Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

ヤナーチェクのシンフォニエッタ

ヤナーチェク:シンフォニエッタ

ヤナーチェク:シンフォニエッタ

演奏は異なるようですが、図書館で借りることができました。(小説『1Q84』内で登場するのはこちらのようです>バルトーク : 管弦楽のための協奏曲 / ヤナーチェク : シンフォニエッタ
上巻は、半分程度読み進めていますが、自分の村上春樹のイメージと違って、かなりわかりやすい小説となっています。
今後の展開が楽しみです。

最後は「自分は何故〜?」に陥る読書〜『アフリカ・レポート』(+『貧困の終焉』)

アフリカ・レポート―壊れる国、生きる人々 (岩波新書)

アフリカ・レポート―壊れる国、生きる人々 (岩波新書)

「アフリカの時代」と言われた1960年代、アフリカ大陸の多くの国が独立を果たした。その恵まれた天然資源をもとに、「かわいそうな」アフリカのイメージを脱却するのかと思いきや、アフリカは依然として貧しいままとなっている。
世の中のすべてのことがそうであるように、複数の因子が絡み合って、こういう状況が作りだされているわけだが、この本では、「政治指導者の腐敗」に焦点が当てられている。
特に、極端なケースとして多くのページを割かれるジンバブエのケースは、インパクトが大きい。自分も政府が機能しておらず、インフレ率が大きい国としての認識程度しかなかったが、ひとまとめで一連の流れを読むと、ムガベ政権のあまりのひどさに呆れてしまう。
これについては、web上でも、非常にわかりやすくまとめられているページがある。最近の動きまでフォローしてあるので、今後も同様のまとめを期待したい。

『アフリカ・レポート』では、南アなどの例も挙げられるが、基本的には「政治指導者の腐敗」という観点が一貫している。それでは、なぜ、人民を植民地の圧政から解放してきたアフリカの指導者たちがなぜ腐敗するのか。これについては、二つの原因が挙げられている。(P75)

  • ひとつめは、伝統的に部族共同体に強い帰属意識である。宗主国の力関係で区切られた「国家」には関心が低く、国家のために、というよりは、部族のために、という行動に走りやすい。
  • もうひとつは、外部からの攻撃に対する強い危機感がないために、「国づくり」に真剣に取り組めないことである。たとえば明治維新直後の日本政府は西欧やロシアに対する強い危機感が国づくりを加速させた。

こうした政治状況については、あまり国際政治に関心のない自分にとっては、「ああ、そうだったのか」という発見があるが、アフリカに対する「腐敗した大陸」という評価は、西欧社会の一般的な見方であるらしい。
しかし、『貧困の終焉』では、そういったアフリカ政府の無能さへの批判と、(植民地時代も含めた)西洋社会の暴力や干渉への批判をとりあげたうえで、「アフリカの貧困が絶えないことのもっと深い理由」として、マラリアエイズを挙げている(10章)。21世紀初頭でも、サハラ以南のアフリカの平均寿命は47歳と短く、国家も国民も、国の発展にエネルギーを割けないのだ。これに対しては、著者ジェフリー・サックスの働きかけもあり、世界は良い方向に向かっているようだが、アフリカの問題は、一朝一夕に理解することは非常に難しいというのが、自分の印象だ。

貧困の終焉―2025年までに世界を変える

貧困の終焉―2025年までに世界を変える

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『アフリカ・レポート』では、アフリカでの政府以外の取り組みとして、ジンバブエの地元NGO「ORAP」の活動を5章で、日本人企業の事例を6章で取り上げる。いずれも、キーワードは「自立」で、まじめに働くことにより、自らが収入を得ていくようなエンジンを、政府ではなく、国民の間に生みだして行こうとする取り組みである。このような活動では、NGOや日本人起業家がそこを去っても、地元住民のみで持続できるような仕組みが意図されている。
それと対照的に取り上げられているのが中国である(3章)。中国人のビジネスに対する意識は強く、儲けられるところからはトコトン儲けるという意識でのアフリカへの関与は非常に大きいようだ。たとえば、人権弾圧などの問題から欧米日の企業が撤退したスーダンには、その隙間を縫って大量の中国人が流入してビジネスを始めているという。その数、5年間で、ほぼ0→3万人。進出した中国資本のスーパーは従業員が全員中国人というところも多いのだというからさらに凄い。中国も「途上国」だからというとなのか、あまりにえげつない。
日本のアフリカ進出は中国の後手に回ったという話もよく耳にするが、ここまでのダイナミックな動きは日本人では無理だろう。
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6章の終りには、2008年5月のTICADⅣの話も取り上げられている。会議の中で、今後5年間で日本政府からのアフリカODAを倍増するという話があったが、出席したNGOのメンバーからは、苦笑がもれたようだ。政府が仕事をできないからNGOがやっているのに、さらに政府に資金が回っても良くなるものか、という疑念があるのだ。実際、TICAD?での福田首相の発言は、主催国としての、ただのかっこつけに終わってしまう可能性も高い。

そういえば、ついこの間、横浜でアフリカ関係のなんとかっていう国際会議があったような気がする。なんでも日本がアフリカを支援するとかいう内容だった。
うーん、でも、夢だったのかもしれない。

アフリカの某国の現職の閣僚が来日しようと日本大使館でビザを申請した。が、却下された。
却下の理由は、書類が不備だったというのとその閣僚が来日するのを外務省が知らなかったから。
イギリスやフランスや韓国やインドの閣僚が来日するビザを申請したら、同じ状況でビザが却下されるのだろうか。
アフリカを支援するという国際会議を何億円をかけて開いて、そのアフリカから閣僚が来ようとするとビザを出さない。
やっぱりあの国際会議は夢だったのか。

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これまでもときどき思い出したように、アフリカなどの世界の貧困についての本を読んでいるから、(自ら言うのは何だが)自分は、この分野について多少は興味があるのだろう。しかし、正直にいえば、世界の貧困の問題は、自分にとっての優先度は非常に低い。

これが海外の「貧困」の現実だ。
日本に「格差」などあるといえるのか。

これが、曽野綾子の新刊『貧困の僻地』の惹き文句だが、自分は素直に受け入れられない。海外に悲惨な状況があるからといって、目の前の蝿を追わなくて良いわけではない。もし努力してもそこから這いあがれない場合は「格差」と言いたくもなるだろうし、アフリカの状況を知れば達観できるわけではない。ましてや、自分のことはさておき、アフリカの貧困問題解決に向けてアクションを起こそう等とは考えられない。日常生活だけでも課題山積であるし、今後向き合わざるを得ない医療・介護・年金の問題まで考えれば、世界の貧困について積極的に考える時間は一年間で数時間程度取れるかどうかという気がする。
だから、こういった問題には「関心がない」というのが、常識的なスタンスであるように思う。
それでは自分は何なんだろうか。
「関心があるふり」をしているのかもしれない。
国際政治に目を向けてかっこつけたいのかもしれない。
世界の貧困問題に興味がある自分が大好きなナルシストなのかもしれない。
何だか、この問題について本を読むときは、そっちの方に関心が行ってしまうのだ。

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