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「科学技術」は何によって担保されるのか〜レイモンド・S・ブラッドレー『地球温暖化バッシング』

地球温暖化バッシング: 懐疑論を焚きつける正体

地球温暖化バッシング: 懐疑論を焚きつける正体

大飯原発の再稼働の是非を決める活断層調査について、その結果が注目されている。


また、少し前には、2009年7月にラクイラで起きた地震を予知できず、安全宣言を出したイタリアの学者に実刑判決が下ったニュースが話題になった。


こういった科学技術と政策(防災、安全管理)の関係は、個々の状況によって考え方は異なるものの、特に日本では3.11以降増えている。
地球温暖化バッシング』は、このような科学技術と政治の問題を、地球温暖化問題*1の最前線で経験した気象学者による本。
直接的なテーマは異なるが、最近の自分の問題意識にあっており、非常に勉強になった。


まず、政治家と科学者の役割分担について、かなり簡略化して考えてみる。

  • 政治家は、限られた予算という制約条件の下で、数ある選択肢の中から、現在そして将来の国民と国家(そして地球)のために最適だと考えられる道を判断し選ぶことを任された人。
  • 科学者は、科学的な手法を用いて、物事の真理と考えるものを追求する人。必要とあれば、将来の道を選ぶために必要な材料を揃える人。(実際には、科学と技術などさらに切り分けが必要だが、ここはシンプルに。)

そう考えれば、両者を明確に切り分けて考えることができるような気がするが、そう上手くは行かない。
そもそも、判断材料としての科学的結論が選択の幅を狭める場合、政治家が判断を下す前に結論が出てしまう場合が考えられる。すると、政治家側は、これを避けるため(都合よい選択をするため)、科学者を取り込んで、自分に都合のよい結論を科学者に出させようとする。もしくは逆に不利益を被るような材料は何とかして打ち消そうとする。
日本の原子力で問題となっているのは、まさにこの部分だろう。ただ、こうしたグレーゾーンの状況は、当事者にしかその程度が分からない。だから、外から見ると、見えない内側のグレーゾーンでは、悪いことが行われていて、悪代官が金のお菓子をもらうようなことが行われているはず、と適当にイメージを作ったりしてしまう。
ところが、この本を読む限り、地球温暖化についてIPCCが行っていることは、ほとんど政治性を含まないところで成立していると理解した。それを可能にしているのはプロセスだ。この本で主に取り上げられているホッケースティック曲線は、もともとは雑誌『ネイチャー』に発表されたものだが、気候変動に関する政府間パネルIPCC)の報告書などで何度も引用されている。IPCCの報告書については、レポートの原案を、参加するほぼすべての人が読み、意見を出し合って最終的な成果になるため、通常の学術論文以上に厳しい目にさらされると考えられる。特に、ホッケースティック曲線のような刺激的なものであれば。
このような「オープンで公正なプロセス」を経て作られたものが、気象が専門ではない個人の科学者による懐疑論によってひっくり返されるはずがない、ということは、この本を読まずともわかりそうなものだ。


しかし、この本を読むまで、自分もぼんやり「懐疑論にも一理あるのだろう」と考えていた。
それはどうしてかと我が身を振り返ると、正論には反論したくなる天邪鬼な気性だけでなく、一方的な説にバランスを取っておきたいと考える部分があったからだ。また、一時期、あまりに情報が溢れたせいで、地球温暖化の議論自体に興味がわかなくなってしまっていた。


だから、今回、地球温暖化問題で生じた論争とバッシングについて、科学的事実の側面からだけでなく現場の科学者の心理を中心に辿ったこの本は、非常に刺激的たっだ。また、地球温暖化問題の深刻さについて、認識を新たにした。
そして、理論が正しいかどうかよりも、それを支持する人の科学的な態度(誠実さ)と情熱にこそ、自分は惹きつけられるのだと思った。(勿論、最終的には、その理論の是非が問題になるにしても)


冒頭に掲げた「科学」と「政治」の切り分けから地球温暖化懐疑論を考える場合、2つのタイプの懐疑論がある。一つは科学的結論自体に疑いを挟むもの。もう一つは、科学的結論から導かれる政策決定(もしくは政策決定を前提とした科学的結論)に疑いを挟むもの。


後者は、簡単に言えば「陰謀論」ということになる。
例えば、原発推進のために、とか、排出権取引ビジネスのために地球温暖化を主張するというものだ。
しかし、少なくとも著者のブラッドレーら、ホッケースティック曲線の「首謀者」たちは、政治性とは切り離された部分で研究をしているように読める。米国でのやり取りを見る限りでは、懐疑論者の方が政治性を帯びており、それを隠さない。


前者の科学的な部分の議論については、5章に詳しいが、非常に丁寧に書かれているので、もはや懐疑論自体が無意味なものに思えてくるほどだ。上述した「プロセス」での信頼性があり、かつ、様々な疑問点に対して納得のいく説明がなされているので、懐疑論になびくことはしばらくなさそうだ。
日本では、主張が科学的かどうかは、発言主が専門家かどうかのみで判断されることが多い。だからこそ、ここに来て科学技術不信が加速しているように思う。科学がプロセスによって担保されるものであれば、ここまでのクライシスには陥らなかったのではないかと感じる。
ここ数年が日本の科学技術にとって正念場と言えるのかもしれない。

余談

ちょうど米国大統領選挙があと少しに迫っている。
しかし、4年前の選挙の際にテーマとなっていた環境政策はやや影を潜めているように見える。4年の間に、いわゆるグリーン・ニューディールは失敗し、対照的にシェールガスが盛り上がっている。

言うまでもなく、米国は化石燃料への依存を再び深めようとしており、二酸化炭素(CO2)の排出削減などはもはや政策の視野になさそうだ。シェールガスは世界各地で発見され、商用化に向けた動きが始まっている。世界最大のCO2排出国である中国は世界最大のシェールガス埋蔵量があるとされ、四川省の試掘は良好な結果だった。米中がシェールガスに傾けば、CO2排出の本格的な削減は事実上進まなくなるのは明らかだ。


一方でNY市長など、今回のハリケーン被害について温暖化に結び付けて語る人もいる。温暖化問題への対処は、排出規模の大きい米中の動き方でどうにでもなってしまうので、地球温暖化問題について、より積極的だと考えられるオバマを応援したい。

市長は米通信社ブルームバーグ(電子版)に寄稿。昨年8月のハリケーン「アイリーン」に続く今回のサンディの襲来という異常事態について「気候は変動している」と強調し、「ホワイトハウス指導力が必要だ」と訴えた。その上で、オバマ政権が温室効果ガス削減に向け、車両の新たな燃費規制導入を含む「重要な措置を講じた」と評価した。

*1:地球温暖化問題は非常に広いが、この本で議論されているのは「人間による二酸化炭素の排出量増加によって、地球温暖化が引き起こされている」という事実と因果関係が正しいかどうかという最も根本的部分。