Yondaful Days!

好きな本や映画・音楽についての感想を綴ったブログです。

何を知っていれば他者を傷つけないで済むのだろうか〜森山至貴『LGBTを読みとく』


あまりミステリばかり読むのもどうか、ということで、年末から年始にかけては、この本を読んでいました。
全ての新書がこうあって欲しいと思いますが、とても丁寧で整理された本。作者があとがきでも強調されているように、読みやすさ(議論の構造の理解しやすさ)をかなり意識して書かれているということが、端々から伝わってきました。
以下の引用先から「はじめに」が読めますが、ここで語られている「何を知っていれば他者を傷つけないで済むのだろうか」という問いを大切にしようとする作者の姿勢だけで、自分は、この本に惹かれていました。未読の方は、この部分だけでも是非お読みください。

意外かもしれませんが、セクシュアルマイノリティを見下す心が見え隠れする人がよく使う枕詞は「私はセクシュアルマイノリティに対する偏見を持っていませんが……」です。
曲者なのは最後の「(逆接の)が」で、当然ながらその後に続くのは質問や疑問の体をとったセクシュアルマイノリティへの否定的な言葉です。それが否定的なニュアンスを持つものだからこそ「偏見ではない」と前置きで宣言するわけですが、宣言すれば「偏見」でなくなるわけでは当然ありません。文句は言いたいが自分が「善人」であることは手放したくないという本音が透けて見えている辺り、むしろ痛々しくすらあります。
「偏見がない」では差別はなくならない理由|ちくま新書|webちくま


目次は以下の通り。

  • 第1章 良心ではなく知識が必要な理由
  • 第2章 「LGBT」とは何を、誰を指しているのか
  • 第3章 レズビアン/ゲイの歴史
  • 第4章 トランスジェンダーの誤解をとく
  • 第5章 クィアスタディーズの誕生
  • 第6章 五つの基本概念
  • 第7章 日本社会をクィアに読みとく
  • 第8章 「入門編」の先へ


特に、2章までの「基礎の基礎」と、歴史を読み解く3章、4章は、これまで何冊か読んだセクシュアルマイノリティ関連の本ではピンと来なかったLGBTのT(トランスジェンダー)について、もう少し掘り下げて理解出来たように思います。
ただし、ポスト構造主義と結びつけてクィアスタディーズという学問を説明する5章後半から6章にかけては、やや概念的で理解しづらく、意識が飛んでしまいました。他の本を読んでから改めて読み直したいと思います。


トランスジェンダーについては、以前から疑問に思っていたことが、「LGBT」という言葉から抜け落ちてしまうセクシュアルマイノリティについて例示される中(2章の最後)に取り上げられていました。*1
ここでは、性愛の対象となる性別のない人(アセクシュアル)、女性でも男性でもない性別を生きる人(Xジェンダー)も挙げられていますが、性的指向性自認の組み合わせとして、当然想定されるべき「トランスジェンダーの同性愛者」について書かれていました。

セックスは女性であるが性自認が男性であるトランスセクシュアルの人が存在し、その性愛の対象が男性であった場合、その人はトランスセクシュアルでありかつ男性同性愛者です。(p55)

生物学的に言えば、女性→男性という性的指向で同性愛とはなりません(ストレート)が、当然、このような例もセクシュアルマイノリティの一例となります。


このように、すぐに理解しにくいトランスジェンダーについて、この本では、取りこぼしのないように、特に丁寧に触れられているように感じました。特に、トランスジェンダーを3つに分けて考えることができるという話は今回理解が進んだ部分になりますが、それを含め、重要な点を抜き出します。

ジェンダーとは、私の側の事情と欲求にかかわらず、他者から男か女かを割り当てられ、それにふさわしい態度や行動をとるよう強制される、その現象のことを指すのです。
トランスジェンダーは、このように社会が手を変え品を変え割り当てようとする「性別」とは異なる性別を生きる現象、またはそのように生きる人々を指します。(p49)

