない。猫という犬に比べて自由気ままな生き物に、花壇の花を荒らしたという罪悪感がないのは当然で、実は主人公自身も女性の愛は猫の気質と同様多面的であり、且つ菫のようにあっけない線香花火のようなものだとの自覚が当初からあったのではないか。犬(男)が猫(女)を必死に追いかけ、短くて儚い真実の愛を誓おうとしたが、自由奔放な猫(女)は自分の手の平からあっけなくすり抜けてしまう危うい存在でしかなかった。

巻末は「あたしの愛をとったのは だれ?」から始まり「愛をかえして・・・・・・」迄の悲壮な詩の一節で締め括られているが、主人公は本当に女達から愛をぬすんだのだろうか。実は女が逆に主人公からの愛を奪って翻弄し、ラスト頁で猫から鳥に変貌して天高く羽ばたいたのではないか。

結婚詐欺師という女性にとっては憎むべき対象を主人公に設定しながらも、多くの女性達を魅了したのは、主人公の愛ぬすびと行為が彼女達に片時の心のオアシス(清涼剤〜代償としてお金を失うが)を味わったかのような錯覚を覚えさせてくれたことによるのかも知れない。

実体のない愛は精神の奥深い場所で光り輝く神秘的なものであり、個人が容易に盗み取れるものではない。

≪付記1≫

本文中“悪の愉しみ”という一語を使用した際にふと想起したのが、『悪の愉しさ』(石川達三著 角川文庫)だった。

新聞連載の形で発表された長編小説で、掲載当初“こんな不道徳な話を新聞に載せるのはもってのほか!”といった批判の投書が殺到したらしいが、当時の世相を反映しているとはいえ、これしきの内容で目くじらを立てるのが不思議でならなかった。世間の人は自身の内奥にじっと息を潜めて住み着いている“悪魔の声(囁き)を、頭の中から完全に排除出来るとでも思っているのだろうか。このあたりの読者大衆と小説の関係は、『文壇風物誌』(十返肇著 三笠新書)中の「新聞小説の問題」P142〜で吟味されている。(機知に富んだ文章なので、一文を引いておく。「石川達三という作家には読者をイライラさせる能力があるというよりも、いわゆる流行作家にはみんなそうした能力があり、それが彼らの魅力となっているのである。」)

主人公は平凡な会社員で彼の気晴らしは、他人の虚栄心を暴き出した果て、人間が持つ卑劣さ、醜悪さが全面に立ち現れることだ。真心や親切心などは一切信用しておらず、そのようなものは恰も初めから存在しないという性悪説を自分の信条としているかのようだ。終幕主人公が殺人を犯し、罪を自白する直前「彼は憎まれることによって生き甲斐を感じ、他人の憎悪に支えられて自分の命を保って来たようでもあった。」(P403)と省察する件がある。そこには相手が自分を嫌悪し、蔑み、軽蔑するような態度をどうしても取らざるを得ないような状況にあえて追う込み、波風の立たない自らの“空虚なたましい”P103 を何とか埋めようとした節が見受けられる。

『愛ぬすびと』の主人公は、その点正反対の性善説信者で、周囲にいる人間の美点を必死に見出そうと努力するのだが、人を和ます善意の行為が主人公の意に反して、いつの間にか思いもよらなかった恨みを買い(善意と悪意は紙一重だ)、『悪の愉しさ』の主人公と同様悲惨な顛末を迎える。二人の主人公の共通点は、犯罪者という以外に、自分の意志で相手を振り回していたように思えたのが、実は裏でうまい具合にはぐらかされ、ついにその人の本音(本心)を引き出せなかったことだ。

上辺だけの恋愛遊戯に浸っている限り、心の扉は永久に閉ざされたままだ。

2013-09-25

『虫づくし』(新井紫都子著) 「幻獣小説集 夢見る妖虫たち」 北宋社掲載

f:id:raita24:20130924114118j:image:medium:left魅惑的なアンソロジーを編むことは難しい。幻想・怪奇分野となると、単に沢山の短編を読破していれば面白い小説集を作れるかというとそうでもない。国内そして海外にまで渡って、埋もれたまま眠っている原石を地道に掘り起こしていくのは容易い作業ではないのだ。

ここ数年では、東雅夫さん、日下三蔵さん、七北数人さん(「猟奇文学館」全3巻は異色作で、「シリーズ 日本語の醍醐味」(烏有書林)もなかなか独創的だ。)などが目覚しい成果を上げているように思われるが、それでも澁澤龍彦種村季弘中井英夫らが過去に発掘した佳品が、新たに編纂したアンソロジーの中にどうしても入り込まざるを得ないのもまた、紛うかたなき真実なのである。

今や売れっ子作家の仲間入りをしてしまった倉阪鬼一郎さんが、本職ではない日記(『活字狂想曲』)や俳句評論(『怖い俳句』は未読)が周りで話題になったことを、2013/2/12のブログ倉阪鬼一郎の怪しい世界)で、“『活字狂想曲』以来”と題し、「『怖い俳句』をお送りしなかった俳人の方から丁重な礼状とご著書をいただき恐縮する。それにしても、こんなに評判がよかった拙著は『活字狂想曲』以来かもしれない。どちらも小説じゃないのがなんだかなあという気もしますが。」と言葉を濁しているところからも窺えるように、ご本人は気が付いていないのかもしれないが(気が付きたくないともいえるか)、多数の読者は小説よりも日記や評論の類に大いなる魅力を感じているのではないのか。

その意味で、以前も取り上げた『夢の断片、悪夢の破片』は、昨今ではやはり突出した書評集といえる。この本の批評に挑もうかとも何度も試みたが、本の天部が付箋紙で埋め尽くされ、全てに触れるとあまりに膨大なものになりそうなので途中で頓挫してしまった。本文中では、冒頭の錯綜を極めた古典怪談に果敢に挑んだ「化鳥に乗って−怪談ニッポン周遊」とラヴクラフトの本質に肉薄した「原形質への招待」−H・P・ラヴクラフトとは誰か−は、一読に値する文章かと思われる。特にラヴクラフト神経症に関わる部分や黒人に病的な嫌悪感を抱く場面(P204)や邪神・怪物がいかに身近な存在だったのかを語った件(P207)は、独身時代の倉阪さん自身を投影させているかのようにも見え、妙に生々しく感じられる。異色なのは、「南方幻想歌謡曲をめぐって 悪魔のいる昭和歌謡史」で、倉阪さん以外にはとても書けそうもない昭和歌謡の裏側に潜む、閉ざされた深い闇の断面が、実に見事に抉り取られていると言っていい。

話が思わず横道に逸れたので元に戻そう。結論から言えば、鋭利な感覚を兼ね備えた倉阪さんが選定すれば、今までにない特異なアンソロジーが誕生するような気がする。広範囲なジャンルを横断してきた人だけに、あえて怪奇系だけに絞ることもあるまい。純文学哲学書・美術書を元に選ぶことも可能なのではないか。要は小説を書く時間を出来るだけセーブし、余った時間をあまりお金になりそうもない選定作業に費やせるかどうかにかかっているのだが、シリーズ本を何冊も手掛けている今の忙しさではとても無理だろう。

他にアンソロジーを組んでほしい人といえば、翻訳家・映画評論家・殺人研究家といった様々な肩書きを持つ柳下毅一郎さんの名が上げられる。去年刊行された書評集『新世紀読書大全』も好評のようで、ファンとしては喜ばしい限りだが、柳下さんが最も得意としている殺人評論(『殺人マニア宣言』は秀逸だ)のジャンルでは、今や柳下さんを凌ぐ博覧強記な怪人物がいることを忘れてはならない。お気に入りブログにも載せている「最低映画館」「殺人博物館」「悲惨な世界」の執筆者岸田裁月さんである。メジャーでないため未だ紙本が出ておらず(国文学者高橋明彦さんの本も未だに出ない)、書かれたものをブログ電子書籍でしか読めないのが残念だが、斯界の泰斗といってもいい稀少な存在だ。(岸田さんの特異な才能は、ブログ“真花の雑記帳 Neo”の「岸田裁月という本物の天才」という一文と添付画像を目にすれば、認識出来るだろう)

この人の特徴は、読み易い文体と現実の殺人や有名人の惨憺たる末路を、単にノンフィクションとして忠実に記すのではなく、事件の裏側に隠蔽されている真実を、綿密な資料の読み解きによって自分なりに詳細に分析・解明を行ない、きちんと理論付けているところである。(多少の想像も含まれるが)この手法はまかり間違えれば単なる書き手の曲解と罵られる危険性を孕んでおり、同好の士から説得力に欠けると断定されて、そのまま切り捨てられる恐れもあるのだが、岸田さんの考察(中でも「悲惨な世界」に顕著だ)は、事件が起きた時代背景や当事者が関わった前後の事実関係を引き合いに出し、事件が当人だけに起因するものでないことを、鮮やかに立証してみせるのだ。恰も被告人に代わって見事な弁論を展開する敏腕弁護士であるかのようだ。丹念な資料調査とそれに基づく度重なる検証、岸田さんがアンソロジストとしての素養を兼ね備えているかが、これで少し判っていただけたのではないか。殺人小説(ノンフィクションも含む)アンソロジーなんていう、食指を覚えるようなわくわくする企画も可能なはずだ。後は、編集者の慧眼に期待するしかない。

現状抱くアンソロジーについての思惑を延々と書き続けてきたので、この辺で本題に接近してみよう。

本書を妖虫に纏わる怪異譚集として取り上げるには、全体的に作品の質があまりにも低レベル過ぎる。アンソロジストのさたなきあさんにも責任の一端があると推察されるが、「幻想文学」で東雅夫さんや倉阪さんとともに数多くのレビューを担っていた人らしいので、幻想・怪奇小説に関する知識は豊富なはずで、何故面白い小説が拾い出されていないのかが不思議なくらいだ。情報量の蓄積と同様に必要不可欠である妖虫への限りない愛情が希薄である点が、致命的な欠陥となっているのかも知れない。そう、アンソロジーには編集者の慈愛の念がどこかに感じられなければならないのだ。

本の総評は、烏丸ブログ“くるくる回転図書館 公園通り分館”2005/10/24 オバケの本 その十『夢みる妖虫たち 妖異繚乱』 川端邦由 編 / 北宋社を読んでいただければ十分かと思う。烏丸さんの書評は実に的確で、ほぼ的を得ているのだが、最後の締めで「本アンソロジーで、「この味付けがやや弱い」と思われたのは、先にも触れた虫の怖さのさらにもう一つ別の側面、小さいがゆえにヒトの体内に入り込んでしまう、あのおぞましさです。たとえば人の皮膚に卵が産みつけられ、孵った幼虫がうごめくのが透かして見える、などという話の気持ち悪さ。あるいは血管を通して脳に入り込む寄生虫のなんともいえない薄気味悪さ。」と記している。全編を体内に虫が入りこむ気色の悪さで貫かれるのはいかがなものか。おそらく嘔吐を催して堪えられないものになっていたのではないか。個人的には、副題の妖異繚乱が色濃く反映された香山滋『妖蝶記』のような恐怖と妖気に彩られた物語で、全て統一してほしかったというのが本音だ。

ここでいよいよ本題の新井紫都子「虫づくし」だが、この小説に関しては過去にHP上で二人の方が取り上げている。一人は、上記の烏丸さんで「「虫づくし」こそは正面から虫に挑んだ作品で、個々の虫の描写には透徹した存在感があります。ただ、これだけ密度が高いと、もはや散文詩の領域で、息を止めて数ページが限界、これ以上長いと何か別の縦糸をもってこないと読み切るのがつらいでしょう。」とあり、もう一人は”ブログはんなりとあずき色”の主催者overQさんで、2004/5/26三十三夜 第19夜[隧道]の中で「架空の昆虫の博物誌的な記述で、人間社会を風刺したもの。出てくる虫がどれもこれも奇想天外極致。大傑作。」とコメントしている。申し訳ないが、overQさんの短文ではこの小説の良さは伝わらないし、“人間社会を風刺したもの”という言葉には少々疑問符が付く。(さたなきあさんの影響か)烏丸さんは、表面上この小説を評価しているようにも見えるのだが、物語性の不在(弱さ)と散文詩のような文体が息苦しくて、この長さでも読み切るのが辛いといっており、最終的にはあまり評価していないような印象を受けた。小説の感じ方は人それぞれだから、お二人の意見に対してこれ以上反論する気は毛頭ない。私はこの物語から放たれる奇妙な幻想感覚に身を委ね、そこから受け取った感情を素直に綴りたいと思っているだけだ。

十頁そこそこの短い話だが、粘着質を帯びた奔放な文体は、読み手の空想力を絶えず刺激してやまない。埴谷雄高の小説や随筆を、何度も読み返しながら読み進む際に生じる、ある種のもどかしさとともに感得する、打ち震えるような文字を追う愉悦(反復の快楽)が蘇えって来るといっても過言ではない。埴谷さんがごつごつした鉱石のような硬質な様式で、ゆっくりとした時間経過の中で綴っていくのに対し、新井さんの世界は強靭な岩ではなく、外観は一見丈夫にみえるが意外に脆いアンモナイト化石のような華麗な光の乱反射を撒き散らしながら、ここちよいリズム感を維持して紡がれていくのだ。新井さんのセンテンスは、埴谷さんのように絶えず長いわけでは決してないのに、不思議にも同じ匂いを感じさせるのは、隣接した各文が恰も互いに深く絡み付いているかのような感覚を呼び起こすからだろう。

冒頭で、青天井・星・月・太陽・雲・風・大地を様々な虫が埋め尽くし、今まで抱いていた普遍で揺ぎ無い各々の表象を見事に打ち砕いてくれる。その意味で、飛び交う虫は嫌悪の対象というよりも、新たな生命の息吹を注ぎ込む役目を担った救世主のように見えてくる。この箇所を全て抜粋したい欲望に駆られるが、これから読む人の楽しみを削ぐことになるので、月の一節のみに留めておこう。

