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2016-08-24 Wed

[]門脇、瑞垣、海音寺〜あさのあつこバッテリー5』

バッテリー (5) (角川文庫)

バッテリー (5) (角川文庫)


アニメは第5話まで見終えたところだが、次回からついに横手の二人が出てくる。

情報を制限しているせいもあり、現時点では、アニメ上でのキャラクター造形がわからないのだが、横手の天才スラッガー門脇秀吾のイメージは、自分は一貫して、早稲田実業の清宮幸太郎だ。オープニングでは、イケメン風のバッターが出てくるので心配なのだが、あれでは嫌だ。青波から「おじちゃん」と呼ばれるに値する人物として、門脇=清宮君で行ってほしいと強く願っている。

ついでに言うならば、海音寺一希はイケメンとして描かれるべきだった。既に登場しているアニメの海音寺の外見にはとても納得がいかない。朴訥とした書生風青年では断じてない。

横手二中の曲者・瑞垣俊二の一枚上を行って試合をコーディネートし、新田東のチームメートから一目置かれ、さらには監督的な役回りをするという、この物語で最も美味しいところを持っていくキャラクターが海音寺である。

序盤の暴力問題でチームを去る展西よりも目立たない、あの根暗そうな外見で、これから始まる大活躍を演出できるのかどうか不安でたまらない。


なお、アニメではなく、原作を振り返ってみると、攻守に指導育成、何をやっても上手くこなす万能キャラクターで、チームメートだけでなく、瑞垣の心の動きまで見通してしまうほどの男が海音寺だ。その海音寺が2巻の時点においては、2年間、常に一緒にいたはず(しかも最後の1年はキャプテン・副キャプテンの関係)の展西の心の内を見通せていなかったのは、解せない。3巻、4巻、5巻と、巻を追うごとに、その人間力が輝きを増していく海音寺は、あさのあつこに言わせれば、「予想外に育ってしまったキャラクター」ということなのだろうか。


閑話休題

この巻での主人公である巧と豪の2人については、ピッチャー・キャッチャーの関係は復活しつつあるが、煮え切らないというか、微妙な距離間での付き合いが続いており、イライラしてしまうので触れない。

それ以外では、海音寺も相変わらずの活躍だが、最も焦点が当たるのは横手二中の瑞垣だろう。


3巻で登場し、4巻で大活躍を見せた瑞垣俊二。

百人一首を愛し、原田を「姫さん」、吉貞を「クリノスケ」と呼ぶ、独特のユーモアがあるが、練習試合中にかけた言葉が、豪の精神面に強いダメージを与えるなど、新田東のバッテリーにとって、ある意味では天才スラッガー門脇以上に重要な人物である。豪に使った作戦のように、自分は冷静のままで相手の感情を操作する方法が、瑞垣のいつものやり方なのだろうが、この巻では瑞垣自身が大きく感情を揺り動かすシーンが二つある。 


一つは門脇を怒らせ、殴られるシーン、そしてもう一つは、巧の危険球に感情が抑えきれなくなり、両頬にビンタをしてしまうシーン。

バッテリー』では、一貫して暴力シーンに強い意味が込められている場合が多いが、特に、後者は、空気(人の感情)の読めない原田巧の真骨頂。触れるものをことごとく怒らせる原田ウイルスが、最大の難敵に一発決めた場面と言え、これ以降、瑞垣は、巧を「姫さん」と呼ばなくなる。

しかし、この巻で屈指の瑞垣の名場面、名台詞は、これらの2つのシーンではない。門脇との話の中で、なぜ野球部のない高校を選んだか、と聞かれるシーンでのモノローグ。

みんな、一途が好きなのだ。一生懸命な姿が、必死に努力する姿勢が、好きなのだ。一途にボールを追い、一途にバットを振る。汗を 流し、泥まみれになって、時に涙を流しながら、成長していく少年達が好きなのだ。それを見ていることが好きなのだ。感動したと泣き、励まされたと手を叩 く。それは、そのまま、何もしない者への批判となる。一途に何かを追い求めない者への叱咤や嫌悪や軽蔑の刃となる。

