2012-02-21 Tue
■[読書]中村光の語るブッダ〜『手塚治虫の「ブッダ」読本』 
- 作者: 潮出版社
- 出版社/メーカー: 潮出版社
- 発売日: 2011/06/04
- メディア: 単行本
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これまでにいろいろな媒体に書かれた作品解説や対談を集めて、昨年のアニメ映画化についての文章を加えたもの。映画は3部作ということで、完結後にまとめて観てみたい。(第1部はイマイチだったという話だが)
さて、内容は文庫版の巻末解説など、既に知っているものも多かったが、実際に『ブッダ』を読んだあとだけあってどれも楽しめたが、中でも二つが面白かった。
『日蓮』の可能性もあった『ブッダ』
一つは大下英治の書いたノンフィクション。(『手塚治虫−ロマン大宇宙』からの抜粋)
基本的に、文章は編集者(竹尾)から見た激務の手塚治虫の様子で、ちょうど、昨年売れた『ブラックジャック創作秘話』と同様の、裏話的な面白さがある。しかし『ブッダ』についていえば、仏教に詳しい編集者と手塚治虫のやりとりが、作品のテーマに直結しているという点で、さらに興味深い。
手塚はいった。
「それより、日蓮なんかいいんじゃないですか」
思わぬ展開であった。潮出版社が日蓮宗の流れを汲む創価学会系であることからの発言である。
竹尾は、編集長の栗生に、「どうしましょうか」と目で合図をした。
編集長の栗生は、やはり目で答えて切り出した。
「それも、ぜひお願いしたいんですが、その前に、入門編として、釈迦の生涯をテーマにしてはどうでしょうか。ヘルマン・ヘッセの『シッダルタ』のような」
すると手塚は身を乗り出した。
「それは、いいですね。おもしろいですね」
p31
このようにして始まったブッダについて、時折、手塚治虫が、編集者の竹尾に質問をする。
- 法華経の考え方をどうとらえていますか?
- 生命の中に、仏性があるということが、わたしにはよくわからない
こういった、宗教的な解釈のすり合わせを経て、『ブッダ』のセリフのひとつひとつが出来ているという。それだけブッダの言ったこと、というよりは、手塚治虫の解釈としての要素が大きいのだろう。あれだけ多忙だった手塚治虫が、そういう「解釈」の部分に時間をかけて作った作品ということに、改めて感動した。
乳粥のエピソード
もう一つは、中村光のインタビュー。
『聖☆おにいさん』にダイバダッタを出したかったけど、悪い奴なので「こいつダメだな」という結論になった話だとか、断食をしてガリガリになるブッダが一番笑えたシーンだとか、どうでもいい話が満載。
なかでも、『聖☆おにいさん』で、あまり好んで食べないのに、25世紀以上も毎年ブッダのところに(レトルトの)乳粥を送ってくれる人が、スジャータだと分かり、それだけでも『ブッダ』を読んだ甲斐があった。なお、インタビュワーが「スジャータは手塚版のオリジナル」という発言をしているが、これは違うみたい。
スジャータ(サンスクリット語及びパーリ語:Sujāhtā, 正確にはスジャーター)は、釈迦が悟る直前に乳がゆを供養し命を救ったという娘である。
スジャータ - Wikipedia
作中でブッダを手塚信者にしてしまうほど手塚治虫を尊敬している中村光は、劇場公開されている『荒川アンダーザブリッジ』(未読)も含めて、いろいろ気になる漫画家です。
2012-02-19 Sun
■[読書]フィールドワークの参考書として〜福田恵一『玉川上水 武蔵野 ふしぎ散歩』 
図が豊富で分かりやすく、読んで良かった。
深大寺と野川について触れている部分もあるが、メインは玉川上水の話。河川と用水路の違いについて書かれた以下の部分に、玉川上水を読み解く重要な鍵がある。
そのころから、私は田んぼや水が流れる水路を見ると、それが自然の川なのか、用水なのか?また、用水ならば、水源はどこなのか?と考えるようになりました。
(略)
見分け方はそんなに難しくありません。
いわく
- 自然な状態では、水は低いところへしか流れないので坂の一番下(谷)に流れる水路は自然の川。
