Yondaful Days!

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期待が大き過ぎました〜吉野万理子『赤の他人だったら、どんなによかったか。』

赤の他人だったら、どんなによかったか。

赤の他人だったら、どんなによかったか。

ある日、隣町で危険ドラッグを吸った犯人による通り魔事件が発生!教室はその話題でもちきりに。中学2年生の風雅は、容疑者が親戚だと知って、大ショッ ク……。クラスメイトに知られたくないと思う。なのに、新学期になったら犯人の娘・聡子が、同じクラスに転校してきてしまった!
いじめられている彼女に、してあげられることは――!?
「他人とは何か」「血のつながりとは何なのか」……
前編で風雅、後編で聡子と対照的な2人の視点から描く物語。

あらすじは上記の通り。
中学生向けの読み物*1にしては、扱うテーマが重々しいこと。しかしそれとは裏腹に「さわやかな読後感」という、読んだ人の感想を聞いて、読んでみた。


が、正直言って、ピンと来なかった。
タイトルも構成(前後編で異なる視点から描く)も興味を引くし、「親戚が通り魔だったら、どうしますか?」という惹き文句もドキリとさせられる。
しかし、叙述的な仕掛けができるはずの構成の工夫もほとんど有効に使われておらず、自分が望んでいたようなカタルシスは得られなかった。つまり肩透かしというか期待外れだったのだが、期待が大き過ぎたのかもしれない。

「いじめ」についての物語として

まず最初に良かった部分を書く。
前編は風雅、つまり、いじめられている子を周りから眺める少年の立場での物語となる。
風雅は、クラスでいつも洋介にいじ(め)られている淳史のことが気になっているが、何も行動に移せない。転校してきた聡子は通り魔の娘ということで、同様に、洋介から酷い嫌がらせを言われる。
聡子については、自らの遠い親戚ということもあり、従妹の喜々と一緒に、少しずつ救いの手を差し伸べ、最後には、淳史に対しても一歩行動を起こすことができるようになる。
近くで行われているいじめに対して、ただ眺めているだけだった立場の人間が、どうやって行動を起こすか、そういったモデルケースとなる良い話だった。


後半部は、突然、転校を余儀なくされ、転校先でもやや浮いた存在になりかける聡子の立場での物語。
ラストで父親に向けて書く手紙の中で、聡子はこのように書く。

みんなのアドバイスを素直に聞くこと、逃げ道を見つけておくこと、誰かが逃げ道を用意してくれたら頭ごなしに否定しないこと、そういうのってすごく大事なことなんだと気づきました。

こういった基本的な考え方は、いじめられている側、いじめている側どちらにも意味のある内容だろう。


確かに、「いじめ」を焦点にあてた物語と考えれば、道徳的な内容で、中学生が読むのにふさわしいとみることもできるかもしれない。実際、作者のメッセージも以下のようになっている。(Amazonから引用)

「いじめ」について、こういう考え方を持てば、
一歩踏み出せるんじゃないかと思って書きました(吉野万理子)


ただ、この本の扱っているメインの話題は、果たして「いじめ」だったのだろうか。

「加害者家族」の物語として

自分は、この物語が単なる「いじめ」を扱った話と想定していなかったし、この本を読み終えても、「いじめ」の話と捉えられない。
この物語が他の「道徳的な物語」と異なるのは、2人の主人公のどちらもが加害者家族(もしくは親戚)に当たるという点だろう。今回、死人は出ていないものの、1人が一時期は心肺停止、その他7人が重軽傷という通り魔事件が実際にあれば、加害者家族は相当厳しい状況に置かれるだろう。
メディア・スクラムによる被害という他人事で言っているのではない。たとえば、自分の家族が被害にあったとして、その加害者がクラスの同級生の親や兄弟だったとしたら…。そう考えてみると、やはり、自分は加害者家族に優しい顔を向けられないし、できれば近づきたくない。転校してもらうのは当然と考えるだろうし、できれば転校先は近隣の市などではなく、出来るだけ顔を合わせないように、遠くの県に移住してほしい、と望むだろう。


この物語に欠けているのは、そういった被害者視点であり、被害者視点を想像した加害者側の苦しみであるように思う。

「お父さんが心配?だったら大丈夫。事件って、死者が出るか出ないかで判決は大きく変わるんだって。今回、死者なしだから懲役15年から20年くらいじゃないか、って弁護士さんが。死刑にはならないって」
「死刑にならなければいいとか、そうういうことじゃなくて……家族にはやんなきゃいけないこと、あるよね。ケガをした人たちへのお詫びとか」
「そういうのは、お母さんがやれる範囲で。聡子はいいの。考えすぎちゃダメ。何しろ、もともと赤の他人なんだから」
「え」
「わたしとお父さんは、血のつながっていない、赤の他人。あ!」
美江子は口を手で押さえた。
「何言ってんのかな、わたし。聡子はお父さんと血がつながってるんだものね。赤の他人になれないんだ。かわいそうだけど」
「かわいそう……って」
「ごめんごめん。でも大丈夫。心は赤の他人で行こうよ」
快活な声で言う美江子こそ、聡子には赤の他人に思えた。p136

このあとで、実は美江子は、聡子に心配かけないよう気丈にふるまっていたというような話も出てくるが、作品のメインテーマに直接繋がるこの会話があまりに酷すぎて、唖然とした。また、自分の夫の犯罪にもかかわらず、「死者なしだから」などと被害者人生を無視した物言いが、自分には許せない。
取材協力では名前を出して弁護士の方がついているにも関わらず、被害者家族の気持ちも加害者家族の気持ちも、完全に置き去りにしたリアリティのない内容になってしまっていると思う。(なお、いじめのシーンも淳史をからかう洋介の言葉があまりに幼稚でリアリティがない。そう考えると、中学生読者からどのような反響があったのか気になる。)


物語は、最後に聡子が、好きだったバレーを諦めてチェス同好会を開き、自分を取り戻していく、というような内容になっているが、健気な聡子はいいとしても、この母親(美江子)の「軽さ」があまりにも気になって気持ちよく読み終えることはできなかった。
物語のまとめは、このような内容になっている。

実は卒業間近になって気づいたの。
前は、親戚じゃない人を「赤の他人」って呼ぶんだと思ってたんだけど、そうじゃなくて、一度もしゃべったことのない人を「赤の他人」って呼ぶんじゃないか、って。ひとことでも言葉を交わしたら、「赤の他人」は「知り合い」に変わるの。
たくさんの赤の他人に囲まれてるって、知り合いがますます増えるかもしれないってことで、世界がもっともっと広がりそうで面白いよね。

この言葉自体は、その通りかもしれないが、懲役15年で刑に服している父親に向けた手紙の中で、このように書かれても、「それよりも大事なこと」が頭の中をチラついて、素直に読めない。どのように料理しても、このテーマで「さわやかな読後感」を得られる小説はないだろう、と改めて思った。


秋葉原殺傷事件の加藤智大の弟が自殺した件など、加害者家族をめぐる話は沢山ある。
もう少し、加害者、加害者家族、そして、被害者遺族など、複数の視点から世の中を騒がせる事件を考えられるように、本を読んでみたい。その意味で、今回の本は、中学生向け小説とはいえ、全く参考にならなかった。

加害者家族 (幻冬舎新書 す 4-2)

加害者家族 (幻冬舎新書 す 4-2)

*1:前編は朝日中学生ウイークリー連載。後編は「朝日中高生新聞」連載。