『蛇蝎』(千草忠夫著) 日本出版社

どんな本が私の心を揺さぶるのか、正直未だに判らない。年齢やその時置かれている環境によって、それは微妙に変化していくもののように思えるからだ。
本書を読む前に一読した、同じ千草さんの『贄の花(上・下)』は、完璧なまでに洗練された様式美を圧倒的な筆力で描き出していることは実感出来たが、最後までどうしても惹き付けられなかった。
永遠に叶えられることのない異母兄妹の偏奇な異形愛、地上で起こる座敷内の出来事をわざわざ地下牢に反響させるように丹念な細工を行なった悪魔的ともいえる巧妙な家作り、捕らえられた血の繋がらない母娘の驚くほど強固で深い信頼関係など、数え上げれば切がないほど隅々まで細やかな配慮が施されたこの古典劇は、読む側にピンと延びた緊張の糸を緩めたりすることを、一切許可しない独特の張り詰めた空気が満盈している。この息苦しいほどの切迫感は、本来なら効果的に働き、読者をいつしか甘美な幻想へと引き摺り込んで、二度と現実世界へ戻りたくなくなる魅惑の幻覚作用を引き起こすはずなのだが、この本を読んでいる間中、何故かいつも物語との間に一定の距離を保とうとしている自分を強く意識せざるを得なかった。おそらく、全編に張り巡らされた絶え間ない緊張感にいたたまれなくなったせいだと思う。
こんな時、ふとある映画が頭に浮かんだ。小林正樹監督の名作『切腹』だ。薄汚れた浪人が、由緒ある武家屋敷を訪れるところから物語は始まる。浪人は生活に困窮したので、屋敷の庭先を借りて武士らしく切腹して果てたいと言う。家老は庭先を汚すことになるので、小銭を渡して追う払うことを考えるが、過去に起きた忌まわしい切腹事件の話を聞かせて、自害を諦めさせるのが得策だと考える。だが、浪人は少しも後に引かない。逆に、死ぬ前にこのような境遇に置かれるようになった経緯を、まずは聞いてもらいたいと申し出る。浪人の口から語られたのは、以前の切腹事件の裏に隠された驚愕すべき事実だった。
この映画は、切腹という重苦しいしきたりを扱いながらも、幾度か差し挟まれる家族団欒の風景が心を和ませ、汗にまみれて強張った手の震えを一旦落ち着かせてくれる。この極度の緊張と緩和のバランスが絶妙で、物語に浸りきることに少しも違和感を覚えることがない。そう、『贄の花』には、癒しともいうべき弛緩の時間が、全くといっていいほど流れていないのだ。
狂気の兄を気遣う妹と家来(運転手)の日常会話に、ごく僅かに緊張が緩む家庭的な暖かいひと時が生れることもあるのだが、その平穏な空気も研ぎ澄まされた感情を常に撒き散らす兄の登場で、あっという間に消失してしまう。この何とも言えない不穏な緊張の連続を、極上の愉悦にまで昇華させることが出来る読み手もいると思うが、残念なことに私にはそれが出来なかった。そんなわだかまりを抱いたまま本書と向き合うことになった。
千草さんの書き下ろし長編である。雑誌掲載が多かった千草さんにしては珍しい部類の本だと感じたが、この時期には他にも数冊の書き下ろし長編が出版されていた。そのどれも水準が高いことに吃驚する。その中でも、『蒼眸の悪魔』(以前書評で扱った)『奔る牙』『レイプライダー 掠める』の三冊は私のお気に入りで、特に怨念を孕んだ凌辱が延々と続く『レイプライダー』は、世間との関わりを遮断した主人公の闇に包まれたような暗さが特に印象的だった。ライダー二人(主人公と相棒)が荒んで空虚な心を内に秘めて、ブルジョア家庭への憎悪を次第に募らせていくあたりは、自然にこちらを感情移入させてしまう不思議な魅力が潜んでいた。ドラマチックな展開が起らなくても、主人公に同化出来れば心地よい高揚感が得られることを実証した作品でもある。本書もその系列の一冊だ。惹き込まれるは、当然といえば当然か。
