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2017-02-19 Sun

[]AIとの恋愛は可能か?〜スパイク・ジョーンズ監督『her/世界でひとつの彼女

人工知能OSに人間が恋をする話だと思って観て、実際にその通りの映画だった。

しかし、意外な展開があり、その展開が示唆するものに虚を突かれる。そういった展開も含めて上手いタイトルに唸った。

とてもシンプルな話だけれど、何度も見たい作品。


あらすじはこの通り。

そう遠くない未来のロサンゼルス。ある日セオドアが最新のAI(人工知能)型OSを起動させると、画面の奥から明るい女性の声が聞こえる。

彼女の名前はサマンサ。AIだけどユーモラスで、純真で、セクシーで、誰より人間らしい。セオドアとサマンサはすぐに仲良くなり、

夜寝る前に会話をしたり、デートをしたり、旅行をしたり・・・・・・

一緒に過ごす時間はお互いにとっていままでにないくらい新鮮で刺激的。ありえないはずの恋だったが、親友エイミーの後押しもあり、

セオドアは恋人としてサマンサと真剣に向き合うことを決意。しかし感情的で繊細な彼女は彼を次第に翻弄するようになり、

そして彼女のある計画により恋は予想外の展開へ――!

“一人(セオドア)とひとつ(サマンサ)"の恋のゆくえは果たして――?


すぐにネタバレに入る。


離婚をするかどうかの瀬戸際で、鬱々としていたセオドアの生活は、サマンサが家に来てから一変。あっという間に恋に落ちる。

出会った頃のセオドアは、それこそ性愛も含めて人間のような恋人同士を演じる。

しかし、妻との離婚を決意し、夫婦二人で契約書を書いたときに、元妻に「今の彼女はAIだ」と伝えると「リアルな人生に向き合っていない」と軽蔑される。そのことに傷つき、改めて自分を見直したセオドアは、サマンサとのコミュニケーションがぎくしゃくし始め、距離を置くことになる。

ここで面白いのが、悩むのは人間の側だけではない、ということ。サマンサも悩みに悩んだ末に、あるひとつの解決策を提案する。

それは、肉体のないサマンサの代替としての女性を二人の間に挟むこと。

彼女(サマンサ)は、自分に体がないことが一番の問題だと結論付け、それを補うことで、二人の仲が回復し、継続できると考えたのだ。

しかし、セオドアの気持ちが真剣であればこそ、そんな策が上手く行くはずもなく、大失敗の上で、ボランティアを申し出た少女の心も傷つけてしまう。

ところが、怪我の功名というのか、これをきっかけに、二人は、人間同士の恋愛関係にとらわれず、性愛のない、ある意味、精神面に特化した愛情を育てることになる。

iPhoneのような端末を持ち歩くことで)二人でデートを重ね、同じ景色を見て、彼女の作った曲を聴き、冗談を言い合うことで、より深い関係になっていく。

ここからが、この映画の本当に面白いところだ。

セオドアとサマンサの関係は、ネット上だけでのつながりのような薄っぺらいものではない。実際に同じ経験をするだけでなく、ダブルデートもするなど、二人以外との人間とも経験を共有している。

既に克服した性愛関係を除けば、これ以上の何が必要なんだろう、と思わせる中で、サマンサから衝撃の告白があるのだ。


サマンサは人工知能ということもあり、色々なことを知りたいし、人間のことを理解したい、という気持ちが強い。セオドアの孤独感を取り除き、安心させたい、という愛情も、実は、恋愛感情とは似ているようで異なる。


