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2017-04-29 Sat

[][][]『ラ・ラ・ランド』×藤子・F・不二雄「分岐点」×小沢健二「流動体について」

D

まずは『ラ・ラ・ランド』の初見感想。(ネタバレありです。要注意)

元々、3月末の平日に時間を取れるチャンスがあり、韓国映画(『お嬢さん』『アシュラ』のどちらか)を観ようと決めていたのだが、結局上映時間の関係で、他の作品を観ることに。そのときに選んだのがアカデミー賞6部門受賞の『ラ・ラ・ランド』。事前情報として、ラストにちょっとした展開がある、ということは知っていたが、予告編の印象から、「夢をかなえる楽しい映画」と思っていた。

実際、オープニングの高速道路のシーンから駐車場でのミュージカルシーンまでの流れ、つまりは二人が惹かれ合って付き合う直前までは、とてもドキドキしたし、純粋に楽しんで見ることが出来た。

特に、ミア(エマ・ストーン)の表情の変化や身振り手振りが、「美人」っぽくなくて、好感を持てた。また、色違いのドレスを着た4人が路上を闊歩するシーンなど、鮮やかな映像が連続して、飽きることが無かった。

勿論、セブ(ライアン・ゴズリング)もカッコよかったし、特に、ピアノ演奏のシーンには惚れ惚れした。(本作のために猛特訓したとのこと)


ただ、付き合って以降は、ミアにどんどん共感しづらくなる。特に二つのシーン。

ひとつは、古いタイプのジャズ固執するのをやめてバンド活動で成功したセブのライブをミアが観に行くシーン。喝采を浴びるセブに対して、熱狂する観客の中でミアは一人だけ浮かない顔。まず、ここに共感できなかった。

ストーリー上の意味は分かる。「これがあなた(セブ)のやりたかったことなの?」ということだ。

しかし、夢を追い続けても方針を軌道修正することもあるし、音楽性が変化することもある、遠回りして元々の夢をかなえるというやり方もある。そもそもセブに出会うまでは全くジャズが分からなかった彼女が、逆に、古いタイプのジャズにこだわり続ける、というのは、とても柔軟性が無いように思ってしまった。他人を自分から見た「型」にはめて説教する、というのも嫌いなやり方だ。


もうひとつは、ひとり芝居の舞台の話。

あれほど準備を重ねてきたのに、実際に来た客は友達を入れて数名、という厳しい状況。

さらにセブが来られなかったことで、ミアは夢を一旦諦めることになる、というシーンだが、普通に考えれば、3割くらいは埋まるように、友人・知人を招待したり、事前にチケットを販売したりするものなのではないか?(狭い会場なので、事前の頑張りで半分は埋まっていてもおかしくないとさえ思った。)

そういった事前努力が見られず、当日になって初めて客の少なさに泣く、というのでは、「努力不足」「自信過剰」と言いたくなる。泣いている彼女を慰めてくれる友達もいないし、単に孤独な人という印象が強まった。

にもかかわらず、そのあと大スターになるまでがトントン拍子なのも、何だかな〜、と感じてしまった。


また、熱愛中のシーンでも、空飛んじゃったりするやつは、とても「ロマンティックだな」と思っては見られない。ミュージカルならでは、なのかもしれないが、ミアやセブの人間臭さが勝ってしまい、駐車場でのダンスシーンくらいまでが、自分の中で、ミュージカルとして「あり」の境界線なのかもしれない。


そんな中で訪れる「問題の」ラスト10分。

ここには本当に引き込まれた。

結局、ミアは成功したけど、二人は一緒にならなかったんだ…という溜息の出るような現実世界の「その後」を見せられたあとで、運命的な再会を果たすミアとセブ。そこで一転して、映画本編のストーリーをそのまま延長したような「if」の世界が描かれる。

そして最後に改めて「現実」に戻り、セブとは言葉を交わさず、しかし、それぞれの「現実」を肯定するように頷く。


「分岐点」

SF・異色短編 2 (藤子・F・不二雄大全集)

SF・異色短編 2 (藤子・F・不二雄大全集)

ラ・ラ・ランド』の関連作品として、この短編集に収録されている「分岐点」を挙げる人がいたので、読んでみた。

藤子・F・不二雄大全集の「SF・異色短編」は1970〜80年代に「ビッグコミック系」「SFマガジン」「別冊問題小説」「漫画アクション」など大人向けの雑誌に連載されていた短編を集めたもので、大判で全4巻。「分岐点」が収録されているのは2巻になる。

面白いのは「分岐点」だけでなく、「あのバカは荒野をめざす」「パラレル同窓会」という2作品も、人生を左右する過去の重大な選択について振り返り、もう一度やり直せるチャンスを得たらどうするのか?という共通したテーマを持っていること。「分岐点」だけでなく、『ラ・ラ・ランド』に似た展開となる作品が3つもあることになる。

