Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

「郊外」的生活の中の悪夢〜 吉田修一『悪人』

悪人

悪人

例えば歌野晶午『葉桜の季節に君を想うということ』のような、奇抜な仕掛けのある作品を好む自分からすると、地味な作品といえるかもしれない。密室でも連続でもなんでもなく、出会い系サイトで出会った男性に女性が殺される事件を中心にして話は進む。トリック解明のカタルシスがあるわけではなく、社会派というほど典型的な社会問題を取り上げているわけでもない。ただただ多くの関係者の視点から事件前後の描写が続くだけ。
Amazonの紹介文では「群像劇は、逃亡劇から純愛劇へ」とある。群像劇という言い方は、言われれば、ああそうかという感じで、『パレード』のような典型的なものではない。むしろ、焦点は逃亡する「犯人」に当てられる。最後は純愛劇に終わるのだが、最小限に抑えられているので、甘い感じはしない。むしろ、ど真ん中のテーマ「悪人とは?」が深いので、読後感はやるせない気持ちの方が強い。
なお、読んでいて、全く「都市生活小説の名手?」である吉田修一っぽさを感じなかったのは、ほぼ全ての会話が方言で交わされるからだろう。しかし、こうして振り返ってみると、やはり時代の空気(生きにくさ)をうまく反映しながら、問題提起が前面に出過ぎない、いつもの吉田修一作品になっており、感心する。
ただし、これだけボリュームのある作品なのだから、読後感が最悪といえるくらい重いものであってもよかった。むしろスルッと読めてしまうのが残念だった。
以下、ネタばれを気にせず、「倒叙」「郊外」「悪人」の3つの観点から書き綴る。
大作なので、『悪人』を読んだ人は是非見てください。


(以下ネタばれがあるので、少し空けます)









倒叙

この日、長崎市に住む若い土木作業員が、福岡市内に暮らす保険外交員の石橋佳乃を絞殺し、その死体を遺棄した容疑で、長崎警察に逮捕されたのだ。(P9)

この物語は、冒頭で犯人が誰かわかる「倒叙」形式を取っている。
しかし、実際には、4章までは、「長崎市に住む土木作業員」清水祐一が犯人でない可能性がしつこく示唆される。もう一人の候補は「福岡市に住む大学生」増尾圭吾であり、事件後、身を隠しており、状況的には一番怪しい人物だ。しかし、事件の瞬間、現場で何が起きたのかについて具体的な描写が無いため、読者は宙ぶらりんになる。上に引用した文章によって、犯人が増尾圭吾である可能性は排除されるのだが、この部分を省いても物語は当然成立するし、むしろ、その方が読者の興味をひきやすいように思える。


それでは、何故、あえて冒頭で清水祐一が犯人であることを明記したのか。
自分は、「取り返しのつかない感」を大事にしたかったためだと考える。取り返しがつかないことをしたとき、「もしかしたらあれは何かの間違いで、本当はうまくいっているのでは?」などと、都合のいい空想をすることがあるが、一瞬で、そんなことは無いと夢から覚める。そういうドン底に落ちていく後悔を表したかったのではないか。あとでも述べるが、この物語で、読者が許せないと感じる一番の「悪人」は増尾圭吾である。しかし、現実には、殺人事件を起こすのが常に、許せないやつというわけではない。むしろ「なぜ、あんないい人が・・・。」ということの方が多い。「もしかしたら事件を起こしたのは、冒頭で示された真犯人ではないのかも」と思わせるような構成は、そういう現実の理不尽さ、無念さを強調する効果を生んでいると思う。

郊外

佐賀バイパスと呼ばれるこの街道は、決して交通量の少ない道ではないが、周囲の景色が単調なせいか、まるで数分前に見た光景を、繰り返し眺めているような気分にさせられる。(P169)

水谷の息子を庇うわけではないが、この町で外に出たところでたかが知れている。三日も続けて外出すれば、必ず昨日会った誰かと再会する。実際、録画された映像を、繰り返し流しているような町なのだ。(P172)

前述したように、吉田修一といえば、「都市」のイメージが強い。しかし、『悪人』は、主に、佐賀、長崎の郊外、もっといえばロードサイドの風景が繰り返し現れる。

これは、明らかに(というと言い過ぎだが)、気を抜くと、ただ日々を積み重ねて金太郎飴化しがちな現代人の生活*1を郊外の風景に重ねたものだろう。下に引用した光代の言葉なんかは典型だが、今や元旦ですら他の平日と区別がつかないくらい、一年の変化というものは少ない。加えて長期的な時間軸で見ても、今の日本は、ごく一部の地域を除けば、住んでいる地域が今より良くなるという期待感を持ちにくい。
成長せずに、のっぺりとしたイメージが続く(そして突然崩れる)感じは、そういった暮らしぶりと「郊外」に共通して存在する。

