N-Cry ToolkitによるNexus4(Android4.3)のRoot化

 諸事情*1あってNexus4をRoot化せねばならなくなり、いくつか方法を調べてみました。その中でも特に扱い易かったのがN-Cry Toolkitというソフトウェアなのですが、このツールについて日本語の記事が殆ど無いようなので、ここにまとめておこうと思います。
 Nexus4のみならず、Nexus 7, Nexus 7 3G, Nexus 7 2013, Nexus 10を扱えるようです。また、Android4.3でもRoot化可能です。

・注意
 ブートローダーアンロックやカスタムリカバリ導入、カスタムROMの導入によって、メーカーの補償は一切きかなくなります。
また、作業中にデータが消えたり、端末が起動しなくなってしまったとしても、当方では一切責任は負えません。
全て自己責任で作業を行ってください。

・準備
 まず、必要なソフトウェアをダウンロードしましょう。

 N-Cry Toolkit本体
 リンク先からダウンロード出来ます。N-Cry Toolkit 3.*.* (.zip)を落としてきて解凍しましょう。
 Chainfires SuperSU
 あとで使います。解凍せずそのまま置いといてください。

・端末側の設定
 端末はUSBデバックモードにしてください。ケーブルでPCと繋いだら端末側の準備は終わりです。

・N-Cry Toolkitの起動
 解凍されたフォルダの中のNCry.exeを起動しましょう。初期設定だとドイツ語なので、真ん中下にある星条旗マークをクリックして英語にしてください。
 次にDriver Setupボタンをクリックして、ドライバーをインストールします。これでN-Cry側の準備も出来ました。

・BootLoaderのUnlock
 ブートローダーをアンロックしていない場合は、まずそれからやらねばなりません。ブートローダーをアンロックするとデータが全て消えるので、N-CryのBackup/Restoreメニューからバックアップしましょう。バックアップファイルの名前を入力して、Backupをクリックするだけです。
 次にBootloader Menuを選びます。ウィンドウが出てくるので、まずStart Fastbootをクリックします。端末側の画面が、ブートローダの画面に切り替わるはずです。メニューからUnlockを選び、Startをクリックするとブートローダーがアンロックされます。

・Root化
 いよいよRoot化です。まず先ほどダウンロードしたSuperSUのzipファイルをNexus4のストレージに入れてください。場所はどこでもいいですが、一番上の階層に入れておくのが楽かな。
 次にN-Cryのメニューの中からRecovery Menuを選びます。新しいウィンドウが開くので、Start Fastboot
 選択するところがあると思うので、Nexus4、Team Win Recovery Projectを選びます。Permanentにチェック。
 準備できたら、Startをクリックしましょう。端末の方にRoot化用のイメージが転送されます。終わったら端末が勝手に再起動すると思うので、一度電源を落とし、音量(-)ボタンを押したまま電源ボタンを長押しして起動してください。おなじみのFastBootモードで起動するはずです。
 音量ボタンで選択できるのでRecovery modeを選んだ状態で電源ボタンを押してください。すると見慣れない青い画面が出てきます。teamwinと書かれているやつ。それが出てきたら、Installを選択してください。ファイルを選ぶよう支持してくると思うので、ここで先程のSuperSuのZipファイルを選びましょう。後はSwipe to Confirm Flashと書かれた矢印をスワイプすればSupeSuがインストールされます。これでRoot化の手順は完了です。Rebootを選択してPower offにしてください。

 ここまでがRoot化の流れでした。全ての作業をGUIでやれるのでわかりやすいですし、必要な物が大抵同梱されているので面倒がないと思います。
 僕は面倒くさがりなので画像とか全然載せませんでしたが、気になる方は僕が参考にした動画を見ればイメージが湧くと思います。
 ちなみにアンテナピクト問題の解決はこちらの記事を参考にさせて頂きました。