- 用水路は、なるべく(遠くまで届かせるため)高いところに水を流そうとするので、坂の途中や坂の上に水路があれば用水路。
- ただし、谷沿いに落としこんで田んぼに利用するタイプの用水路もあり。
玉川上水は、多摩川の水を羽村から江戸城まで運ぼうとした水路だから、なるべく高いところを通そうとする。だからこそ、三章で説明しているような「上水が崖を登る」というような不思議な状況が発生するのだ。
多摩川から河岸段丘の上部にある武蔵野台地の上のルートに至るまで、下流に向かう地形勾配よりも緩やかに用水路が作られているから、それが可能になる(下図p48、p84)
深大寺周辺の地形も国分寺崖線、府中崖線を入れてみると、非常に面白い。(下図p67)
これを見ると深大寺やその門前町が、野川の支流、逆川の谷にあり、神代植物公園側に登る坂道が、まさに国分寺崖線であることが分かる(よく行く場所なので感覚的にも分かる)。この逆側と野川に挟まれた舌城台地の上にあるのが深大寺城跡で、ここは行ったことが無かったので、今度、その地形的な視点を持って訪れてみたい。
また、甲州街道をめぐる基本知識も面白かった。(p96、64)
- 甲州街道は家康が整備した五街道のひとつで、江戸と甲府、下諏訪を結ぶ街道
- 半蔵門から進む再の最初の宿駅は、高井戸だったが、距離が長いため、途中に作られた新しい宿駅が「新宿」
- 宿駅業務(伝馬など)は一ヶ月。下高井戸、上高井戸は半月交代で行う合宿(あいのしゅく)。
- 布田五宿は、国領、下布田、上布田、下石原、紙石原で6日ずつ行う変わった宿。
地形的観点から野川を見るのは、長野まゆみ『野川』の影響もあるが、細かいフィールドの見方を教えてくれる、このような本の存在は嬉しい。こういう面白くて分かりやすい本は、他にもあるのかもしれないので、もっと探していこう。
ところで、先日ブラタモリの国分寺特集で、野川源流が取り上げられていたが、源流のある日立製作所中央研究所では、春と秋に一般公開をしているという。調べてみると、4月1日とのことなので、これは絶対に行きます!
【2012年の庭園開放予定日】
春:2012年4月1日(日) 10:00-14:30
秋:2012年11月 (詳細未定)
※ いずれも、雨天の場合は中止させて頂きます。
構内の自然庭園のご紹介:中央研究所の概要:研究開発:日立
2012-02-17 Fri
■[漫画]脱皮し続ける乙部のりえ〜手塚治虫『人間昆虫記』 
人間昆虫記 (秋田文庫―The best story by Osamu Tezuka)
- 作者: 手塚治虫
- 出版社/メーカー: 秋田書店
- 発売日: 1995/03
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 15回
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ひとりの悪女の生き方を軸にして、人間社会のゴタゴタを昆虫世界になぞらえて描いた風刺ドラマです。
その年の芥川賞を受賞したのは、天才と噂される新進作家・十村十枝子でした。
そしてその授賞式が行われているとき、別の場所で臼場かげりという女が自殺をしていました。
臼場かげりと十村十枝子は、かつて一緒に暮らしていたこともある仲であり、実は、十枝子が受賞した小説は、臼場かげりが書こうとしていた作品の盗作だったのです。
十村十枝子は、次々と才能のある人間に接近しては、その才能を吸い取り、作品を盗んでは成長していく寄生昆虫のような女だったのです。
人間昆虫記:マンガwiki:TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイト
ちょうど、町山智浩さんが、先日のキラキラ*1で、アカデミー賞主演女優賞候補の2作品を取り上げ、『マーガレット・サッチャー 鉄の女の涙』のメリル・ストリープ(サッチャー役)は、容姿や口調までまるっきり似せた「物真似」 だが、『マリリン 7日間の恋』のミシェル・ウィリアムズ(マリリン・モンロー役)は、外見は似ていないにもかかわらず、本物に見えてくると絶賛していた。ミシェル・ウィリアムズが取ったのは、メソッド演技やスタニスラフスキー・システムと言われる手法で、「担当する役柄について徹底的なリサーチを行い、劇中で役柄に生じる感情や状況については、自身の経験や役柄がおかれた状況を擬似的に追体験する」ことが特徴。『ガラスの仮面』でおなじみの方法だ。