(元旦の光代の行動描写)
光代は時間を持て余し、自転車で年中無休のショッピングセンターへ向かった。街道沿いの広い駐車場は満車で、店内は晴れ着姿の家族連れも多かった。(略)
CDショップの窓から外が見えた。さっき自分が停めた自転車があり、誰が捨てたのか、カゴに空き缶が入れられていた。一瞬、目がかすんだ。自分が泣いていることに気がついたのはそのときだった。光代は慌てて店を飛び出し、トイレを探して駆け込んだ。何で泣いているのか、自分でも分からなかった。自転車のカゴに空き缶を入れられたからじゃない・・・。
自分には欲しい本もCDもなかった。新年が始まったばかりなのに、行きたいところも、会いたい人もいなかった。(P369)

そうした「郊外的」な暮らしに慣れすぎた光代は、祐一と出会ったことで、自分の人生が変わったと感じる。「のっぺり」は「大切な人」との出会いで変わる。それが物語が「純愛劇」と評価されるゆえんだ。

私ね、祐一と会うまで、一日がこげん大切に思えたことなかった。仕事しとったら一日なんてあっという間に終わって、あっという間に一週間が過ぎて、気がつくともう一年・・・。私、今まで何しとったとやろ?(P370)

しかし、「大切な人」とは誰なのだろうか?
すべての人が「大切な人」に出会えるのだろうか?

悪人

「今の世の中、大切な人もおらん人間が多すぎったい。大切な人がおらん人間は、何でもできると思い込む。自分には失うもんがなかっち、それで自分が強うなった気になっとる。失うものもなければ、欲しいものもない。だけんやろ、自分を余裕のある人間っち思い込んで、失ったり、欲しがったり一喜一憂する人間を、馬鹿にした目で眺めとる。そうじゃなかとよ。本当はそれじゃ駄目とよ」(P397)

娘の佳乃を殺害された石橋佳男のこの言葉は、核心の部分だろう。物語の中では、「悪人」という言葉は、殺人事件の犯人である清水祐一を指す言葉として何回か使われる。しかし同時に、清水祐一は、事件は起こしたものの、他人に迷惑をかけないように、すべての罪を自分で被る「いい人」として描かれている。
一方で、読者が憎らしく感じるように描かれているのは、祐一の祖母を脅す詐欺師たちであり、被害者宅に押しかけるマスコミであり、石橋佳乃をぞんざいに扱い、事件のお膳立てをした増尾圭吾である。そういう彼らの特徴は、上に引用した石橋佳男の言葉で括ることができる。しかし、だからといって「大切な人がおらん人間」が全否定されるのだろうか?勿論そうではない。
最終章で、佳男はスパナを隠し持ち、増尾圭吾に直接会いに行く。しかし、実際に本人を目の前にすると憎しみは悲しみに変わった。

「・・・そうやってずっと、人のこと、笑って生きていけばよか」
途方もなく悲しかった。憎さなど吹っ飛んでしまうほど悲しかった。
増尾たちはきょとんとしている。佳男はスパナを懐から出すと、増尾の足元に投げた。そしてもう何も言わずに、その場をあとにした。(P399)

広い意味で考えれば、「大切な人」は、恋人だけではない。親友であり、恩師であり、先輩後輩であり、親類である。そういった「大切な人」を思えば、人を笑うことなどできない。
しかし、自分の娘であり、事件の被害者である石橋佳乃がほしかったのは「恋人」としての「大切な人」であり、出会い系などにメールを出したのも、「大切な人」のいない寂しさ故だろう。そう考えれば、佳乃もまた「大切な人がおらん人間」なのだ。
それも含めて、佳男は自分の考えていた以上に、「今の世の中」は「大切な人もおらん人間」が多すぎる、ということを実感したのだ。増尾圭吾と取り巻き連中を見て、自分の考えとのギャップ(それは世代間ギャップというよりは時代間ギャップとでもいうべきだろうか)に気づき、「大切な人もおらん人間」が多いのは、個人の問題というよりは、あらがえない時代の流れによる部分があることに気づき「悲しくなった」というのが、上記引用箇所の描写の意味だと感じた。