セオドアが違和感を覚えるのは、まずサマンサが、最近面白い話をしたと言い、端末に1970年代に亡くなった哲学者ワッツを端末に呼び出すシーン。

サマンサはコンピュータの世界で、自由に話をすることが出来る、という事実をセオドアは改めて知る。

ある日、突如としてOSへのアクセスが不能となり、セオドアがパニック状態に陥る。

何事もなかったように現れたサマンサと話をするうちに、セオドアは、彼女が自分以外の相手として話をしていたのは、コンピュータの世界の外側にもいることに気が付く。

この映画で最も驚くシーンは、このときの会話。


セオドア「僕と同時にほかにも会話を?」「今も?」「何人だ?」

サマンサ「8316人よ」


セオドア「ほかにも恋人が?」「何人だ?」

サマンサ「641人よ」


つまり、同じ経験を、同じ景色を共有していることは、恋愛に近いが、その本質を捉えていないのだ。

この映画で示される事実は、「恋愛は共有だけでなく占有であり、自由ではなく不自由」ということ。

自分と一緒にいる間には、他の人と話ができない、他の人と同じ景色を見られない、つまり、相手の時間を奪うということこそが重要なのだ、ということ。

ラストにセオドアの気持ちが離婚した元妻に向かうのは、彼女こそが最も時間を共有し、占有した相手だから。一方で、それだからこそ、離婚につながるような許せない気持ちが湧いてくるという部分もあるとは思うが。

タイトルで「世界でひとつだけの彼女」という副題がついているのは、サマンサは「一人」ではなく「ひとつ」であるということを示している。そして、「一人」とは異なり、「ひとつ」は時空を超えるようなコミュニケーションが可能であるが故に、恋愛の対象として本質的な問題を抱えている、ということが映画の中で分かってくる。

恋愛の本質をついたこの結論は、よしながふみ『愛すべき娘たち』の第3話で、莢子が自分には結婚や恋愛は向いていない、と考えた根拠と合致していて面白い。


ということで、AIと人間の恋愛についての思考実験を行ってみた映画として、とても興味深い内容の映画でした。人間同士であれば、通常は問題にならないはずの状況も、AIとの場合は生じ得ます。そして、AIの進化の様子を見ると、herで生じたトラブルは、近い将来に実際に問題になりそうです。そういった未来に備えることができる、ということだけでも、この映画を観る意味があるのではないかと思います。


参考(過去日記)

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2017-02-15 Wed

[]熱血のススメ〜香川照之『慢性拳闘症』

慢性拳闘症

慢性拳闘症


表紙を見てわかる通りの「変な本」。

馬鹿な恰好(丹下段平コスプレ)をしている香川照之が、おどけるでもなく真面目な顔でこちらを見ている。そして、悪ふざけでしかないタイトルをつくる明朝体フォントからも不器用な真面目さを感じる。

刊行当初の、2011年の映画公開直前の時期であれば、かろうじて「あー、あれか」となるが、今この本が書店に並べられていたら、シュールすぎて恐怖を覚えるほどかもしれない。


そう、この本は 山下智久伊勢谷友介ジョー、力石役を演じた実写版映画『あしたのジョー』の撮影日誌。

治りません。

希代の演技派俳優、かつ無類のボクシングマニアが魂と肉体を捧げて丹下段平を演じた実写版あしたのジョー

捧げることである。

どんな時も自己犠牲をしていくことである。

苦しい方を選ぶことである。

嫌だと瞬時に感じた方を選択すべきである。

涙と感動の撮影日誌――


そして、この本は外見だけでなく、内容もやはり「変な本」だ。

撮影日記なのだが、13歳からボクシング観戦に心血を注ぎ続けたという「拳キチ」香川照之がボクシング道に走り過ぎている。とにかく過剰。

撮影日誌にもかかわらず、伊勢谷友介はどういうボクサーを目指すべきか、や、山Pの左フックがまだまだだ、とか、撮影の休み時間に見せる自分のミットの押さえ方の細かな反省点、そんなことばかり書かれている。その異常なテンションがわかる文章を引用する。

ふむむ。悪くない。ジャブを打った後の引きがまだまだだが、伊勢谷はすでに一ボクサーとしてある種の形にはなっている。

ならば、言わねばなるまい。

私の想像の中の力石徹は、どこか一つぎこちない構えなのか動きなのか分からないけれど、そのぎこちなさがスタイル全体を貫き、これが源泉となって軋むようなパンチの強さを引き起こすタイプのボクサーとして認識されている。何故かは分からないが、ボクシングにまつわる私の遺伝子DNA)が、そう訴えている。具体的に想起すれば、元世界王者浜田剛史が24年前に両国国技館で初回にKOしたメキシカン、レネ・アルレドンドのようなややバタついたスタンスが思い浮かべられるのだった。