うんざりしていた。他のやつのことは、わからない。しかし、自分のことだけは、わかる。おれは、もう一途で懸命な野球少年の役に飽き果てているんだ。 p168


敵チームで最も重要なキャラクターが、高校に入ったら野球をやめるという選択も凄いが、この理路整然とした理屈。普通のスポーツ小説、青春小説では、絶対に書かれない文章で、あさのあつこの「書いてやった」というドヤ顔が見えるようだ。


それ以外での捨てがたい名シーンは以下の2つ。

  • 東谷が「原田、おまえもカノジョとか、作れば…」というシーン(p130)
  • 青波が初めて豪に反抗して「豪ちゃんのバカ。バカやろう。大嫌いじゃ」と言ってリンゴを投げつけるシーン(p149)

まさかの青波→豪の暴力シーンは、豪→巧の暴力シーンからの流れで、よく読むと、原田が東谷のアドバイスにしたがって、豪に、(カノジョかもしれない)伊藤さんの話をしたのに、逆切れされるところから繋がっている。ということで、ここら辺は、原田巧がマイペースを貫きながらも、少しずつ姿勢を変えつつある部分なんだと思う。

この5巻は、ストーリー的にはほとんど進まないものの、豪と巧の関係性、門脇と瑞垣の関係性など、少しずつ関係性に変化が生じており、最終巻である6巻に向かっている。6巻でどのような着地を見せるのか、とても楽しみだ。



参考(ブログ内リンク)

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2016-08-21 Sun

[]癖のありすぎる「金字塔」〜あさのあつこバッテリー4』

バッテリー (4) (角川文庫)

バッテリー (4) (角川文庫)


既に5巻まで読み終えているが、この巻あたりから『バッテリー』は、スポーツ小説ではなく独自ジャンルの小説になる。

3巻までは山あり谷ありはあったが、まだ、野球少年たちをめぐるスポーツ小説の範疇に入っていた。

それどころか、暴力事件が原因の活動停止期間が明けた直後の横手二中との練習試合。ついに、実際の試合での天才スラッガー門脇と原田巧との対決が…。ここから全てが始まる!と言うような「引き」で終わった3巻。

これを受ければ、4巻は、まさにスポーツ小説の醍醐味が描かれる巻になっていたはずだ。


しかし、そうはならない。

この外し方(期待の裏切り方)は相当なもので、自分は『バッテリー』の魅力に引き込まれていながらも、何故ここまでトリッキーで癖のありすぎる小説が、児童文学金字塔という呼ばれ方をするのか疑問を感じてしまうほどだ。


まつり(練習試合)のあと

4巻は10月最後の日から始まる。

横手二中との練習試合は9月最後の日曜日に行われたので、試合が終わって1か月後の話だ。

話の構成として、試合開始直前から試合終了後のシーンに話が飛ぶという倒叙形式は、スポーツ漫画なんかでも無くはない。

しかし、そこでの敗北があとを引きずり、新人戦も秋季大会も、巧−豪のバッテリーが試合に出ないままに過ぎてしまうというのは、物語上の流れとはいえ異常過ぎる。



2人が突如崩れた原因については、何度か瑞垣が説明してくれる。

おまえじゃ、姫さんのキャッチャーはつとまらん。おまえら二人じゃ、バッテリー組むのは無理や。

(中略)

姫さんみたいなタイプには、上手いこと合わせていかなあかんのや、おまえみたいに必死こいて、対等に付き合おうとするとな、ボロが出る。それが今日の結果や。バッテリーがお互い足引っ張りおうて、もたれ合って、ふふん、門脇やないけど、ほんま、ぶざまさらしたな、永倉。

(p79:瑞垣→永倉豪への言葉)

「おまえ、まだ気がつかねえの。姫さんは、おまえを見てたんじゃねえ。永倉を見てたんだ。相手が誰であろうと、永倉が、要求する球だけを投げてたんや」

「ああ…で、永倉の集中力が、プッツンしちゃったから、一緒にプッツンか」

「そう。そこが、姫さんのどーしようもなくアホなとこで、もしかしたら命取りになる弱点で、欠点で、かわいいとこやな。で、おれ、行ってくるわ」

(p163:瑞垣、門脇の会話)

そうだ、あのとき、おれは全部知ってしまった。おれにとって、受けるだけで精一杯の球を、全身全霊を使って向かい合い、捕った後、ぷつんと切断の音がして集中力を失うほどの球をあいつは、表情も変えず投げる。投げられるのだ。

瑞垣の声がする。

…おまえ、あれ以上の球がきたら、捕れんの?