さて、何故「大切な人がおらん人間」が多いのだろうか?
理由は二つ考えられる。
まず一つ目は、広義の「大切な人」を想定する。
一昔前は、父の恩、母の恩、わが師の恩・・・といろいろな人に感謝を覚え、「大切な人」としていっただろうが、現代は「恩」を感じにくい世の中=便利な世の中になっている。たとえば、ふた世代程度前には、母親に集中していた子ども・家族の世話は、掃除機、洗濯機、食洗機など、機会の発達で、どんどん楽になってきている。*2
朝、母親がほかの家族の世話をしている間に、目覚まし時計で起きてレンジでチンして食事を済ませてから学校に向かった子どもは、少なくとも朝食のことでは「母のお陰」とは思わないだろう。かといって、それが機械に向かうわけではないことを考えると、昔に比べれば、「今の人」は、恩義を感じること自体が少ない「恩義べた」といえるかもしれない。
したがって、両親も含めて「大切な人」に返す恩義は、一昔前に比べて激減しているといえる。その分、気持ち的な負担は軽くなっているのだから、別に悪いことではない。しかし、それによって、実際にはあるはずの周囲の支えに気づきにくいという弊害はが生まれ、結果として「大切な人がおらん人間」が多くなるのである。


もうひとつ、恋愛相手としての「大切な人」について考える。
この意味での「大切な人がおらん人間」が多いことは、端的にいえば、今は昔と比べて選択可能性が多すぎることが問題なのではないか。
かなり昔であれば、お見合いや親戚の紹介、少し昔であっても友人の紹介(合コン含む)程度であった出会いの可能性が、ネット社会の進展によって、無限近くに広がってしまった。全くつながりのない人間が出会うことが可能となった。ブログ、SNS、モバゲー?、また、出会いを商売にしたさまざまなサービスも含めて、いつ決めればベストなのかがどんどん判断しづらくなり、出会う前から「大切な人」(=運命の人)かどうかという期待値を上げてしまっている。
石橋佳男のいう「大切な人」は、結婚相手も含めて、なんとなく一緒になった周囲の人間と、長い時間をかけて付き合っていく中で関係を深めて、互いを大事に思うようになるという行為の相手を意味しているはずで、出会った瞬間から「大切な人」である必要性など少しも感じていないだろう。結婚相手を数回のお見合いで決めるのであれば、そうならざるを得ない。
逆に、「今の人」は、選択可能性が多すぎて、恋愛相手の選択に慎重になりすぎる(今の相手がいたとしても「運命の人」ではないのでは?、とすぐに切ってしまう)傾向にあるのだろう。勿論、最大の原因は、今の社会情勢+老後不安*3だろうと思うが、ここでは、あくまで生活様式の変化の結果としてのハードル上げについて述べた。


さて、そう思うと、物語終盤の「純愛」の評価も微妙になる。
光代と祐一は、お互いを「大切な人」と思える、最高のカップルであるが出会い系サイトがきっかけとなった恋愛で、出会ってから祐一の逮捕までの、ほんの短い間における「純愛」である。一方で、この物語での、出会い系サイトの扱いは、言うまでもなく、一人の女性が通常であれば出会うはずのない男性に殺される経緯を作りだした舞台装置である。
作者としても、そういった「出会い系サイト」によって結び付けられた二人の恋を「純愛」に祭り上げることは、作品上矛盾があると考えたのではないだろうか?
とすると、短期間で燃え上がった光代と祐一の「純愛」は、やはり、メールの文章と出会いの直感のみの限られた情報を元に、互いの思い込みで「大切な人」を作り上げるしかなかった光代と祐一の生き辛さを間接的に表しているのだと感じる。


「郊外」的な生活の悪夢から逃げ出すために、純愛という思い込みに頼るしかなかった光代、という、かなりひねた見方は、「純愛、光代」を「自己啓発(書)、サラリーマン」に置き換えても意味が通じるようで気持が悪い。しかし、一方で、思い込んだ者勝ちではないか、と思う自分もいる。光代の恋愛は、実際には「偽りの純愛」とでも言えるものだったかもしれなかったが、光代が幸せを手にしていたのは事実だ。そうすると、現代の生きにくさに打ち勝つには、思い込みから覚めない技術が必要になるのかもしれない。(笑)


ラストで変な方に話が向かったが、大作であり、『悪人』というインパクトのあるタイトルに騙されそうになるが、登場人物は、とにかく平凡なタイプばかりである。しかし、そういう平凡な登場人物の中でも、大きな事件が起きる可能性があり、それを読む読者は、安定していると思っていた足元が実はぐらついているのに気づく。吉田修一は、いつも、自分の日常生活を考え直す視点を与えてくれる。
自分にとって、『悪人』も、やはりそういうタイプの本だった。

*1:ちょうど、この前のスピリッツの『上京アフロ田中』でも、「何のために生きているか」問題が(ギャグ漫画的なネタとして)扱われていた。笑ったが考えさせられる内容だった。

*2:昔に比べれば・・・。主婦の仕事が楽だと言うつもりは毛頭ない

*3:政治家(の世代)は、若者が潜在的に抱える老後不安の問題に無関心であるように思える。たとえば、昨年末に発表があったはずの、自民・民主両党による年金の抜本改革案について、ほとんど議論になっていない+報道がなされていない。>参考:http://www.taro.org/blog/index.php/archives/977