『淫檻』(千草忠夫著) マドンナメイト

SMファンに『復讐の鞭が鳴る』の題名で、74年10月〜75年1月まで連載されたもの。(千草忠夫のファンサイト《不適応者の群れ》情報)千草忠夫さんの執筆の場が、「奇譚クラブ」から「裏窓」「SMファン」「SMコレクター」等の他誌へ移っていった時期の作品である。
本腰でアダルト小説に精力を傾ける意志が固まったのが、文章の端々から伝わってくる。猿轡・鴨居に引っ掛ける鉤・ロープ・革鞭と、初期のこの手の小説ではお馴染みともいえる小道具が次々に登場して、千草ワールドを煌びやかに彩っていく。この時期、女を嬲る場面が延々と続くアダルト小説が多かった中、この物語は凄まじいほど起伏のある展開をみせる。
冒頭、会社仲間から身に覚えのない濡れ衣を被せられた主人公庄司が、獄中に送られていることを匂わせ、恋人京子・妹知子が、その裏切り者達の罠に嵌っていく(挙句、妹は自殺する)プロセスは、日活映画後期の隠れた快作『野獣を消せ』の妹を亡くしたプロハンターのやり場の無い怒りを想起させ、裏切り者への憤りと口惜しさを充分すぎるくらい味合わせてくれる。更に、主人公庄司の痛切な嘆きが、読者の心情と自然に同化するように、憎いくらい巧みに妹の自殺までの悲惨な道程を描き込む。
裏切り者の金欲・性欲、挙句には変態衝動まで丹念に描写されることで、庄司の登場はまだなのかと、読み手の期待を否が応でも高めるのだ。獄中から出た庄司は、一般小説なら悪の当事者達を、様々な方法を駆使しながら復讐を遂げるところを、愛欲小説なので標的の矛先を当事者ではなくその娘達へと向け、定番だが誘拐した彼女等を地下室に閉じ込めて、様々な嬲りや目を覆いたくなるような汚物絡みの凌辱を行なう。
『蒼眸の悪魔』でも感じたことなのだが、このような一見すると嫌悪感しか呼び起こさない凌辱シーンの連続が、千草さんの手になると、結果として、何か清々しい爽快感のようなものを生むから不思議だ。それは、個々の心の機微を丁寧に追っているので、主人公の行動やそれを補佐する千代子の気持ち(彼女も復讐心を抱いている)にすんなりと感情移入することが出来、壮絶な凌辱が次第に必然性を帯びたものに感じられるところから来ているような気がする。
一旦捕らわれた裏切り者の娘が脱出して、庄司にSの本性を暴露する(蛙の子は蛙)思わぬ展開は、屈辱に歪む庄司の顔を、読者が自身(マゾヒストのみ快感に浸れる)へと置き換え、完全に陶酔出来る場面として、周到に組み込まれている。田渕一家の内から溢れ出る加虐の数々を目にしていると、彼らには凌辱のみが、自分の存在を自覚出来る唯一の手段であるかのようにさえ思えてくる。究極のSM行為の果てに浮かび上がってくるのは、醜い自己の再認識なのかも知れない。
少々先を急いで筆を走らせた感があるが、千草さんのドラマ作りの旨さを感じさせる良作だ。
≪付記1≫
『野獣を消せ』に触れた際にふと思いついたのが、金井美恵子さんの「視線と肉体 長谷部安春『野獣を消せ』」という映画評だった。(『夜になっても遊び続けろ』講談社文庫掲載)金井さんは、独特の長文形式で読者の感覚を揺さぶることで知られている人だが、この評にもそれは遺憾なく発揮されていて、サングラスを通して映し出される女性の強姦シーンを、冷徹な監督の視線とダブらせるあたり、凡人では思い付かない繊細な感受性を伺わせる。流石、早熟天才美少女と言われただけのことはある。
『夜になっても遊び続けろ』は、残念なことに絶版になっているようだが、本・映画・絵画という金井さんの永遠の主題とも言えるジャンルを扱った名随筆として、今でも眩いばかりの煌きを放っている。特に、読書を”教養や人生の指針”としてではなく、あくまで”贅沢な快楽”として捕らえているところが妙に心地よい。個性的過ぎる文体を、取っ付き辛いと感じる人もいるかもしれないが、直線的でない流麗な曲線で紡ぎ出される文体の心地よさは、危険な誘惑に満ち溢れ、一端嵌ると抜け出せないほどの甘美な魅力を漂わせている。
同エッセイ掲載の『世にも不思議な物語』のフェリーニ編”悪魔の首飾り”を扱った「迷路もローマに通じるか」は、あたかもテレンス・ スタンプ演じる映画俳優の映像に現われない心の裏側(叫び)を、文章で追っているような奇妙な錯綜感を味合わせてくれる短編小説のような評論だ。是非、一読してもらいたい。