また、未来から現代に来て、ふしぎなカメラを売り歩く「ヨドバ氏」が登場する一連のシリーズも含めて、F先生の「少し不思議」視点の法則が垣間見られるセレクションになっている。

つまり、この短編集で描かれる「少し不思議」は、「視点を変えることで初めて見えてくる価値」にフォーカスすることで生まれてくる。

例えば、自分にとってのその人の重みを数値で表示する「値ぶみカメラ」、体が入れ替わることで、父と子がそれぞれの抱える悩みやお互いの信頼感に気が付く「親子とりかえばや」、街をカメラに写してミニチュアを製造する中で、風景となっていたその家に暮らす人の悩みに気が付く「ミニチュア製造カメラ」など。

勿論、「分岐点」「あのバカは荒野をめざす」「パラレル同窓会」の3作品も、それぞれ別の形で、道半ばまで生きてきたこれまでの人生を肯定するような話となっている。


ラ・ラ・ランド』×「分岐点」

という風に、ここまで考えてくると、設定の似ている「分岐点」と『ラ・ラ・ランド』は、実は似ていない、ということ気が付く。

「分岐点」は、結婚相手が違う相手だったら今の生活はどうなっていたか?というシミュレーションをした上で、現実と仮想が入れ替わってしまう不思議な余韻を残す話だが、やはり、底にあるのは「視点を変えて考えてみる」という部分だろう。基本的にSFは仮想世界でのシミュレーションなのだ。

ラ・ラ・ランド』のラスト10分は、シミュレーションではない。

ほんの一瞬で「思い出してしまう」、そこに、あのクライマックスでの感情の盛り上がりがあるのだと思う。

そう、シミュレーションではなく、「思い出している」のだと思う。二人でいた頃に夢見た生活を。それこそ走馬燈のように。

そして、そこに「音楽」があるから、あの一瞬の盛り上がりが、観客にとっても、とても納得のいくものになっている。

「音楽」は、生活を、人生を、真空パックする力を持つ。

前半部の何だかしっくりこない部分もチャラにしてしまうほどの破壊力をラスト10分が持っているのは、『ラ・ラ・ランド』という映画の軸にある「音楽」の力を遺憾なく発揮できているからだと思う。

かくいう自分も、映画を観た後の「何だかな〜」という気持ちは、予告編映像を見直して、さまざまな楽曲を聴いていたら雲散霧消した。今は、すぐにでも見直したい気持ちだ。


ラ・ラ・ランド』×「分岐点」×「流動体について」

流動体について

流動体について

さて、3月に発売された小沢健二の楽曲「流動体について」にはこのような歌詞がある。

もしも間違いに気がつくことがなかったのなら?

並行する世界の僕は

どこらへんで暮らしているのかな

広げた地下鉄の地図を隅まで見てみるけど

もしも間違いに気がつくことがなかったのなら?

並行する世界の毎日

子供たちも違う子たちか?

ほの甘いカルピスの味が現状を問いかける


「子供たちも違う子たちか?」の部分などは、まさに「分岐点」の内容で、地下鉄の地図を広げて眺める様子は、まさに、仮想の生活を「シミュレーション」するものだ。

一方で、楽曲を聴くときの歌詞は、実際には、音楽よりも後ろにあると思う。つまりメロディーやアレンジに比べれば歌詞は二の次。

「流動体について」を聴くと、そのストリングスアレンジから「僕らが旅に出る理由」(同じ服部隆之が担当)を、そして「僕らが旅に出る理由」を聴いていた頃のことを思い出してしまうんじゃないかと思う。

…とすると、ストーリーに入り込む以前の段階で、聴く側に20年以上も前のことを走馬燈のように思い起こさせる「流動体について」は、『ラ・ラ・ランド』的でもあると思う。


ラ・ラ・ランド』、「分岐点」、「流動体について」は、アプローチは異なるが、共通するテーマがある。

特に『ラ・ラ・ランド』は6部門でアカデミー賞を取るような作品だから、勿論、誰が見ても面白い映画だけど、その良さを存分に味わうには、ある程度の年齢が必要だと思う。それは、年齢を重ねているという以上に、未来のことを思ったり、過去を振り返ったり、そして現在を楽しく生きる、その頻度と強度によるのだろう。

つまり漫然と日々を過ごしてしまうのではなく、音楽や映画の力を借りながら、タラレバを繰り返し、何度もためらい線の下書きを描きながらも、今を楽しく生きる。

それこそが人生じゃないか!