岩村という元警官だったデパートの警備員が、上流階級の淑女なをの万引き現場を捕まえるところから物語は始まる。なをの万引きはよくある女性の性的な欲求不満から来ているらしいのだが、男はそんな言い訳を聞き入れはしない。警備会社に報告せず、自宅に監禁して女の盗癖を止めさせるために、ヤキ(当然凌辱だ)を入れるというのだ。このあたりまでは、千草さんだけあってスピーディーで、息をもつかせない展開をみせるが、よくある凌辱物のパターンを脱しておらずいささか新鮮味に乏しい。
ただ、古びた自宅に夫人を監禁して、そこで幼い女学生(千草さん流にいえば、女高生ではない)さゆりが登場して、岩村とともになをの調教し出すところからドラマは意外なうねりを見せ始める。なをと同じ元万引き常習犯のさゆりは、岩村に調教された時と同様の行為をなをに実践しようと心待ちにしていたようなのだ。貴婦人を下層階級出身の女がいたぶるパターンは、千草作品ではお馴染みだが、今回は自分と同じ窃盗という性癖を抱えている人間を、意識を失くすほどの快楽地獄に陥れることで、逆に救いの手(盗癖治療)を差し延べようとする隠された裏側の同情心がほんの少しだが垣間見られるあたりがいつもとは違う。
そこで、突如本書の題名“蛇蝎”という言葉の意味が気になってきた。辞書には、「へびとさそり。人が恐れ嫌うもののたとえ。」とある。安易に捉えれば蛇は岩村、蠍はさゆりで、それに睨まれたなをは、差し詰め蛙といったところなのかとも思えたが、そう単純には括れないような様相を見せ始める。蛇と蠍に例えた二人は確かに一見怖そうに見えるのだが、身近な人間には意外な心配りをみせるのだ。その良い例が、岩村命名した不良仲間数人からなる「破愚連」の扱い方にみられる。岩村は自宅に集まるようになった彼らに「破愚連」という名のグループ名を付ける。岩村は集会の場で、その意味を訓示する。この命名の理由が何とも泣かせるので、長文だが引用してみたい。
「昔は若衆宿というもんがあって、一定の年齢に達するとそこに合宿生活をさせ、先輩が後輩にいろんなことを教えた。村のしきたりとか、長上に者に対する礼儀とか、炊飯洗濯掃除のやり方とか、女の扱い方、つまりセックスのやり方までな。そして同じ若衆宿に学んだグループを『連』、グループの一員を『連中』と呼んだんだ。連中という言葉は今でも使われているだろ?おれがこのグループに『破愚連』とつけたのにはいろんな意味がある。まずこれを縮めて読めば『はぐれ』だ。お前たちははぐれ者の集まりだ。それは認めるだろう?だが、そのまま読めば『はぐれん』つまり、『はぐれんぞ』と全く反対の意味になる。お前たちは一見はぐれ者のように見えるが、村を見捨てて町へ行っちまった者たちから見れば、まだはぐれ切ってはおらん。まだ、村に根を降ろしている。そこを言いたかったんだ。そして漢字をそのまま読んでみろ『破愚連』は『愚連ヲ破ル』と読める。つまり他の愚かな連中を破り、そんな連中を突き抜けて立派なグループに育つ、という意味になる。どうだ」
省略しようがないのでそのまま引いたが、何度呼んでも心に響く。このはぐれ者(さゆりも含めて)を見捨てない心を持ったものが、人が恐れ嫌うもの(蛇蝎)になれるのか、それは心優しいものがみせる単なる虚勢なのではないのか。ここではこれ以上あえて触れないが、上辺を取り繕う表面上の優しさ(親切心)がいかにあてにならないものかを証明しているように思えてならなかった。
やがて、岩村は地獄の巣窟の不思議な魔力に徐々に惹かれ始めたなをを「破愚連」にお披露目する時がやってくる。決して騒々しくはない静謐な輪姦なのだが、集合場所の情景が妙に気になるのだ。十畳あまりの大きな囲炉裏を切った部屋(近在では「おえ」と呼ぶらしい)で、囲炉裏には当然炎が上がり、土間と向き合った「おえ」の高い所には大きな神棚が吹き抜けの天井から吊ってある。神棚も吹き抜けに剥き出しになっている梁は黒くすすけ、炉の火で黒光りしている。輪姦現場を克明に記したのは、この状況がある昔の西洋の暗黒儀式を思い起こさせたからだ。