「月は十六枚羽根の巨大蛾で、黒繻子の羽根の片面づつにそれぞれ形のちがう金色の模様をもっている。それでノートをめくるように月齢が進んでゆく。」

詳しい解釈は不要だ。繰り返し読むことで、月が巨大な黄金色の蛾に被われて吸い込まれ、曖昧模糊とする様が鮮烈に瞼に浮かぶ。羽根を閉じる光景は月の変貌を思わせる。このイマージュ連鎖烏丸さんは“散文詩”と名づけたのだろう。言い得て妙だが、作者は読者を自分の世界の中に導き入れるために、あえて入りこみ易い詩の世界を巻頭に配したとはいえないか。その後、突然人間本来が持つ逞しくも疎ましい存在である虫のイメージを、強烈に植え付けるような描写が続出するからだ。我々の生活に深く関わる虫が、次第に地上での領域を拡張し始めたのである。

各種のもどき虫がその代表的な例だ。地をおおい、雄が雌の尻にたかり、時々雄が食べられたりするもどき虫は、ガガンボモドキという現存する虫をヒントに作り出されたようだが、蟷螂の生態にも似た雌が雄を食う習性は、全ての動物界に共通する女性の優位性をみてとれないこともない。水溜りに浮かぶニゲアシミズ虫は、水の表面に粘液上の薄膜を張り、そこにとまって動けなくなった虫を、細い赤い槍状の吸口を延ばして体液を吸って殺すのだが、これはガガンボの幼虫と蚊を合体したように感じられ、吸い込む槍に自らの身体を委ねたくなるのは、心地よい安楽死への誘惑に駆られたからか。それともマゾヒストの性癖が成せる技か。

一節ごとに読み手の想像力を喚起してやまない表現がこれ以降も延々と続くのだが、その極致はヒントとなる虫が全く見当たらないガラス虫の存在である。作者が巻頭で、星や月の形に虫を嵌めこんで創作した心象風景とは違って、窓ガラスそのものを新たな虫として見出している部分が実に斬新なのだ。意識が混濁した時に現れる、幻想の扉の前を浮遊する淡く儚い眩暈とも言えるが。

やはりここは最小限に留めるよう注意を払いながら、文章を引くしかないだろう。

「窓の四隅を非常に注意深く観察すると、どこか一隅に一対の黒点である目と汚れに見える小さな半透明の胴がある。ガラス虫は用途に応じて正方形、長方形、円形、楕円形の各形態が開発されており、虫の成長段階の幅だけサイズがある。(途中筆者略)ガラス虫は冬眠状態にして売られており、死ぬと曇りガラスになる。処置の悪いガラス虫を買うと、非常に稀なことではあるが窓枠から逃げ出してしまうことがある。」

窓の汚れと極小の黒点に生物の存在を察知するのは、幼少時代によくあるケースだが、単に動かない物体(静物)として見るのではなく、動く生き物として見ようという強い意思が“死ぬと曇りガラスになる”と“窓枠から逃げ出す”という件で明らかになる。静(死)と動(生)を折り混ぜながら、形まで印象付けてその構造をあからさまなものにする手法は特筆すべきものがある。ガラス虫の生態が、この後の展開で大事な要素となっていることも忘れてはならない。

窓ガラスで思い出すのが、村田基の「白い少女」(『恐怖の日常』(ハヤカワ文庫)所収)である。二階の閉ざされた窓ガラスから覗かれる美しい少女の顔を眺めているまではよかったが、窓ガラスが外側に開いて、少女と青年が目を合わせた瞬間に思わぬ不幸が訪れる。きっかけは、ここでも虫(シロアリ)だ。遮断された静寂した空間をガラス虫がわざと扉を押し開けて、そばに潜むおぞましい虫の手助けをし、禍を引き入れたようにはみえないか。虫が虫を呼ぶとは正にこのことをいうのだろう。

やがて主人公は、母のいる故郷へ帰郷することになる。そこで手荷物を準備するのだが、ポケットに嫌虫ペンシルライトと嫌虫ベルを常備するのである。故郷に出没する人間を襲う虫(強力なハエか)対策の一環としても、もどき虫を使って空想に耽り、ガラス虫の奇妙な動きに微笑ましささえ感じている彼の心境やいかに。好意と憎悪は紙一重なのか。だが、この装置が主人公を救うのだから何とも皮肉だ。列車事故に巻き込まれ、血を流しながらレールと枕木の間に横たわっていると、切断された左下肢に虫(ハエとは規定していない)の大群が押し寄せてくるのだが、嫌虫ペンシルライトと嫌虫ベルによって、すんでのところで救われる。やがて彼は麻酔薬を打たれて意識を失くすのだが、その際にみる夢の断片にニゲアシミズ虫が潜む水溜りが現れ、虫籠の底に虹色の油膜が張られているのに気づく。恐らく無意識の中で、麻酔注射とニゲアシミズ虫の槍状の吸口がダブったのではないだろうか。虫の餌食になり、死骸に近づく陶酔感に浸るほど、自身の意識は虫に侵食されているのだ。

この頃から、主人公は無機物の三角形を好み出し、蒐集に勤しみ始める。特にキラキラする金属体を好み、挙句の果てにそれを口にまで含み、鋭い角が舌にあたって切れた血と金属の酸味を味わって狂喜する。ここで思い出されるのがガラス虫だ。上記では、正方形、長方形、円形、楕円形の各形状を記したのだが、ここに三角形がないことに気づいていただきたい。事故で負った怪我の傷口からガラス虫が体内に入り込み、新種の三角形ガラス虫となったとは考えられないか。人間と虫との体内共存がここに生まれる。更にニゲアシミズ虫の槍状の吸口が、血を啜っているかのような錯覚を覚え、自身の切れた舌の血を体内のガラス虫にも送り込んだかのようにもみえるのだ。

その後、事故で右足先を失くした女性と主人公は知り合う。彼女は事故の原因になった虫を憎悪し、それが原因で昆虫学者になる。最終目的は、害虫駆除の一環である強力殺虫剤の開発だ。途中過程である害虫を引き寄せる誘虫剤の研究に着手し、完成間近となったその濃縮・精製した液体をフラスコで運んでいる最中に彼女は誤って転倒し、その液体を身体中に浴び、そこにニクバエが集り即死するのだ。

普通なら分析棟への通路には姿をみせないニクバエが、何故現れたのだろうか。調査後判明したのは、連絡通路の端の一枚からガラス虫が逃げ出し、ハエを呼び込んだというものだった。あまりにも偶然にガラス虫が飛び出してはいやしまいか。そこで、私の頭にまた新たな夢想が湧き上がる。列車事故を負い、ガラス虫との共存関係が生じた主人公に関わる話だ。彼が窓枠からガラス虫を外に逃がしたのではないか。ガラス虫が害虫の範疇なのかどうかは判らないが、虫の生態系を大きく狂わせる強力殺虫剤の開発は、ガラス虫にとっても苦々しい対象だったとは言えないだろうか。白骨化した彼女を見た主人公は一応涙を流すが、すぐに高熱を浴びて単なる金属と化した三角形の義足に熱い視線を降り注ぐ。この三角形の金属(義足)を、新たなガラス虫として生まれ変わった彼女だと思い込み大事に持ち帰るのだ。殺害を誘発しておきながらも、無機物と化した人間を限りなく慈しむ複雑な心理の交錯がここにみられる。

巻末で、もどき虫の子供達が大地に建てる繊細な緑の柱が再度出没するのだが、ここで柱は微風によって左右にゆらゆら揺れ動くのだ。作者は春を象徴する“新生”という感傷的な言葉を引いているのだが、私にはこの淫靡な揺れがメトロノーム振り子を誘発させた。主人公は前半から、この揺動を見つめ続けて甘美な夢幻の世界へと引き摺り込まれ、最後に自分の幼少期の思い出(これも幻覚の一部か)に到達したのではないか。

寂しく座っている見知らぬ少年の手元には、虫取り道具とともにもどき虫(ツノタメ虫)が残した円柱殻が、傍に数個転がっている。円柱を何故少年が拾って来たのかを不審に思っていると、続いて少年の服に付いている五つの青い三角形のボタンが現出する。そう、また三角形なのである。ここでふと思い浮かべたのが、虫・自己・幻想(夢)をそれぞれに頂点とするバランスの取れた三角形のかたちなのだ。円柱は三角形を形作る夢の欠片で、少年はそれを無自覚のまま持ち帰り、昆虫セットの中に仕舞い込んだのではないだろうか。

このような勝手な憶測は作者とっては迷惑なのかもしれないが、ガラス虫・三角形・円柱と種々なオブジェが、我々の空想を煽ってやまないのもまた、動かしがたい事実なのだ。幻想小説の醍醐味とは、書き手の意図とは反したところで生起するような気がしてならない。その意味でこれほど想像力の翼を羽ばたかせてくれた小説は珍しい。唯一の瑕は、P118の夕食後の歌(あたかも倉阪さんの昭和歌謡のようだ)の中身とその後の旅行用に揃えた品々が、虫がらみで統一出来なかったこと、そしてあまりにも物語が短すぎるということくらいか。

蛇足だが、固有名詞があって本当に実在する虫を列挙してみると、スカラベ、ニクバエ、シリアガリ・コトブキが上げられる。シリアガリ・コトブキは、漫画家のしりあがり寿さんの名前の由来になっているかもしれないが、正直なところ確信は持てない。

いずれにせよ、一読いや再読で感知される、立ち昇る独特の異臭を嗅ぎ取ってもらいたいと切に願う。

≪付記1≫

澁澤龍彦著『神聖受胎』(河出文庫)の「ユートピアの恐怖と魅惑」の章中に、以下のような一節がある。

「なぜなら、人間のための技術が技術のための人間になったとき、そこにはすでに完全に反ヒューマニズムの原理が支配しているからである。ヒューマニズムを軸としてぐるりと一廻転したユートピアは、昆虫的、植物的になる。生存競争が既存の世界の没落に伴い、新しい基盤に沿って、新しい目的を追求して行くとき、すでに既存の世界の価値基準から割り出した理想社会と奴隷社会の区別がそこに無くなっているのは当然であろう。ユートピアと逆ユートピアとの差異は、あたかもサディズムマゾヒズムにおけるそれのごとく、流通自在に見分けがたいものとなり、その差異は“いわば純粋に技術的な問題、能動から受動への心理の移行にすぎなくなる。”(フロイト)」(P27)

澁澤さんとしては珍しく読み難い文体だが、心に刻まなければならい大切な言葉で埋め尽くされている。「虫づくし」の解説のさたなきあさんは、この小説を「風の谷のナウシカ」の反ユートピアの世界になぞらえているようだが、作中の情景が機械文明(技術の進歩)の果てに行き着いた末路にはどうしても見えてこなかった。澁澤さんのいう、ユートピアと逆ユートピアとの差異が判然としない状態(まだ人間と虫が対等な対場にまでなっていないからだ)といったほうが相応しいかも知れない。小説の弱さをここに指摘するのは簡単だが、このユートピアと逆ユートピアの境目に漂う、何ともいえない危うい宙ぶらりんの浮遊感、滅亡に近づく人類が遭遇した退廃的な雰囲気が、この作品の持ち味と言えるだろう。

澁澤さんと同じような角度から切り込んでみせるのが、シオランだ。『深淵の鍵』(国文社)の同題章中で、我々人間が見る甘いユートピア願望を見事に打ち砕いてみせる。

「植物や動物の救いの基盤たる無意識を嫉み、なんとか自分も無意識存在でありたいと希いながら、希いの適えられるすべもないのに激怒したあげく、人間は一転して植物や動物の破滅を画策するようになる。彼らをおのが不幸に巻き添えにし、不幸の病菌を彼らに移してやろうとする。ことに動物たちに対して、人間は深く含むところがあるようだ。」(P26)

澁澤と共通する、利潤のみを追求する人間社会への不信感と自然破壊への警鐘として特筆すべき文面だが、「虫づくし」の主人公が生身の人間との接触を拒否し、虫や感情のない三角形の物体に愛着を示すのは、言葉・感情を持たない無意識の生物(虫)と冷たい感触の固形物(三角形の金属)が元来備え持っている“不変的なもの”(変容しない)の重要性を、感受したからではないのだろうか。植物や動物との共存を試みず、欲の塊である人間達が生き延びる手段を模索する世界に、開かれた未来はないのだ。

≪付記2≫

新井紫都子さんの唯一の著作である「虫づくし」 が最初に活字化されたのは、幻想文学会刊行の雑誌「小説幻妖 弐」においてである。第二回幻想文学新人賞の佳作として掲載されたのだ。書評を記す前にある程度の情報は得ていたのだが、執筆の妨げになると思い、購入した雑誌にあえて目を通さなかった。何故か。選者が新人発掘の名手中井英夫とわが畏敬する澁澤龍彦で、読めば多少なりとも影響を受けることは間違いないと感じたからだ。

書評を載せた後に、こわごわ熟読。

選考の流れは以下の通りだ。総数百七十一編から編集部が粗選した四十三編を中井さんが改めて読み、二十編に絞り込む。その二十編から中井・澁澤の両氏が数篇の受賞作を選ぶという方法だ。選評で、二十編に対して中井さんがA (7編)・A-B、ないし、B-A(7編)・B (6編)の三パターンに区分けしたリストが添えられている。その中で「虫づくし」は真ん中のA-B、ないし、B-A・Bに入っており、決して高い評価とは言えない。ちなみにBに、倉阪さんの「百物語異聞」があった。中井さんの「虫づくし」へのコメントがないので、どの点が不満なのかが判らない。続いて、渋澤さんの評だが、「虫づくし」への比較的短くて好意的なコメントが記されているので、あえて全文引かせていただく。