『人間昆虫記』の主人公の十村十枝子は、まさに、『ガラスの仮面』でいうところの、北島マヤ、ではなくて、マヤから主役の座を奪った乙部のりえに通じる。彼女は、才能ある俳優、演出家、小説家たちに目を付け、しばらくの間、行動をともにすることで、彼らの才能を奪っていく。それを、サナギから蝶に羽化する昆虫になぞらえて、人間昆虫記というタイトルがつけられているのだ。
全体を通して振り返ると、やはり読者が置き去りにされる感じのラストが印象深い。こうなってしまうのか…という感じだ。
何をラストに期待したのか(そして叶わなかったのか)といえば、やはり十枝子の破滅、もしくは改心を期待していたのだろう。十枝子が可哀想な人間であることを分かってなお、何人もの人間を不幸にしている報いは受けるべきだと考えていた。しかし、ラストシーンでも十枝子は十枝子のままだ。
この物語の終わり方について、巻末解説で真崎守も説明を加えている。
一般の娯楽作品は、あるいは多くのまんがは、ある出来ごとが提示され、その出来ごとに関わる何かが解決したとき、物語が終わります。
手塚まんがは、ある出来ごとが提示され、その出来ごとの奥に隠されていたものの本質が明らかにされると、必ずしも何かが解決されなくとも、物語が終わりを迎えてしまいます。
それは、手塚まんがのほとんどが、常に、普遍的なテーマを秘めているというところから生じる、作風の特異性です。
p365
この説明は『人間昆虫記』の終わり方の説明としては非常に納得が行くが、扱われているのが普遍的なテーマかと言われると、それは違う。つまり、1970年発表の、この漫画のテーマは、いまや現代が抱える問題点からは外れていると言える。というのは、男性中心社会における「強い」女性の生き方という視点を強く感じる作品だから。例えば、十村十枝子が最後まで愛したかつての恋人・水野瞭太郎。その妻で元芸者のしじみの、いかにも「慰み者」という可哀想な人生は、今読むと、昭和の時代ってこんなだったのかな…という“演歌”感が非常に強い。そう、圧倒的に女性が弱い立場にいた時代だからのテーマ設定なのではないか。
物語展開としては面白く、ラストも印象的ではあるが、当時読んでいれば、そして当時を生きていれば、もっと感じ方が違うだろうなと思ってしまうような物語だった。
ところで、冒頭に掲げた「TezukaOsamu.net(JP) 手塚治虫 公式サイト」というサイトは情報量が凄い。今後も参考にしたい。
*1:TBS RADIO 小島慶子 キラキラ。今年の3月で番組が終了してしまうと聞き、残念な限り。
2012-02-16 Thu
■[読書]いい匂いのする小説〜大沼紀子『真夜中のパン屋さん』 
好きな人にはパンをあげるといい
おいしいパンは、その人を笑顔にしてくれるから
- 作者: 大沼紀子
- 出版社/メーカー: ポプラ社
- 発売日: 2011/06/03
- メディア: 文庫
- 購入: 2人 クリック: 12回
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本との出会い
JR盛岡駅のフェザン(駅ビル)の一階に「さわや書店」という書店があります。
11月の出張時に訪れたさわや書店は、ところ狭しと林立するポップや壁新聞的なものなど、只事ではないほどのスタッフの熱意に溢れていて、これは何か買わないとバチが当たるぞ!と思ってしまうほどの熱量に覆われていました。そこで一冊文庫本をと思って買ったのが、この『真夜中のパン屋さん』です。
今改めて見ると、「絆」で括ってしまっている、かなり乱暴なコピーですが、「真夜中のパンまつり」というゆるふわギャグと、何より「2011年さわやフェザンはこの一冊」という文字に一番惹かれました。ステマステマと騒がれる昨今ですが、「さわや書店」セレクトは信頼できるブランドに違いないと、完全に思い込まされていたのです。