それは悪魔崇拝の集会サバトである。野外の闇は黒くすすけた梁がその役目を果たし、生贄を食す時にかかせない火は中央で焚き火として煌々と焚かれ、処女ではないが女神のような貴婦人が生贄として捧げられるあたりは、正にサタン崇拝の儀礼そのままだが、一点だけ違っている部分がある。祭られているのが、悪魔ではなく神棚なのである。もちろん、この座敷の持ち主だった岩村の両親か先祖の写真、あるいはお守りが飾られているだけなのだろうが、何とも奇妙な光景ではないか。あえて尊い神棚を残して汚濁に塗れた儀式を執り行う。これは神への冒涜か、はたまた挑戦なのか。
ここで行なわれる輪姦には、惨たらしさは微塵も感じられず、まだ完全に開花しきっていない神聖な獲物の本質を少しずつ探索していくための清廉な通過儀礼のように見える。それは、神への反逆行為というよりは、神棚に祭られているものが、世間から阻害されたはぐれ者の結束を、恰も称えているような錯覚さえ呼び起こす。
思わぬきっかけで、見知らぬ性の深淵を覗き見ることになったなをは、その後自宅に帰ることを許されるのだが、二週間目にどうしても我慢出来ずに岩村の家に舞い戻って来る。万引きの性癖が直った変わりに、自ら凌辱を求める欲望を抑えきれなくなったのだ。当然、岩村とさゆりには、なをにこの衝動が起きるのはとっくにお見通しだ。以前のようないたぶりを期待していたなをだったが、そこに待ち受けていたのは驚くような性具を使った汚辱行為だった。
その性具とは、数珠の切れ端のような形をしたアナル・ビーズだ。岩村が手にしたこのビーズは、大小の真珠色をしたガラス玉で、大きな玉は直径二センチ、小さい玉は直径一センチで、それが十センチあまりのテグスで連ねられている。私はこの手の行為に興味がないので、これが特殊な形状であるかどうかの判断が付かない。だが、このビーズが使われる場面を見ながら変な妄想に陥った。
小さな玉が、なをが今まで暮らしていた何不自由のない平穏な生活に見え、大きな玉が、今嵌りつつある性の快楽地獄と重なるのだ。ビーズの大小が交互に連なっているのは、蕾(菊花)への快感をより増長させるための仕掛けなのだろうが、私には交互に現れる玉が、これからのなをの二重生活を暗示しているように思えてならなかった。それはやがて、全て大きな玉(淫欲にまみれた生活)で埋め尽されないと満足出来ない身体になっていくのだろう。後半、ビーズではない異物を、岩村から挿入された際のなをの感覚を表した文章が、妙にリアルで素晴らしい。
「それは治りかけの柔らかなかさぶたをかぶった傷口の、あのやるせない甘い疼きに似ていなくもなかった。思い切り掻きむしりたい、だがそうすると痛みが返って来るかもしれなくてこわい」
これほど想像力を喚起させてやまない文章があっただろうか。アナル感覚に芽生えたなをの行く末には、一体どのような究極の昇天が待ち受けているか興味は尽きない。
全てを共有した安心感からか、さゆりはなをに奇妙な親近感を抱き始める。さゆりはなを「姐さん」とまで言うのだ。(それは破愚連にまで及ぶ)そんな偽母娘のような関係が築かれる中で、新たな獲物が捕まる。今度は万引き常習犯ではなく単に公園で拉致してきた女だ。幸子と名乗るこの美少女に対しての破愚連定番の儀式が始まるのだが、岩村のいない現場でも決して惨たらしい輪姦行為には及ばない。きちんとした手順を踏むのだ。アダムとイヴを引き合いに出しての体くらべといい、ここでもぎすぎすした緊迫感というよりはコミカルな空気が充満している。そう、彼らは狂犬のようにみえて実は本音は紀州犬のように従順な面を併せ持っている純粋な青年達なのだ。それを器用に操作しているのが、岩村とさゆりということになるのだろう。
ラストで、この少女と岩村の秘密の関係が暴露されるのだが、この悲惨な結果を招いた原因が途中で何度か挟まれる神棚を前に行なった涜神行為への天罰だとはどうして思えなかった。岩村の今までの横暴で我儘な生き方からすれば、この顛末を生き地獄と解釈するよりも最後に天が授けてくれた至福の瞬間とみるべきなのではないだろうか。岩村は蛇蝎から脱皮して一匹の生身の男(アダム)に返ったのだ。では、裏では優しさを携えながら、表で悪ぶるといった、逆説の定理を証明するような“蛇蝎”という魔物はこのまま消えてしまうのか。否!蛇はさゆりへ、蠍はなをへと新たな変貌を遂げて、その後も永遠に受け継がれていくことになる。