「私が粗選でAクラスにランクしたところの作品である。小説らしい筋はほとんどなく、全篇が虫また虫をめぐる観察記録で、いわば散文詩のような趣きのものである。しかし、その虫の描写偏執的で、作者の筆づかいは綿密かつ正確である。なんなら科学的といってもよい。そこで一種のポエジー(詩情)が生ずる。異色作として推賞に値すると私は思った。」

どうだろう。流石澁澤さん、短評の中に適切で絶妙な言い回しが頻繁に現れる。私が烏丸さんの言動として褒めた“散文詩”を盛り込んでいたり(単なる偶然か、烏丸さんが渋澤さん言葉を意図的に借用したのか、昔目にした選評が記憶の底に残っていたのか、いずれが正しいか判然としない)、虫の描写偏執的と評したり、ポエジーという通常なら明るい田園風景にでも相応しいような語彙で、この異様な空気感を描出する。渋澤さんはこの歪んだ光景にこそ、深いポエジーを感じるのだろう。

渋澤さんが「虫づくし」を強く推し、中井さんが同作品の欠点であるドラマツルギーの少なさを指摘したのかもしれないが、単に筋のなさを理由に中井さんがこの小説を否定するようには思えない。短歌俳句・詩を嗜む中井さんには、新井さんが生み出した蠢く虫の奇矯な世界は、自分が思い浮かべる心象から僅かにはみ出ていたのではないか。そう、それくらい微妙なところで、この小説の嗜好が大きく分かれるのだ。

最後に新井紫都子さんの経歴に、職業が臨床検査技師となっていたことをお伝えしておく。さもありなんというべきだろう。

2013-04-16

『渦』(円地文子著) 集英社文庫

f:id:raita24:20130411190958j:image:medium:left暗い欲望に突き動かされた人間が織り成す三角関係の修羅場が好きだ。目の前で展開される現実の壮絶な愛欲劇ではなく、小説や映画などのフィクションでの話である。

子供の頃、親に隠れてこっそりと昼メロの淫靡な不倫(よろめき)を覗き見たり、B級怪奇サスペンス映画での悪意に彩られた浮気の数々を、深夜小型の白黒TVにイヤホンを刺して胸を高鳴らせながらじっと凝視していたことが、瞼の裏に克明に蘇って来る。何故、ここまで他人の諍いに興奮してしまうのか。狂気沙汰ともいえる夫婦の醜悪なやり取りが行われている最中に、当事者の夫に自分を置き換えて身につまされる思い浸り、被虐願望に酔い痴れるにはまだあまりにも若過ぎる。愛人との度重なる密会を妻に悟られて戸惑う夫を垣間見ながら、他人の苦悩を密かにほくそ笑んでいたからとはいえまいか。悲壮な顔をしながら極度にうろたえている人の光景ほど、波風の立たない自身のささやかな幸せを実感させてくれる瞬間は又と無いだろう。

小説における男を巡る数人の女の絡み合いを上げれば切りがないが、特に印象に残っているのは三浦朱門の『犠牲』『楕円』『人妻』『再会』(集英社文庫)の四部作だ。最終巻の『再会』だけ目を通さなかったような気がするが、この手の小説にありがちな不甲斐ない男が主人公で、煮え切らない性格が種々の誤解を生み、関わった女性達を不幸(彼女達はそう考えていない)の彼方へと追いやっていく。思い悩む男の胸中が、いかにも人間らしい(北上次郎さんがよく使うフレーズだ)とは言えば言えないこともないのだが、世間から見れば自分勝手な行動としか見做されないはずだ。

学生時代を振り返ると、自分がとんでもない性癖の持ち主だったことが今更ながら思い起こされる。一目惚れで好きになった女性に対し、自分が作り上げた理想の性格を思い描き、それ相手に強引に押し付け、彼女が身近な存在となってそのイメージに当て嵌まらないと判るやいなや、急激に恋慕(崇拝)の度合いが薄れていくのだ。この場合、女性がこちらの好意を気づかずにいてくれた場合はさして罪はない。自分の心中でのみ発生し終結した、自縄自縛の儚い恋なのだから。ただ、相手がこちらの気持ちを察知して、少なからず親しみを抱いてくれるようになっていた場合は始末に悪い。相手の女性は、何故こちらの気持ちが離れていくのかがよく判らないからだ。学生同士の恋なんて、気恥ずかしさが先行して言葉が足りないことが多い為に、素直な気持ちをうまく伝えることが出来ない。こんな中得てして、別な女性に心を寄せてしまう羽目になる。彼女が本性のよく掴めない影のある魔性の女(大体が男好き)だったりすると、男はこの怪しげな女にどうしようもなく惹かれていくものなのである。こちらから愛情の一方通行を頑なに実行に移している間は一心不乱になれるのだが、相手から好きになられると逆に腰が引けてしまう。全く持って我ながら性根の腐ったどうしようもない奴だ。こんな身勝手な私の行動に、この文章を目にしている人達が許しがたい怒りを感じるのは当然だと思うが、男女の恋愛は簡単には割り切れない複雑怪奇なものであることを少しでも判っていただきたいのである。(男の我侭と言われればそれまでだ)ただ、一目惚れした彼女の意に反した気性の荒さが後々大きなトラウマとなり、自己主張の強い感情の波の烈しい女性にしか興味が湧かなくなってしまったのは何とも皮肉だ。

ここでふとしたことが思い浮ぶ。ある時期富島健夫の性愛小説に嵌まり、ほぼ読み尽してしまったのだが、その中でも『朝だちの唄』(勁文社文庫)だけがいつも心の片隅から離れない。富島小説の特徴は、主人公の男が肉欲に溺れながらも、女の心の機微を即座に見抜いてしまう洞察力(都合の良い解釈で、たまに癇に障るが)がたびたび顔をのぞかせることだ。

後半田舎から東京に出て来た幼馴染で許婚の彼女を自分のアパートに泊めた際、同じ田舎の別な女性(許婚の女性とは友達で、主人公は許婚より先に彼女と肉体関係を持ってしまう)も同衾させて、三人で行為に及ぼうとするが、ここで主人公の鋭い感知能力はうまく発揮されず思ったように事が運ばない。許婚は女の勘で逸早く男と女友達との以前からの関係に気づくが、表面上はさも全てを許すかのような優しげな態度を取る。男もそれを素直に受け取って安心するのだが、次の日許婚は男に黙って田舎へと帰ってしまう。男は慌てて駅まで追いかけ、彼女が乗った電車に何とか同乗することが出来たが・・・

少々筋を追い過ぎてしまったが、いつもなら主人公の男が女を旨く言い包めて無理矢理三角関係を承知させてしまう形にもっていく富島さんが、ラストで男の失態をあからさまに記した稀なケースといえる。数多くの富島小説に触れないと気が付かない何気ない部分だが、今までの性愛小説の禁戒を破ってまで、男には計り知れない女の揺れ動く微細で移ろい易い心の襞をあえて書き留めておきたかったのではないだろうか。

揺れ動く女心といえば、リチャード・レイモン著『殺戮のキャンパス』(扶桑社ミステリー)の女子大生アリソンは、恋人エヴァンの肉体的な交わりを重視した愛に疑問を抱いて答えの出ない自問自答を繰り返す。

「セックスはわたしたちを結びつけていたひもの結び目みたいなものだ、とアリソンは考えた。それをほどかなきゃ。一度だけでも。わたしたちがばらばらになるかどうかを確かめるために。わたしたちを結びつけているロープに別な結び目があるかどうかを確かめるために―たとえば愛の結び目のような。」(P372)

おぞましい怪物が現れるホラーに相応しくない歯の浮くような愛情検証の言葉だが、精神的な癒しを内包した結び目が、後半のジェイクとのやや唐突な愛の芽生えを少なからず自然なものへと導いていく。死の恐怖に追い詰められた時ほど、根源的な慈悲深さに溢れた無償の愛が曝け出される。人間の体内に入り込んで自由に意思を操作する厄介な怪物(ジャック・ショルダー監督の快作『ヒドゥン』のパクリだと思い込んでいたら、映画公開と本の刊行はほぼ同時期だった。模倣したのは一体どっちだ!〜ジャック・ショルダーは変形SF物を手掛けると実にいい味を出す人で、『ラスト・カウントダウン』『タイムアクセル12:01』『サイバークローン』などは、きらりと光る佳品である)は、肉体の繋がりのみを盛んに強要する野放図な男の分身と見て取れないか。

さて、本書との出会いについてだが、『さらば雑司ヶ谷』の書評付記2でも触れた“いっせいの読書無宿”(「本の雑誌」2005年8月号掲載)で取り上げられたことによる。この文章がいかにもいっせいさんらしいストレートな口調なので、思わず噴き出してしまった。引いてみよう。

アメリカ留学から帰国した若い学者が、二人の女性をもてあそぶストーリーで、てめえこの野郎!とその男を思わず罵倒してしまう場面が続出なのだ。頭脳明晰、美形なもんだから女にモテる男だ。羨ましい・・・を通り越して、腹が立ってくる。」

これ以降は例によって”狭い空間(スペース)”という意外な方向に話は流れていくのだが、いっせいさんの見解からすれば、私も“てめえこの野郎!”の対象になるはずで、何だか妙に身につまされる。私は小説の主人公と違って頭脳明晰、美形ではないだけにいっせいさんの怒りは更なる極みに達し、「手前のツラを見てから行動しろ!」と暴言を浴びながら袋叩きにされるかも知れない。考えるだけでも空恐ろしい。

では、本題に入ろう。

いっせいさんの文章を紹介したので、細かくあらすじを追う必要はないのだが、アメリカ帰りのエリート学者(専門は応用化学)が共同研究者と合作論文を書き、アメリカで科学賞を貰っている逸材である点に注目したい。応用科学という理工系人間を主人公の恋人に配したあたりに作者円地さんのしたたかな策略が感じられ、この設定がその後頭の中を何度も過ぎるという意外な効果が生む。

序盤は、図書館に勤める意志の強い主人公絢子とその母とも子、恋人の島、そして母の友達ことを軸に話は進行する。母とも子が病気になる以外は、さして大きな事件は起こらず、むしろさざ波のような静謐な空気感が漂う。アメリカで知り合って島と肉体関係を結んだ女性美香の登場が僅かなうねりを生じさせるくらいだ。美香の帰国によって島が多少狼狽の表情を浮かべるかというと、全くその素振すら見せない。よく言えば沈着冷静で全てを受け入れて包み込むような寛大な包容力が感じられるが、悪く言えば女を手玉に取った罪の意識を少しも抱かない嫌な奴(まさにいっせいさんの指摘通り)だともいえる。この冷酷とも受け取れ兼ねない感情の起伏の無さが理工系独特の気質だと説明されれば、何となく頷ける節がある。女を抱くことは、島にとっては実験の一環であって、その結果が成功するか失敗するか(纏わり付かれるか、そのまま忘れ去られるか)はさして重要な問題とはいえないのではないか。島は恋愛のイニシアティブ を常に女性に取らせているように見える。これを今までの愛欲小説に頻繁に登場した歯切れの悪い主人公達と重ね合わせることは容易いが、島の胸底にはどす黒い邪念が見え隠れするのだ。そのカギが絢子からの手紙(母の手術のこと)を読んだ後の独白にあるような気がしてならない。少し長くなるが抜粋してみたい。

「(前文省略)それだのに、何故結婚ということになると、足踏みするのか・・・・・・恐らく絢子が嫌いなのではなくて、結婚という世間並みの鋳型に自分がもう一人の女と一緒に鋳込まれ、うち出されることに抵抗を感じているのだろう。世間の男を何度か襲う女と同棲することへの欲求が、欠けている点で、自分は不具な男なのかも知れない、と島は思った。ともかく、塒なんか要らないから、もう少しおれを自由にして飛ばせて貰いたい。独身という自由な翼の折られない間に、自分の学問に対して持つ情熱をもう少し烈しく強く燃え上がらせたいのだ、と島は思った。絢子のような妻として完全な女性は、恐らく、自分の翼を撓めて、小さい籠に押し込むのに思いの外逞しい力を持っているように思われる。・・・・・・そのことが漠然とした恐怖となって、絢子との間に黒い幕を張っていた。」この後決断するように一言囁く。「妻でなければいいんだ・・・・・・絢子はあのままで、完全な恋人なのだ。」(P55〜56)

ここまで引くかと言われそうだが、この小説のほとんどが、島のこの自己分析(願望)によって解明することが出来るといっていいくらいに重要な箇所なのである。島には決断力はある。自己を不具者と言い切った上で、はっきりと絢子と結婚する気はないと明言していることからもそれは窺える。要はそのことを相手に伝えるかどうかにかかっているのだが、伝えれば完全な恋人(愛人)を失ってしまうことが判っているだけにどうしても踏み切れない。いや、島の思考回路は自己中心的なので、最後の詰めを意識的に避けているのだろう。島は妻という本来愛情を交換し合う女性の存在価値をあまり認めておらず、その神経は学問への意欲と恋人との共同体意識(近親相姦に酷似したもの)に比重が置かれていく。一見女性に愛の主導権を委ねたように見せかけながら、肝心なところは自分が握って離さない真のエゴイストなのだ。

島の不動心は美香と母親と叔父の三人の席上でも遺憾なく発揮され、結婚を迫る美香の母親と叔父のいささか無礼な振る舞いをさらりとかわし、傷もの呼ばわりされている美香当人にその矛先を向ける。「君が自分に対して自尊心を持ってくれないと、この問題は僕をひどくみじめにするからね・・・・・・」結婚は美香自身の問題であることを、改めて遠まわしに強調するのだ。ああ言えばこう言う、正に付け入る隙がないことはこのことだ。挙句の果てに、三人の前でぬけぬけと「僕は絢子を愛しています。そんなことをいうと、美香さんには怒られるかもしれないけれども、男というのは二人の女を別々に愛することの出来る能力を持っていますね。・・・(以下略)」と断言し、この場を易々と切り抜けてしまう。雄としての本能である繁殖行為を全面に打ち出し、自分自身の問題というよりも過去の遺物である一夫多妻制の正当性を主張しているかのようにも聞こえる。