で、借りたら読むけど買ったら読まないという悪習のために、しばらく放っておかれたこの本ですが、読み始めたらあれよあれよと一日で読み終えてしまいました。それほど面白かった。勿論、元々が売れている本だということもあるのでしょうが、やっぱり「さわや書店」セレクトは間違いないのです。
都会の片隅に、真夜中にだけオープンする不思議なパン屋さんがあった。
謎多き笑顔のオーナー・暮林と、口の悪いイケメンパン職人・弘基が働くこの店には、
パンの香りに誘われて、なぜか珍客ばかりが訪れる……。
夜の街を徘徊する小学生、ワケありなオカマ、ひきこもりの脚本家。
夜な夜な都会のはぐれ者たちが集まり、次々と困った事件を巻き起こすのだった。
家庭の事情により親元を離れ、「ブランジェリークレバヤシ」の2階に居候することになった
女子高生・希実は、“焼きたてパン万引き事件”に端を発した失踪騒動へと巻き込まれていく…。
期待の新鋭が描く、ほろ苦さと甘酸っぱさに心が満ちる物語。
(Amazonあらすじ)
読みやすい分かりやすい美しい
一冊前に読んでいた本が、読後感に強く影響を与える場合があります。『真夜中のパン屋さん』がまさにそれで、この前に読んでいた本*1が難解だったこともあり通常の数倍分かりやすく感じたのだと思います。
面白さ、分かりやすさの核にあるのは何なのかを考えてみます。この本は、さわや書店のポップがそうであったように「心温まる」部分や「絆」を感じさせる部分が一番の売りで、ネグレクトなどの問題を、おざなりにせずに取り上げつつ、前向きな着地を見せているのは読んでいて心地がいいものでした。
しかし、それ以上に、全体のバランスと構成が面白さのポイントだったように思います。例えば、アニメのようなカバーイラスト*2は親しみやすく、6つの短編は40〜60頁とちょうど読みやすい長さにまとまっており、登場人物も多過ぎず、バランスがいいです。
構成について言えば、まずは、一話一話が完全には独立しておらず、ゆるく繋がる短編集というのはよくありますが、『真夜中のパン屋さん』は、最終の第六話で、これまで出てきた登場人物全員がしっかりと存在感を持って登場しており、無駄が全くありません。
また、各話で別々の人間に焦点があたり、その人物が最初と最後に語り手になる、というルールが一貫していて、ラスト2話に「真夜中のパン屋」ことBoulangerie Kurebayashiの二人が来るところなども美しいです。各話の主役で主要登場人物となるのは以下の6人。
- 第一話:篠崎希美(高校2年生)
- 第二話:水野こだま(小学1年生)
- 第三話:斑目裕也(脚本家)
- 第四話:ソフィアこと嶽山大地(オカマバーのオーナーを経てホームレス)
- 第五話:柳弘樹(Boulangerie Kurebayashiの店員)
- 第六話:暮林陽介(Boulangerie Kurebayashiのオーナー)
また、6編それぞれにつけられた、パンの製作過程の副題も上手いですし、こういった構成上の工夫があったからこそ、読み易く、かつ、読後に温かい気持ちになれるヒット作品になりえたのでは無いかと思います。
何よりパン屋さん
そう、舞台がパン屋さんであることは大事です。
この小説のテーマは、“順風満帆に生きられない困った人たち”の助け合い。中心にいるべき人物だった暮林美和子が死んでしまったからこそ生まれた、疑似家族的な居場所が、真夜中のパン屋さん。そこでの哲学は、パンを通して語られます。そして、パンを通して語られるからこそ、単なる説教ではなく、実感を伴う、というよりは「いい匂い」がする言葉として、するりと心に入ってくるのです。
気付くと希美は毎日のように、朝早くから起き出して二人の仕事ぶりを眺めるようになってしまった。特に意味はないつもりだが、パンが出来ていく過程を見ていると妙に落ち着くのだ。なかったものがあるようになっていくのは、なんだか不思議で目が離せなくて、少しばかり楽しいような心持ちになる。p54
(優しく捏ねるの「優しい」って何?)