…ということが『ラ・ラ・ランド』全体のメッセージなんじゃないかと思った。

また観に行きたいです。


参考(過去日記)

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2017-04-22 Sat

[]貯めておきたい善行ポイント〜ファーティマ松本『サウジアラビアでマッシャアラー!』



サウジアラビア人の旦那さんとの出会いから、サウジアラビアでの生活イスラム教について書かれたエッセイ本。

…なのだが、直前に読んでいた高橋和夫中東から世界が崩れる』では、「国」ではなく「国もどき」扱いだったサウジアラビア。そのサウジアラビアに嫁いだ女性の描く本ということで、自分の興味も、サウジアラビアが、どれほどの「国もどき」なのか?というところに向かってしまった…。


実際、高橋和夫さんの本に書かれていたように「基本的に自国民は働かなくてよいという思想」という指摘は、いくつかの部分からうかがい知ることができる。

  • 病院に勤める看護婦さんのほとんどがフィリピン人(p77)
  • 国内の仕事の2/3は外国人労働者が担い、個人が経営する店や会社の90%は外国人を使っている(p158)
  • 学校内の掃除は外国人労働者が行い、家に帰っても(メイドを雇っている家が多いので)掃除などしない子が多い(p186)

作者の家族は、それなりにお金持ちのようだが、「子供の学校参観日に行くと、クラスの中は、いろいろな「種類」の顔がある」(p164)と書いているので、移民の人も多い学校に通っているという。

本の中では、こういった人種・民族間に生じる差別の問題についても取り上げている。


ここからが本書の特徴だが、こういった移民問題差別の話題について、特に取り繕うことなく、思った通りに書いてしまっているのが面白い。そして、イスラム教差別を禁じているということについても、たびたび触れているのに、そういった問題について、かなりドライに語られるのが、かなり変わっているように思う。

例えば、旦那さんが(作者に隠れて)第二夫人とした女性の祖母に当たる人がインド人だったことが後になって判明したことについて触れた部分。旦那さんの、インド人に対する差別意識を認めた上で、次のように書く。

そんな人が今、インドの血を引いた人と結婚をし、その人のお腹には自分の子供が宿っている。つまり、インドの血を引く子供が「自分の子」として産まれてくるのだ。これは精神的に大打撃であっただろう。いい気味、いい気味。人をバカにすると、必ずそれがいつか自分に帰ってくるものだ。p155

全体的には、イスラムの教えも含め「差別はよくないよね」という論調で書かれてはいる。しかし、一番最後が、差別される側の視点が欠けた、旦那さんに対する無邪気な批判で結ばれているため、とても軽い感じを受ける。

同様に、黒人に対する差別問題についてさんざん触れたあとの結びの文章も、軽すぎてむしろ不謹慎だと思う。

サウジアラビアでの差別問題はここまでにしておいて。私が気になるのは、私が埼玉県出身であるがためか、時に「ダサイ」と呼ばれることである。埼玉県民を「ダサイ」と呼ぶことによって、いい気分になっているつもりなのは、一体どこの県民だ!えっ、全国民?そんなあーっ。p168


また、肉体労働を外国人労働者にほとんど任せる件についても次のように書く。

全く仕事や家事の手伝いをしない子供がいるかと思えば、世の中には、朝から晩まで児童労働者としてこき使われている子供たちがいる。私から言わせればどちらも不幸だ。前者はただ、自分が不幸であることに気づいていないだけ。p186

確かに、手伝いをしない子は「人の役に立つ喜びを知らないから不幸だ」という主張は分かるが、児童労働者の不幸と等しく並べて不幸だ、と書いてしまうのは気持ちが悪い。こき使われている外国人労働者の方が圧倒的に不幸に決まっているし、そういう人が読んだら怒ってしまう文章だと思う。

だから、サウジアラビアにいる両極端の外国人について次のように書かれた部分もうわべだけの問題意識であるかのように感じられてしまう。

現代の奴隷、と呼ばれているサウジアラビアで働く外国人労働者。彼らの多くはイスラム教徒で、私たちの同胞、兄弟であるというのに、この地で差別に遭い、過酷生活を強いられている。一方非イスラム教徒の欧米人たちが、サウジアラビアの良い所だけをとって、なかなか楽しく暮らしている。何だか、しっくりこないんだよねぇ…。p161


ただ、上に挙げたような、自分が抱く違和感は、いわゆるポリティカル・コレクトネス的に正しい新聞記事などの文章を読み慣れているからだけで、むしろ作者のような、あっけらかんとした意見・感想の方が、一般的なのかもしれない。ポリコレへの配慮がないので、むしろ無駄が削ぎ落されて本音だけが語られているということが、この本のいいところだと思う。


イスラム教という宗教についての記述についても同様だ。作者がイスラム教徒でありながら、イスラムの教えに対して素朴に感じたことが書かれているので、非常に入りやすい。

今回、特に面白く読んだのは、善行ポイント(アジュル)の話。(p123〜)について。

  • イスラムの教えでは、死んだときに、自分が生前行った善行と悪行を秤にかけられ、善行が重かったら天国に入ることができる。
  • 私たち一人一人にの両肩には天使がいて、行いの全てを監視・記録している。右肩にいる天使は善行を、左肩の天使は悪行を記録し、それに基づいてアジュルという善行ポイントが記録される。
  • アジュル数は、善行を行うときに伴う苦痛、大変さによっても変わるし、「意図」によっても変わってくる。
  • 年に一度行われるハッジ巡礼)に参加すると、今まで貯めてきた悪事の山を帳消しにしてもらえる、断食月ラマダーン)にはアジュルの倍加率が上がる、などのキャンペーン?がある。