身体的な特徴をもとに割り当てられる性別とは異なる性自認を生きるトランスジェンダーの人々を、特にトランスセクシュアルと呼びます。セックスが性自認と一致しない、と説明してもよいでしょう。(略)場合によっては自身の性自認に沿う形に身体を(例えば医学的な手段で)変化させていくことを、トランスセクシュアルの人々は望んでいます。(p50-51)

また、他者からの性別の割り当てと異なる性自認を生きるトランスジェンダーの人々を(ややこしい言い方ですが)狭義のトランスジェンダー、と呼ぶことがあります。(略)トランスジェンダーの女性/男性にとって、自身の身体が生物学的には男性/女性であることは必ずしも問題ではなく(医学的な手段などによる身体の改変を必ずしも望むものではなく、性自認と異なる望まない「性別」を他者が押しつけてしまうことが問題だ、と言えます。(p51)

容姿(服装や化粧など)に関する「女らしさ」「男らしさ」の割り当てに抵抗する人々をトランスヴェスタイトと呼びます。(略)ここで二点補足しておきましょう。第一に、トランスゲスタイトの人々の性自認はここでは必ずしも問題ではありません。(略)第二に、すべてのトランスヴェスタイトの人々が常に異性装をして生活しているとは限りません。(p52)

トランスジェンダーという概念は、異性の服装をすること自体に重きをおくトランスヴェスタイトではないが、医学的な処置を望むトランスセクシュアルでもなく、自らの性自認にしたがって生きる経験やそのような人々のことを指すものです。(p98)

このようなトランスジェンダーの細分については、その歴史について扱った4章を読むと理解が深まります。

  • 1910年代にトランスヴェスタイトという言葉が生み出されるも、同性愛とは区別されず。
  • 1950年代になってトランスセクシュアルの運動が広まり、性的指向ではなく性自認と身体の「性別」の不一致問題が認識されるようになる。しかし、中心人物であるヨルゲンセントランスセクシュアル女性)は、同性愛に対して差別的な発言を繰り返していた。(性別適合手術で身体が自身の性自認に合致さえすれば自分は正常なのであり、「異常な」同性愛とは異なる、という考え方)
  • 1973年発行のDSM-2第7版から同性愛の項目が除外され、脱病理化される一方、1980年発行のDSM-3に、性同一性障害GID)という新しい概念が掲載される。これにより、生物学的な「性別」と異なる性自認で生きる人々は、同性愛とは逆に医療の中に囲い込まれることとなった。(医学界から画一的な男らしさ・女らしさを押しつけることのできる対象となった)
  • 1990年代に入り、GIDの周縁化や病理化への抵抗の中で、トランスジェンダーという概念が普及する。(生物学的な「性別」と異なる性自認で生きる人々のすべてが医学的な処置を望むわけではない)


この一連の流れを見ても分かる通り、LGBTと大きく括ってはいるものの、ここまでくる歴史の中では、お互いへの差別意識など(例えばTGからTS、SGへの差別、G、BからTへの差別)も問題となりながらことがよく分かります。
これに加えて1980年代に世界各国のゲイコミュニティが向き合うことを余儀なくされたHIV/AIDSの問題もありますが、これについて書かれている5章以降が自分には少し難しかったので、次の宿題としておきたいと思います。


なお、最終章に読書案内もありました。
同じ趣旨の『同性愛と異性愛』の巻末読書案内ではフィクションが多く取り上げられていましたが、今回は研究書が多く、なかなか自分が手を出しにくいものばかりでしたが、何冊か読みやすそうなものもあったので、チャレンジしてみたいです。

女装と日本人 (講談社現代新書)

女装と日本人 (講談社現代新書)

心に性別はあるのか?―性同一性障害のよりよい理解とケアのために

心に性別はあるのか?―性同一性障害のよりよい理解とケアのために

カミングアウト・レターズ

カミングアウト・レターズ

性的なことば (講談社現代新書 2034)

性的なことば (講談社現代新書 2034)

*1:なお、この種の議論で必ず出てくる「LGBTQ」という言葉がここでは使われない。Qという「当てはめ」をするよりも、分類できないセクシュアリティがある言葉の使い方の方が状況を上手く表していると考えているのかもしれない。