何人もの女を愛せると思い込んでいる島の魔の手は、絢子の母親とも子にまで差し延ばされる。遠ざかっていた絢子の家を久々に訪ねた際、とも子の面影をふいに思い出し、「絢子よりも母親の方を好きだったかも知れない、と島はふとベルを押しながら思った。」との感慨を抱く。もしとも子が病気にならず元気な状態であったら、物語はどのような変貌を遂げていたのだろう。姉妹のように美しい母娘に思いを馳せながらも、恋人絢子の存在を蔑ろにして母親のことを思う男の心境や如何に。

この章「ふたなさけ」の最後に、島が絢子と久しぶりの愛の営みを行なう場面があるのだが、抱擁しながら「・・・甘美な悲哀の情緒が自分の身内にも満ちて来るのをしみじみと感じた。」と島の感情が記されている件があるのだが、母親とも子の死と向かい会う悲しみに沈んだ絢子を切ないと思う慈しみの愛というよりは、前に触れたが何故かここでも近親相姦の危険な匂いが充満するのだ。島の手が肩を抱きかかえるところではいささか突飛だが、血に飢えた吸血鬼が鋭利な歯を立てて噛み付き、種族繁栄のために同胞(最愛の妹)を増やすシーンが目に浮かんだ。そう、島は絢子の体内に自分と同じ吸血鬼の極上の血が流れているのを、かなり以前から嗅ぎ取っていたのではないか。P173で二人が再び唇を重ねた際も同様の印象を強く持った。ここで青年島は“逞しい少年”のようだと表現されているが、血の渇望に素直に反応する吸血鬼はある意味汚れのない無垢な少年と同じだ。吸血鬼同志が血を欲するのは邪道だと言われればそれまでだが、本書では同族同士の妖艶な血の啜り合いが何度も行なわれているように感じられるのだ。では絢子の反撃はいうと、もう少し先の話である。

後半で、島が偶発事故で左の額から頬にかけて傷を負い、絢子は美香親子との乱闘で片頬と膝に擦り傷を負う。二人が時を同じうして災難に見舞われるのを見て、またしても近親相姦を暗示させる双生児兄妹という色合いが一層強くなる。二人が鏡を覗く時、お互いの前には自分たちが入れ替わった像が大きく映し出されていたのではないか。

ル・クレジオは鏡から井戸を連想し、ラフカディオ・ハーンは小説『鏡の乙女』で、引き摺り込まれるような錯覚を生む不思議な井戸のほの暗い水底(鏡面)に、耽美な女性の幻影を写し出してみせる。美術評論家の石崎浩一郎さんは、この鏡・井戸・水を結び付け、次のような釈義を加える。「鏡の中への転落が水中への転落、そして鏡面の魅惑が水の中で溺れ死ぬことへの魅惑へと転化してあたらしい変貌を遂げている」(『イメージの王国−幻想の美学』(講談社) 鏡面感覚より〜P20)

極薄の鏡面が浮き出ている井戸を発見し、その奥に佇む清らかな水に身を晒す夢想に耽る。鏡の中にお互いの逆転した顔を見た島と絢子は、しがらみという脱出不可能な井戸の中でもがき苦しみ、やがて押し寄せて来る大量の水(聖水か濁水か)で幻惑的な死の世界へと引き込まれていく。これは避けることが出来ない宿命だったのかも知れない。

その井戸の天上からの救いの手を差し出してくれた唯一の人物が、母親の担当医だった原庭博士である。だが、絢子はこの温もりのある手に縋らず、喉元にまで及んでいる水を敢えて自ら口に含んでしまう。過去に他の男に妻を取られた心の痛みを知る慈悲深い男との暖かで穏やかな家庭生活を夢見ず、自ら火中の栗を拾う絢子の心境は、繊細な神経に欠ける非情な吸血鬼に噛まれて覚醒した(心奪われた)乙女の悲しい定めなのか。

救済の道を己から閉ざした後に絢子は決意する。「私は理性を失ってはいけない・・・・・・どんな悲運な眼に逢うことがあっても、私は自分の生きて行く力をそれによって試して見なければ・・・・・・。」

傍には沈丁花の強烈な香りが立ち込めている。沈丁花花言葉が”実らぬ恋”であることを恰も自覚しているかのように、絢子は悲恋(それ)によって試して見ようという前向きいや無謀な努力をまだ継続しようとするのだ。自らをあえて悲惨な状態に追い込んで今後の生きる活力を見出す。何ともいじらしい考えだが、恋は尽くせば全て報われるものではない。島から決定的な一言が浴びせられる。

「君には男の気持ちがまだわからないようだ。僕は君を愛すのと違った意味で美香を愛しているよ。そうして、結婚の相手としては美香のような、神経のあらい女の方が、僕には仕事に打ちこめるように思う・・・・・・それはたしかだね。」(P172)

冒頭でも触れた島の妻に対する考え方、愛情を確かめ合う関係としてではなく、癒しの空間を作り出してくれる感情を伴わない置物のようにしか見ていないことが露呈される。意志の疎通を要求されない飾り物としての妻が抱える空虚な安堵感、たびたび愛を囁き合うが永遠の同志としての恋人(愛人)に甘んじることへの歯痒い屈辱感、果たしてどちらが本当に幸せなのだろうか。

終盤絢子が結婚してくれないのなら、今夜限り逢わないと宣言する件がある。ついに女吸血鬼が牙を剥いたのだ。いつまでも自分の混じり気のない純潔な血を吸わせるわけにはいかないとでも言っているかのようだ。絢子にすれば思い切った言動だが、まともに正面切って言われると吸血鬼島の本性にも火が付く。「この女がおれを拒むなんて・・・・・・そんなことをさせてなるものか!この女は心も身体の隅々までおれによって、培われて成長して来たのだ!結婚しないにしても、おれとのつながりがなくなって、どんな実りのある生活へ踏み入れるというのか。」(P201)この傲慢の局地ともいうべき思惑は、絢子の形振り適わぬ行動が生んだ結果(成果)のように思われるが、所詮エリートも一匹の獰猛な雄でしかないことがはっきりと証明された実に生々しい場面だ。論理的な思索を得意とする人間には、こちらが感情を剥き出しにしないと中々本性を表出しないという良い例だ。沈着冷静な二人がお互いのプライドを尊重し、他人に見せない深い傷を舐め合ってきた今までの状況は、永遠に一つになることを禁じられた悲劇の兄妹愛以外の何物でもない。成就しない禁断の愛の行き着くところは、やはり彼岸しかないのだろう。

絢子の最後の呟き「長い間核心を掴めぬままその周囲を堂々めぐりしていた中心がやっと深い井戸の底のように小さく淀んだまま、絢子の目に見えて来た。そこには光らしいかげはないままに、やっと呼吸の通う程度のぬけ穴がそこにあるらしく思われた。」(P203)に、井戸の底という言葉が飛び出したのには少々吃驚したが、溜まっている水の中に僅かな澄明さを感知し、二人が手を取り合って入り込める小さな至福の扉を遂に見つけ出したに違いない。

終局で絢子が何度も島を妖精圏の住民に例えて、母の友人ことに彼がとらえどころのない歪んだ心情の持ち主である(島流にいえば不具な男)ということを判らせようとしているが、私には昼はコウモリのように大学の研究室という洞窟の闇に潜んで翼を休め、夜な夜な女の生血を吸う(女の感情を弄ぶ)ために、様々な場所に出没する自由気まま吸血鬼の生まれ変わりにしか見えない。ことが最後に島の生息する国を妖精の国ではなく、お化けの国といっている言い回しが実にしっくりくる。

ここには綺麗事でない剥き出しの激愛が鋭く抉り取られている。文芸評論家の小松伸六さんによると、円地さんは実生活でも背徳の恋にのめり込んでいたようだが、その無謀な体験がなければ、赤裸々で凄まじい我執に取り付かれた人間ドラマは書けなかっただろう。続けて、本書と同系列の作品だと思われる『人形姉妹』(集英社文庫)を読むつもりだ。さて今度はどんな修羅場が待ち受けているのやら、何とも楽しみでしょうがない。

≪付記1≫

『人形姉妹』を読了。作者円地文子の分身のような女流作家が、女子留学生と交流を持ったことからドラマは動き出していく。導入部は一見ミステリーのような雰囲気を漂わせ、読者の興味を否応なく惹き付ける。円地さんの円熟味を孕んだ流麗な文体は、他の追随を許さないほど見事なまでに張り詰めた空気を醸成している。

第二章「雛の顔」から、姉律子と染色工芸に携わっている美大生曾宮が熱情を交わす章「雛の前で」までの緊迫感は特に圧巻で、息をもつかせないとは正にこのことを指すといっても過言ではないほど素晴らしい。だが、如何せんこれ以降の展開が凡庸いやこちらの思惑を裏切らなさすぎるのだ。悪魔的な魅力を湛えた内裏雛に、秘められた呪いと狂熱の恋を絡めたあたりは安直すぎやしまいか。

巻末の解説で小松伸六さんが文頭と文末で、“よくまとまった作品(中篇小説)”と好意的な解釈を加えているが、この褒め言葉に妙な引っ掛かりを覚え、整合性が取れている分だけ逆に意気消沈してしまった。そのような観点からすれば、『渦』は小説作法から大きく外れたある意味で破綻した小説といえるのだが、個人の烈しいエゴ(主張)のぶつかり合いが予想を超えた衝撃となって襲い掛かって来る。小奇麗なまとまりは、作品としての完成度を高めるための必要条件なのかもしれないが、読み手の驚愕(インパクト)を弱めるマイナス効果を生む危険な綱渡りであることを判っていただきたい。

不満を述べたが、流石円地さんといえる箇所もある。偶然にも引こうと思っていた件を、解説の小松さんも援用していたのには少々驚いたが。

「憎悪の対象である当の女は自分が幼少の時から母代わりに慕い、真摯な愛情を注がれつづけてきたただ一人の姉であってみれば、その憎しみは切ない愛情といつも鬩ぎあって、郷子をいたたまれないほど苦しくした。」(P160)

小松さんは、姉妹のハス・リーべ(憎悪愛)から地獄絵のような肉身(肉親の間違いか)の悲劇を感受しているが、私には切り裂かれるような心の痛みが、アンディ・ウォーホル制作・ポール・モリセイ監督の怪作『処女の生血』(お気に入りブログ「最低映画館」で『悪魔のはらわた』と共に扱われ、ボロクソに貶されているが、私には最大級の賛辞にしか聞こえない)でのドラキュラ伯爵の声にならない嗚咽とダブって仕方がなかった。また吸血鬼かと言われかねないので事情を説明しよう。

映画中の吸血鬼は老いて醜く、従来のイメージであるダンディとはほど遠い存在だ。栄養源は処女の血でなければならず、普通の血を体内に吸収すると身体が拒絶反応を示す。この奇異な体質を担った吸血鬼が、処女だと偽って近づいて来た女達の汚辱に塗れた血を飲み、結果顔面蒼白となり、嘔吐と痙攣にのた打ち回る凄絶な場面がある。苦しみに喘いだ果てに迸る吸血鬼の絶叫と愛情と憎悪の入り混じった感情に精神が苛まれる郷子の悲痛な呻きが非常に酷似しているのだ。姉の吸血鬼律子が童貞青年曽宮の生血に最初手を付け、その汚れた血を妹の郷子が啜ってたまらず吐き気を催す。妹は姉が吸って淀んでしまった血を自分が口にすれば、アレルギーを引き起すことぐらい十分認識出来たにも関わらず、嘔吐の苦痛を背負う覚悟がなければ真の愛情は掴めないと断言するかのように率先して血を貪る。

吸血鬼姉妹の印象を更に深めたのは、「雛祭りふたたび」中で曽宮と響子の密会現場を見つけあとを追う嫉妬に身を焦がす姿が、眼球を充血させて相手に飛び掛ろうとする吸血鬼の形相に瓜二つに見え、「水辺の出来事」中で律子が曽宮と響子の肉体関係を察知し、以後曽宮の身体に全く触れようとしなくなったあたりが、まるで濁った血はもはや不要だと自身に言い聞かせているように感じられたからである。

曽宮と響子の前途に悲惨な顛末が待ち構えていようとも、死の幻影に怯えながら獲得した情愛は、苦難を乗り超えるための何物にも代え難い貴重な財産となるだろう。

2012-08-17

『赤い妄想』(千草忠夫著) SMキング74年3月掲載

f:id:raita24:20120817021658j:image:medium:left最近、並行的読書法(『裁判官書斎 全五冊』書評参照≪付記2≫)で読み進めている本に倉阪鬼一郎著『夢の断片、悪夢の破片』(同文書院)がある。本書の表題ともなったE・M・シオラン著『オマージュの試み』(法政大学出版局)を解読する際に、倉阪さんが引用したシオランの言葉に心を奪われた。

「書くことは、それがどんなに取るに足りぬものであれ、一年また一年と生きながらえる助けになったからであり、さまざまの妄執も表現されてしまえば弱められ、ほとんど克服されてしまうからです。書くことは途方もない救済です。本を出すこともまた然り。」

この一節は、止め処もないアイデアの湧出を抑えきれない一部の特異な物書きにのみ当て嵌まる格言のように聞こえる。同属の倉阪さんもその通りだと賛同するが、続けて「こんな無防備な形で言ってしまっていいのかとちょっとうろたえたりもする。」と漏らし、この思わぬ直球発言に気恥ずかしさを隠せない。シオランの本(関連本を含む)を読破している倉阪さんと全く読んでいない私が、同一次元で対象に迫ろうとすること自体がそもそもおこがましいのだが、同項で扱っているシオラン著『四つ裂きの刑』(法政大学出版局)の簡単には読み解けないアフォリズム十三篇からすれば、驚くほど共感し易い糸口を用意しているのは紛れもない事実だ。