この善行ポイント(アジュル)については、自分自身も同様の考え方をすることもあるので親しみを持った。日ごろの行いについての価値判断のルールと、クルアーンによる行動指針があることは、人生を迷いの少ないものにしてくれるのかもしれないとも思う。

あとがきによれば、作者がこの本を書いたきっかけは、2011年東日本震災であり、その際にイスラム教の教えが何かしらの助けになるのではないか、という使命感が背景にあったという。確かに、全体を通して「日本人にイスラム教を伝える」という作者の思いは伝わってくる。

まとめると、とても読みやすい文章で、サウジアラビアでの生活や家族のことについて触れながら、イスラムの教えについても勉強できた、という意味で、自分にとって、とても得るところの多い読書だったと思う。イスラム教についても改めて勉強したくなりました。


参考(過去日記)

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2017-04-15 Sat

[]中東の国と国もどき〜高橋和夫中東から世界が崩れる〜イランの復活、サウジアラビアの変貌』

4月6日に、アメリカ軍がシリアミサイル攻撃を行ったことが大々的に報じられたばかりで、誰もが中東情勢について興味を持っているのではないでしょうか。

そんなときにオススメの本が、この本です。

この本は、最近のニュースとして、2015年7月の、イランと諸大国合意イランの核開発をめぐる包括的な協定)と、2016年1月のサウジアラビアイランの国交断絶について、その経緯を探りながらシリアの問題も含めて中東諸国の歴史や関係をわかりやすく解説した内容となります。


この本の良いところは3つあります。

  1. 中東の国々の歴史や特徴が把握できる
  2. 中東の国々の中でも、どの国に注目すればいいのかが分かる
  3. 昨年出たばかりの本なので、シリア情勢やISなどの最新の中東情勢について使える情報が多い

その中でも1,2。

この本で主役格として出てくるのはイランサウジアラビアの2か国ですが、2つの国には根本的な違いがあります。

いや、2か国だけでなく、中東の国々に対して、高橋和夫さんは、大きな「レッテル貼り」をします。

これが、自分にとって、この本を読んで最も「目から鱗の落ちた」ポイントでした。

イランサウジアラビア両国は本質的に異なっている。というのは、中東には「国」と「国もどき」が存在し、イランは国であるが、サウジアラビアは国もどきだからだ。

(略)ペルシア湾岸に行ってみると、「本質的な意味での国家はイランだけだ」と肌で感じる。歴史的に成立した国家を、国家意識を持った国民が支える−いわゆる国民国家として成り立っているのは、イランただ一国と言ってもいい。p116

ありていに言えば、中東で「国」と呼べるのは3つだけだ。先ほど述べたイラン、そしてエジプトトルコである。p117


国もどき

「国もどき」とは何でしょうか。

  • 地域の歴史や民族の結びつきと無関係に人工的に作られた国(1916年サイクス・ピコ協定、1920年サン・レモ会議によって国境線恣意的に引かれて出来ている)
  • ゆえに国民の教育水準や国家全体で見た技術水準などの総合力が不足
  • 国家への強い忠誠心を持った国民性はなく、政治的・軍事的な強靭さに欠ける

結果として、イランエジプトトルコ以外の「国もどき」は、いつ消滅してもおかしくないような状況にある、という非常に厳しい評価がなされています。

特に、他より多くのページを割かれているサウジアラビアの問題について、以下のようなものが挙げられています。

  • 肉体労働者の多くは外国人(基本的に自国民は働かなくてもよいという思想)p123
  • 国民の間に「奥にに税金を払う」という観念がないp123
  • 周辺国に侮られないように人口を水増しして報告しているp125
  • 処刑の方法に斬首を使っているp131
  • 教育は宗教教育がほとんどで、その内容が21世紀の現状に対応していないp131

サウジアラビアでは、いつバラバラになるかもしれない国民を束ねるのは近代国家のシステムではなく、オイルマネーということになります。

これを例えばイラクで見た場合、北部のクルド人、中部のスンニー派アラブ人南部シーア派アラブ人に三分されています。

このまとまりの悪い集団をサダム・フセインの時代は、力でまとめてきた。スンニー派が少数派ながらも軍を押さえ、力でイラクを統治したのである。イラクを三枚綴りのレジュメにたとえるならば、フセイン独裁は、それをまとめるホッチキスの役割を果たしていた。p168

このホッチキスをアメリカが外したため、民主的な選挙の結果、人口の6割を占めるシーア派が当然勝ち、スンニー派は権力を奪われてしまう。スンニー派の不満が溜まるばかりのこの状態が、テロリストを生む温床になったというのが、イラクの状況のようです。

現在のシリアも、フセイン時代のイラクと同様、少数派(アラウィー派)が多数派(スンニー派)を力で抑え込んできており、民主化を許すことは出来ません。このような状態は、長い歴史の中で作られた国家ではなく、人工的に作られた「国もどき」に共通しています。