捕れない。無理だ。置いていかれる。あの快感の記憶だけ残して、おれは巧に、置いていかれる。

(p92:永倉豪の独白)


これらの原因説明が間違っているというわけでも非現実的であるというわけでもない。

実際に、このようにして調子を崩すピッチャー、バッテリーはいるだろうと納得させられた。

エヴァンゲリオンで言うシンクロ率が落ちている状況に当たるだろう。

しかし、そのことが、その後1ヶ月間キャッチボールすら行わない関係に繋がるか、と言われれば疑問である。少なくともチームメイトにしてみれば納得がいかない。


これまで読んできたスポーツ漫画との比較で言えば、対決物の醍醐味は、ライバルとの対戦まで様々な敵を倒して勝ち進み、主人公が成長していくこと。

横手との練習試合に負けた新田東が、秋季大会を勝ち進んでいく中でチームとしての強さを備え、そこで改めて再試合、という方がすっきり行く。今回は引退する3年生チームを相手にしているので、無理なのだが、本来ならば、県大会の決勝で再選、という形が王道だろう。

勿論、物語上の要請だけではなく、他の登場人物の気持ちを考えても、このストーリー(巧−豪のバッテリーがその後の試合に出ない)はすっきりしない。全国レベルで戦える可能性のある原田巧というピッチャーを擁していながら、その力を見せつけることが出来なかったオトムライ(監督)や、2年生の野々村(キャプテン)、そして1、2年生のチームメイトたちは、練習には参加するがキャッチボールもできないままの二人をどのように思っただろう。


ちょうどよい機会だと、(バッテリーの舞台である)岡山県の中学野球について、ネット上を見て回ったが、少ない人数ながら秋・夏の連覇を目指す野球部のHPや、Yahoo!知恵袋で対戦チームの情報を仕入れようとする必死の書き込み(笑)などを見るにつけ、秋の大会で好成績を収められなかった新田東の悔しさは相当なものだろうなと、改めて想像した。


強い憎しみを含んだ愛情

さて、この巻での「バッテリー」の二人。

3巻で巧に殴りかかった豪は、横手との練習試合で、巧のピッチャーとしての才能に惚れ直しながらも、巧のことを嫌いになっていく。

ジコチュウで、生意気で、プライドが高くて、今まで会った誰よりも扱いづらくて、難しい。一緒にいると、はらはらしどおしだった。なのに、惹かれた。誰も教えてくれなかった歓喜を、興奮を、感情の高ぶりを、たっぷり味わわせてもらった。

同じ場所で同じ時間を共有できる、奇跡のような偶然を感謝した。しかし、今は、のんきに感謝していた自分が、おかしい。

「あいつが、嫌だ」

声に出して呟いてみる。

巧が、嫌だ。あいつが、嫌いだ。

巧は、いつも、簡単に答えられない問ばかりつきつけてくる。ぎりぎりの所に人を追い込んで、自分だけは、自分を信じ切って、凌いで、深い傷も負わず、成長していく。オトムライの言うとおりだ。他人を惹きつけ、混乱させるくせに、支えることも励ますこともできない。

p102


面白いのは、瑞垣、門脇という横手の幼馴染コンビにも似た関係があるところだ。

秀吾が嫌なやつなら、野球が天才なだけのアホなやつなら軽蔑もできた。それがどうだ。単純でおりこうさんでマジメくんだ。鼻持ちならない傲慢さも、他人を見下す愚かさも、ない。天才で、けっこういいやつで、幼なじみだ。最悪だろう、海音寺。おまけに、このおれは、野球を諦めることも割り切ることもできずに、門脇の後ろ、横手の五番を打ったりしている。最悪最低。気がついたら、もう15だぜ。

