Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

やっぱり翌日再試合はおかしい

昨日も書いたようにスポーツの話題は苦手なので、なるべく避けたいところですが、どうしてもトラックバックを送りたいエントリがあったので、力を振り絞って書きます。

今回話題にするのは、高校野球についてですが、最近の自分のスポーツに対する考え方については、今年の正月の、駅伝と高校サッカー野洲高校)に関するエントリに、ある程度示してあります。コチラの方が短くてわかりやすいかもしれないので、こちらも参考にしてください。
http://d.hatena.ne.jp/rararapocari/20060110
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さて、人生の大先輩であるヤマトさんに、かなり批判的な内容のエントリをアップするのはどうかと思ったのですが、ここは胸を借りるつもりで、ヤマトさんの「延長15回翌日再試合」擁護論に反対したいと思います。

まず、基本的な考え方として、プロスポーツとアマチュアスポーツは異なるものなのではないか?という点があります。
例えば、最近は、亀田興毅の世界戦とTBSの問題について大きく騒がれました。W杯のときにも試合日程に関して、電通批判があったことが思い出されますが、プロスポーツである以上、ある程度までは、スポンサーとの関係も大事にする必要があるだろうと感じています。日本サッカー協会の川淵会長もしかりですが、商業主義に走りすぎるのが問題であって、商業的センスが全くなければ、そもそもプロスポーツとして成立しないのでしょう。*1
(※W杯は、日本の代表メンバーを考えたとき、全員がプロなのでプロスポーツとして扱っています。ここら辺の理解が正しいかどうかはよくわかりません。)
したがって、上に挙げたような事例での賛否は、商業主義に走る「程度」に関する理解の差で生じるところがあり、自分としては、3件全てに「反商業」的な感想を持っていますが、そうでない人がいるのも理解できます。

しかし、今回のようなケースでは、高校球児たちが疲れた体に鞭打って、高校野球ファンを楽しませなくてはならない理由がわからないのです。今日は残念ながら仕事があり、中継を見ることが出来ませんでしたが、見たとしても、罪悪感から素直に試合を楽しめなかったでしょう。
極端にいえば、自分が「球史に残る名勝負」を二日連続15回+9回に渡って見ることができるのは、若いタレントたちの選手生命と引き換えだという暗澹たる思いに囚われてしまうと感じたのです。

ただ、自分の考え方の前提には、高校野球の投手が4連投、5連投することは、下手をすれば選手生命を失うくらい、負荷の高いことだ、という認識があります。したがって、「そうでもないよ」という人とは全く話が合わないでしょう。
自分も、硬球を9イニング投げたことがないので、そこら辺の感覚はわかりません。おそらく、そうではないか?という程度の認識です。
しかし、程度にもよりますが、選手へのリスクを理解する人が合理的に考えれば、4連投、5連投が確実となる「翌日再試合」は避けるのが普通であると考えます。

こういったことを踏まえて、ヤマトさんの主張に踏み込んでみたいと思います。

この延長15回翌日再試合というルールに異論をお持ちの方もおられるでしょう。
私は、このルールに反対はしません!

高校球児にとって「甲子園」は聖地であり、憧れの場所です。
そして、そこで優勝することが何よりも大切なことだと考えている選手が大半だと思います。
もちろん、そこで結果を残し、プロでの活躍を考えている選手も多いことでしょう。

こうした精神的な部分を背景として、
彼等は普段から想像を絶するような練習を重ねています。
極端に言えば、延長15回翌日再試合という負荷量以上の練習をこなしてきているという現実があります。
また、日本における高校野球は「野球道」として武道の一つという捉え方がされてきました。野球という競技のスキルアップを最優先に考えるのではなく、精神修養を第一義とする考え方が支配的だったということです。今でも各チームの指導者からそうした発言がありますから、喪失した概念ではないと思います。

この部分については、二点意見があります。

  1. (体を壊すような)想像を絶するような練習を強いられるようなスポーツは、そもそも存在意義からしておかしくないか?
  2. 精神論のごり押しは、体罰(暴力)容認の体質を生む危険性があるのではないか?