冒頭で触れた緊張と緩和のほどよい配合が、こんなにも心地良いものだったとは知らなかった。善行と悪行の交錯が醸し出す特異な妖気を、流麗な文体の狭間から感じ取ることの出来る至極の快作だ。
是非一読をお勧めする。

≪付記1≫
最終章の初めに、主人公なをが美少女幸子の凌辱現場を回想した部分が挟まれている。引用してみたい。
「暗黒の奈落の底に、ひ弱げな白い裸身が地獄の劫火に灼かれ苛責にのたうっている。その白い裸身にわらわらと群がりたがるのは地獄の牛頭馬頭か。どの牛頭馬頭も毛むくじゃらの股間から赤く燃える男根を屹立させ、苛責にのたうつ美少女の裸身のあらゆる開口めがけて突っ込もうと競い合っている―阿鼻、そして叫喚―」
小説の中ではこの場面は、上記の文章ほど壮絶で惨たらしい描写が成されているわけではない。何故悪魔の所業のような文体をあえてここで差し入れたのかは、やはり千草さんがサバトの儀式との二重写しを目論んだためだと解釈すべきではないだろうか。
それにしても、陰惨だがこの格調高い文体は一体どこから湧き上がってくるのだろう。官能小説のみに生きた千草さんが、もしこの文体を駆使して一般の悲恋小説を書いたなら、どのような形で散りゆく花を描いたであろうか。かなえられない望みだが、どうしても千草さんの恋愛物を読んでみたい衝動に駆られる。

≪付記2≫
千草忠夫の『愛奴淫縛』を読む。
本の神様も粋な計らいをしてくれる。付記1で、千草さんの恋愛物が読みたいと零していたところ、早速こんな物語と引き合わせてくれるのだから。何か運命的なものさえ感じる。本来なら書評で取り上げたいくらい心を打たれたが、如何せん話が短いせいか先を急いだ感が見受けられ、少々物足りなかったので、あえて付記として取り上げることにした。
三編からなる短編集だが、表題作が群を抜いて際立つ。
主人公は華麗に獲物を射止め、その後念入りに調教して売春組織「シャトオ」が催すオークションに出品する名うてのスレイブハンターだ。ニヒルダンディーだが、悪の匂いが全身から漂っているので、危険を察知する嗅覚を持った女からは敬遠されてしまうタイプだ。そんなハンターが金持ち娘に恋をする。いつもなら、独特の話術と強引な行動力で女をものにする冷酷な男が珍しく躊躇っていると、何故か会社の上司からその女からは手を引くようにとの指令が出される。理由は不明だ。盛り上がった高揚感を持て余したハンターは、その鬱憤を晴らすかのように、他の女へとターゲットに代えて壮絶な調教に励む。少々ストーリーを追い過ぎたきらいがあるが、この背景があっての悲恋なので許されたい。
主人公が、恋と仕事の間で悩む心情が綴られた箇所がある。引用しよう。
「守(主人公)としては、早川芳子(金持ち娘)の胸にも彼の面影が焼きついていたことだけで、満足しなければならないのであろう。スレイブハンターは即ラブハンターでなければならない。だが、今回の彼は、内在する二律背反に見舞われた上に、ラブハンターとしてさらにサチ子(娘の家のお手伝い)のごとき女にも裏切られてしまった。」
ハンターには恋は無用なのだが、恋する女に自分のことが僅かでも刻印されただけで満足している、何とも微笑ましい恋心が垣間見られて、不思議と感情移入してしまうのだ。やがて、他の男のところへ嫁いだ娘の初夜を想像して、怒りに狂わんばかりになりいささか情けない醜態まで見せはするが、恋する者の身勝手さなのだと自覚して、主人公は徐々に立ち直っていく。
金持ち娘の代替品となり、スレイブとして飼育される久美の健気なまでの献身ぶり、心憎い気配りをみせるボスの重厚な言葉の響きなど、まだまだ触れたいところは沢山あるのだが、付記なのでここら辺で切り上げたい。
第一章が少々おとなしい展開だったせいか、第二章は凄まじいまでの凌辱劇が炸裂する。可愛さ余って憎さ百倍といったところか。話は読んでのお楽しみだ。