バカかお前。優しいなんて、簡単なことだろ。
(略)
相手を思えばいいだけだ。この上ない愛情を持って接すればいいだけ。触れる瞬間も触れている瞬間も。
(略)
手を放すその瞬間も愛することだよ。 p81
大好きよ。だってパンは、平等な食べものなんだもの。道端でも公園でも、どこでだって食べられる。囲むべき食卓がなくても、誰が隣りにいなくても、平気でかじりつける。おいしいパンは、誰にでも平等においしいだけなんだもの p273
この小説の最終話(第六話)は、始めは接点がなかった美和子が、自分に傾いたきっかけについて、暮林陽介自身が思い至るという、ちょっと変わったミステリになっていますが、当然そこもパン絡み。とにかく全てがパンの甘い香りに満ちていて、それだけでも十分幸せになれるのですが、内容もちゃんと面白いので、老若男女問わず、広い世代にオススメの小説です。
2012-02-14 Tue
■[漫画]最後まで取り乱すブッダ〜手塚治虫『ブッダ』(12) 
- 作者: 手塚治虫
- 出版社/メーカー: 潮出版社
- 発売日: 1993/02
- メディア: 文庫
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最終巻ということもあり、多くの登場人物が命を落とす。
- コーサラ国との戦いに敗れ命を落とすタッタ(そしてシャカ族の全滅)
- 幽閉生活から抜け出し、マガタ国のビンビサーラ王に会おうという志半ばで死んだパセーナディ王(ルリ王子の父)
- ブッダ謀殺に何度も失敗した挙句に誤って自らの命を失うダイバダッタ
- 塔に幽閉されたまま、予言通りの日に亡くなった前マガタ国王ビンビサーラ(セーニャ)
- 事故と急病で突然亡くなったサーリプッタとモッガラーナ
- キノコ(ヒョウタンツギ)の食あたりで涅槃に入ったブッダ
中でも1巻から登場しているタッタの死は、物語の中での重要度が高いもののはずだが、ルリ王子の象に踏みつぶされるだけという、非常にあっけないものだった。
また、ダイバダッタの死もかなりの駆け足で物足りない。どちらもいくらでもドラマチックにできるはずなのにそうしなかったのは、出版社側の都合や本人の他の連載との都合など、直接的に物語と関係の無い部分が影響しているのではないかと訝ってしまう。どの程度、手塚治虫の構想通りだったのだろうか。
ともあれ、一番弟子とも言えるタッタの死、そしてシャカ族の全滅は、ブッダにも精神的にこたえるものがあった。しかもそれは、ブッダの教えとは反する、コーサラ国への反乱の結果としてもたらされたものなのだった。
結局人間なんて かぎりなく愚かもので
口先ではいいことをいっていても
やっぱり わがままで 憎み合い 殺し合う生きものなのか!?
私は何十年もそういった連中にむだな説教をしてきたわけか!?
ああ むなしい!!
私は一生なんとむだなことをしてきたんだ
p106
そこで、ブッダは、誰にも会わずに死んでいったナラダッタのことを思い出す。やはり手塚治虫は、もう一人のブッダ(めざめた者)として、ナラダッタを物語に配置したのだろう。
しかし、そのナラダッタとは異なり、ブッダがこれまで説教を続けてきたからこそ、その教えによって生まれ変わった、救われた人も多いのだ、そしてその教えは永久に伝わっていくことを、アナンダによって諭され、ブッダは正気を取り戻す。
これ以外の場面でも、後継と考えていたサーリプッタとモッガラーナの死を知らされる部分など、ブッダは最終巻なのに気を取り乱し過ぎだが、そこは手塚治虫の味付けなのだろう。個人的には、もっと落ち着いていた方が読む側としても安心できるのだが…。
この巻でブッダは新しい悟りを開く。マガタ国王であるアジャセの脳腫を、3年間毎日12時間の治療(指をあてる)を続けて治し、それとともにアジャセを改心させたのだ。
わかったぞ そうだ いまわかったぞ〜っ
人間の心の中にこそ…神がいる…神が宿っているんだ!!