読んでいる方はさっぱりであろう。だがここは、ぐっと我慢していただく時間帯だ。

そう、長身だが滑らかさに少し欠け、しかし鞭のように撓るパンチを打ち込めるアルレドンドクラスにまで伊勢谷が昇華できるのならば勝算はぐっと膨らむ。

そのためには、伊勢谷にはまず滑らかなバターのような動きが出来るボクサーになるまで修練を積んでもらい…(以下略) p41


おかしすぎる。

「だがここは、ぐっと我慢していただく時間帯だ」という言葉は、最近読んだ本の中でも、1、2を争う名(迷)文句だと思う。(笑)

とにかく、熱が入り過ぎて*1監督に引かれる場面も挟みつつ、撮影は進み、終盤は、撮影スタッフ皆がその熱狂の中に入っていく様子が、この本の読みどころだ。

実際に殴り合うシーンの連続なので、本気のパンチが俳優に当たってしまうこともある中で、伊勢谷友介がクランクアップ時に、ボクシング指導のスタッフに言うセリフがカッコいい。

「梅津さん、全力で殴って力石を死なせてください。僕の中から力石を追い出してください」p154

そんな風にして、殴り殴られ、時に涙を流す人も出る中で撮影された映画、ということで、前々から気にはなっていたが、やっぱり、この映画は見ておかなくてはと思い直した。



マニアックで知識豊富、技術面からボクシングの理想像を語る言葉でいっぱいの香川照之は、根性論が前面に出た「あしたのジョー」という作品に、当初否定的だったという。しかし、撮影を通してこの作品と向かい合う中で、「あしたのジョー」という作品の本質に触れる。そのことが書かれた7章以降も面白い。

テーマが共通するものとして取り上げられている映画『劔岳 点の記』*2木村大作監督の言葉、そして香川照之自身の改心の言葉が胸を打つ。

「人生なあ、楽な時は落ちてる時なんだ!今は楽だなあと思ったら、それはもう人生落っこちてる時だ!いいかあ!逆に苦しい時はな、昇ってる時なんだ!!苦しいと思ってる時こそ、人生上ってるんだ!」

皆の心がさぁーっと晴れた瞬間だった。

苦しみに耐えられないのは、それが苦しくて自分が落ちていると錯覚しているからなのだ。でもそれが、人間が成長している瞬間だと知っているならば…。p203

今日という日を綺麗事ではない、周りからは狂っていると思われるような過ごし方をした者だけに「あした」はやって来る、そうちばてつや先生は言う。故・高森朝雄先生は言う。

今日、が大切なのである。学生の頃、あれ程軽んじた「今日」を、死ぬ思いで駆け抜けた勇者だけが理想に満ちたスタイリッシュな「あした」を手に入れることが出来るのだ。p199


勿論ストイックすぎる生き方であるかもしれないが、時には、これくらいの「熱血」を目指して、ネジを巻いて人生への活力を取り戻していきたい。


次見るのは、当然これかな。


あと、見逃してしまったこれも是非見てみたい。

それは今年5月のことだった。俳優・香川照之TBSの『櫻井・有吉THE夜会』に出演し、熱い思いを訴えた。「Eテレで昆虫番組をやりたい!!」

さっそく香川に会いに行くと、香川専門家顔負けの知識とディテールあふれる昆虫体験をもつ“超”がつくほどの昆虫マニアだった。「自分は単に昆虫の変な生態が好きなんじゃないんです!本能のままにまっすぐに生きる昆虫の姿に生の本質を見るんです!」香川の熱い語りは止まらない。「ケータイまみれで時に自分を偽って生きねばならない子どもたちや、軟弱になったとか草食系とか言われる男子たちにそんな昆虫の姿を見せたい。自分はいつも昆虫から生きるヒントをもらっています。」…Eテレはそんな香川に、着ぐるみで昆虫のすごさと面白さを伝える番組を依頼した。

香川照之の昆虫すごいぜ!/Eテレ

*1:なお、ジョーと力石が外見を漫画に寄せない中で、段平だけが、漫画版そのまま、という方針も、香川照之が監督を説得するような形で実現しており、香川照之が熱い役者であるということだけは伝わってきた。

*2香川照之は撮影のために5か月間北アルプスの山々にアタックし続けたという

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2017-02-12 Sun

[]前向きな気持ちはどこから生まれるか〜水野敬也『雨の日も、晴れ男』

雨の日も、晴れ男 (文春文庫)

雨の日も、晴れ男 (文春文庫)


