鬱で凡愚なド外道のリハビリraki6104’s blog

日々の雑談を、余裕のある時に、できるだけ(´・ω・`)

再生への切っ掛け9(そして再生へ5)

 現在の教育現場の腐敗振りを象徴する問題の一つに、昨今の『虐め』によって自殺する子供たちが急増し、改めて教育現場でのその小役人根性丸出しの事なかれ主義が横行し、問題自体の隠蔽と先送りの教職関係者らの小役人体質が何ら問題を解決せず、また、それをバカみたいにむざむざ手をこまねいたまま最悪化させる事を、冷然とした現実として数多の事例が我々に物語っています。根本的に、その問題を解決しよう、という意思がそこには皆無なのですから、これは当たり前の事だ、といえるでしょう。

 ネットを彷徨っていると、何やらその教職員か、或いはその関係者らしき人々の声がときに垣間見れます。今回の教育機関での組織全般が関わっているだろうと思われる、その組織ぐるみの『履修偽装』や、続発する『虐め』の問題にしても、そもそもは世間、保護者らが望んだその結果である、というものです。これを見たとき、私は改めてこれらの問題のその根深さを思い知りました。彼ら、教職員とその関係者らには、明らかに職業的な専門家意識、或いは職業倫理に基づいた、いわゆるプロ意識が決定的にその根本から欠けているのです。ずばり、「ない」、といい切っても良いぐらいです。

 確かに、学校が受験に特化する事を望んだのは、学校に通う子供たちの親である保護者たちに他ならないでしょう。では、彼らは現在の学習指導要領と現実の受験との乖離を声を上げて問題にし、陽の当たる場所で問題点をすり合わせて問題を解決しようとせず、口を拭って違法に虚偽の報告を上位機関に提出し、問題自体を延々と隠蔽し続け悪化させた事も、その当の保護者たちの要望であったのでしょうか。同様に、『虐め』の問題にしてもそうです。実態を何ら報告せず隠蔽し続け、自殺者がここまで続発するまでに事態を悪化させた事も、やはり、当の保護者たちの要望であった、というのでしょうか。

 違うでしょう。現実の危急の問題に明確な問題意識を持ち、唯一その問題を上位機関に報告し、その上位機関に現状の解決や改善を求める事のできるのは、他ならない現場の教職員とその関係者に他ならないでしょう。他に誰が、これらの問題を上位機関に報告し、現状の改善や解決を求められるのでしょうか。では、仮にそんな存在がいるとして、では、教職員やその関係者の役割は何のためなのでしょう。授業だけのため、決まりきった仕事だけをこなすためだけなのでしょうか。たかがそれだけの仕事のために、我々は、この異常ともいえる厚遇と高い給与を払わせられているのでしょうか。

 まったく、あまりのそのアフォさ加減に、思わず、私はクラクラと目眩がしそうです(笑)。私が、彼ら教職関係者らのその自分勝手ないい分を目にしたとき、私は自らの認識が、とんでもなく、非常に甘過ぎた事を痛感させられました。学校という、閉じられた排他的な職場環境では、我々には想像できない、どんな想像をも遥かに超えた歪んだ論理が醸成され得る様です。何の事はありません。昨今問題となっている同和利権問題同様、彼ら教職関係者らも、脳内お花畑で自分勝手な歪んだ論理を弄んで、年がら年中ホルホルしていただけの話しです。

 単に教職関係者らが、現実に問題としてこれらの事柄に危急の問題意識を持ち、陽の当たる場所ですべて問題解決のすり合わせを行っていれば、今頃になって、これらの問題で上を下への騒ぎになどなってはいませんでした。現実に、彼らは今日も平然と、国会付近では連日教育基本法改正反対の座り込みをし、世界番長の邪魔のためにわざわざ各地で集会を開く余裕がありながら、彼らは、肝心のこれらの問題には一切音沙汰がありませんでした。教育のプロとして、その異常な厚遇と異常に高い給与を毎日ぬくぬくと享受しながら、彼らは、一切のその果たすべき義務を完璧なまでにすべてまるっと放棄し、繰り返されるバカみたいな虚偽報告と隠蔽によって、今そこにあった危急の問題をここまで悪化するまで放置し続けていたのです。

 まったく、そのあまりに次元の低いもののいいぐさには、徹頭徹尾、心底あきれ果てて、もう「アフォですか?」としかいい様がありません。もう、奴らのその耳元で、毎日四六時中連呼してやりたいぐらいです(溜め息)。教育再生と一口にはいいますが、もう、泣きたいぐらいに、それがどこまでも遠い遠ーい道筋である事を、今回私は心底痛感させられました。やはり、欠陥だらけの、いわゆる不良品教師、そしてクズ教職関係者たちを、一刻も早く教育機関から弾き出す体制作りが、今緊急で危急な問題であり課題である事を、私は今ひしひしと痛感しています。

 しかし残念ながら、今現在の国会ではその教育再生、教育改革のその象徴的存在として、まず教育基本法改正が連日話し合われてはいるのですが、野党の連中はまるっとまとめて、その法案の不成立に向けての時間稼ぎに執着し、無駄にしか過ぎない時間をドコまでも食い潰そうとしています。これについても、教育基本法を改正せずとも、今現在の数多の問題に個々に対応する事がかなう、とかいうアフォな声を聞きますが、では、野党各党はなぜ、そう声を大にして国会で叫ぼうとはしないのでしょうか。なぜならば、彼らにとっては、現在のこの腐り果てた教育機関には、例えどれほどの深刻危急な問題があろうと、己が利権のために、或いは一部特定勢力様の大事な指令のために、一切何も手を付けたくないからに他かなりません。

 だから、私は、『彼らはもう、この日本には必要ない』と幾度もいうのです。彼らの存在意義は、社会の『踏み台』として以外は、もう微塵もこの日本において存在しないのです。我々は、彼らのそのどこまでもあさましい、いわゆる『社会のクズ』としてのその在り様を明確に記憶し、更には後世に連綿と明確な記録として受け継ぎ、そして今現在の社会を彼らに対応させて変革させ、そして改革させて行かねばなりません。それは、今をこの日本国で生きる我々日本人としての務めであり、そして間違いなく我々が、他でもない我々日本人が履行すべき最低限の義務でもあります。難しい事ではありません。ただ、忘れる事なくこれら、『現実に起こった事を記憶し続けて』、そして、『成すべきときに成すべき事をを成す』事が、今、我々日本人には求められているのです。

 ふー、すっきり(笑)。いやあ、これじゃあオナヌーと変わらない、と、いわれても仕方ないのですが、あまりのその職業倫理に欠け過ぎた今日の日本における様々な現実に、いい加減「カッチーン」(笑)と来ましたので、思わず筆の赴くままに書き殴ってしまいました。いや、申し開きも御座いませんです、はいm(__)m。それと今回、一般的には「いじめ」を『虐め』とさせていただきました。勝谷氏のサイトで感銘を受け、今後もこれで通して行こう、と私は考えています。

 現実に『虐め』は、暴行、傷害、脅迫強要、強盗恐喝、窃盗、器物損壊、強制わいせつに侮辱などの刑法犯罪が伴う現実の犯罪行為です。その現実に即した形で、明確にその行為を我々が『虐め』と表現する事は、感じる字である漢字を使う民族として、これは至極当然の事だろう、と私も感じています。うーん、その『虐め』についてはもっとグダグダ述べようと考えていたのですが、今回また長くなりましたので、またいずれ別の機会に、とさせていただきます。っと、いう事で、ではm(__)m。