(略)
ブラフマン!!聞いて下さい
私はアジャセ王の微笑みに神のような美しさを見つけました!!
修行僧でもない聖者でもないふつうの人間です!!
ブラフマンよ!神というのはだれの心にも宿っているのですな?
だれでも神になれるのですね?そうでしょう?
私はいままできびしい修行をして聖者になることを弟子たちに教えてきました!!
そうじゃない!そうじゃないんだ!
聖者どころか 神には…だれでもなれるんだ!!
p193
この部分は、正直言って物語の中での説得力が無い。
まず「人間の中に神がいる」という言葉自体の陳腐さと、仏教で「神」という言葉を使う違和感がある。また、ここまで高みに登った人物でも、やはりブラフマンに教えを乞う立場なんだ…とガッカリするのもあるが、一番強く感じたのは、物語の中での「新しさ」が無い点。
そもそも、手塚治虫『ブッダ』の中でのエピソードは、この「新しい悟り」を開く以前から、それ(人間の中に神がいる)を前提とした内容になっており、常々ブッダが語っていたことのように思えるので、何を今さら…となってしまう。9巻あたりで説いていた、悩みを消すために「心を閉じる」というような無理矢理な話が「これまでの悟り」だとしたら、ストーリー展開の流れは自然になるが、納得しづらい。結局、どうしてブッダが我を忘れるほど「わかったぞ〜!」と叫ぶのかが分からない。
ただ、それ以降のブッダの教えも、これまで通りやはり心に響くものはある。
みなさんは みなさんのできる方法でやればよい
お金を持っている人は 苦しんでいる人に与え
力のある人は 苦しんでいる人を支えてやりなさい
余分なお金も力もない人は…
せめて相手の気持ちをくみとって かわいそうに…と同情してあげなさい
それだけでもいいのです
それであなたは あのたとえ話のウサギのように相手のために苦しんだことになる
この心のことを「慈悲」と呼びましょう
慈悲!どんな人の心にも宿っているはずです
p211
巻末解説で萩尾望都が語るように、「タッタは、ブッダと似ていながらブッダの中に収拾しきれなかった人間性を生きていた」といえるし、それはナラダッタにも同じことが言える。そのようにして見てみると、一人の人間の様々な感情が分配されて、それぞれの登場人物が形成されているようにも思う。つまりは、読むときの状況に合わせて、今の自分は誰に似ているのか、今感じている怒りは誰の持つ怒りと同じなのか、そういった読み方ができる漫画が、この手塚治虫『ブッダ』なのかもしれない、と思う。だからこそ、ブッダは最後まで取り乱し、人間臭く描かれているのではないか。
■[漫画]手塚治虫『ブッダ』関連の感想目次 
- 悩みつづけるシッダルタ〜手塚治虫『ブッダ』(2)
- これでいいのか?〜手塚治虫『ブッダ』(3)
- 誤って伝わるメッセージ〜手塚治虫『ブッダ』(4)
- 自分はデーパかシッダルタか?〜手塚治虫『ブッダ』(5)
- つながりの中での大事な役目〜手塚治虫『ブッダ』(6)
- もしも高校野球の女子マネージャーがダイバダッタだったら〜手塚治虫『ブッダ』(7)
- 本当は兄弟だったアナンダとダイバダッタ〜手塚治虫『ブッダ』(8)
- 抑えがたい憎しみのエネルギー〜手塚治虫『ブッダ』(9)
- 聖☆おにいさんを読むための準備完了〜手塚治虫『ブッダ』(10)
- 実現しなかったヴィサーカ―構想〜手塚治虫『ブッダ』(11)
- 最後まで取り乱すブッダ〜手塚治虫『ブッダ』(12)
- 中村光の語るブッダ〜『手塚治虫の「ブッダ」読本』