俊二は、ゆっくりと煙を吐き出した。

p159


あさのあつこは、仲が良いだけの友情を信じない。

憎しみの中の友情・愛情、依存と裏腹の信頼、陰と陽の両面に常に目を向けながら、ご都合主義のストーリーを回避するように物語を構築する。迂回の程度が、いわゆる王道からもっとも離れているのが、この4巻。ラストでは、吉貞と瑞垣の漫才の掛け合いがありつつ、青波がピッチャーで横手の2人を相手する、ある種の「夢のオールスターマッチ」が組まれているが、それでも巧と豪のバッテリーの間には不穏な空気が漂ったままだ。

しかし、こういった物語の歪(いびつ)さこそが、『バッテリー』を何度も読みたくなる部分だし、ここまであからさまにエゴが出るのも、中学生という年齢設定ゆえなのかもしれない。

ということで、巧と豪のバッテリーには暗さが目立つが、原田巧を「姫さん」と呼ぶ瑞垣や吉貞、そして海音寺など、バッテリー以外のキャラクターが活躍するこの巻は、やっぱり面白いのでした。


参考(ブログ内リンク)

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2016-08-20 Sat

[]心の性について考える〜毎日新聞「境界を生きる」取材班『境界を生きる 性と生のはざまで』

境界を生きる 性と生のはざまで

境界を生きる 性と生のはざまで


いわゆる性的マイノリティについて語られるときに使われるLGBTのうち、T=トランスジェンダーについては、以下のような説明をよく目にしてはいたが、イマイチどのようなものなのか理解できなかった。

LGBT. レズビアン(女性同性愛者)、ゲイ(男性同性愛者)、バイセクシュアル両性愛者)、トランスジェンダー性同一性障害など心と体の性が一致しない人)の頭文字に由来し、性的少数者を意味する。

LGBT(えるじーびーてぃー)とは - コトバンク

LGBなど、性的指向の問題である場合、自分の恋愛対象のベクトルを変えることで、想像ができる。

しかし、性自認の問題、つまり「心と体の性が一致しない」という状況がどういうことなのか、については、恋愛経験の置き換えはできない。「自分の体が男であること、もしくは女でないこと」について考えたことが全くない場合、想像をすること自体が困難なのだ。


しかし、この本は、性同一性障害GID)だけでなく、性分化疾患DSD)についても対象として書かれており2つを合わせて読むことによって、これまで理解しにくかったことが想像しやすくなった。


性分化疾患(第1章)

序章〜第一章は「性分化疾患」について書かれている。

この世界は「男」と「女」だけでつくられていると考える人は多いだろう。

子どもの性別はお母さんのおなかの中にいるときから決まっていて、誕生したときには外見で確かめるだけでいい。

でも実際には、生まれたばかりのわが子を抱いた瞬間に「男の子と女の子、どちらにしますか?」と医師から決断を迫られることがある。生まれたときは「男の子」 あるいは「女の子」と言われても、成長してから体の性があいまいであると分かったり、「心の性」が反対であると気づいたりする人もいる。(帯文)

帯文にも書かれている通り、生まれたときに外性器で男女の区別がつかない、また、染色体もXXとXYが混在している場合がある。それでも出生届には男女の別を届ける、もしくは、進学などで男女どちらの性を選択するか判断が必要となる。

生まれた直後に、どちらで生きていくのが望ましいかを家族が決めた場合、性腺の摘出や外性器の形成手術などで選んだ性に近づけていくことが多い。しかし、医師の誤診などもあり、選んだ性と「心の性」の不一致に悩む場合も多いという。

本の中では、小学4年生になった娘に「男の子、女の子、どちらにするか」を決めてもらうケースや、不妊治療の検査で自分の疾患に気が付くケースなど様々な例が紹介されている。

違和感を感じながらも男性として育てられた人が、小5のときに突如、初潮を迎えて驚くというプロローグの例も興味深く読んだ。親の意向で、男性ホルモンの投与や胸を小さくする手術を受けるも、結局、違和感が取れず、今は体を女性に近づける治療を受けているという。

3章で紹介されている、第二次性徴が起きない疾患では、24歳からホルモン療法を始めるも、体の変化やこれまで感じたことのない性欲にとまどい、「治療」をストップさせた事例もあった。