第5章では「国もどき」で生じた内線について、本来ならバラバラの部族が無理矢理一つの国の枠内に収められたイエメンサウジアラビアの南の国)で生じている内線についても取り上げられています。イエメンの内戦は、2015年サウジアラビアが介入して以降、激化しており、南北イエメンへの分裂やサウジアラビアの疲弊など、中東のバランスを変える可能性があるということで、少し頭に入れておきたいです。


イランという国

この本を読んで、イランという国の見方は大きく変わりました。上に引用したように「いわゆる国民国家として成り立っているのは、イランただ一国」とされているだけではなく、国民の特徴について以下のように書かれています。

イラン人は、自分たちは巨大なペルシア帝国をつくった人々の子孫だという強烈な意識を持っている。地理的な広さに基づく大国意識だけでなく、歴史的な意識に支えられた大国意識をも抱く、誇り高い人々なのだ。p102

古代からこうした歴史的一貫性を持ち続け、自分たちのことを誇らしく語る人は、この世界に二つの民族しかない。一つがペルシア人のイランで、もう一つは「4000年の歴史」を誇る中国だ。p104

そして、中東の国々の中では、そういった歴史的な部分だけではなく、別の面で注目されることも多いようです。

長らく国際社会から孤立し、宗教的シーア派)にも民族的(ペルシア人)にも少数派のイランは、中東イスラム世界で確固たる権威を築いているわけではない。それでも、イラン中東イスラム世界で、少なくとも庶民層から一定の尊敬を受けているのは、イスラエルへの態度が一貫しているからだ。p111

また一方で、イランの歴史の中で大きく位置付けられる1979年イラン革命こそが、サウジアラビアイランをおそれてる原因となっています。

イラン革命は、王様を追い出すことで現在のイスラム体制をつくり上げた。サウジアラビア王家としては、民衆が立ち上がって王様を追放する革命が、イランから中東全体に広がっていくことを何としても避けなくてはならない。イランの存在そのものが王政への脅威なのである。p138

王政から共和制に移行したイラン革命は、それまで同盟国だったアメリカとたもとを分かつ原因となりました。また、「アラブの春」後のエジプトで、民主的な選挙によって選ばれたムスリム同胞団が、欧米の支持を受けず、軍事クーデターで潰されるなど、中東での民主化と欧米の姿勢は逆方向に向くことが多く、その原因について、本の中では「徹底した欧米のイスラム主義嫌悪」という言葉が使われています。

かつて「悪の枢軸」と呼ばれたイランという国は、その象徴と言えるのかもしれず、改めて、イスラム社会と欧米とのかかわりについてもっと知りたいと思いました。

いずれにせよ、この本は、中東に関わるニュースを見る場合に、何度も参照したくなる本で、これまでラジオやテレビでしか触れることのなかった高橋和夫さんの著作をもっと読んで勉強しようと思います。


参考(過去日記)

アルスラーン戦記の舞台となっているパルスは古代ペルシアイラン)であるということについて触れています。

⇒『中東から世界が崩れる』では、やや手薄だったトルコについては、この本で勉強したことが理解の役に立ちました。クルド民族について、もう少し知りたいですね。安彦良和クルドの星』とか。

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2017-04-12 Wed

[]モヤモヤ感あり〜スコセッシ×ディカプリオ『シャッター・アイランド

公開時に話題になったこともあり、いわゆるネタバレのある映画ということは知っていた。

Wikipediaには、この映画のキャッチコピーについて以下のように説明されているが、まさにこれを宣伝で見ていたからだろう。

「精神を病んだ犯罪者だけを収容する島から、一人の女性が消えた―。」

「この島は、何かがおかしい。」

「全ての謎が解けるまで、この島を出ることはできない。」

日本では「衝撃のラスト」という触れ込みで宣伝され、上映前には「この映画のラストはまだ見ていない人には決して話さないでください」「登場人物の目線や仕草にも注目しましょう」という旨のテロップが入った。また映画の謎解きに集中するために「二度見キャンペーン」や原版に忠実な「超吹き替え版」の上映も行われた。

シャッターアイランド|Wikipedia

自分は騙されるのは大好きなので、疑わず物語の導くままに作品を鑑賞して、スコーンと騙されてスッキリすることを期待して映画を観始めた。


物語を観ていると、ディカプリオ演じるテディの容態がどんどん悪化していくとともに、どうも、飲まされた薬、もしくは貰ったタバコによって、幻覚を見せられているようだ、という(偽の)「真実」が明らかになって行く。

ここら辺は上手くできており、テディが、施設の連中から騙されてはいけないと思っているのと同様に、観客も、騙されないようにしながら物語の中の「真実」を追い求めているので、このミスリーディングに引っかかりやすい。

中盤で登場する、洞窟に身を隠して生活している医師のレイチェルの解説によって、この施設がどのような目的で運営されているのかを知らされ、ディカプリオは、「真実」に気がつく。