双方に関連しますが、自分が大学時代に所属していた運動部では、合宿時に非常に理不尽なシゴキがありました。これについては部内でも賛否両論ありましたが、シゴキが元で、怪我をしたり、部を辞めてしまった人間もいたことを考えると、現在では否定的な気持ちが強いです。
野球部に入る高校生たちに共通する気持ちは、おそらく「野球がうまくなりたい」ということで、おまけとして「精神修養」がついてくるとしても、それが主目的ではありません。野球を嫌いになるような過酷な練習が、スポーツのあり方としてふさわしいとは僕には思えません。
そして、理屈抜きの理不尽なシゴキは、体罰(暴力)との線引きが非常に難しくなります。
つまり、スポーツの練習は、「自分がうまくなるため」「チームが強くなるため」に合理的な内容が選択されるべきでしょう。そして、オシムのサッカーが、試合だけでなく、練習まで魅力的に感じるのは、チームの目的に対し合理的だからだと思います。

勝戦の引き分け再試合は、69年夏の三沢(青森)−松山商(愛媛)以来だそうです。この試合は今でも記憶に残っています。
投手の投げるボールの威力は前日の比ではありませんでした。
そして、三沢高校の投手はプロへ行きましたが、残念ながら既に肩は使い物になりませんでした。

このエピソードは、今朝のニュースで知りました。*2
しかし、ニュースを読み上げたキャスターが、その直後に「今日の試合が本当に楽しみです」というのは、本当に気持ち悪かった。
何故、不幸な過去を紹介しておいて、同様の状況にある今日の試合が「楽しみ」なんでしょうか?

しかし、これは延長再試合だけが影響したものでしょうか?
そうでは無いとヤマトは考えています。
過酷な練習とフィジカル・ケアの不十分さが招いた結果だと考えています。
前者については現在の方がより過酷かもしれません。
にも関わらず、甲子園で名を馳せた好投手がプロでも十分活躍している現実があります。
もちろん、ダメになる選手だっています。
それは、継続的な資質向上とフィジカルにおけるリスク管理PDCAによるスパイラルアップのあり方次第だと思うのです。

これは、ヤマトさんの言うとおりリスク論の話です。
高校球児たちの将来を考えるならば、リスク削減のために取れる策はいくらでもあるはずです。

  • 連投が続かないよう、開催日程を改めるべき
  • 選手の体調管理を考え、真夏の開催を改めるべき
  • 真夏に開催するのであれば、最も気温の上がるお昼の時間は試合を組まない

どう考えても高いリスク状況下で、選手の体調はチームのケアに責任があると言い切るのは厳しいです。明らかに高野連の責任です。
また、リスクの種類が「選手生命」であることを考えると、そのリスクを保有するという選択肢はありません。ゼロリスクというのはあり得ませんが、「日程」「季節」「試合時間」など、問題が明らかなものを放置しておくのは、非合理的だと考えます。

あれこれ理屈を言う前に、駒苫早実の選手の意見を聞いてみれば良いと思うのですが、私が選手だったら「翌日再試合」を選ぶでしょう!

実際、今回の試合では、両投手が、再試合への抱負を語り、再戦できて嬉しく思う、と発言していたように思います。
しかし、この状況で選手が「もうやりたくない」とは言わないでしょう。
例えば、同じサッカーチームの仲間に心臓病で一試合につき、30分しか出場できない選手がいたとします。しかし、出場30分を過ぎても「翼君と戦いたいんだ」とゴネたとしたら、どうでしょう?選手の気持ちを尊重して継続して出場することを認めるでしょうか?99%の人間が、彼(三杉君)を止めるでしょう。
今回の状況も同じだと思います。
過去の事例から考えても、悪い結果が出る可能性が少なからずあるのに、どうして選手の意見を尊重できるでしょうか。選手のためを思うからこそ、彼らの意見は無視されるべきだと思います。

しかし、人々の心にはきっと残ります。今年の夏のあの雄叫びが。
彼自身も一生涯忘れることは無いでしょう。
甲子園のバッターボックスで飛び散る汗と共に発したあの雄叫びを。

その通りです。
僕は記憶力が悪いので自信がありませんが、多くの人の心には、今回の決勝戦の姿が強く心に残るでしょう。
69年夏の三沢(青森)−松山商(愛媛)の試合のことも今も多くの人の記憶に残っています。
しかし、肩を壊してしまった三沢投手のその後の人生を追っかけて気にしている人がどれだけいたのでしょうか?
だからこそ、選手の今後のことは、大会期間の中に考慮されているべきなのです。
人間は、忘れやすい生き物だからこそ、会ったことも無い高校生のことを本気で心配できる短い期間に、最大限に選手への配慮を行うべきだと思います。
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ものすごく長くなってしまいました。
好き勝手に書いてしまい、すみませんでした。
ヤマトさん、今後もよろしくお願いします。

*1:「競技内容や判定の操作」や「黒い金」が絡んでいれば、擁護の余地はありません。

*2:やっぱり『巨人の星』や『MAJOR』だけではなく、連投で肩を壊す投手というのは実在するじゃありませんか?マンガで得た知識も無駄にはなりませんでした。