いずれの例を見ても、「性を決める」ということが難しいことがよくわかる。

このように、性分化疾患の事例を見て行くと、手術やホルモン投与など「治療」としての側面も含むだけに、本人の悩みの深さは想像に絶するものがある。さらに、両親に目を向ければ、子どもが幼い頃に適切な「治療」を行えば、心の性と体の性が一致する方向に手助けをすることが出来る(出来た)かもしれない、ということで、こちらも色々と悩みは尽きない。


性同一性障害(第2章)

この流れで、「性同一性障害」について書かれた第2章を読むと、性自認の問題が、単なる「価値観」のような自己認識・自己評価とは違う、もっと根源的なレベルで存在する問題であることが分かった。

表紙にも登場している小林空雅さんは、中学から男子生徒として通学し、高校の弁論大会では、自分の抱えてきた悩みをこのような言葉で伝えている。

私は男ですが、体のつくりは女性として生まれてきました。

(略)

眠っている間さえも、本当の性別と異なる性の体と生活している違和感から逃れることができません。このような障害の苦しみは、本人以外の誰にも分かりません。


空雅さんは小学校高学年の頃から「自分は頭がおかしい」「宇宙人なんだ」と言うようになったと母親が語っているが、確かに、心の性と体の性が一致しない状況を示す言葉としては、そんな言い方しかできないのかもしれない。


2章の中では、「治療」についても触れられているが、「トランスジェンダー」と「性同一性障害」という言葉の使用法を考える際に、「治療」というのは大きな要素のようだ。

歴史的に見ると、『性同一性障害』という言葉はわりと新しい言葉です。 日本では、『トランスジェンダー』の中でも性別適合手術などの身体的治療を望む人たちが社会的に認知され、法的な整備もされ始めた2003年頃から『性同一性障害』という言葉が知名度を持つようになりました。 ただ、『トランスジェンダー』の人全員が身体的治療を望んでるわけではないのです。なので中には『トランスジェンダー』=『性同一性障害』と認識されてしまい、困惑している人もいます。心と身体の性別に違和感があっても、その度合が人それぞれであるように、社会的に身体的にどのような性別でいたいのかも多様なのです。

”性同一性障害”と”トランスジェンダー”ってどう違うの??| Letibee LIFE

このような状況にあるにせよ、性同一性障害の人が医療的サポートを受けたいと思う場合は、第一段階が精神科での診断とサポート、第二段階がホルモン療法や乳房切除、第三段階で性器の外科手術と進む。

ホルモン剤は健康リスクもあること、第二段階以降は自費診療になるため経済的負担が重いことなどの問題があるそうだ。

一方で、子どもの段階で性同一性障害と診断されても、成長とともに体の性別への違和感がなくなることも少なくない、ということで、ここも判断が難しい。


性と生のはざまで(第3章)

3章では、結婚や子どもの戸籍、海外の取り組みなど、性分化疾患性同一性障害の当事者が生活をしていく上での問題が取り上げられている。

また、最後に「第三の性」の可能性に関連して、日本生命倫理学会初代会長の星野一正・京大名誉教授による論文「性は『男と女』に分けられるのか」についても取り上げられている。

最近、アメリカで話題になったトイレ論争についても、出版時期によっては、この章で取り上げられた話題だろう。トイレ論争についても、全く実感がわかないニュースだったのだが、この本を読んで理解が進んだおかげで、改めて考えなおすことができそうだ。


エピローグはこんな言葉で締められている。

性別のあり方に苦しむたくさんの子どもや若者が、心の危機を抱えながらぎりぎりのところで生きている、そんな社会を作っているのは、私たち一人一人に他ならない。人々の意識が変わることで、救える命がある。

無関心という「罪」をこれ以上深めてはいけない。


先日、一橋大学アウティングに関する記事を読む中で、東京都青年の家事件の判決文について触れたコメントを見かけた。これは、同性愛者の団体に対し、東京都が「青少年の健全な育成に悪い影響を与える」として宿泊施設「府中青年の家(閉鎖)」の利用を拒絶したことについての損害賠償訴訟である。