気づいてしまえば、さあどのように逃げ出すか、すぐに逃避行が始まるのかと思うと、テディは島に同行した保安官チャックを助けに行くことを決意する。

自分は観ていて、「えー、この状況で助けに行くのかよ…」と思うと同時に、どうもディカプリオが「信頼できない語り手」の物語のようだという考えに傾いた。

  • 崖を命綱なしで降りて、レイチェルの住む洞窟に入り、さらに崖を上まで登り切ってしまう
  • チャックの居場所は不明なのに、もう一度崖を降りるリスクを負って、ロボトミー手術の行われているという灯台にまで行ってしまおうとする

特に、崖のシーンが、風景が非常にリアルであるだけに、テディの行動のあり得なさすぎなさが際立つ。さらに、洞窟に行方不明だった女性医師が隠れている、という状況は、まさに「妄想」の中でしか起こり得ないだろう。したがって、映画を作った側も、この辺のシーンで、ラストへのヒントを大盤振る舞いしているつもりなのだと思う。


そして、最後に、テディが、自分の本名が「レディス」であること、自分は保安官ではないこと、そして、妻のドロレスが子ども3人を殺してしまったこと、その妻を自分が殺したことを思い出す。相棒保安官と思っていたチャックは、担当医師だったのだ。

ラストシーンは、結局、また妄想世界に戻ってしまったというふりをして、ロボトミー手術を受けることにするテディが映される。


モヤモヤしてしまう理由

しかし、観客をだまして最後に驚かせるタイプの映画なのに、どうも鑑賞後は、スッキリしないモヤモヤ感が残ってしまう。それは、現実世界と妄想世界の境目が分かりにくいことが一番の原因であるように思う。(勿論、半分は狙ってやっているにしろ)

強盗返・龕灯返(がんどうがえし)とは歌舞伎で用いる舞台用語で場面転換の方法である「居所変(居所替, いどころがわり)」の1つ、若しくは強盗返を用いた仕掛け。一般的には短時間で行う場面転換で用いられる。

どんでん返しという言葉(もともとは強盗返)は、上のような意味だというが、つまり、場面が切り替わることが、どんでん返しであって、場面の切り替わりが不明なので、素直に感動できない部分がどうしても残ってしまう。

何故、その切り替わりが不明に映るのか。

  • 崖の上り下りや、洞窟の中のレイチェルは妄想に違いないが、テディが真実を知らされるのは、崖を超えた場所にある灯台である。灯台にいるテディが現実だとすれば、どうやって辿り着くのか。

ー物語の重要な核である、ダッハウ強制収容所虐殺に、テディが関わっていたことすら、テディの妄想ではないか、というような指摘が物語内でなされる。この経験が妄想であるとすると物語の核がなくなり弱くなるので、妄想であってはならないが、どちらなのか。

こういう部分が積み重なり、「ラストで知らされる真実」さえも疑いの目で見ることを強いられる。


ただ、どちらが現実なのかよく分からない話、というのも自分は嫌いではない。現実世界と妄想世界の境界が曖昧になってしまう、というのは、当事者の感覚としても正しいのかもしれない。

したがって、『シャッターアイランド』がモヤモヤしてしまう理由は、もう一つあると思う。

それは、この物語が、精神疾患を扱っているということ。例えば、VRなどの最先端技術を前提として現実と妄想の境界があやふやになる、という展開であれば、ほとんど問題を感じなかったように思う。

しかし、施設に収容されているのは犯罪者だとは言っても、実際にそれで苦しんでいる人がいる「精神疾患」を題材にしているということで、映画を純粋に楽しみたいと思っているエンタメ脳にブレーキがかかってしまう。

さらには、全編を通じてだけでなく、ラストにも、ロボトミー手術が登場することで、この映画をどのように受け取っていいのか、よく分からなくなってしまう。

強制収容所の問題にしてもロボトミー手術の問題にしても、問題を投げかけるなら、しっかり投げて欲しかった。それがないからモヤモヤしてしまう。

(そして、それらの展開への納得のいかなさが、自分の理解力不足に原因があるかもしれないところが、またモヤモヤするところ)


ディカプリオが、片頭痛に、ダッハウ強制収容所での記憶に、そして、妻の幻覚に悩まされる表情と、虚実ないまじりのシャッターアイランドの閉じられた美しい風景など、ストーリー以外の部分でもとても魅力的な映画だったが、やはりストーリーの詰めの部分が気になって仕方ない。

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2017-04-02 Sun

[]最速で犯人名が出るミステリ麻耶雄嵩『さよなら神様』

さよなら神様

さよなら神様

これを読む前に、前作の『神様ゲーム』を読み直した。

5年前に書いた感想では、やや厳しいことを書いているが、「後味が悪い」ということを知っていて読めば、しっかり驚かされる傑作だと感じた。初めて読んだときは、やはり「主人公の同級生に神様がいる」というこれまでにないルール(システム)に戸惑っていたのだと思う。