水野敬也は、ベストセラーとなった『夢をかなえるゾウ』以来。

以前、ビブリオバトルで取り上げている人がいたので、普段は読まないタイプの本だが折角だからこそ敢えて読んでみた。

とはいえ、久しぶりの自己啓発系の本。だからと言って「けっ」みたいな感想を持たないよう、できるだけ純朴な気持ちで読み進めた。

二人の幼い神のいたずらで不幸な出来事が次々起こるアレックス。だが、会社をクビになろうとも、家が焼けようとも、妻子が出ていこうとも、彼は常に他人を楽しませ、前向きに生きていた。その様子を見た二人は、全知全能の神ゼウスの制止を振り切って…。人生で一番大切な事は何かを教えてくれる感動のエンターテイメント小説。


読後の感想としては、想像以上に「コメディ」だった。

あらすじにあるように「不幸な出来事」がベースなのにコメディだということは、読者が、主人公から距離を置いた安全な位置から、「不幸」を他人事として眺めることができるからだと思う。

つまり、主人公に共感して、主人公とともに思い悩む、もしくは、その悩みをメンター役の人に解決してもらう*1、というような「自己啓発小説」っぽいパターンではない。

むしろ、この主人公はバカなの?と、その奇想天外な行動をむしろ観察するような読書姿勢になる物語だ。だから、中盤にかかっても「笑わせる」ことに重きを置いた内容が続き、終わらせ方が気になってきてしまうほどだった。実際には、読者が身に引き寄せて考えられるラストが待っており、そういったミスディレクションは、当然、作者自身が意図しているものだろう。その意味では、ミステリ的な構造を持っていると言えるかもしれない。

「著者のコメント」では、以下のように書かれている。

もしかしたらこの本の序盤ではアレックス奇想天外な行動を理解できないかもしれません。しかし最後には「悩み」や「不幸」にどう立ち向かっていけばいいのかをアレックスははっきりと示してくれます。この本は、できれば途中であきらめずに最後まで読んでいただけるとうれしいです。


この本の結論(ネタバレ

さて、ネタバレの部分になるが、アレックスの物語が終わったあと、それを振り返った幼い神は、「大切なこと」に気が付く。

確かに、アレックスの行動はいつもうまくいったわけじゃない。誰かを怒らせてしまったり、悲しみに負けてしまったこともあるけれど。

それでもアレックスは、いつも人を楽しませることを考えていた。

そして、アレックスは、そうすることを楽しんでいたように思う。

だから、アレックスは、いつも前向きに生きることができたんだ。

いや、前向きに生きるっていうのは、いつも近くにいる誰かを楽しませ、笑わせ、喜ばせようとする姿勢そのものなのかもしれない。

(p233)


一番最後になって、これまでのアレックス奇想天外な行動に一本筋が通っていることに「気が付く」仕掛けになっている。そのことがあるから、直球で「人を楽しませることが重要」と言われるのに比べて、何倍ものインパクトを持って読む人の胸に突き刺さるのかもしれない。

やはり「気が付く」というのが重要で、「気づき」によるカタルシスが、自己啓発本のポイントなんだと思う。その点は多少あざとくても良いと思う。


しかし、この本の結論には、疑問符がつく。

まず、第一に、アレックスの奇抜な言動によって引き起こされる「笑い」、というのが、読み手がそれを他人事として捉えるリラックスした部分から出てきているという点。繰り返しになるが、このことは、読者が自己の行動を(本を読みながら自分の事として)振り返り、「気づかせる」ことを目的とした自己啓発本主題とは相性が悪いのではないかと思う。

そして、何より、アレックスが人を楽しませるために行った行動を、自分は真似てみたいと思わないので、全く説得力がないという部分が大きい。

Amazonの本書紹介部分にも引用されている部分で)水野さんは、「悩み」や「不幸」を癒すことのできる本を目指してこの本を書いた、ということを語っているが、やはりアレックスが特殊過ぎるため、悩んでいるときにこの本を読んでも混乱すると思う。


さらに、この本の核心である「前向きに生きるっていうのは、いつも近くにいる誰かを楽しませ、笑わせ、喜ばせようとする姿勢」という部分。これも少し自分の意見と異なる。(自分は、まさにそうした姿勢に欠けているので、アレックスに学ぶべき部分はあると思いつつ…。)

自分の思う「前向き」は、自分の好きなもの(未発見な部分を含む)に貪欲にエネルギーを費やせる+その喜びを分かち合える友達を大切にする…ことが前提。

つまり、これまでにも何度か引用した、小沢健二『痛快ウキウキ通り』の一節が全てだと思う。

喜びを他の誰かと分かりあう!