 では皆様快適なNexusライフを。

*1:アンテナピクト問題

愛のスコール ことば味

雨が降っている。今日は少々肌寒く、昨夜、風呂あがりに飲む冷たい炭酸ジュース概念の誘惑に負けて買ったライチ味のスコールが、冷たい。美味しいけれども。
そういえばスコールって僕の生まれ故郷の街が原産だったな。と思い出す。パッケージの文字列を確認すると、確かにそうなっていて、遠く離れた2つの地点の現実を、あるやり方によって繋ぐ。強烈だ。
宮崎県都城市姫城町。だいたいその辺りが、少年時代の僕が過ごした場所だということになっている。

雨が降っている、とはどういうことだろう。そりゃあ、空から雨と呼ばれる水滴が落下してくる、そういう気象現象だろうとか説明されるだろうけども、雨が降っているという記述の射程は、通常意識されるよりも曖昧だ。どのように雨が降っているのか、どこで降っているのか。とか。別に語られる必要もない情報かもしれないけども。

そういう、雨の降る様子が、完全に記述されるということがありうるだろうか。それは、その一帯に存在する物質の流れが、全て書かれた時だろうか。もしそうだとして、その時、雨が降っているという記述は、何か意味を持ちうるのだろうか。全てがミクロのスケールから説明されきってなお、雨が降っていると語ることの本質は。

P ∨ ¬P
排中律。当たり前のように思われるこの論理は、数学的直観主義においては、認められないものとされる。無限というものがこの宇宙に予め用意されており、それを人類は部分的に認識しているのだとする実在論的な考えを退け、無限とは、際限なき作業の果てに可能的に、構成的に開かれているものにすぎないと考えるのだ。直観主義では、Pが成り立つことと¬Pが成り立つことが、無限を形式的に満たしていると、自明に言うことは出来ない。
それならば、きっとラッセルのパラドックスだって、それを生じさせる土台から切って捨てることが出来るのではないかと、ブラウワーなんかは考えたのでは、と僕は想像する。天才の胸の内を推察するなんて、凡人の僕にはちょっとね、と笑ってみる。

ところで、命題Pが成立しているとは、どういうことだろう。
命題P。
今は、雨が降っていない。
僕らに論理を、有用な形で与えたのは、きっと雨が降っていることを、雨が降っていることと切り出してくる抽象化とかいう作業だろうと、僕は思う。それは、言葉だ。
つまり、ある事態が成立するという時、ある事態は言葉の上に成立していて、その他の場所では決してあり得ない。だって、それなら雨が降る様子を原子のレベルでとうとうと語れば済む話なのだから。だから、事態Aの成立または事態Aの不成立が常に成り立つ、なんていう言説が、文字通り言語の世界にしかあり得なくて、現実の事象と対応するものではないのだとここでは言えるから、宇宙を支える象は、それを支える亀ごとひっくり返るのではないかしらと思ってみたりする。

すべての誤謬の根源は、存在と非存在が、たった二つで無限を満たそうと目論んだことなのではないだろうかと妄想をふくらませる。
僕はここにいる。生きているとか、考えているとか、そういうのでなくて、ここにいる。存在する。
このことが、一つの現実であり、同時にある抽象命題としても語られうるような、奇妙な構造をしているように思われること。意識には、大きさがないということ。雨が降っている、とは決定的に違う何かとして成立していること。
人間の自意識が、言葉と世界をつなぐような構造をとっている、もしくは必然的にそうならざるを得なかっただろうことが、あらゆる間違いの始まりだったのではないだろうか。

結局、なにもかもその辺のお話に放り投げることが出来るのでは、と、面倒くさくなった僕はこのお話ごと合わせ鏡の向こうに放り投げる。
僕ごときが考えて何になるのだろうと、僕のまともな部分がうるさいから。ゴミのような成績とったくせに。
やめよう、頭がわるいのは分かっている。そんなのはわかった上で書きたいことを書くくらい許されてもいい。

人間に与えられた物語が、帯に短く襷に長かったことは悲劇だけれども、物理法則くらいは、人間の知らないところで整合性を保っていてくれていると信じている。
だから、人はそろそろ、話すのをやめて石ころを投げ合うのが良いのではないかなと、これが僕からの提案である。