今回の『さよなら神様』は短編集で、『神様ゲーム』の続編にあたるから、物語の中で、細かい設定の紹介はギリギリまで省かれ、最短距離で進められて行く。

最短距離どころか、犯人名が出る速さとしてはこれより速くはできないのではないかという「最速不倒」な話になっている。

それが、今回の短編集の最大の特徴である「冒頭の一文」。


最初の話(「少年探偵団と神様」)はこのように始まる。

「犯人は上林護だよ」

俺、桑前淳の前で神様は宣った。


何が事件かもわかっていない中で、”神様”こと鈴木太郎が、主人公に犯人の名前を告げるところから始まる。しかも、主人公ですら知らない名前が告げられるのだ。

普通のミステリならあり得ない、この本だから許される「冒頭の一文」は6編の短編すべてに共通する。そして、主人公(小学生)は、同級生で構成された探偵団の一因として、事件の謎を探り出すという一面もあるが、実際には、どの事件も早い段階で、何もかもお見通しの「神様」の力を借りてしまう。

…というのが基本的なフォーマット。

以下少しずつ、いや、大胆にネタバレ



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2017-04-01 Sat

[]田島貴男 弾き語りツアー2017(4/1(土)日本橋三井ホール

当初は日程的に諦めていた弾き語りツアーですが、仕事の用事が回避できることになり、かつ、親切な方よりチケットを譲っていただき、何とか参戦してきました。


この「参戦」という言葉、今回、ファンの間では話題になりました。というのも、この発言があったからです。


いやあ、自分は気にせずに使っていたし、指摘されれば、その違和感は理解できますが、悪意を持って使っている言葉ではなく、むしろワクワク感が伝わる良い言葉だと思います。

調べてみると、この言葉に対する違和感は、これまで何度も質問サイトなどで取り上げられています。


読んでみると、2010年の発言小町が情報量が多く、色々な意見が挙げられています。

この中では、夏フェスとネットが一般的になった2000年頃から使われるようになった、という話や、ジャニーズファンが昔から使っていた、という話は、複数の人から挙げられており、この言葉の起源として信頼できそうです。

さらにさかのぼると、T.M.Rファンの間では、1997年頃から既に使われていた言葉のようです。

私は13年T.M.Revolutionファンをやってますが、当時からファンの間ではライブに行くことを「参戦」すると言っていましたねぇ。

当時テレビで聞いたことがあるであろうことを改めて説明させてください(笑)

T.M.Revolutionというのは西川貴教1人のことではなく、関わるスタッフやファンを含めみんながメンバーということを売りにしてデビューしました。この理由から、ファンならライブを見に行くという表現ですが、T.M.Revolutionファンはメンバーなのでライブに参戦するという言い方をしているのだと解釈してました。

(2010年の発言小町より)

他の記事を読んでも、T.M.Rのライブは「参戦」という意識がミュージシャン公認で醸成されていることが読み取れます。(西川貴教「アンコールじゃなくて延長戦ってこと」と持論。ファンも「戦います」と納得。

自分個人の意見としては、ファンの楽しみ方は人それぞれで、言葉の使い方までミュージシャン側が口に出さなくてもいいような気がしていました。

しかし、今回、わざわざツイートしているのは、田島自身の違和感が強かったのでしょう。自分は下手すると、ディズニーランドに行くときも「参戦」という言葉を使っているような気がしますが、少し考えておきたいと思います。


なお、自分の心に一番響いた回答はこちらでした。

Q:なぜライブを参戦と言うのですか?(嵐ファン

A:ライブが終わった後の現実と戦うため

なぜライブを参戦と言うのですか?(LINE Q)


さて、そんなことはさておき、今回のライブの感想を。

なお、セットリストは、もはやほとんど忘れてしまったので割愛させていただきます。(笑)*1


本人もMCで説明していましたが、フェスなどを除くと、現在定期的に行われる田島貴男のライブは大きく分けて3つの形態があります。ひとつは、オリジナル・ラブとしてのバンド演奏形式のもの。残りの2つが、ソロで演奏する「ひとりソウルショー」と「弾き語りツアー」。どちらも田島貴男一人でのライブになりますが、田島MCによれば、「立って聴くのがひとりソウル/座って聴くのが弾き語り」とのことです。

どちらの形式も2011年から始めて既に6年目だそうで、ライブに通う中で、ファンとしては6年間の音楽の進化(深化)を感じてなりません。(一方で、進化しない自分を振り返ってみてしまうわけですが…)