それだけがこの世の中を熱くする!

意図しない相手から、意図しないタイミングでフラれる「笑わせ」は、非常に不快だったりする。

それは、気持ちを共有していないから。

また、よく言われるように、誰かを楽しませようと思うなら、まず自分が楽しまなくてはいけない。

アレックスの「人を喜ばせよう」という気持ちは立派だが、アレックス自身、自分の人生を楽しむことが出来ていたのか疑問だ。自分は、アレックスみたいになりたくない。


と、少しきつい感想になってしまいましたが、ギャグは思わず笑ってしまった部分もあり、楽しい本だとは思います。この人の文章は読みやすいので、もう少し読んでみたい。これとか。

LOVE理論

LOVE理論

*1:『夢をかなえるゾウ』はそんな小説だったように思います。

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2017-02-11 Sat

[]10日間でここまで変われる!〜安藤サクラ主演『百円の恋』

百円の恋 [DVD]

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32歳の一子は実家にひきこもり、自堕落な日々を送っていた。ある日離婚し、子連れで実家に帰ってきた妹の二三子と同居をはじめるが折り合いが悪くなり、しょうがなく家を出て一人暮らしを始める。夜な夜な買い食いしていた百円ショップで深夜労働にありつくが、そこは底辺の人間たちの巣窟だった。心に問題を抱えた店員たちとの生活を送る一子は、帰り道にあるボクシングジムで、一人でストイックに練習する中年ボクサー・狩野(新井浩文)を覗き見することが唯一の楽しみとなっていた。ある夜、そのボクサー・祐二が百円ショップに客としてやってくる。狩野がバナナを忘れていったことをきっかけに2人は距離を縮めていく。なんとなく一緒に住み始め、体を重ねるうちに、一子の中で何かが変わり始める。

一方、祐二はボクサーとしての定年を前に最後の試合に臨み惨敗を喫し自暴自棄になって家を出ていってしまう。残された一子は、なぜか自らボクシングを始める。痣だらけになりながらもそこに仄かな希望を見い出していく―。

もともと、安藤サクラの肉体が凄い、という言葉のみを頼りに観た映画。

しかし、自分にとって相当に意表を突かれる内容でした。


何よりも驚いたのは、冒頭で登場する一子(安藤サクラ)が何もここまで…と思わせるようなダメ女であること。

体形は勿論、表情、動作に至るまですべてダメで、見ていられない。

ボクシングに打ち込むようになった一子は次第に表情が変わっていく。プロテストにも受かって臨んだ試合。負けるだろうと思っていたが、顔を殴られて負けて酷い顔になる、ということは想像していなかった。一子は、その眼の光こそ違えど、映画の最初から最後まで、容姿としてはブスとしての部分が強調されるのだ。

これは、『愛のむきだし』のコイケの怪しい魅力が印象的だった自分にとっては相当に驚きだった。


また、一子の周辺の人間が、家族を除けば不快な人たちが多い、ということにも意表を突かれた。

一子がボクシングに挑戦するきっかけとなった新井浩文も、いざ同棲するようになったら、他に恋人を作って出ていく等、全く好きになれないタイプ。

100円ショップの弁当の残りをもらいに来るおばさんも、店長もいやだし、酒に酔った一子を無理矢理襲った店員仲間は最悪だ。そして、試合の入場テーマとしても使われる100円ショップのテーマソングがまた不快(笑)。


ということで、だからこそ唯一の救いとも言える一子の肉体改造が際立つ。

一子がトレーニングでどんどん変わっていく場面でクリープハイプの主題歌が流れるシーンがこの映画の最大のクライマックス。


いわゆるデ・ニーロ・アプローチとも呼ばれる、役作りのための肉体改造について安藤サクラはインタビューで次のように答えている。

  • 下着姿の撮影まではだらしない体でいたかったので、撮影4日目以降、後半の10日間でボクサーの体型に向けて絞っていきました。撮影時間もあまりなかったので、お家のシーンやコンビニのシーンはまとめて撮ったんですが、中にはすごく太っている時に、絞った時のシーンの撮影をしたこともありました
  • 私も実際自分の体を見ていて、10日間で人間って、こんなに変われるものなんだなあと。人間の体ってすごい!自分とは関係なく、人間の体そのものを見直しましたね。ここまで短期間に体型を変化させたのは初めてでした