いつの間にかスコールが温くなってしまっていた。やっぱり、温くなるのは素粒子じゃなくて、スコールだよなあと、一気に飲み干す。ふぅ、おいしい。

意味は探してください。

締め切り間際に開き直ってぐちゃぐちょと書き連ねた文章が、見る角度によってはそこそこに見られたものだったので、それに味をしめた僕は特に何も考えずに書き始めてみる。皆さん、心してご覧になるよう。(いろんな角度を試しながら)
という書き出しで始まったこの文章なのだけれどもこの書き出しの信ぴょう性はいかほどなのでしょうかね、僕にはよくわかりません。(ああ便利かな入れ子構造に丸投げするメソッド)キーボードの上を猫が駆け回っていて、まあその猫は文法というものを心得ているのでまあなんとか読める文章を書きはするのですけど意味があるかは運次第。これがシェークスピアでないことはほぼ確かなんですけど僕は読んだことが無いのでまさかという事もありえます。ええと、シェークスピアってこんなのじゃないですよね?

ふぅ。

まああれだ、ちらちらとインターネッツで有名な方々のブログなりなんなりを読みながら考えたこととして、そもそもなんでこんな文章書こうと思ったのかなー、というのがあって、個人的な必要に迫られて書かれたものよりも、題材の選択に恣意性のがある文章(幸せとは何かメンヘラの人と話したのだけど、みたいなの)のほうが面白いとされたり共感されたりする(これは皮肉)のかなあとか感じ、でも今の僕はそういうのが苦手なので、文字通り手当たりしだいにキーを叩いてみているという次第です。特に面白くなりませんでしたけれども。
今更生きる意味とか幸せになる方法とか書けませんよ。そういうものはもうとっくの昔に諦めてしまっていて、何が書かれているものを読んでも、それは局所的に正しいだけだとか、本質的でなさを感じるだとか、そもそもはじめから間違ってるのではとか思ってしまうようになってしまっているのです。中学生の僕を思い出して最も痛々しいのがそこで、なにか形がほしいとか承認されたいというような理由で、言語で構成された虚構を生成し悦に入っていたに過ぎないのです。話されたものに普遍的なものなどありえないのに。記述可能なものは、決して全てではありえなくて、部分を切り取ったものでなければならないのです。

嘘がつけなくなってしまった。嘘をつき続けるのが難しくなってしまった。
嘘だけど、って言いたいのに。

これからの僕が、何かを記述するとするなら、それは自分の心情を添付した叙事文に徹することになるのではという予感がしています。(要は日記)それは、僕の知っているある人がそうしているのと同じ理由によるのかもしれません。(違うかもしれません。でも、そうなら少し素敵だし切ない)
そしてそれを避けようと思うなら、今書いているみたいに、意味なし冗句に逃げるほかない。僕は何も書いていないのだと信じながら、書かれる可能性がはじめから存在した記述を、偶然の先から拾い上げてくるようなものを書くしかないのです。僕にとって何の意味もない事を僕が心底了解した思考が、誰かにとって意味を持つことを祈るしかないのだ。それも自己犠牲でなとなく、承認欲と人を見下す錯綜した目線の果てに。