判決文では、「無関心であったり知識がないということは公権力の行使に当たる者として許されないことである」「怠慢による無理解」といった強い言葉で東京都非難している。

1997年9月16日に 東京高裁は「青少年に対しても、ある程度の説明をすれば、同性愛について理解することが困難であるとはいえない。」「都教育委員会を含む行政当局として は、その職務を行うについて、少数者である同性愛者をも視野に入れた、肌理の細かな配慮が必要であり、同性愛者の権利、利益を十分に擁護することが要請されているものというべきであって、無関心であったり知識がないということは公権力の行使に当たる者として許されないことである。」とした。そして「行政側 の処分は同性愛者という社会的地位に対し怠慢による無理解から、不合理な差別的取り扱いをしており違憲違法であった」として全面的に団体の請求を認める判決を下した。

東京都青年の家事件-Wikipedeia


20年近く前の時点では、「公権力の行使に当たる者」に求められた内容であるが、2016年の今では、そうでない一般人にも「怠慢による無理解」が求められる時代に入ってきているのかもしれない。人数比からすると、既に見知っている人や、これから付き合う人たちの中に、こういった悩みを抱えている人がいてもおかしくない。知識があれば人を傷つけることを減らすことが出来るのだから、少しずつでも勉強を続けていきたい。


参考図書

作中で取り上げられている性分化疾患についての漫画、六花チヨIS』は読んでみたい。

IS(1) (Kissコミックス)

IS(1) (Kissコミックス)



参考(過去日記)

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2016-08-17 Wed

[]憲法カフェVS憲法おしゃべりカフェ〜あすわか『憲法カフェへようこそ』

タイトルと「はじめに」部分だけではよくわからないが、少し読み進めると、この本の立場がよくわかってくる。本を出した「あすわか」のHPを見ると、一番上に書かれているが、「あすわか」自体が、自民憲法改正草案に反対する目的で作られた団体なのだ。

みなさん、はじめまして☆

私たちは、自由民主党の「日本国憲法改正草案」の内容とその怖さを、広く知らせることを目的とする、若手弁護士(弁護士登録期が51期以降=登録から15年以内)の有志の会(略称「あすわか」)です。

現在、当会で作成したパンフレットや紙芝居を使って、全国各地(?)で講演(憲法カフェ、ランチで憲法など)を行っています!

また、イベントや集会に参加したり、声明を発表する、書籍を出すなどもしています。

明日の自由を守る若手弁護士の会(あすわか)


自分は、やはり自民党の憲法改正草案に疑問を持っているので、この本は、現在の自分の認識を確認するように読んだ。


ところで、「〜カフェ」というと、サイエンスカフェなどという催しもあるが、敷居の低さを志向した気軽な講演会、学習会を意味し、本のタイトルになっている「憲法カフェ」も、あすわかのHPを見ると頻繁に行われていることが伺える。

面白いのは、全く立場が逆の「改憲派」も同様の運動を行っていることで、その名も「憲法おしゃべりカフェ」で、日本女性の会日本会議の女性組織)のHPを見ると、こちらも頻繁に開催されている。

ということで、似た名前だが、「憲法カフェ」VS「憲法おしゃべりカフ」は、思想が対立する団体同士の活動、ということになる。

「憲法おしゃべりカフェ」の方も2冊本を出しており、導入部についてはアニメも用意されている手の凝りようで、こちらも敷居が下げて、ファンを増やそうと頑張っている。

女子の集まる憲法おしゃべりカフェ

女子の集まる憲法おしゃべりカフェ

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なお、『女性が集まる憲法おしゃべりカフェ』については、今年5月のラジオ荻上チキがいくつかの個所の具体的に批判しており、これに対して、出版元の明成社は抗議をしている。

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さらには、「『女子の集まる憲法おしゃべりカフェ』にだまされたくない人のためのおしゃべりカフェ」などという催しが開かれたり、週刊金曜日の最新号(8月5日号/特集日本会議)で「女子の集まる憲法おしゃべりカフェ」に行ってみました。という記事が掲載されているなど、とにかく話題に事欠かない。

週刊金曜日 2016年 8/12 号 [雑誌]

週刊金曜日 2016年 8/12 号 [雑誌]