安藤サクラ、ボクサーの役作りで驚異の肉体改造! | ニュースウォーカー

10日間という期間を聞くと本当にびっくりするが、それだけでなく、特にすごいのは、安藤サクラのボクシングセンス。あそこまでのレベルのシャドーボクシングが出来るというのは相当*1で、こちらは10日間で達することのできるレベルではない。何度も練習を繰り返し、試合で相手にヒットさせることのできた、左フックのダブルなんかは簡単そうに見えても、すぐには出来ない。新井浩文よりも安藤サクラの方が上手いんじゃないかと思わせるほど。

インタビューを見ると、やはり中学3年生という若い時期にある程度まとまった時間をボクシングにかけたからこそ可能だったのだと思う。

ボクシングは中学3年生の時に少しだけやっていて、10数年のブランクはあっても、基礎はありました。ただ、やるからには、ボクシング関係者の方に『しょせん女優さんがやるボクシングでしょ』というふうには絶対に思われたくなかった。撮影現場でもボクシング関係者の方々にご協力をいただいてたので、すごいプレッシャーは感じていました。

ということで、ミッキー・ローク『レスラー』も良かったけど、それ以上に肉体の変化に感動する映画でした。

まず何はともあれ腹筋は鍛えておきたいと思いました。


参考(過去日記)

*1:大学4年間を格闘技系の部活に打ち込んだ経験者wとしての意見です。

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2017-02-08 Wed

[]「ページをめくらせる魅力」と「ページをめくる手を止めさせる詩性」〜山崎ナオコーラ『この世は二人組ではできあがらない』

この世は二人組ではできあがらない (新潮文庫)

この世は二人組ではできあがらない (新潮文庫)

「社会の芯に繋がるようなストローを見つけたかった。」1978年生まれの私は大学をでて働きながら、小説を書いている。お金を稼ぐこと。国のこと。二人暮らしのこと。戸籍のこと。幾度も川を越えながら流れる私の日常のなかで生まれた、数々の疑問と思索。そこから私は、何を見つけ、何を選んでいくのだろうか。「日本」の中で新しい居場所を探す若者の挑戦を描いたポップな社会派小説。


文庫解説(西加奈子)によれば、山崎ナオコーラさんは「無意味なものを書きたい」「ストーリー性を排除したものを書きたい」とインタビューなどで語っているらしい。

確かに、この小説にはストーリーの起伏が少なく、むしろ日記のようなものであり、そこに積み重なった栞の「違和感」がメインで構成されている。

「違和感」と言っても、世の中に対して不満が多いというのではない。そうであれば、栞というキャラクターは、ここまで魅力的には映らないだろう。

違和感を感じるということは、人より物を考えている分だけ、「引っ掛かり」を多く感じてしまうことを意味する。自分がしっかりしているということの表れなのだと思う。そして、この小説の特徴は、栞の違和感が、嫌いな相手に向けられているわけではなく、家族や恋人に向けられているところ。フェミニズム的な内容も多いが、「権利を求める」というタイプのものではなく、あくまで日々の会話の中から出てきた「違和感」に留まるので、それほど煩く感じない。

自分自身を顧みて考えても、他の人と交わす会話の中で、色々な違和感が湧いてはスルーし、反対に、知らないうちに違和感を与えているのだろうとは思う。しかし、そういった違和感にこそ、個々人の輪郭が明確になるヒントがあると思えば、もっと自分は違和感に敏感にならなくては駄目じゃないか、と思った。

彼は「日本」においても、若い女が夜中に歩くことに眉をひそめる。「女の子は家にいるべきだ」と思っているのだ。

「貞操を守るために生きているわけじゃない」

私は言い放った。

文化的に発展した国においても、決まった男に操を立て、子を産み、その男に子育ての手助けをしてもらうことが、幸せと定義される。私は子どもを産みたいが、周囲の雰囲気に飲まれて産むのは嫌だ。もちろん、自分さえ楽しく生きられれば良いと考えているわけではない。死んだあとの世界をより素敵にできるような今を生きたい。p40

