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最後まで取り乱すブッダ〜手塚治虫『ブッダ』(12)

ブッダ 12 (潮漫画文庫)

ブッダ 12 (潮漫画文庫)

最終巻ということもあり、多くの登場人物が命を落とす。

  • コーサラ国との戦いに敗れ命を落とすタッタ(そしてシャカ族の全滅)
  • 幽閉生活から抜け出し、マガタ国のビンビサーラ王に会おうという志半ばで死んだパセーナディ王(ルリ王子の父)
  • ブッダ謀殺に何度も失敗した挙句に誤って自らの命を失うダイバダッタ
  • 塔に幽閉されたまま、予言通りの日に亡くなった前マガタ国王ビンビサーラ(セーニャ)
  • 事故と急病で突然亡くなったサーリプッタモッガラーナ
  • キノコ(ヒョウタンツギ)の食あたりで涅槃に入ったブッダ

中でも1巻から登場しているタッタの死は、物語の中での重要度が高いもののはずだが、ルリ王子の象に踏みつぶされるだけという、非常にあっけないものだった。
また、ダイバダッタの死もかなりの駆け足で物足りない。どちらもいくらでもドラマチックにできるはずなのにそうしなかったのは、出版社側の都合や本人の他の連載との都合など、直接的に物語と関係の無い部分が影響しているのではないかと訝ってしまう。どの程度、手塚治虫の構想通りだったのだろうか。


ともあれ、一番弟子とも言えるタッタの死、そしてシャカ族の全滅は、ブッダにも精神的にこたえるものがあった。しかもそれは、ブッダの教えとは反する、コーサラ国への反乱の結果としてもたらされたものなのだった。

結局人間なんて かぎりなく愚かもので
口先ではいいことをいっていても
やっぱり わがままで 憎み合い 殺し合う生きものなのか!?
私は何十年もそういった連中にむだな説教をしてきたわけか!?
ああ むなしい!!
私は一生なんとむだなことをしてきたんだ
p106

そこで、ブッダは、誰にも会わずに死んでいったナラダッタのことを思い出す。やはり手塚治虫は、もう一人のブッダ(めざめた者)として、ナラダッタを物語に配置したのだろう。
しかし、そのナラダッタとは異なり、ブッダがこれまで説教を続けてきたからこそ、その教えによって生まれ変わった、救われた人も多いのだ、そしてその教えは永久に伝わっていくことを、アナンダによって諭され、ブッダは正気を取り戻す。
これ以外の場面でも、後継と考えていたサーリプッタモッガラーナの死を知らされる部分など、ブッダは最終巻なのに気を取り乱し過ぎだが、そこは手塚治虫の味付けなのだろう。個人的には、もっと落ち着いていた方が読む側としても安心できるのだが…。


この巻でブッダは新しい悟りを開く。マガタ国王であるアジャセの脳腫を、3年間毎日12時間の治療(指をあてる)を続けて治し、それとともにアジャセを改心させたのだ。

わかったぞ そうだ いまわかったぞ〜っ
人間の心の中にこそ…神がいる…神が宿っているんだ!!
(略)
ブラフマン!!聞いて下さい
私はアジャセ王の微笑みに神のような美しさを見つけました!!
修行僧でもない聖者でもないふつうの人間です!!
ブラフマンよ!神というのはだれの心にも宿っているのですな?
だれでも神になれるのですね?そうでしょう?
私はいままできびしい修行をして聖者になることを弟子たちに教えてきました!!
そうじゃない!そうじゃないんだ!
聖者どころか 神には…だれでもなれるんだ!!
p193

この部分は、正直言って物語の中での説得力が無い。
まず「人間の中に神がいる」という言葉自体の陳腐さと、仏教で「神」という言葉を使う違和感がある。また、ここまで高みに登った人物でも、やはりブラフマンに教えを乞う立場なんだ…とガッカリするのもあるが、一番強く感じたのは、物語の中での「新しさ」が無い点。
そもそも、手塚治虫ブッダ』の中でのエピソードは、この「新しい悟り」を開く以前から、それ(人間の中に神がいる)を前提とした内容になっており、常々ブッダが語っていたことのように思えるので、何を今さら…となってしまう。9巻あたりで説いていた、悩みを消すために「心を閉じる」というような無理矢理な話が「これまでの悟り」だとしたら、ストーリー展開の流れは自然になるが、納得しづらい。結局、どうしてブッダが我を忘れるほど「わかったぞ〜!」と叫ぶのかが分からない。


ただ、それ以降のブッダの教えも、これまで通りやはり心に響くものはある。

みなさんは みなさんのできる方法でやればよい
お金を持っている人は 苦しんでいる人に与え
力のある人は 苦しんでいる人を支えてやりなさい
余分なお金も力もない人は…
せめて相手の気持ちをくみとって かわいそうに…と同情してあげなさい
それだけでもいいのです
それであなたは あのたとえ話のウサギのように相手のために苦しんだことになる
この心のことを「慈悲」と呼びましょう
慈悲!どんな人の心にも宿っているはずです
p211


巻末解説で萩尾望都が語るように、「タッタは、ブッダと似ていながらブッダの中に収拾しきれなかった人間性を生きていた」といえるし、それはナラダッタにも同じことが言える。そのようにして見てみると、一人の人間の様々な感情が分配されて、それぞれの登場人物が形成されているようにも思う。つまりは、読むときの状況に合わせて、今の自分は誰に似ているのか、今感じている怒りは誰の持つ怒りと同じなのか、そういった読み方ができる漫画が、この手塚治虫ブッダ』なのかもしれない、と思う。だからこそ、ブッダは最後まで取り乱し、人間臭く描かれているのではないか。
つまり、手塚治虫ブッダ』は、ブッダの人生を辿りながら、読むたび毎に、悩みや怒りを投影できる傑作だと思う。