≪付記2≫
『野獣を消せ』を久しぶりに再見。
以前見た時に抱いた、主人公の妹を自殺に追い込んだ不良グループに対する深い憎悪の感情が、今回は不思議と湧いて来なかった。野獣と人間の境界線が不明瞭に感じられたからだ。主人公のプロハンターは、金持ち娘にアラスカでは生態系を維持するために狩猟をする際、何日間も人と会わないことが稀ではないと語る。この話を聞かされた娘は、一人きりで寂しくないのかと問う。男は「人間と口をきかずに済むだけ楽しいと言えるさ」と皮肉混じりに答える。ほんの些細な会話なのだが、人との会話を好まないこの異常な感覚はどこで身に付いたものなのかと、ふと考えてみたくなった。
主人公が妹を置いて、遠いアラスカへ旅立った背景には、幼少の頃周りの大人の欲望(金欲や性欲など)に塗れた行動を目の当たりにしたことによって生まれた、人間への不信感が見え隠れするのだ。不良グループが、金持ち娘の父親から強奪した身代金の殆どが偽札だったことを耳にした主人公は心の奥底でこう呟いたのではないか。「お前等、まだ人間を信用しているのか」と。そう、主人公はもはや人間達が形成する「世間」を全く信用してしない。虚偽や裏切りが渦巻く社会に何も期待せず、反対に出来るだけ距離を置こうとさえする。主人公の生活空間は、どちらかといえば野獣達(不良グループ)の行動範囲に近い場所にあるといえる。
最後の死闘で、不良グループではいつも冷静な佐藤が、ボスの矢田に漏らす言葉「そんな気がしないか。前にもこんなことが一度あった気が・・・」が印象的だ。この感覚は過去に幾度も事件を起し、社会から追い詰められた経験があることを指しているように思える。何度も人間を信用し、そのたび裏切られて来たことをいとも簡単に忘れてしまっているのだ。いや、この反省をしない破滅的な行為の裏には、人間を未だに信じたいという願望が潜んではいまいか。プロハンターが一切人間を信頼せずに、孤立無縁な立場を貫き通すのとは全く違う。野獣に例えられた不良グループは、まだ凶暴な獣に成りきっていなかったことを安易に暴露する。ラストのプロハンターと不良グループの壮絶な戦いが、動物同士の血生臭い弱肉強食の光景と二重写しになって見える。獣により近い存在のプロハンターが勝利を収めるのは当然の結果なのだろう。
年末から正月にかけて読了した千草忠夫著の『堕天使(上・下)』にも、『野獣を消せ』と同じ感慨を抱かせる箇所があった。下巻の終盤(「隷女の道」の章)に、女子大生の主人公が、自分を娼婦に陥れた学友をヤクザに頼んで凌辱させる場面がある。本来ならば、財閥の若夫人におさまった者への限りない怨念を滾らすところなのだが、ヤクザに犯され嬲られる悲惨な現場を見ているうちに、次第に女というものの何とも言えない儚さや危さを感じ、最後は“そしてそれと反比例するように、心は冷えてゆくばかりであった”(P232)という主人公の複雑な心情で締め括られる。自分の将来を粉々に打ち砕いた女に、同属意識が持つのは少々不自然なようにも感じられるが、一度の甚振りで簡単に落ちてしまう、熟れた女体(人間)の悲しい性がどうしようもなく伝わってくる。女性の細やかな情感を鮮やかに描き出す、千草さんの面目躍如といった感がある。
『堕天使』は、千草作品としては中の下ぐらいの出来かとは思うが、「淫者の誘惑」の章から巻末にかけては、『奴隷捕獲人』を思わせるような男女の心の機微が随所に感じられ、なんとも心地が良かった。(P207でヤクザ辻が呟く「今度ばかりはコマされたのはおれの方かも知れねえ」も憎い台詞だ)
≪付記3≫
小田光雄さんの『出版・読書メモランダム』2010年2月18付「古本夜話23 千草忠夫と『不適応者の群れ』」と題された文章を再読。
以下の一節に、どうしても注意が向く。「『千草忠夫選集』を通読していないので、断言することは避けるが、団とは異なった感性によって、SM小説の新しい地平を切り開いたように思われる。これは私見だが、田中雅美の『暴虐の夜』(光文社文庫)に始まるバイオレンス小説は、千草の影響を受けているのではないだろうか。」前から気に掛かっていた言動だったせいもあり、良い機会なので『暴虐の夜』に目を通すことにした。