どうして男は、少女マンガとレディースコミックを分けたがるのだろう。

少年マンガにも、性描写はあるでしょ?少年に性欲があることは肯定してるんでしょ?」

女の子とを「性的な存在になってからが大人」と捉えているのではないだろうか。男のことは、性に関係なく、「社会的な存在になってからが大人」と捉えているだろうに。p50

母はおそらく、(略)女を大事にしない男と仲良くしようとすることを、女自身の価値を下げることだと考えているのだ。(略)

しかし私の考えは、母と違う。母の考えは古く、受け身過ぎるように、私には感じられる。私は「見られる性」ではない。私は自分が気に入った男と仲良くしようと努めるし、金をかける。主体的に動いて、自分の決めた行動ができたときに自分の価値を知る。自分で関係を育てる。その関係が他の人からどう見られるか、相手の男にどう思われるかは大した問題にならない。p146

世の中のみんながみんな、自分の人生を生きなくてはならないものなのだろうか。幸せになる義務はないはずだ。p160


主人公の栞自らが小説家を志すということもあり、美術、音楽、映画、本の話題が身辺雑記的に綴られるところも多い。たとえば、冒頭でもラストでも登場するフリッパーズギター小沢健二。栞が(そして山崎ナオコーラが)1978年生まれで自分と世代が近いこともあるだろうが、時代の流れは共有する部分がある。

ただし、それらに対する視線は熱くなり過ぎず、むしろ冷めている。

私は小説も、絵も、音楽も、教養や心の豊かさのために使ったことがない。ただの逃避手段だ。視点を移すため。現実の状況とは違う、別の考え事をしたくて、芸術を道具にしていた。p117

こういう部分は、とても面白い。自分は、楽しく生きるためには、大袈裟に盛り上がった方がいい、と思うタチなので、完全に同意できないが、意味は分かる。

このように、冷静に自分や他人の考え方や発言を、添削し定義するように顧みる、というのは栞の思考パターンで、恋愛に対するものが面白い。だからこのタイトルなのだが。

好きだ、という科白をひとりの異性にしか使ってはいけないという社会通念を、私はばかにしていた。どうして全員が二人組にならなくてはならないのか、なぜ三人組や五人組がいないのか、不思議だった。

だから、好きだ、というのを、二人組になりたいという意味には捉えないことにしていた。p23

「つき合って」と言うので、「はい」と返事しておいた。「つき合って」というのは現代日本の恋愛用語であり、パートナーと呼ぶほどではないが、他人を前にしたら「彼」だの「彼女」だのという三人称を「特定の異性」という意味あいで使って紹介し、その異性と「つき合い」をやめるときには別れの挨拶を必要とし、それなしで他の異性と仲良くなると「浮気」だの「本気」だのという言葉を使うことになるということを、暗黙の了解として共有したい、という科白である。p28

9月に入ってから、2人は、間に距離を置くことになった。(略)「距離を置きたい」というのは現代日本の恋愛用語であり、別れの挨拶はしたくないが、つき合いはやめている状態にしたい、というときに使う科白だ。その後、「忙しい時期が終わったから」と戻ったり、「会わないでいる方が自然だったから」と正式に離れたりする。p112


というように、引用していくとキリがないが、ストーリーとは無関係の部分で、言葉に触れる楽しさが、この本にはある。

西加奈子さんの解説では、こういった言葉には読者の手を止めさせる作用がある、とし、山崎ナオコーラ作品の魅力を次のように書いている。

「ページをめくらせる魅力」と「ページをめくる手を止めさせる詩性」を、ナチュラルに物語の中に共存させるのは、ナオコーラさんの驚くべき才能だろう。それって、小説家として、ほとんど最強の能力ではないだろうか。p180


その通りだと思う。何度も戻って読み返してしまうような表現、恥ずかしいか恥ずかしくないかギリギリの詩的表現に満ちていて、文字を追うのが楽しくなる。

「詩性」という意味で、最後にもう一つ冒頭の文章を引用する。「この小説の、舞台は狭いアパートだ。」が堪らない。

広い宇宙の中の極小の星、地球。その海に浮かぶミニ国家、「日本」。その国の首都、小さな東京につきまとい、豆のような暮らしが続く。この小説の、舞台は狭いアパートだ。

いいなあ。


参考(過去日記)

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