新な作品を生み出すわけでもない素人書評子が“書くことは途方もない救済です”に何故これほどまでに惹かれるのか。愚にも付かない本に対してこの言葉を重ねるのではなく、魚の小骨が刺さったかの如く理解不能だったにも関わらず、心の襞にこびり付いていつまでも離れない本に適用させて、自分なりの解釈を書き加えることで充足を求めたからに他ならない。独りよがりの都合の良い自己陶酔といってしまえばそれまでだが、埋められなかった感情の空白が“書くこと”によって、多少なりとも満たされる(癒される)とは考えられないか。

そのような意味では最近読み尽くした源氏鶏太さんの怪談短編小説は、ほとんど“書くこと”を求めない無味乾燥な因縁話が多く、特に期待した長編『永遠の眠りに眠らしめよ』(集英社文庫)では短編で書き切れなかった妖怪変化の瞬間を克明に書き込みながら、怨霊の原因を過去に遡って探し出して闘いを挑むといった、僅かに目先を変えただけの通俗的な物語に終始して小骨の欠片も残らなかった。

その点、遠藤周作著『蜘蛛』(出版芸術社)は、純文学として書かれたものまでも混淆させて一冊の本に纏め上げているのが実にユニークで、至るところでやたらと小骨が突き刺さる。皮肉なことに、怪奇色を前面に出した表題作「蜘蛛」や御馴染みの幽霊話「三つの幽霊」「私は見た」にはいっこうに恐怖心が湧かず、逆に事実に密着した「あなたの妻も」「ジプシーの呪」に、ぞくぞくするような人間の酷薄な側面を垣間見せられて、背筋が凍りついた。特に「あなたの妻も」の二話目、日本を舞台にした母による娘(赤ん坊)への米粒を使った残虐で陰惨な殺しの情景や犯罪現場で「コッ、コッ、コ、コ」という鶏の声がいつもとは違って、甲高く耳を劈くように感じられるところとか「ジプシーの呪」の身体に出来たいくつもの大きな腫物(指で潰して肥大化したもの)の内側から「チッ チッ チッ チッ」という不気味な音色を半鐘させ、真ん中の裂け目から噴き出てくる黄色い膿の様相などは、凡庸な幻想・怪奇作家では太刀打ち出来ないほどのレベルにまで達している。ただ、これを単純に怪奇小説と呼んでいいものかどうかは甚だ疑問だが。

思わずニヤリとさせられたのは、以前書評で触れた富岡陽夫の『まぞひすと・さじすと』(『月光のドミナ』参照)中で、生け捕りにした鼠を踏み潰しながら女が喜びを爆発させる場面があったが、「気の弱い男」のラストでも主人公の大人しい会社員が金魚を手で握り潰しながら、死ぬまでの“グニャッとした指の感触”に酔いしれるよく似た箇所があったからだ。SM行為が正に表裏一体なのを改めて思い知らされる印象的なシーンだ。遠藤さんの生理が並みの大抵の人では保持出来ない異常性を携えていることは自覚していたが、分裂症を引き起こし兼ねないようないささか度を越えた生臭い猟奇感覚は、傍目から見ても嘔吐感を催すくらい凄まじい。

いよいよ本編に取り掛かる。『D・Sダブルセンス(重層感覚)』に続く雑誌の読切小説だが、これも同様番外篇と考えていただき、取り上げることをお許し願いたい。『D・S ・・・』に遡ること約十年近く前のもう一つの複雑な妄想劇で、総ページ数二十四枚にもおよび、短編というより中篇と呼ぶほうが相応しい。実は間を置かずに二度読んだのだが、作品に潜む独特の空気感は察知出来たものの、真に意図するものがどうしても掴めず、小骨ではなく大骨が喉の奥深く入り込んで中々取れないような状態が続いた。これを打破するには、細部の裏側の隠された闇の深遠を暴き出せるかどうかにかかっている。

主人公のアダルト作家は、『D・S ・・・』と同じくスランプに陥っており、シオランの言葉“書くことは途方もない救済です”は遠い彼方に忘れ去られている。ぼやきは、書くことの苦痛をあからさまに伝える。「書くとは創造であるのに対して、読む人は作者の妄想のあとをなぞるだけに過ぎないから。」果たしてそうか。なぞる過程を否定する気はないが、作者が書き切れなかった足りない部分を読み手が空想(幻想)で埋める作業が逐次行なわれてはいないだろうか。作者の書き尽くせなかったもどかしさを解消すべく、読者も妄想の世界で悪戦苦闘を積み重ねているのではないか。ただ、この小説の主人公も書かないことが救済に繋がるとは考えていないらしく、食指を動かされるような素材にぶつからないだけで、書くことへの意欲は枯渇してないことが判る。彼は場末の酒場を彷徨しながら、何とか書くきっかけを掴もうともがき苦しむ。そんな中、見知らぬ男に出会い奇妙な話を聞かされる。数日前、自分の妻を主人公に無理矢理犯されたというのだ。主人公は身に覚えがなく、犯行が行なわれた時間帯には自宅にいたことがはっきりしている。夫婦の住んでいるアパートのドアには鍵がかかり、進入者の形跡は残っておらず、犯人(主人公?)が入って来たところや出て行ったところを、夫婦二人は覚えていない。犯罪事実を立証出来るものはなく、強姦が現実なのか幻覚なのかが曖昧のままだ。

事の経緯が重要かと思われるので要約する。

1.男(沢田直吉)と妻正子は、木造モルタル塗りの二階建てのアパートに住んでおり、強姦はこの部屋

 で行なわれた。

2.主人公(千葉昌平)は、犯行が行なわれた日の昼、あるデパートの七階と六階の踊り場にある喫茶所

 に座っており、そこで七階から降りてくる正子を見かけた。その際、正子を新しい小説の主人公に

 イメージしてストーリーを練った。正子は、そんな主人公の行動に 全く気づいていない。視線すら

 交わしていない。

3.その夜、主人公は昼に思い付いたアイデアを反芻しながら執筆に入った。

4.小説に記された事件が、同時刻に上記1.のアパートで実行された。

5.犯行の際に使用された緊縛用の紐が、使いならされた古びたロープだった。(小説の中で何度も使い

 回された証か)

大まかに纏めると以上にようになる。これらから導き出されるのは、ドッペルベンガーという用語だろう。主人公も、男から強姦に到るまでの詳細を耳にして最初に思い浮かべたのが、サイコキネス(念力)・トランスサポート(転送)・ドッペルベンガー(小説内ではドッペルベンゲルと記されている)といった怪奇現象で、おぼろげながらも結論を引き出す。それは、「原稿に向かって凝集された彼の思念ないし妄想が、実体となって対象の女のもとに出現する。」というものだが、非現実的だとは思いながらも、どこかでそれを信じないわけにはいかない。この理論がそのまま何の捻りもなく実行されれば、安直な幻想譚として済ませることが出来たのだが、事はそう単純に運ばないため、更に混迷の度合いを深めていく。

主人公は、男から妻の失われた性欲(恥辱の快感が忘れられないらしい)を目覚めさせる意味で、もう一度犯行を行なってほしいと頼まれ実行に移す。以降現実での凌辱模様が延々と語られていくのだが、さして突出した描写はない。前回使わなかったズボンのベルトで女を鞭打つのが唯一の見せ場となっているのだが、主人公が双臀の奥に潜むセピア色の蕾に目を奪われて、一瞬戸惑う場面だけがいささか突飛に感じられた。この蕾への凝視が、物語の後半で再び顔を出すとは思い至らない。

続いて、主人公はドッペルベンガーを自覚しながら、過去に手掛けた小説群に思いを馳せる。女優AやテレビタレントBを想定して書き上げたアダルト小説がそれだ。妄想の対象となったこの二人の芸能人には、以後確かに同じような事件に巻き込まれたかのように思わせる節があった。Aが男を知り、女優開眼したことは想像の域を出ないが、Bの強盗事件は強姦を匂わせる部分が多分にある。では、Bの犯人として主人公が訴えられたかというとそうではない。画像に映し出された虚像では主人公の妄想の翼は羽ばたかず、生身の人間を視線の先に捉えないと、欲求の矛先は無意味な空回りを起すだけのようなのだ。

主人公は再度の挑戦を試みる。正子に対して主人公が、卑猥な夢想を抱きながら、情熱的な文章を書き綴る。結果は予想に反したものだった。翌日直吉に電話をすると何も起こっていないというのだ。主人公はがっくりするのだが、読んでいるこちらの落胆はそれ以上に大きい。もうお判りかとも思うが、現象解明の端著が完璧に塞がれてしまったからだ。前二回の読後と同様もやもやとした感情が湧きあがり、再び奈落の底に引き摺り込まれそうになったので、これまでの過程を丹念に整理してメモに纏め、全体像を俯瞰した。すると、絡み合っていた糸が少しずつだが解れていくではないか。引き出された解答はこうだ。

ドッペルベンガーを生み出した凌辱小説は、遠い昔に没として未完成のまま引き出しの奥底に眠らせてしまった原稿だったのではないかと推察してみる。それを証明するかのような主人公の独白が呟かれる。「平凡なストーリーだが、平凡なサラリーマンの妻から、次第に妖婦のような魅力を身につけてゆく過程をうまく描ければ、かなり読めるものになる、踏んだ。いま目にした女のイメージは、かなり力になってくれるはずだ。」デパートの喫茶所でふと浮かんだ感覚だが、裏を返せば正子を見かけて妖艶な女の像を彷彿出来たからこそ完成した物語なのであって、想像上の女性で筆を走らせていたら、未完成のままで埋もれていた可能性が高い。話自体はいたってシンプルで、悪くいえば凡庸極まりなく、読者の興味を全くそそらないと判断して、主人公が筆を進めるのを躊躇ったとしてもおかしくはない。だが、引き出しの奥から原稿が取り出されず、新に初めから書き記されたことが思ってもみない奇矯な現象を生み出す。それがドッペルベンガーだ。ただ、小説が実際の出来事として息を吹き返したことで、眠っていた原稿に籠っていた怨嗟は消え去り、その後ドッペルベンガーは二度と起きなかった。正子を想定して、いくら感情を込めてドラマを作り上げたとしても、現実で同様の行為が再現されないのは当然なのである。もし、この解釈が正しければ、主人公が埋もれた原稿に気づき、後を書き継いで物語を完結させていたとしたならば、ドッペルベンガーは立ち現れなかったと思われる。

このような強引なひらめきに少々自省しながら、古いノート(印象深い言葉を書き写したもの)を紐解くと思わぬ文章にぶつかった。澁澤龍彦書評集成(河出文庫)に掲載されている中井英夫著『悪夢の骨碑』(講談社文庫)の書評から抜粋したものだが、今まで述べた考察が全く的外れではなかったことを実証してくれるかのような一節だった。長いが引いてみたい。

「私たちは、無意識のなかで、つねに現在あるがままの自分とは違った、べつの自分を生きている。無意識のなかでは、私たち人間はすべてドッペルベンガーなのであり、ナルキッソスなのである。私たちの無意識の貯蔵庫には、実験されなかった欲望や挫折した意志が、死んだ胎児のように累々と積み重なっているのだ。時間の迷宮のなかで、私たちが出遭う“もう一人の自分”とは、これを心理的にパラフレーズするならば、この死んだ胎児の生きかえった姿、グロテスクに成長した姿にほかならないであろう。」

この言葉にある「実験されなかった欲望や挫折した意志が、死んだ胎児のように累々と積み重なっているのだ。」を中断した未完成原稿と置き換えてみると不思議なほど符合するのだ。これを生きかえらせ“もう一人の自分”(ドッペルベンガー)を導き出して“グロテスクに成長した姿”(一編の小説)と結び付けると旨く嵌りこむ。

ただ、実際は澁澤さんの文章は最後こう締め括られている。

中井英夫氏にとっての愛惜おく能わざる、巨大な一個の『死んだ胎児』ともいうべきものは、じつは日本の戦後そのものなのである。作者は情熱をこめて、死んだ戦後の東京をよみがえらせる。」私のように平面的に見るのでなく、戦後の日本と東京といった大きな枠組で捉えているのだ。実をいうとこの文章は、全くの偶然なのだが、倉阪さんの『夢の断片、悪夢の破片』の「トランプ譚」論の第三章の〈悪夢〉または〈死んだ胎児〉−『悪夢の骨碑』に収められているのだ。(P109)ただ、倉阪さんは私と違い、末尾の「中井英夫氏にとっての愛惜おく能わざる、・・・」の一文をきちんと書き添えているのだから、やはり明らかに視点が違う。

思わぬ方向に話が逸れてしまったので話を小説に戻そう。

以上の未完成原稿の件を頭の片隅に置いて、後半のもう一つのエピソードを辿っていくと興味が倍増し、ある程度先の展開が読めながらも、欲望の炎は燃え滾る。獲物は千草さんお得意の女高生で、娘の親友京子だ。主人公は京子とは自分の家で何度も顔を合わせているが、純情可憐なだけにじっくりと観察出来ないので、いつも歯がゆい思いをしている。目を合わせることすら出来ないようだ。やはり、ここでも埋もれた原稿が頭にチラつき、それを窺わせる文章の片鱗を探していることに思い至る。らしきものはあった。以下の一文だ。

「(そういえば、あの時は海水浴場を舞台にして、水着の美少女が浜茶屋のチンピラどもになぶりものになる小説を書いたんだったっけ・・・・・・)昌平は思い出した。しかしその時は、なまなましい京子のビキニ姿に触れるのが、なぜかこわくて、かえって正反対のタイプの美少女を登場させたのだった。」