一見儚い悲恋ドラマに見せかけて、最後には得意の愛欲劇の中へと巻き込んでいく。流石、千草さんだ。スレイブハンター沢田守の物語は、シリーズ化されなかったのだろうか。まだまだ、千草さんの短編は未読のものが多い(書籍化されていないものも多いらしい)ので真実は判らないが、この一編だけで幕を閉じるのは惜しい、極小の宝石を思わせる一品だ。

≪付記3≫
詫びなければならない。
付記2を記した後、この本をHP”ちぐさ文学館”で確認してみたところ、短編集『レイプ環礁』に掲載された「奴隷捕獲人」を、登場人物の名前を変えて抄録したものであることが判ったからだ。早速こちらに目を通してみた。
冒頭、イメージが湧かなかった物々しい建造物「シャトオ」の全体像がきちんと書き込まれ、雑な扱いに見えた久美(こちらでの名前は絵美)が従順なスレイブに調教されていく経緯が丹念に綴られている。(絵美を取り上げた第一章がまるまる削除されていた)金持ち娘が、決定的な別れを切り出す喫茶店での場面では、「ボスの言うとおり、やっぱり惚れていたのかな」と心の中で独白するハンターの気弱な面がみられ微笑ましい。
第三章で、ボスから闇情報をもらったハンターが帰り道に、別れを告げられた女に思いを馳せ、ふと頭に浮かべた詩の一節がまるまる削られている。心に染み入る言葉なので引用してみたい。
「白足袋の恋人にあったら。どんなに、はげしい思ひが燃えても。この湿った林の道では。そうっと、その胸をみださぬやうに。並んで行かうに。この深い緑には。どんなにその足袋がよく浮くことだろう。林の道かどに来たら。その口を仰向かせて。どんなにいらだって、目を燃やして。キスしてもやろう。 ・・・・・・・・・・」
このいささか甘い言い回しを胸に抱きながら、男は自らをユダ(裏切り者)になぞられて、キリスト(金持ち娘)に命がけの抱擁(キス)をすることを心に誓う。涙ぐましい決意表明だが、この決心を鈍らすような秘めた恋(芽生え始めた絵美への愛おしい気持ちとか)が潜んでいると、ハンターの苦悩がより際立ったように思える。
最後に僅かな不満を漏らしたが、本書には非情な男の恋の葛藤と女の悲しい性が随所に滲み出ている。
愛奴淫縛』よりも、断然こちらがお勧めだ。

≪付記4≫
千草忠夫の短編集『女高生嬲る』を読む。
全体的には安易な凌辱物の域を脱していない感があるが、僅かな一節がどうしても気にかかってしょうがなかった。『狂おしき慕情』の一文である。引いてみたい。
「捨ててやろうと決意したその果てに見えはじめたマゾ女の自己愛の強烈さが、それまで征服したと信じ切っていた自分を突き放したように思えたのだ。(この女は、おれが捨てても生きてゆける)」
毎日のように義姉を甚振っている弟の口から吐かれた、一見自分勝手で酷薄な言い回しとも受け止められるが、強姦した後にマゾの本性を曝け出した女の凄まじい性への執着を見ていれば、自分が調教したからこそ、ここまでの快楽を得られるようになったと考えるのはごく当たり前だ。
蘭光生結城彩雨・綺羅光などの凌辱系作家は、淑やかで物静かな女性が、自ら被虐の性を求める一匹の雌へと変貌していく様を克明に描写する際、いささかの疑問の余地を差し挟まなかった。中々言いなりにならない凛とした女性を徐々に追い詰めていく中で湧き起こる、主人公の嗜虐の喜びが読み手を刺激し、絶大な効果を発揮すると頑なに信じていたからだ。千草さんは、わざとこの効用を半減させるような独白(この女は、おれが捨てても生きてゆける)を男に呟かせる。マイナス思考へと赴く男の心情をあえて書き込み、読む側の性的興奮を冷まさせてまで、女の逞しさとしたたかさを潜ませたかったのではないか。
官能小説としては危険な冒険と知りつつ、あえてそこに踏み込んで性(愛)の深遠を探る。物語の破綻を恐れずに、アントニオーニの映画(主題は愛の不毛)にも通じる性の不条理に手を染めた、作家の気概を改めて感じずにはいられない。