馬鹿みたいなことを書くつもりで、阿呆なことを書いてしまった。

にゃっか意味なしにゅーん

五角形の話

私は五角形である。5つの頂点と辺を持つ多角形の総称だ。書いたことのある人も多いと思う。見たことのない人はほとんど皆無であろう。図形界ではちょっとした有名形だと自負している。
ところで、私があなた方の前に姿を表わすのはこれが初めてである。物理的な世界に私を表記するのは難しく、あなた方は私を字面の上で知っているに過ぎない。あなたは直線を書けないし、そこから幅を除くことなどもっての外だ。過ぎないと言えどそれは私の本質であり、不完全とはいえ私にアクセスすることを可能にした言葉という網の目を、私はそれなりに評価している。
日々の私は、気ままに形を変えて生活している。辺を一つだけやたらと伸ばしてみたり、一内角を180度にとって四角形の真似事してみることもある。角が一つ減っているのだからそれは五角形ではないなどと言われそうだが、五角形であるという自覚を忘れない限り特に問題はないらしく、その辺の仕組みは私にもよくわかっていない。何処か遠くで定められている定義の問題ではないかと思うが、私の知るよしではない。同様にご近所さんであるところの四角形が五角形でない理由も辺りに転がっているのだろう。内角をすべて108度にそろえて、正五角形となってみることもあるが、堅苦しいのであまり好きではない。むしろ各角を思い切り伸ばして直線様になるのが好みだ。人が伸びをするのと似たようなものと想像してもらえるとありがたい。
またあるときは、1〜4個の頂点を他のものと比べうんと近づけることでシェイプアップを図ることもある。この時も私は四角形や、それ以下の図形っぽくなるのだが、やはり内角の和は540度のままだ。不思議なように思われるし、至極当然のように思われもする。無限に近づいてゆく頂点の間に生じる角が、いったいどのくらいの大きさを持つのかについては、私にはよくわかっていない。誰か暇な人が考えてもらえれば良いように思う。
ところで私大きさはない。比較される相手が何処にもいないから。違う次元に何か尺度を必要とするようでは、5つの頂点と辺を持つ多角形であるところを私の真髄を満たさない。広さはないが、長さはあり、角度があり、まっすぐな線がある。それが私の住む世界の概観ということになる。
もう少し話を続けたいところだが、最近知り合った円という図形とこのあと会う約束をしていて、そちらへゆかなくてはならない。私が初めて出会う類の形であって、あちらの地平からやってきたらしい。彼を形作る曲線という概念が私には捉えづらく、未だ私は、奴が相当角の多い多角形の一種ではないかと疑っている。今日のところはひとまず、内角の和を聞いてみるつもりだ。
ではまた会おう。あなた方がいつの日か私そのものを書き表すことを祈っている。まずは紙面を塗り分けてその境界を辺としてみては如何か。

村人Aの憂鬱。

サークル終わって、満員電車に締め上げられながら帰ってきて、敷きっぱなしになっていたお布団にぼてんと倒れる。そのままぐてんと寝返りを打って、30秒くらい目を瞑って鋭気ゲージをチャージ、そいやっといっきに上体を起こす。これに失敗するとそのままグダグダが続いて、特に何かをしたわけでもないのに睡眠時間が足りない、なんてかなしい事態になりかねないから、気の抜けない勝負の瞬間である。幸い、今日のぼくはそれに勝利して、着替えとタオルをひっつかんでお風呂へゆく。しゃわびるのだー。
早いうちにお風呂を済ませておくと、単調減少してゆくことが経験的に知られているぼくの元気が、身体を清めるのに十分なエネルギィの閾値を割ってしまい、その割にそのまま寝るのもなんか嫌なぼくが不慮の夜更かしをしてしまうということが減るのだ。かなしい学習の成果である。かなしい。
シャワーで身体をあたためつつ、頭をわしゃわしゃと洗いながらぼーっとしていると、呼びもしないのにいろいろな考え事がふつふつと頭の中で沸き立つ。考えたくないことを考えてしまうって、自意識なんていう虚像が虚像にすぎないことの明らかな傍証になると思うのだけど、いまいちみんな指摘しない。ぼくの脳みそがいうこと聞いてくれないんですよーって、その脳みそが絞りだすぼくが憤っているの、ちゃんちゃらおかしいことのように思うのだけどー。んー、言うまでもないことだからだろうか、もしかしてぼくは周回遅れだったりする?とかなんとか。そんなこと考える暇あったら、人工社会のモデル作りとか、サッカーのレポート書かなきゃとか、正しい部分のぼくが指摘するのだけど、あまり効果があったためしはない。ぼくは小さい頃から、自意識ってやつが怖くて、いや、誰もが自然を自然なものとして受け入れているってのが恐ろしくって、だからこういう考え事は全てに優先してしまう。恐怖は、命に直結するから、太古の昔から。あ、これ皮肉だ。ふふん。なんていうのかな、ぼくはひょんなことから自意識の裏の顔を知ってしまって、みんなにこいつは実は危ういやつなんだぞって警告するのだけど、みんなは、またまたーそんなことあるわけ無いじゃんって笑って受け流す、そんな綱渡りみたいな怖さ。胃がきゅるきゅるとする。ちなみにここで言うみんなはしあわせな方のぼくのことなので、勘違いしないように。
そんなだから、ぼくだけは不幸なまんま、しあわせなぼくたちを救い出してやらなきゃって孤軍奮闘を続ける。このふしあわせさが消えたら、ぼくはおしまいなんだって、そうであって欲しいと願っているかのように、アラートを鳴らし続ける。何をやってるんだろう、こんなことに意味はあるのか、なんて戯言は、無視。それが奴らのやり口だから。そういう次元のお話ではないのだ。
いつの間にか、ぼくはシャワーを終えて、寝間着を着て、髪をかわかしている。ドライヤーの熱風が、ぼくの頭を冷やす。そういえば、1兆度の火球を2千度の溶岩が冷ますって、事象としては正しいけどなんかおかしいよね。直感なんてその程度のものにすぎないというだけのことなのだけど。
生きるのに十分なだけのロジックを与えられて、世界の中に放り込まれたぼくらが、世界の外にいてどのくらい理性的であれるのか。迷路を解くためだけに作られたロボットが、迷路の外に何を解くのか。ぼくにはよくわからないけど。
まあ今のところは、レポート書かなきゃ。
ではまた。