言葉からは、京子とは違った快活な美少女が犯され、その反動で沈み込んでいく典型的な転落譚を想像出来るが、京子をモデルにした小説は実際には書かれなかったようだ。だが、手掛けた匂いは感じられる。「なまなましい京子のビキニ姿に触れるのが、なぜかこわくて、・・・」とあるように、海水浴場にいくまでの制服姿の京子をモデルにした物語が存在していたと考えられないこともない。ビキニ姿で登場した京子をみて、そのあまりの純朴さに魅了され、筆が止ったのではないか。

主人公は、京子をメインに据えた物語を書き始める前に、ドッペルベンガーの到来を恐れて自分の顔を手拭で隠す。未完成原稿の怨念(慟哭)を自覚していないのだからしょうがないともいえるが、主人公の無駄な悪あがきと判っているこちらとしては、常軌を逸した気の遣いようが返って失笑を誘う。二人の絡みの場面に没頭して目を注いでいると、合い重なる艶かしい光景が頻繁に現れるのに気づく。数箇所に及ぶ言葉の断片を切り取る。

「京子の顔は額から頸すじまで紅を刷いて、赤い蕾の唇が割れ、小鳥のようなのどの奥がのぞける。」「京子ちゃんの唇って、すごく甘い。柔らかくって、いちごみたいな匂いがして・・・・・・」「京子の処女の魅力のすべてを、あからさまに、うしろのすみれ色の蕾までを見ることができたのだった。」 

千草さん独特の流麗な文体が横溢しているが、特徴的なのは、蕾で形容した赤い唇と煌びやかな色合いで表現されたアナルだ。冒頭部で活写された正子のアナルもセピア色の蕾と謳われていた。そんな蕾のような赤い唇を思い描いていたら、夢想映画いやドッペルベンガー映画ともいうべき傑作『視姦白日夢』のタイトル画面が蘇えった。記憶が鮮明でなくて申し訳ないのだが、確か手書きで描かれた花弁に酷似した桃色の巨大な唇が、背景に写し出されていたはずだ。唇が性器をイメージしたものだということは誰しも想像が付くが、そんな安易な発想を踏み越えたところで、小説と映画は共鳴し合っている。本書の題名『赤い妄想』とは、蕾のような赤い唇(アナルの像は限りなく希薄だ)をじっと見詰めることで侵入が可能となる、禁じられた快楽の入り口を指しているのではないか。性器のみに捕らわれている者には、闇に浮かぶ妄想の暗い扉を永久に探し当てることは出来ないだろう。終盤、京子のストッキングが活用され、緊縛色の濃くなった章が、話の内容とはやや掛け離れた形で「視姦」と記されていたのは単なる偶然か。小説が発表された八年後に『視姦白日夢』は製作されている。監督の水谷俊之さんが、小説を読まずにこの幻惑的な映像を作り上げたのであれば、そこには時間を超越した別な意味でのドッペルベンガーが現出していたに違いない。

京子が主役の叔父と姪との濃密な性愛幻想譚が幕を閉じた後、ラストで現実の京子が主人公に囁く僅かな一語が、深い余韻をもたらす。敢えて記さないが、これは怪奇小説の見事な結末とも見間違えるくらい実に含みのある言葉だった。

妄想癖の過剰な人にお薦めしたい奇作だ。

≪付記1≫

本文で主人公が夫婦と関わりを持つまでの経緯を、必要以上に詳細に記したのには訳がある。

夫婦を題材にした小説を思い浮かべたデパートの七階と六階の踊り場にある喫茶所、非日常的なエロスを生み出した二階建てのアパートといったように、階段が頻繁に登場して、それが妄想を呼び起こす役目を担っているように感じられたのだ。地上ではなく、僅かでも地面から浮び上がった空間でのみ、妄執の交流が成される。では、何故二階のアパートで、現実と見間違えるようなドッペルベンガーが起きたのか。主人公は常日頃から、自宅の書斎で執筆作業を行なっているので、妄想場所は二階と規定していいだろう。夫婦のアパートと主人公の書斎という同じ二階の共有空間を使って、意思疎通が繰り返され、狂おしいまでの愛欲物語が築かれていったとは考えられないか。作家の想像力に、過剰な性欲を抱いた夫婦の想念が重なり合って、淫靡な空想を顕在化させたともいえる。

更に、共通の時空を通過しないとドッペルベンガーが現れないことが、後半の京子の自宅の叔父との絡み合いの場面からも見て取れる。主人公は京子の家を実際に目にしていないので、家の外観ははっきりと書き記されていないのだが、妄想に入る直前に以下のような文を綴っている。「もちろん犯させる場所は、昌平が聞き知った京子の勉強部屋兼寝室である。」勉強部屋兼寝室は、当然二階に設置されているはずだから、同空間を享受している可能性が高い。唯一問題となる京子の幼さを、ボーイフレンドに無理矢理処女を奪われる設定にして取り除き、快楽への憧れと恐怖の狭間で揺れ動く少女の心情を巧みに盛り込んで、女高生の性意識を主人公に近いレベルまで引き上げている。

話は少々逸れるが、階段と鏡を組合せながら、異次元の境界線を浮き彫りにした作家に源氏鶏太さんがいる。源氏さんの怪奇小説は記憶に残らないものが多いが、階段と鏡が登場すると不思議な効果が生まれ、全編に緊張感が漲る。良い例が、『鏡のある酒場』(『レモン色の月』(新潮文庫所収))だ。

主人公多木は、曲がりくねった狭い階段を降りた地下二階にある酒場「鏡」へ向かう途中で、自殺した友達の別所からいきなり声を掛けられる。この冒頭部は、源氏さんお得意の安易な幽霊物の臭いがチラつくが、酒場に入った途端に突然別所が姿を消すあたりから空気は一変する。店の正面の壁には、中間サイズ(六十糎×四十糎くらい)の鏡が掛けられており、その前のカウンターで悪魔的な魅力を纏ったマダムが立ち働いているのだが、奥の鏡の中に別所があっという間に吸い込まれてしまったような錯覚を覚える。だが、その痕跡は全く残っていない。鏡が顕世(うつしよ〜現実)と幽世(かくりょ)の境界に位置しているらしいと主人公が感じ始めた時、死の幻影は目前まで迫っていた。

鏡の先に幽世が顔を覗かせるのは、源氏さんの『鏡の向う側』(同題名の単行本所収)も同様だが、この小説では階段とのより深い繋がりを察知出来る。引いてみたい。

「同時に三沢は、自分の躯がその鏡の向う側にすうっと出たのを感じた。いちめんに真ッ暗であった。その暗闇の底へぐいぐいと強い力で際限もなく引きずり込まれていく感じは、あの地下三階の書庫のときのそれとおなじであった。いい直せば、鏡の向う側に地下三階の書庫があったのだ。」

幽世から顕世への通路を逆に辿ると、地下二階の酒場「鏡」に行き着くように、地下へ続く階段と暗黒の幽界は密接に結び付いている。宇能鴻一郎さんの初期短編にも、地下の全面総鏡張りのバーを舞台にした不可思議な物語(題名失念)があったはずで、鏡は作家に心地よい幻覚作用や甘美な死への誘いを惹起する危険な魔力を秘めているようだ。

本編でドッペルベンガーを生む起因となった部屋(二階のアパート・京子の勉強部屋兼寝室・作家の書斎)の片隅に、目立たない形で小さな鏡が掛けられているような気がするのは私だけだろうか。

2012-05-31

『活字狂想曲』(倉阪鬼一郎著) 幻冬舎文庫

f:id:raita24:20120601002738j:image:medium:left約半年ぶりの書評である。(厳密には、過去の書評に付記として所々に追録しているので、決して長いブランクではないのだが・・・)どうも怠け癖が顔を見せ始めたようだ。

ここ数ヶ月に渡って読んだ本の傾向は、驚くほど似通っている。

列記してみると、権藤晋高野慎三〉著『ねじ式夜話』(喇嘛舎)、『ガロを築いた人々』(ほるぷ出版)、『つげ義春1968』(ちくま文庫)、梶井純著『トキワ荘の時代』(筑摩書房)、すがやみつる著『仮面ライダー青春譜』(ポット出版)、坪内祐三著『三茶日記』『本日記』(本の雑誌社)『酒日誌』(マガジンハウス)そして本書だ。

小説は一冊もなく、マンガ史と日常の出来事が綴られた実話で固められている。偶然そうなったのか、意識の底で巧妙な操作が成されたのかは自分でもよく判らない。

この中では、高野さんとすがやさんの本の読後感が非常に酷似していた。二人とも、一旦決めたことは、どんな障害があっても乗り越えていく強い意思を持っている。何故それらの本を書評の対象にしなかったのかというと、筆捌きがやけに理路整然として、優等生的で全く破綻がなく、完璧過ぎて口の挟み所がないといった贅沢な理由があげられる。高野さんは社会人になる前の経歴は不明だが、新聞社を辞めて小さな出版社の青林堂入社するあたり、お金よりも自分の好きな道を突き進むといった頑強な信念は、聖人君子の如く眩いほど純粋なまでに澄み切っているにも関わらず、不思議と人間味を感じさせない。すがやさんの生い立ちも、貧しい家に生まれ落ちてから、マンガ家のアシスタントに至るまでの苦難の連続は、涙ぐましい波乱万丈の出世物語といっていいくらい掛け値なしに心を揺さぶられるのに言い知れぬ不満が残る。原因は何なのか。すがやさんの場合は、『仮面ライダー青春譜』で引っかかったある部分に隠されていた。師匠石ノ森章太郎さんが、独立して確固たる地位を築いたすがやさんに、後年投げかけた言葉の中にある。長いが引いてみたい。

「いやあ、ホントのことを言うと、お前の好き勝手なことをする生き方がうらやましくてな。マンガ家も、所帯が大きくなればなるほど、売れる作品づくりが優先されるから、好きなこともできなくなるじゃないか。お前は、でかくなりかけた事務所も畳んで、ひとりでできる仕事に切り替えてただろう。所帯を小さくするには勇気が要るだろうが、お前は、さっさと古い店を畳んで、新しい店を出すじゃないか。そんなところを、ちょっとまぶしい思いで見ていたところもあるんだ。おれも、ときどき、ひとりになれたらなあ・・・・・・なんて思うことも多くなってな・・・・・・」(P326)

小説家映画監督になりたかった石ノ森さんの素直な心情に満ち溢れた言動だが、小説や実用書の執筆、果ては大学での非常勤の講師まで勤めているすがやさんには、自分が石ノ森さんを少なからず超えたのだという自負が、この言葉を本の中に挟ませた遠因になっているとは思ってもみなかったのだろうが、裏に秘められた満足感(至福感)のようなものがどうしても見え隠れする気がしてしょうがなかった。石ノ森さんを含め、沢山の人に愛されたすがやさんの中では、あるいは無意識的なものだったのかもしれないが、天邪鬼な私は文面の狭間から目に見えない歪んだ心根を掬い上げてしまう。高野さんもすがやさん同様、深く関わったマンガ家達の死を振り返る際のあっけないほど冷静な一文(批評家としての厳しい視点)から非情な一面が覗く。良く言えば沈着冷静とも言えるが、追悼文にしてはあまりにも慈愛の念がないように思われた。感情の起伏が激しい欠陥人間の私の理解の範疇を超えている。人間味の希薄さは、ここに根ざしていたのか。

その点、梶井さんの『トキワ荘の時代』には、自分史と寺田ヒロオさんの半生を意識的に並行させ、成功と同じくらいの比重で失敗と挫折を浮き彫りにしている部分は、著者の感受性の豊かさが察知出来る。(『別冊新評 石井隆の世界』S53 に掲載された亀和田武さんの『淫花地獄』にみる性理解と倫理』という論争剥き出しの記事で、『ガロ』系評論家として権藤晋さん・山根貞男さん・梶井純さんの三人を引き合いに出して「<理論闘争>などという形をとってしまう作家論には、何か欠落していくものがあるのではないか、いう思いが常にある。」(P91)と批判しているのも関わらず、「おまえらの中では、最もナイーブな感覚を持っている梶井純が、劇画状況衰退の一因を“絵解き技術”のひたすらな高度化に求めていて、その見解に俺はある部分賛成してもいいと思っている」(P51)とまで言わせている。この当時、熱い血潮が全身に漲っていた亀和田さんを、一瞬でも落ち着かせる感性を梶井さんが持っていた証拠がここにある。)

トキワ荘の時代』中で、石ノ森さんの寺田さんへの思いが語られた言葉が引かれている。「今度、往時の多作傑作群が単行本として再刊されるという。あわせて、大変嬉しいことである。と、同時にその間、時の流れに乗って描き続け・・・・・・流れを変えることに出来なかった自分を思い― 寺さんの生き方を思い、恥ずかしいのである。」(P191)この発言に対して、梶井さんはこう分析を加える。「石ノ森の心のなかには、仕事に追いまくられることと引き換えに獲得した現在のポジションが、マンガ家として望むべきものとはちがうという自覚がある。いわば若描きを、こういう素直な慙愧の念とともに回顧できることもまた、才能にはちがいない。」(P192)以下も寺田さんの注意を素直に聞く石ノ森さんの姿勢に、石ノ森さんの意志的な生き方をきびしく規制した寺田さんの自省力の強さを指摘し、最終的には寺田さんという存在への畏敬をだれよりも強く実感していたのではないかと締め括る。まさに言い得て然り。石ノ森さんの悔恨の情は、すがやさんに投げかけられる前に、遠い昔から少しずつ重石のように蓄積されていったものなのだ。

まだまだ、この本には藤子不二雄Aさん(安孫子さん)の人間を捉える深い洞察力など、触れたい部分は沢山あるのだが、如何せん寺田さんの底抜けに明るいマンガに、どうしても溶け込めなかった捻くれ者の私が、これ以上感想を書き記すことは失礼かと思うので差し控えたい。ただ、トキワ荘の貴重な裏面史として、抜きん出た傑作であるとのみ言っておきたい。

いつも以上の長々とした前振りとなったが、本題に入ろう。えっ!坪内祐三さんの日記に関してまだ触れていないって。その通り、意識してあえて伏せたのです。文章の端々から立ち上る独特の悪臭(褒め言葉です)を本書と同様に放っているので、感想を記しながら折々で坪内本に触れたかったからだ。

冒頭の“はじめに”で倉阪さんが触れているが、本書は十一年間の会社(某印刷会社校正者)勤めの間に起きた、極めて奇異な出来事の数々で埋め尽くされている。『幻想卵』という同人誌に「業界の極北で」という題で連載された時から、一部では大きな反響を呼んでいたらしい。確かに面白いエピソードが満載なのだが、一々取り上げているときりがないので、共感を覚えた部分を抜粋して、逸話の裏側の隠された真相を探り、倉阪さんの実像に少しでも迫ってみたい。

まずは、P18の「耐えがたいこと」から。

倉阪さんは漏らす。「「運動」「活動」と名のつくものはすべて耐えがたい。まずはQC活動と・・・」といった具合だ。挙句、上司に「僕はQCの考え方が嫌いですから!」とか「ほかに勉強することがありますから」とかといった切れる寸前の言葉を立て続けに吐く。実をいうと、私は前に勤めていた会社で、何度もQC担当者とぶつかり、そのたびに煮え湯を飲まされてきた。相手の決めゼリフはいつも同じだ。「こうあるべき!こうするべき!」倉阪さんじゃないが、「そのようなべき論だけで仕事が進めば、こっちは苦労しないんだよ!」と面と向かって何度罵倒したかったことか。それでも忍耐強い私は、QC担当者が匙を投げた案件を、懇切丁寧に再解析して問題を解決させたことがある。その後のQC担当者の言い分がいい。「××君、QCの仕事に適しているんじゃないの」だって。ぶざけるのもいい加減にしてもらいたい!お前がやらないからしょうがなくやったんだよ!