内容について

アンチ自民改正草案のこちらの「憲法カフェ」の本。目次は以下の通り。

第1章 憲法カフェ:憲法ってなあに?から立憲主義まで

第2章 9条カフェ:戦力の放棄、新安保法制、改憲による国防軍の創設

第3章 秘密保護法カフェ:安保とコラボで戦争できる国づくり

第4章 緊急事態条項カフェ:自民党の改憲草案の紹介をしつつ

第5章 民主主義カフェ:選挙・政治のアクション・「不断の努力」


『檻の中のライオン』でも「権力(ライオン)を法(檻)で縛る」という比喩とともに紹介されていた、憲法についての基本的な考え方である「立憲主義」については第1章で紹介があり、わざわざ安倍首相が立憲主義を理解していないのではないか、という答弁をピックアップしている。

○畑浩治委員 厳密に言えば通告しておりませんが、憲法との関係でちょっとお伺いしたいんですが、総理、憲法というのはどういう性格のものだとお考えでしょうか。

○安倍晋三内閣総理大臣 憲法について、考え方の一つとして、いわば国家権力を縛るものだという考え方はありますが、しかし、それはかつて王権が 絶対権力を持っていた時代の主流的な考え方であって、今まさに憲法というのは、日本という国の形、そして理想と未来を語るものではないか、このように思い ます。(2014年2月3日の衆院予算委員会答弁)

立憲主義の考え方は教科書的な内容なのだと思うが、そうでなくても、国家権力を縛るために憲法がある、という考え方の方が合理的だし、人類・国家の歴史を考えれば至極当たり前の考え方だと思うが、安倍首相が、自信を持ってこのような喋り方をすると、正しいことを言っているような気がしてしまうのかもしれない。

個人の自由を制限して、国家権力のできることを増やそうとする自民党の改正草案のどこがそれほど魅力的なのかよく分からない。自分なんかは、むしろ、ごくごく少人数のグループが出した案ではなく、多くの政治家の目を通した日本で一番大きな政党の出す案がこれなのか、というところに衝撃を受ける。


本の中では、2013年12月に強行採決された特定秘密保護法について扱った3章や、「お試し改憲」の例としてよく名の挙がる緊急事態条項について扱った4章が勉強になった。

通して読んでみたが、やはり一連の流れを復習してみても、自民改正草案は全く納得ができないし、特定秘密保護法も酷いと思う。それにも関わらず自民党や安倍首相の人気が衰えないのは、本当に不思議な気がするが、もっと勉強すれば理解できるときも来るのかもしれない。次回こそは、国民会議や安倍首相支持の立場から書かれた本を読んでみたい。


参考

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2016-08-14 Sun

[]中島歌子が伝えたかったもの〜朝井まかて『恋歌』

恋歌 (講談社文庫)

恋歌 (講談社文庫)

久しぶりの歴史小説

2014年冲方丁天地明察』(上)(下)を読んで以来だが、今回は、少しきっかけが変わっている。

少し前に「変わったミステリ」が読みたいと思って、本好きの意見を募ったときに、「古野まほろ」を紹介してくれる方がいた。結局そのときは岡嶋二人クラインの壺』を読んで「変なミステリ」衝動は収まったのだが、何となく名前が気になっていた。

考えてみると、気になった理由は「漢字姓+かな名」に、「沼田まほかる」という強烈な先達がいたからだと思うのだが、「古野まほろ」という名前は全く憶えていなかった。名前を分からないので、普通だったら探さないのだが、冊数に限りのある地元図書館でそのことを思い出したので、ひたすら「漢字姓+かな名」を探したのだった。そこで行き当たったのが「朝井まかて」。「沼田まほかる」的な名前なので、この人かもしれない(笑)と、手に取った本が、この『恋歌(れんか)』だった。

タイトルを見た時点で、ミステリっぽくないのは分かっていたが、幕末から明治にかけての物語と知り、さらに興味が失せる。しかし、直木賞受賞作というところが何とかフックになって、この本を借りることにした。自分は書店ではこういう衝動買いをしないので、その意味では、図書館だからこそ読めた本ということが出来るかもしれない。


さて、読み始めてみると、樋口一葉の師・中島歌子について書かれた本、という以外に全く内容を知らなかったのが功を奏したのか、全370頁をストレスなく読了することができた。

とはいえ、中盤に向けては、途中でストップしてしまうのではないかと不安になったことも確かだ。

主人公である登世(中島歌子)が、小石川にある池田屋を出て、水戸藩の侍に嫁ぐまでの話こそ面白かったものの、それ以降は尊王攘夷に動こうとする水戸藩の天狗党と、党内で意見の異なる諸生党の内部でのいざこざのみ。話がどこに向かっているのかよくわからなかったのだ。