いつの間にか前回、物語らしきものを書いてみてからひと月以上たっていました。ねこせん氏にスタァを戴いたの嬉しくてきっと書き上げようと目論んでいたのに。月日が立つのは早いなあ。(強引なまとめ

僕がなにか文章を書こうと思う時、それはある一つの壮大な文字列の一部分が、そこにあるべくしてあるような完全の形として想定されていて、構築されていて、しかし僕自身は文字列全体を想像していない、というような状態なのであって、それはつまり自分なりに考えたステキ文章が、それさえ文字として出力されればその他文章全体は自然に演繹してくれるだろう(部分が全体に一意に規定されるような完璧文章なのだから当然である!)という確固たる妄想の産物なのだけど、まあ現実はそう甘くないようです。(ところで現実とはなんぞや。甘くないものの集合だろうか。いやいや。

まあ何かを描くにせよ書くにせよ作るにせよ、頭の中では歴史に名を残す超大作になるはずだったもたちが、いざ出力し見返してみると案外面白くなくて、また作業しているうちは楽しかったものが、やりかけで中断し一晩寝ると、続きを再開する気に微塵もなれなくなっていて、ということは(少なくとも僕の)世の常であって、いかにそれを克服するかというのが当面の課題(もしくは人生の課題)となりそうではあります。おそらく、やりたいことを何処かでやらねばならないことに偽装するような手順が必要なのだと思います。僕の人生は有限なのだとか、続きを待ってくれている人がいるとか(それはないかなあ)そういう風に自分を追い込んで、追い込まれた自分と追い込んだ自分とのぐるぐる追っかけっこが、自分の内側において実行されるということ、それが自分の意図したことであるように意図すること、その辺がなにかやってくれるのでは、とか期待しています。祈っています。

最近半年くらいの僕の考え事はずっと、「思いつけないことは思いつけない」というひとことに支配されています。発端はまたまた円城塔なのだけど。
思いついていない事柄を意図して思いつけない以上、着想という概念は自意識のあちら側の出来事になるわけで、僕らの自意識が干渉できるのは、思いつく土台を整備してやること、自己の内外に環境を用意しやることのみとなるのだけど、そうしようと思うこと自体が、僕が思いつかなかった思いつきによって成っているということ。自分の傾向なるパラメータが僕の外にあること。(きっとサイコロだって考えている。)これは決定論的に世界は作動していて、そこに生じた意識が自由を幻視しているとかそういうお話とは若干異なっています。確率に支配された、場合の数的自由が約束された世界であっても、自意識の認識の範囲においてその自由幅は意味を持たなくなるという意味合いにおいて。僕らは不自由を認識させられている。不自由であることを選択させられている。そんなことをつらつらと考えています。考えさせられているのかもしれません。そして、そんな世界に自意識が生じる必然性は全くもってなかったはずなのに、そんな幻が生じている理由、その先に、この世界の束縛を受けない、外側からやってくる偶然としての魂の存在を希求したりするわけです。

あう、読み手を想定した文章の気持ち悪さよ。