話が私的になって思わぬ方向に飛んでしまったが、QCの仕事に携わっている人には悪いが、個人個人がしっかりと自己管理していれば、QCなんて必要ないというのが私の自論だ。(ただ、それが難しいのだが)

また少し話が逸れるが、倉阪さんが過去の記述を読み返した後、新に追加した注(注釈)に目が止まった。P30の「くたばれクレジットカード」や「俺ァ年金なんていらないんだよね」で挟まれる“彼は昔の彼ならず”というフレーズは特にきいている。カードや年金の積み立てに関して不要論を唱えていた過去の自分に向って、素っ気無いほど無造作に投げかけられる一言が実に重い。

このような注は、坪内祐三さんの日記にもたびたび現れる。(わざわざ注の為に、下段の枠が取られているのだ〜このセンスが素晴らしい。目黒考二さんのアイデアか。)三茶日記P26の「どうしても知りたい人には教えてあげるよ。こっそりと。」とか自身に問いかけるP104のようなフレーズもある。「何があったのだろうツボちゃん。」倉阪さん、坪内さんの人情味溢れる本音だけに、やけに心に響いてくる。

P48の「私の歌手修業」では、倉阪さんの懐メロおたくぶりが垣間見れて楽しい。

駅の構内で、岡春夫の「港シャンソン」(何だこの歌は)を気持ちよく口ずさんでいたら、後ろから上司に呼び掛けられる。この瞬間倉阪さんは突如妖怪へと変貌し、「見たなァ」という心の叫びを木霊させる。怪奇作家として、面目躍如の場面である。ただ、その後が更に可笑しい。上司と別れると駅のホームでまた、「上海の花売娘」(この歌は知っている)を歌い出す。懲りない奴だね。倉阪さんは。密かな趣味のひとときを邪魔する奴は、犬にでも食われろといったところか。

次は、P53の「私は犯人じゃない」だ。

社内での連続放火未遂事件に関しての話だが、この当時倉阪さん自身が、社内のブラックリスト(放火犯)に載ったようなのだ。ふだんはおとなしいのに、ときどき怒り出す。神経科にかかっていた過去がある。など疑われる要素が沢山あるからだ。発覚していない過去の小さな器物破損事件にまで思い起こし、被害妄想に耽るあたりは深刻だ。果ては「号外の犯人は俺だぞと、人ごみの中で怒鳴ってみたい」とか「うう、僕がやりました」と自白しそうで不安だとまでいう始末。実は私にも若い頃“ふだんはおとなしいのに、ときどき怒り出す”傾向があり(今は怒る気力もないし、その分覇気もない)その上、時々無性に叫ぶたくなることが何度もあった。私も情緒不安定の危ない奴かも。

P56(無題)では、一転哲学的な言葉に思いを馳せる。(この人は分裂症か)

山本夏彦の一言「社会という言葉はたかだか百年の歴史しかないから違和感がある。浮世、世間、世の中なら腑に落ちる。」とか、江国滋の一言「二十一世紀までいく延びて前世紀の遺物と呼ばれたい」に賛同する姿勢を省みて、俺は単なるじいさんではないかと嘆きながらも、「私は早く七十の偏屈じいさんになりたいのだ。」と結ぶあたりの枯れ加減は、何とも素晴らしい。私も歪んだ意識でしかものを捉えられない悲しい性を背負って生きているが、倉阪さんを見習って、偏屈のまま年を取ろうと思う。

P78の「社内食堂にて」も頷ける光景だ。

倉阪さんは、自らを変わりものと称して、一品料理だけの食事をする。「冷や奴二皿、野菜コロッケひじきの煮つけ、マカロニサラダ」を食べていると、上司がふと訊ねたらしい。「暗阪君(上司から呼ばれる時は何故か倉阪でなく、暗阪なのかが不思議だ)、それの主食は何なの?」倉阪さんは答える。「豆腐です」確かに、ご飯や麺類でなく豆腐が主食なのはおかしいが、私はここでふと既視感に襲われた。前に勤めていた会社で、隣の仕事机で風変わりな若者が黙々と食事をとっていた。それを見た上司が一言。「マカロニサラダだけでよくもつね」彼曰く、「マカロニも麺類の一種ですから」これって、倉阪さんよりももっとおかしくないか。

P87の「天皇暗殺計画」は、やはり面白い。

これは万人が認めるくらい愉快な話なので、さらっと流すが、バラすは印刷関連独特の業界用語のようにも思えるが、日本語で何か物を壊すことをすぐにバラすという殺人用語で表現するのは何故なのだろう。物をバラす(分解したり壊したり)ことで日頃のストレスを発散しているのか。じっくり考えると恐ろしい。

P98の「奇人と廃人の間」は、巧妙な図の解説に妙な説得力がある。

奇人と常人(更に、常人の真中で横に点線を引き、明暗の矢印を上下させる)と廃人を設定して、山の山頂(奇人)と麓(廃人)に例える。常人の真ん中を目指して己れをザイルで引き上げる方法には、どうしても無理があるので、麓の少し上の変人の位置に自分を安住(設定)させるのはよく判る。その位置が崩れるのが、懐メロ歌謡のカラオケなのが何とも可笑しい。この図をよく掌握してから、自分の位置(立場)を確かめて生きていくと、変人には変人の人生があることが次第に自覚されるようになってくる。

P141「極私的六曜暗唱法」は、P56同様、倉阪さんの天才気質が顔を覗かせる。

QCの提案制度(前の会社でもあったが、全く提出しなかった)の絡む一件。カレンダーの六曜(仏滅・大安・・・)、つまり今度の何日は、六曜の中で何にあたるのか(先勝か友引か)を独自の記憶法で覚えるというものだ。「仏陀釈迦・山師」の漢字を当てて記憶するのだが、最後の用語を、小説「山師トマ」から取っているのが渋い。会社で賞を取ったことよりも、山師という用語を思い付いたことに対して拍手を送りたい。(本作が映画になっていたのは知っていたが、ジャン・コクトーの小説が原作になっていたとは思ってもみなかった。しかも、映画ではコクトーが脚本で参加し、監督が『顔のない眼』のジョルジュ・フランジュだったのには更に吃驚した。監督はロベール・ブレッソンだと思いこんでいたからだ。どうも、『ブーローニュの森の貴婦人たち』と『田舎司祭の日記』あたりが重なって、妙な勘違いをしていたようだ。〈題名が全く違うのに不思議だ〉いい勉強になった。)

P221「凍る現場」は、多少の狂気が孕んでいて怖い。

ここに書かれた意味不明の絵は、一体何なのか。頭の調子が悪くなって書いた絵は、倉阪さん自身も常人のものとは思えないと言っているくらい酷いものだが、顔のような絵の下に書かれた三の文字に見える五つの数字は何を意味するのか。そして上を指す長い矢印は何。意味不明なだけに無理にでも意味付けをしたくなってくる。そんな私も変な奴か。

P239「呪われた詩人」では、P141の発想力とは違った倉阪さんの文学的な天才肌を伺い知ることが出来る。

倉阪さんは短歌俳句・詩・小説、全てに精通している博識家だが、ここに記された詩人達の名前もさることながら、澁澤龍彦さんが敬愛した日夏耿之介の『転身の頌』と『黒衣聖母』の序文を引き、天才と狂気が紙一重であることを立証してみせる。日夏耿之介を熟読していくうちに、次第に耿之介の苦悩(天才ゆえに凡人からは理解されない〜“頭脳の間に流す汗”が直接生活の保証に繋がらないことへの歯痒さを唱える)が、倉阪さんに次第に乗り移っていく様が楽しい。

ざっと特徴的なもの寄りだしてみたが、倉阪さんが会社ではなく、世間の中で位置付けられている居場所は、P98の「奇人と廃人の間」に准えていえば、やはり「天才と狂人の間」ということになるだろうか。天才なるがゆえの苦悶、凡人に合わせることの苦痛、それは図りしれないものがあったのではないか。凡人からすれば、何でこんなことで怒るの?といった事柄が、天才には無性に腹が立つという場合がある。終盤近く、倉阪さんが何度も上司にブチ切れるところを、この流れの中であえて取り上げなかったのは、ブチ切れ方が日記の中での坪内さんとあまりにもよく似ていたので比較してみたくなったからだ。

坪内さんには悪いが、ここで少し登場してもらおう。

『酒日誌』P70の品川駅の飲食コーナーでの話だ。坪内さんは晶文社の知人二名と飲食店に入る。少し狭いスペースだけれど、コーヒーだけだから他からイスを持って来て座っていいかと晶文社の人が店員に尋ねると、「テーブル食事が乗り切りません。」という愛想の無い答えが返ってくる。ここでまず坪内さん少しむっとくるが、じっと我慢。そこで席を移動しようと思い、立って待っていると、店員は「そこに立っていられると他のお客さんの迷惑になるんですけど」と再び文句を言う。ランチタイムにコーヒー一杯で居座る客は邪魔だということかと、坪内さんは即座に推察。ここで坪内さんがブチ切れ、帰り際に捨て台詞を吐く。「バカヤロー、こんな店、二度と来ねえよ」

この一旦我慢しているところに、追い討ちを掛けるように怒りを煽る波状攻撃は、倉阪さんのP207の二穴パンチのロッカー投げ込み事件とよく似ていないか。過激な一言「俺は切れているんだよ!」が社内に鳴り響く。この何度かの我慢は、次の校正確認の件(P212)でもいかんなく発揮される。「一人校正しただけで果たして信用できるかなと思うんですよ。」と営業担当は言う。それを繰り返し口にしたため、三度目に倉阪さんは再び切れるのである。「なんだあの営業、口のきき方を知らないのか」

片や坪内さんだが、『酒日誌』P75の東京ドームでのガードマンとの口論なども笑えるが、『本日記』でP182の坪内・野口悠紀雄論争の最中に放たれた小坂橋二郎さんの以下の言葉に鋭く反応する、喧嘩っぱやい部分がとても好きだ。「この坪内というライターが、論争を挑むに足る相手かどうか、はたからみても少々むなしい気がしないでもない」と言い、坪内さんの文章を「悪文」(私も坪内さん同様、褒め言葉だと取りたい。今の評論家にはあまりにも毒が無さすぎる)と言ったらしい。この言葉を忘れずにいた坪内さんは、ちくま文庫から出ている小坂橋二郎の新刊を読んで、皮肉も交えて「名文で書かれたなかなかの名著だった」という。おそらく本音だろうが、小坂橋さんの文章の質が少しでも低下したら、すぐに突っ込んできそうな気がする。坪内さんは執念深そうだから・・・(実をいうと、私も相手から受けた仕打ちをいつまでも忘れない陰険な奴です)

またまた、本題から外れてしまったが、退職間際に倉阪さんがブチ切れた瞬間は、過去二回と違った様相を呈す。幾度も我慢してから暴言へ吐くといういつもの展開ではなく、校正紙の上にあったメモに不満を爆発させてしまったのだ。この流れが後々大問題を引き起こし、究極の捨て台詞「辞めてやるよ!」に繋がっていく。不満を言葉ではなく文字で発散させるという大人の対応へと進化させたことが、仇となって返って来たわけだ。世の中とは本当に不合理なものである。

以前いた会社で現場の製造担当でやたらと突然切れる奴がいた。いい年なのに今も巷で氾濫している切れる若者とそっくりなのだ。ただ、困るのは坪内さんや倉阪さんのように、我慢した果てに爆発する怒りではなく、こちらの一言に過剰に反応して瞬間でブチ切れ、椅子を蹴るわ、机を引っ繰り返すわの大立ち回り、騒ぎが収まるまで全く手が付けられない。終わると嘘のように大人しくなるので返って始末に悪い。そんな連中から見れば、坪内さん、倉阪さんの理由ある怒りはある意味清々しく、こちらも納得が出来るので共感を覚えるくらいだ。

倉阪さんは、最後のあとがきで、物書きという存在の非日常性を説いてみせ、もはや普通の社会(会社)に戻れない自分が、今更日記を書いても面白いものは書けないと締め括る。長いが引用してみよう。