熱中して読んだのは、話が一気にキナ臭くなる200頁を過ぎたあたりからである。

おそらく日本史幕末に詳しければ、安政の大獄(戊午の大獄)、桜田門外の変から天狗党の乱に繋がる水戸藩の動きについては分かっていてもおかしくなかっただろうが、自分は全く知らない。

突如、それまで作中で議論ばかりしていた藤田小四郎が筑波山で蜂起し、以降、軍勢は膨れ上がるが、さすがに読んでいる方もこれが上手くいくとは思わない。

あっという間に天狗党は「朝敵」とされ、登世ら天狗党の侍の妻子は、牢獄に入れられてしまう。牢獄での生活は凄惨極まりない。(350人が斬首されたという、この赤沼牢屋敷跡は、今では茨城心霊スポットとなっているらしい)

そんな中、やっとのことで、牢獄を出ることを許された登世が、義妹のてつと歩き出すシーンは感動的だ。

「いいえ、逃げるんじゃないわ」

てつ殿の手を引き、固く握りしめた。

「生きるのよ。一緒に」

私たちは、青き草の上へと踏み出した。p305


その後、水戸から江戸に戻った登世は、歌の修業をして中島歌子と名乗り、「萩の舎」を開塾する。

この物語は、このような中島歌子の半生を、「萩の舎」で育った花圃と澄が、手記として読むという形式で進んでいく。そして、中島歌子(登世)が、いかに夫(林忠左衛門以徳)のことを愛していたかが、第6章のラストで、死後何年も経つ夫に向けて読んだ歌に凝縮されて表れている。弟子が師匠の知られざる過去を知ったこのタイミングで話が終わっても区切りはいい。

恋することを教えたのはあなたなのだから、どうかお願いです、忘れ方も教えてください。

君にこそ恋しきふしは習ひつれ さらば忘るることもをしへよ


しかし、『恋歌』は、ラスト30ページで、登場人物についての意外な事実と、手記が書かれた理由が明かされ、エンタメ度も非常に高い作品になっている。


物語の構成については、大矢博子さんによる文庫解説が非常に上手くまとまっている。

その「伝える」ということが、本書のテーマなのである。あの幕末の動乱の中で、多くの男たちが死んだ。生き残った女たちは、それを抱えて生き、生命を継ぎ、伝えていく。あなたたちの今は、これだけ多くの犠牲の上に立っているのだと、あの血塗られた日々があってこその今なのだと、伝えていく。名も残せず男たちが死んでいった、その喪失を抱えて女たちは生きた、それを伝えることの積み重ねで歴史はできているのだと。

歌子が門下生に伝えた…という物語を描くことで、朝井まかては読者に「伝えて」いるのだ。歌子が明治の娘たちに伝えたかった歴史は、そのまま今につながっているのだということを。本書は、構造そのものに著者の思いが込められているのである。


歌子の手記の凄いところは、あの赤沼牢獄の酷い経験があったにもかかわらず、復讐の連鎖を終わらせることを望んだところにある。夫に向けて歌った「恋歌」は、平和への祈りを含んでいるのだ。(実際には、本当にすごいのは、資料や彼女の残した歌から、このようなストーリーを構築した朝井まかてなのだが。)

「伝えることの積み重ねで歴史はできている」のは確かだが、そのときに伝えるのは「事実」や「知識」だけではない。確かに、教科書的内容は「事実」や「知識」で組み立てられているのかもしれないが、人づてに伝えていくべき、もっと大切なことは、平和への祈りであり、平和だからこそ享受できる恋愛や生きる喜びなのだろう。

徳川慶喜ら幕末の重要人物にも興味が湧いたし、これまであまり意識しなかった水戸藩について興味を持つことが出来たという意味でも、良かった。もっと歴史小説や歴史に関する本を読んで知識を広げていきたい。


なお、天狗党に関する本はいくつかあるようだが、マンガはないのかと調べてみたら、黒田硫黄の著作が引っかかる。水戸藩とは無関係で、天狗に関係する話のようだが、こちらも面白そう。



参考(過去日記)

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