女性作家らしく、都会の闇に潜む残虐な野獣の生贄として捧げられる羽目になった、女性の悲惨な行く末を綿密に活写する。現在の恋人の意外な酷薄さ、昔の恋人へ僅かな未練など、肌理細やかな目配せが随所に行き届いているのだが、如何せん真夜中になると凶暴な野獣に豹変する男がブルジョア育ちで、女性を狙う理由が“鬱屈した日常からのささやかな離脱”と判明するや否や緊迫した犯罪は、安易な遊戯の様相を呈し始める。
強姦された主人公香名子が、犯人の水内を追い詰める理由は、「香名子がされたのと同じことを、同じ恥辱、同じ苦痛、同じ悔しさを水内保治の身に加えること。水内保治を深夜の闇の中で、痛めつけ犯すこと。・・・(以下略)」(P174)と独白するように、犯人を殺すのが目的ではなく、犯した女からプライドを踏み躙られるような汚辱を受けて曝け出された醜態以外の何物でもない。彼女にはその後の相手からの報復などもはや眼中にない。終盤、犯人が主人公の母親に行なった衝動的な振舞いが、思わぬ災難をもたらすところでやっと殺意が生まれるのだが、ここまでのプロセスがあまりにも緩慢なように感じられた。
この小説だけで、田中さんを判断するのも早計かと思い、同作者による次作『悪鬼の牙』(双葉ノベルズ)も読んだが、『暴虐の夜』の焼き直し感が強く、登場する強姦犯魔は全員ブルジョアで、その連中の金持ちゆえの生い立ちからくる苦悩が延々と綴られていくのである。作者の田中さんはこの我が儘な若者達にどの程度の同情心を抱いていたのかどうかは判らないが、犯人が置かれている家庭環境を克明に描けば描くほど、屈辱を受けた主人公への読み手の同化意識が薄まることを考えてほしかった。
ここまで書いてきて気づいたのは、男の身勝手な欲望による理不尽な暴行や壮絶な私刑(リンチ)とそれに対する女の反逆が、殊の外綺羅光作品(『隷辱の肉舎』『女豹伝説』など)に類似していることだ。綺羅さんは、犯罪者の私生活や過去の経緯を必要最小限しか書き込んでおらず、ラストは大円団ではなく堕ちていく女の生き様を感情移入せずに冷ややかな傍観者の眼差しで眺めているので、一見すると田中さんとは掛け離れた立場にいるようにも感じられるが、田中さんは綺羅さんの世界に嵌まりながら、あまりにも過酷な運命を辿る女性達に出来る限りの救いの手を差し延べたいと考えたのではないか。最後に息も絶え絶えになって一命を取り留める主人公に己を投影し、反面で冷淡な犯人達が裕福さとともに抱えるしがらみという逃れられない現実(苦難)も垣間見せて、綺羅小説の欠けた部分を補うつもりだったのだろう。だが、それは無駄な徒労というべきで、書かれていない余白を埋める作業が、必ずしも成功への道筋に繋がらないことを如術に現しているように思える。
ジュニア小説での経験が長かったせいか、『暴虐の夜』の昔の恋人とその彼女、そして主人公香名子が寛ぐ居酒屋での心を許した者同士の歓談と和やかな食事の光景から漂う安らぎを何度も思い返すところ(P189)(P274)や『悪鬼の牙』の主人公美保子と隣の住む大石とのぎこちない恋愛が結実する章「愛しい人」に見られる、誤解が瞬く間に溶解して、やがて抱擁に結び付く美しい場面(P185)などは、滑らかな語り口で何とも心地がよい。男女が擦れ違う甘くて切ない恋愛話が、田中さんの持ち味なのではないか。官能バイオレンスを数冊手掛けた後、性愛描写に力点を置いたサスペンスや愛欲譚に移っていったのは自然の流れなのかも知れない。今後は、是非官能抜きの純粋な恋愛物で勝負してほしい。
小田さんには失礼だが、千草さんと田中さんの小説を結び付けた真意が判らない。『レイプライダー 掠める』あたりを思い浮かべて発言したのかもしれないが、千草さんの復讐譚はどす黒い憎悪の噴出一色というよりも、裏に隠された切なくて愛おしい情感(悲恋の匂い)がそこはかとなく漂うことが多い。小田さんは千草さんの小説をあまり読んでいないような気がする。表層(バイオレンスという主題の上辺をなぞる)からは決して感じ取れない様々な奥深さが、物語の根底に潜んでいるのだ。蛇足だが、小田さんが『奇譚クラブの人々』(河出文庫〜以前書評で取り上げた)から抜粋して紹介している千草さんのペンネームの一つが乾正夫となっているが、これはWikipediaでも記されているように、“乾正人”の間違い(原本は正しく明記されている)である。