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『デルフィニア戦記』感想その2〜自由とリスク

放浪の戦士〈1〉―デルフィニア戦記 第1部 (中公文庫)

放浪の戦士〈1〉―デルフィニア戦記 第1部 (中公文庫)

ONE PIECE 60 (ジャンプコミックス)

ONE PIECE 60 (ジャンプコミックス)

エース、ルフィ、お前ら無事なんだろ?
お前らに会いてェなァ。
ここは、まで鳥カゴだ。
人間の悪臭が立ち籠めるこの国で
おれは生きていく事に耐えきれそうもない
自由って何だ?どこにあるのかな。
(サボの言葉:ワンピース60巻)

ワンピースと同じく、デルフィニア戦記の主要テーマの一つが「自由」。
例えば、物語後半で重要な役割を果たす暗殺集団ファロット一族は、「自由」を欲しない。ヴァンツァーの言葉を引用する。

考えない癖がついている。良くも悪くも俺たちはそういう生き物だ。それを今さらおまえはもう誰の命令もきかなくていいのだと、好きなように生きろと?ばかげた話だ。蛇に向かって空を飛べ、蝶に泳げと言うようなものだ。
(略)
何の目標もなく、何をするでもなく、漫然と日々を過ごし、自分の意志で死を選ぶことさえできないこの状態を、人は「自由」と表現するらしい。
だとしたら、自由とは何と恐ろしい、何と苦しい、厭らしいものなのだろうか。
(第四部4巻p136)

彼らは非常に優秀な技術を持っているが、生まれてから死ぬまで主の命令に従い、務めを果たすことだけを喜びとして生きる道具なのだ。
刺客としてしか生きられなかったシェラが、自由を奪われることを何より嫌い、自らの意志で進路を切り開いていく王妃(リィ)に出会うことで、少しずつ考え方を改めてゆく。自由に生きることに喜びを感じて行く。
それが、第二部以降の作品の見どころであり、主要なテーマとなっている。
物語を通して、成長が著しいのがシェラは、デルフィニア戦記の裏の主人公とでも言うべきキャラクターである。


誰もが暗殺者集団に属していなくても、他人の命令に従って生きている部分がある。自分の意志をそれほど意識せずに何となく行動を選択している(させられている)ことは多い。
自分の意志で選ぶのは煩わしい部分があり、「自由」と引き換えに、「楽」を享受している部分があり、ある意味で、それは他人の意のままに操られているのかもしれない。
したがって、デルフィニア戦記を読むとき、読者は、シェラの視点から「自由」の体現者であるリィやウォルを眺めることによって、単に気ままなだけではなく、リスクと責任を伴った「自由」について考えることになる。
第四部で、ウォルが王座と引き換えに、その身一つで王妃を取り戻しに出て行く「自由」を選択するあたりも面白い。
ただ、この物語では、「自由」とセットになった「リスク」の部分は結果としては出てこない。それは、イヴンが2度も、ホイミベホマ)的な反則でリィから傷を治してもらっている部分からも分かる。絶対に「悲劇」を起こさずに結末を迎える。ラスト近くは、それくらいの勢いを感じた。


かくいうワンピースもアラバスタ編の最終話では、サブキャラクターの死という「悲劇」を回避しているし、こういったところでも、二つの話には類似点がある。通常、こういう選択肢は、ご都合主義と責められるが、それほど悪印象が無いのは作者の力量なのだろう。
また、「自由」に生きることのリスク部分に目が行きがちな自分にとっては、このくらいのバランスがちょうど良いのかもしれない。