「さて、物書きという存在は、民族学的に言えばマレビトである。マレビトとは共同体を活性化させるために外部からやってくる異人で、祭りのなまはげや鬼などを想像していただくといい。小説中心の物書きとなった現在では、なおさら生活の記録めいたものには食指が動かなくなった。普通の社会で鬼が暮らしていたからこそ異様な緊張感が生まれたのであって、鬼の社会を書いても面白くもなんともないだろう」と自己分析している。

鋭い指摘かとも思うが、半分合っていて、半分は間違っているような気がする。小説家という異人であれば、誰もがこのような日記を綴れたとは思えない。異人の中でも天才的な感性と知性を備えていなければ、このような特異な日記は生まれなかったということだ。倉阪さんのような突出した異人(奇人)が、今後普通の社会を特別な目で観察することはもう二度とないのではないか。

現実不適応者を自認する怪奇作家が、ほんの僅かな間だけ一般社会を覗き見た(経験した)ことが、この奇妙な余韻を残す怪作を生み出す要因になったのだろう。

≪付記1≫

坪内祐三さんの『三茶日記』P100で、本書のことが触れられている。「夜、仕事を中断して読み始めたら止らない。でも、締め切りを遅らせるわけでは行かないので、百頁ほど読んだところで我慢。この本の面白さを、例えば亀和田さん(この感覚よく判ります)や中野翠さんに伝えたい。」とある。類は友を呼ぶというが、これを心底面白いと感じるか、単に奇妙な話だと感じるかで同類かどうかが判断出来る。

つまり、坪内さん、亀和田さん、中野さんの本を愛好する人には、必読の書だということだ。

≪付記2≫

本編読了後、浅羽通明さんの解説「会社に落ちてきた男―謫仙クラサカの遍歴時代」を読む。

単行本時の解説題名「謫仙滑稽譚―会社「世間」をめぐる冒険」を何故改変したのかは判らないが、文庫のほうが意味深だ。(ただ、全体的に回りくどくて読み難い文章で、好みの文体とはいえない)特に・・・に落ちてきた男のフレーズは、ニコラス・ローグ監督・デイヴィッド・ボウイ主演の映画『地上に落ちてきた男』からの借用だと思われるが、それに纏わる解説文中の以下の一節が気に掛かった。少し引きたい。

「謫仙 倉阪鬼一郎は、単なる会社「世間」を傍観する滞在客、アウトサイダーにはとどまらない。彼自身をもその集団的一体性の中にからめとらんと、たくみに誘惑の触手を伸ばしてくる会社「世間」を相手に倉阪が繰り広げる、かっこよくかつコミカルな終わりなき防衛戦のダイナミズムが、本書をして(以下略)」(P266)

この部分を元に、浅羽さんが表題を考えたことはほぼ推測がつくのだが、世間を傍観するだけでなく、自ら世間に舞い降りてみる謫仙倉阪さんの姿が、諸星大二郎著『無面目』(『無面目・太公望伝』所収)の主人公の神仙と重なってしょうがなかった。この物語は、二人の神仙が無面目から話を聞くために、目・鼻・口・耳を顔に書き加えたことから始まる。冒頭、自らの意思で地上に身を置いた神(本名は混沌)が見た人間界の不可思議さに触れられているが、次第に自身が周りの汚れた環境におかされていく様が色濃くなる。神仙をも取り込んでしまう世間の強烈な毒は、倉阪さんには会社という枠組みの中では浸透しなかったようだが、幸せな家庭(奥さんと娘と猫)では次第に侵食しているように思えるのだ。

最近お気に入りブログに追加した「倉阪鬼一郎の怪しい世界」では、その倉阪さんの普通ぶりが窺える。確かに、囲碁将棋昭和歌謡への興味に変化はない(対局を見る視点は尋常ではなく、身体に良いということで始めたのであろう走ることへの情熱も通常の域を脱している。食へのこだわりも凄まじい。)ようだが、視線の暖かさは独身時代にはなかったものだ。

家庭を持った現在の環境を堕落とまでは言わないが、『無面目』の神仙のように、誰もが踏み越えることの出来ない特異な思索の領域が、徐々に狭まっているような気がしてならない。混沌がいみじくも漏らした「目を見ずとも天地のことは五行の動きを通じてわかる。へたに目でみようとする者こそ、物事の本質を見誤るのだ。」の言葉が引き受けて、最後に亡くなった混沌を見つけて、老神仙が感慨深げに呟いた一言「内部の深い冥想こそが混沌の本質じゃった。わしらはその混沌に目鼻をつけることによって、その本質を殺してしまったのじゃ。混沌は顔を持ったときに、すでに死んでいたのじゃ・・・・・・。」に何か示唆めいたものを感じる。

倉阪さんにとっての家庭という存在が、神仙が顔を持った状態と同様のものでないことを祈るばかりだ。

≪付記3≫

倉阪さんの書評集『夢の断片・悪夢の破片』に目を通してから、草森紳一著『オフィス・ゲーム』の窓に纏わる感想を、HP”その先は永代橋“5/26付のコメント欄に記したのだが、批評の中で他にも気になる箇所があった。以下の一節である。

源氏鶏太が晩年怪奇作家に転向した謎に対する解答は、おそらく本書(『オフィス・ゲーム』のこと)に潜んでいよう。明るかるべきオフィスに不意に現れる仄暗い影は、あるいはサラリーマンという名の現代の佯狂たちの“怨”の集積かもしれないのだ。」(“その先は永代橋”でも一部引用 P301)

オフィスに屯する怨霊が、明るいユーモア小説ばかり書いていた源氏さんの背後に忍び寄り、強引に邪悪な筆を執らせたかのような錯覚を呼び起こさせるような文面だ。この思わせぶりな言動に気をとめながら、関連するHPを検索していると、何と本書(『活字狂想曲』)でも源氏さんの怪談小説に触れていることが判った。あわてて本文を読み返してみると、以下の一文が目に入る。会社内で起こった偶然の死亡事故に思いを馳せ、会社の裏側に潜む真の怖さ(不気味さ)について記した後の一言だ。

「さて、源氏鶏太といえばサラリーマン小説の大家だが、後年好んで凡庸な怪談を書くようになり、読者の首を傾げさせた。なんとなく、気持ちがわかるような気がする。」(P180)“真夜中の墜死”より

この”凡庸な怪談”という言葉から、さして重要な箇所でないと思い込んでしまったようだが果たしてそうか。本当に凡庸な小説であれば、倉阪さんが二度に渡って取り上げるとは思えない。そんな複雑な感情を抱きつつ、初期の代表的な怪談集を収めた『死神になった男』(角川文庫)を読んだ。

結果を記せば、全体としては倉阪さんが指摘した通り、凡庸な怪談という言葉に尽きるのだろう。サラリーマンを主人公にしたユーモア小説に、幽霊や鬼や妖怪などを無理に結びつけた『東京の幽霊』『鬼の昇天』の何ともいえない後味の悪さは如何ともしがたく、怨念を孕ませた『死神になった男』『妖怪変化』もシリアスな部分が前面に出ている分、安手の作り話と言わざるを得ない。そんな中、怪談物の第一作『幽霊になった男』『自分の葬式を見に来た幽霊』『口ひげをはやした息子』『二号の恩返し』の心温まる交流風景は、源氏さん独特のもので、他の作家には真似出来ないものだ。

作者はユーモア怪談という水と油の融合に、自身の新境地の開拓と今まで手掛けられなかった汚い欲望が渦巻く人間世界の表出のための重要な糸口を見出そうとしていたのではないか。ただ、この本を読む限りでは、ユーモア怪談の結び付きは、お世辞にも成功しているとは言い難い。以後の茨の道を見越して、倉阪さんは“凡庸な怪談”と称したのではなかったのか。

怪談を手掛ける上での作者の熱い意気込みが、『死神になった男』の解説で紹介されているのだが、その内容が何とも暗示的だ。

「ユウモアを捨てた小説が私の場合、たいていつまらなくなっていることは先にも書いた。そういうことから私は、善意のユウモアでなしに、悪意のユウモアに移ろうと考えた。いい直せば、ドロドロとしたブラック・ユウモアである。そこにこそ人間社会の真実があるように思われて来た。」(P222)

奇怪な出来事が頻出する怪奇譚が、どれくらいの確率で心地よいブラック・ユーモアとして結実しているのだろうか。もう少し源氏さんの紡ぎ出す暗鬱な物語と付き合ってみるつもりだ。

≪付記4≫

一旦夢中になると、興味の対象が常に頭に浮かび、消し去ることが出来ないのが私の欠点だ。

倉阪鬼一郎さんへのこだわりが、著作群への探索を自ずと促す。Wikipediaで大まかな全体像は把握出来るのだが、何かが足りないような気がして調べていたところ、“倉阪鬼一郎 著訳書リスト”という資料に出合った。倉阪さんの初期作品は、このリストからほぼ掴むことが出来る。特に特筆すべき点は、[その他の著訳書]と題された共著の項目である。おそらく、『地底の鰐、天上の蛇』『日蝕の鷹、月蝕の蛇』『怪奇十三夜』(全て幻想文学出版局)といった本を出した直後で、時間的余裕があった時期に、アルバイト感覚で渋々引き受けた仕事のように推測される。『江川卓よ!』(大陸書房 守屋等名義)などは、いくら野球好きだからといっても好んで応じた仕事とはとても思えない。

そんな系列の他愛も無い本と信じ込んでいたのが、『珍作ビデオのたのしみ』(カルトビデオ冒険団著・青弓社)である。ただ、著訳書リストの書名横に“B級以下のホラービデオ評”と追記されているのではないか。怪奇作家がホラー映画について語っているとなれば、食指が動くのは如何ともしがたいところだ。

早速、本書を購入し目を通してみる。予感は的中した。とてもやっつけ仕事だとは思えないほど、倉阪さん自身が心の底から楽しんでやっているのが判る。最初は、ホラーでもC級の中以下、倉阪さん流に言えばそれこそクズのような映画を任されて、「何で俺がこんなクズ映画を担当しなければならないんだ!」とでも言いながら、何度もブチ切れて感想を記しているのかと思っていたら、さにあらず自分から率先して引き受けていた節が見て取れるのだ。イタリア映画『ビヨンド』(カルトホラーとして伝説化している)の一文から窺える。

「本作を入れるかどうかについて正直迷った。いかんせん知名度が高すぎるし、出来も良すぎる。なんでこんなことで悩まねばならんのかと思いつつも懊悩した。だがやはり、“怪作”という部分にこだわれば、この血まみれの金字塔を逸するわけにはいかない。文句のある物は申し出よ。」P129

締めの居直りにも似た叫びが何とも可笑しいが、冒頭の著者の苦悩ぶりで、B〜C級の上クラスの映画を敢えて省いている自分なりの頑な意思を見て取ることが出来る。常日頃から、クズ映画に深い愛着がなければ生まれない厳しい自己規制と言い換えてもいい。

そんな倉阪さんの絶え間ない歪んだ愛情が数々の名言を生み出す。題名は省略するが、言葉の断片から、映画に注ぐ限りない慈しみの視線(出鱈目な表現をも許してしまう)が感じられるのだ。

「だいたいスプラッターというもの、婦女子は襲われる側に身を置いてキャーキャーいっておるが、加害者の立場に立てばこんなに気色の良いものはない。」「ドブ川から百円玉をすくとるようにクズ映画からバクハツシーンを発掘する―それがC級マニアの陰気な楽しみなのだ。」「『血の魔術師』ならともかく、『2000年の狂人』を代表作にするような批評家などは犬に喰われるがよい。」(この文章では、本文〈『活字狂想曲』書評〉で犬に食われろと・・・記したところと言い回しが重なっていることに気づく。何という偶然。H・G・ルイス監督作品では、『血の魔術師』を代表作と思い込んでいた私は批評家ではないが、犬に喰われないですむということか。)「八十年代スプラッター・ムービーの頂点を極めた必見の病気作である。」「蛇蛇蛇蛇蛇蛇・・・・の文字を乱打させ、蛇がまとわりつくイメージを植え付けさせる」(他のHPでこの文に触れていた方がいた。流石!)

この一節を目にするだけでも、並の感覚の持ち主でないことが十分判ると思うが、計り知れないほど凄まじいクズ映画への異常な没入(偏愛)ぶりは、周りの人達にも自然に伝わる。カルトビデオ冒険団(全員で五名)の執筆者の一人伊藤勝男さんが、倉阪さんのコメントを読んだ後に発した一言に、全てが集約されている。

「倉阪君が書く、愚作は愚作としての価値観があるにしろ、声を大にして奨める訳にもいくまいと思うのだが・・・・・・。」

最後に、本書(『珍作ビデオのたのしみ』)で、倉阪さんが犯した小さなミスを指摘しておきたい。『マンハッタンベイビー』の監督ルチオ・フルチの非ホラー作品は、『続・荒野の用心棒』ではなく、『真昼の用心棒』である。(P130)博学な倉阪さんにしては、考えられない単純なミスだ。倉阪さんの人間らしさを思わぬところでみた。

蛇足だが、この本で紹介されているケビン・コナー監督『地獄のモーテル』(担当はむろん倉阪さん)を初見したが、案の定目も当てられないような惨憺たる代物だった。ただ、本作が藤子不二雄A著の『魔太郎がくる』の挿話うらみの七十九番「ボクはごちそうじゃない」や短編「北京填鴨式」(『ブラックユーモア短編集 第二巻 ぶきみな五週間』所収)を生むきっかけになったことにほぼ間違いなく、他人をも巻き込む強い影響力という部分では感心する。藤子さんも以外とC級ホラー好きなのかも知れない。(お気に入りブログに載せている「最低映画館」では、ふと見過ごしてしまうような丸秘話が記されており、それが映画を見る際の貴重な面白情報となっている。一読の価値あり。)