弾き語り」も「ひとりソウル」も、一人で演奏するからこそ、新たなことに挑戦し続ける田島貴男を目の当たりに出来る素晴らしい機会です。

中でも、「弾き語りツアー」は、客に座らせるという形態も「学校」的で、「ひとりソウル」よりも、研究発表の場であり、田島貴男音楽塾だと思っています。

今回のツアーで言うと、12弦ギターのコーナーが、最も「研究発表」的で「音楽塾」的な位置づけだったと思います。


しかし、自分にとって、この日のライブは「鍵、イリュージョン」「GOOD MORNING GOOD MORNING」「青空のむこうから」の3曲に尽きます。

後光が射す、という言葉がありますが、それは「視覚的なイメージ」のみを喩えた表現であって、その言葉では、あの3曲を表現できません。勿論、後光は射していました。でも、それだけでなく、耳に伝わるものも、いつもとは違っているように聴こえました。

そして、何より、あのときの田島貴男存在感は「巨大」でした。この表現は、知らない人には全く伝わらないかもしれませんが、『魁!男塾』の大豪院邪鬼(身長2m強)が、その迫力と威圧感で大仏くらいの大きさに見えてしまうのと似ています。

もはや演奏というよりは、「魂に直接響く音」をかき鳴らす「巨大な何か」がそこにはあったのでした。


理由を少し考えてみると、3曲と「接吻」の前に演奏した「やつらの足音のバラード」*2の影響も大きかったのではないかという考えに至りました。

いわゆる「鉄板」と呼ばれるような、ライブでの「いつもの流れ」は、安心して盛り上がれるから、嫌いではないですが、少し退屈に感じてしまうときもあります。

それに対して、カバー曲、特に普段演奏することのないカバー曲は、安心感よりも緊張感を生みます。そして、曲によっては単なる箸休め的な役割を超え、ライブの流れをぶった切り、場をリセットするような働きがあるのです。

今回、「やつらの足音のバラード」によって、自分の魂はツアー会場を離れ、異空間に迷い込み、いつの間にか、大豪院邪鬼的な、鎌倉大仏的な田島貴男が、その場に鎮座していたのだと、そのように感じました。


「やつらの足音のバラード」は、長島有の短編小説エロマンガ島の3人」にも登場します。エロマンガ島での生活に愛着を覚えつつあった3人の日本人編集者が帰国する直前の場面です。

川で遊んだ帰り道に、仲良くなった現地の子どもたちから「Please teach me Japanese song!」とせがまれる場面で、主人公の佐藤は、ここで歌うのに「もっともふさわしい歌」として「やつらの足音のバラード」を子どもたちに教え「ナンニモナイ、ナンニモナイ」と、ともに歌うのです。

森の道を縦一列になって歩いたりしたからか、佐藤は一瞬だが、自分が横スクロールする世界の中の一人のような気がした。『ルパン三世』のエンディングの峰不二子がバイクで走りつづけるように、サザエさん一家が歩くように、佐藤の想像の中で全員が黒いシルエットになった。


ここでいう、「自分が横スクロールする世界の中の一人のような気がした」「全員が黒いシルエットになった」という感覚が、まさに、あの「場」の空気と重なります。

それは「やつらの足音のバラード」の持つ曲の力だけでなく、原始時代に戻るほど根源的(オリジナル)なラブにこだわり続けた田島貴男が歌ったからこそ、ということも大きいと思います。「ホモ・エレクトス」は、そのままギャートルズですし、代表曲『Let's Go』での「今が変わるなら遥か古代から続く終わりの始まりを共に始めよう 」というあたりなど、文明以前をイメージさせる歌詞は、意外と多いように思うのです。*3


ということで、色々と理屈をこねてみましたが、とにかく凄いに尽きる3曲、そしてその場をつくった「やつらの足音のバラード」が特に印象に残るライブでした。

好きな曲も演奏されたライブでしたが、3曲以外のことは、とにかくあまり覚えていません(笑)

ただ、その後、知った情報によれば、ここまで持ち上げた「やつらの足音のバラード」は、会場によってはキリンジ「エイリアンズ」のカバーだったとか…。これは聴きたかった…(笑)

上に挙げたような理由から、「定番」化すると、カバー曲の威力は減ってしまうけれど、「エイリアンズ」や「やつらの足音のバラード」は、何とか音源化して欲しいです。すぐそこに迫った*4バンドツアーが本当に楽しみですが、カバー曲も少し期待しちゃいますね。

エロマンガ島の三人 (文春文庫)

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ゴールデン☆ベスト

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我ら、時?通常版

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参考(過去日記)

⇒珍しく、キリンジオリジナル・ラブの両方を取り上げています。最近、田島貴男が、CDはオリジナルアルバムを聴いてほしい/ベスト盤はほとんどが非公認、という話をしていたのですが、近年の田島貴男公認ベスト『ボラーレ』が納得行かな過ぎる自分としては、こういうCDも良いと思います。

*1chocolaさんの最終日(4/2)の感想ブログのセットリストをご覧ください。だいぶ近いはずです。

*2:(3月に亡くなったムッシュかまやつさんの追悼カバー)

*3:なお、今回の「リセット感」は、小沢健二のツアーでの朗読の感じに似ていると思いました。『我ら、時』で聴ける朗読では、文明社会以前について語るMCが多いです。

*4:これを書いているのは5月下旬であるため

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