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蛇足頭脳流出 このページをアンテナに追加 RSSフィード Twitter

2009-12-19 ひたすら青い、過去の文集(2008年)

[]エロティシズムから始める包括的「美」試論(2008/4/28) 11:16 エロティシズムから始める包括的「美」試論(2008/4/28)を含むブックマーク

 人の心を惹き付けるもの――それを「美」という。それは人を魅了するものである必要はない。私たちが一般に綺麗・楽しい・整然といったプラスイメージで思い描く美は、所謂「一般美」であり、美のほんの一部に過ぎない。美には大きく分けて三種類が存在する。「戦慄美」・「官能美」・「倒錯美」であり、平易に言えばグロ・エロ・ナンセンスである。ここで三つの重なり合う円を三つの美のモデルとして想像して欲しい(円の中心を結ぶと正三角形が出来上がるイメージ)。私たちはふだんこの三つの美の共通部分を一般美として認識している。しかし、ある一つのファクターに偏ったものも、美であることには変わりないのだ。以上のように、美の概念を拡張仮定してみる。

 私は先日19日、上野国立西洋美術館で「ウルビーノのヴィーナス展」を観てきた。古代ローマの時代のものからルネサンス期のものに至るまで、様々な美の女神の絵画や彫刻が所狭しと並んでいた。中でも圧巻だったのは、表題にもなっているティツィアーノの「ウルビーノのヴィーナス」であった。カンヴァスの全面に照り映える裸体の貴婦人は、じっと視線を鑑賞者に向けてくるのだ。まるで、自分が神性をまとった裸婦の前に立ちつくしているかのような格好になる。誰もが言葉を失い、ヴィーナスの肉感に酔いしれる瞬間である。今、私は肉感という言葉を用いたが、美の女神ヴィーナスに官能性を求めるのは間違っているという声が聞こえてきそうだ。しかし、「ウルビーノのヴィーナス」は、神々しい姿であると同時に、娼婦のような妖しげな魅力も持ち合わせている。これに限った話ではなく、ヴィーナス絵画から性的なメッセージを受け取れないと言ったら嘘になるだろう。芸術家、鑑賞者双方の立場で共通する認識は、官能という一点を除いてしまったら存在し得ないだろう、なぜなら芸術家の内面性を鑑賞者は読み取ることなど出来るはずがないからだ。勿論そのような内面性を研究する学者もいるが、最後までどんなに史料を積み上げても「それは事実か?」という疑念は残る。だが、風流を理解しない低俗な人間でも、ヴィーナスを前にしてエロティシズムを感じないものはいないはずだ。

 第二の美、官能美の発現である。これを追究すると単なる官能小説やヌード写真、或いは現実世界での売春などに行き着くが、一般美の範囲で考えればこれは裸婦像程度にとどまる。あらゆる生物は個体同士の接合によって子孫を残すことからも容易に予想されるが、私たちは異性に強く惹かれるものだ(但し無性生殖生物は他の個体)。同性愛、異種族愛、フェティシズムは第三の美、倒錯美に分類される為ここでは置いておこう。ヴィーナスは、完全なる均整のとれた女性の具現化である。彼女は美の象徴であると共に、豊穣の象徴でもある。すなわち、美=豊穣(生殖)という古人のメッセージがここから読み取れる。男がハーレムに憧れる理由は、シースルーなどを身につけた美女がエロティシズムを感じさせるからであって、それ以上でもそれ以下でもない。同様に、女が(様々な好みはあるとは思うが)均整のとれた美少年の肉体を愛好するのもそれがエロティシズムを発するからだ。私たちはエロティシズム抜きで生き生きと生活することなど出来はしない。話を戻すが、どうしてヴィーナスは一般美にとどまるのだろうか。それは、完全なる永遠の裸婦など存在しないからである。つまり、ヴィーナスはエロとナンセンスの共通部分に属しているのである。

 私たちが恐怖を感じるもの、目を覆いたくなる残酷な光景、支離滅裂な言動、社会の不条理など、これらは全て一般美でないが美の範疇にある。心が苦しくなるものは、一般的にはマイナスイメージであるから受け入れがたくはあるが、それが良いものであれ悪いものであれ一種の「美性」を有していることは否定できない。悪役の不思議な魅力、文芸運動シュールレアリスムなどからもそれを窺い知ることが出来る。17世紀のヨーロッパで人々は魔女狩りを楽しんだらしいし、古代ローマでは人々はコロッセウムで奴隷同士の殺し合いを観て狂喜乱舞したという。やはり、残虐性や猟奇性(グロテスク)も、私たちの生活に欠かせないものなのかも知れない。ここで私が一つ帰納的に考えるのは、この世に存在する全てが美の範疇にあるのでないかということである。そう考えると、人間の残虐性や変態性欲、発狂や自我喪失などといった極端は、美の極限つまりは非社会的なものとして説明できるのではないだろうか。一人一人異なっている美意識や美学というものも、結局は巨大なる美のほんの一部に過ぎず、お互いの趣味をどんなに批判し合おうとも美の外側に出ることは出来ないと考えると、異端というアイディアは頭の中から静かに消失し、論争や紛争をしようという気持ちは落ち着いてくるのではないだろうか。美の概念の拡張は、私たちの営為に興味深い提案をもたらしてくれそうだ。三つの美の三重共通に生きる、自分は「普通」だと頑なに信じる人々は、その価値観=美意識が一瞬にして揺らぎ、崩壊し得る危うい土台であることを頭の片隅に置いておかなければならないと私は信じている。