do 動詞な人生

おお、これだ。私が自分のアイデンティティに出所不明な自信を持っている理由の一端が見えた気がする。私は自分の人生を「物語」として認識していないのだ。

「承認」だけでは済まぬ問題たち―物語と承認の彼方に
ここで言う「アイデンティティ」とは、自分はこれこれこういう人間である、という自分についての「物語」を持ち、かつそれを維持していく能力のことである。例えば大学を出てサラリーマンになって結婚して子供を持つ、そういう人生送ってきた人間は、そうした過去によって現在があるのだと感じ、またそれに基づいて未来への予測をつける。このように自分の「物語」が過去・現在・未来において通時的連続性が保たれている状態を「アイデンティティが保たれている」と呼ぶ。
(中略)
自分の「物語」を相対化してしまい、「他にもありえたはず」の自分を想像してしまうと、そしてそれがリアリティを持ってしまうと、アイデンティティの危機に陥る。ギデンズのみならず多くの識者が言うには、近代、特に「後期近代」と呼ばれる現代にあっては、こうした「他にもありえた自分」に容易に遭遇する。シノドスα2〜3号やその他の著作において社会学者の鈴木謙介が「幸福の神義論」と呼んでいたのはこうした問題群だと思われる。人生40年生きてきて今までそれなりに幸せだと思っていたが、様々な情報に接してみると本当はそうじゃなかったんじゃないか、他にも幸せな人生がありえたんじゃないか、そういう疑問を持ってしまう。自分の「物語」の正統性をどう調達するのか。

実はわたくし、「自分の人生の主人公は果たして自分か」的な話が kotonoha で出るたびに、人生を物語やドラマになぞらえる発想がおかしい。人生は不完全情報非ゼロサムゲームだ。そこで考えるべきは配役でも筋書きでもなく、戦略と意思決定だ。 みたいなことをしつこくコメントし続けております。私にとって人生てのは、物語ではなく、ゲームなんですよ。それも RPG みたいなストーリー性の強いゲームじゃなくて、将棋やコントラクトブリッジのようなゲーム。
ゲームにおいては、「他にもありえたはずの自分」なんていくらでも出てきます。これから先のありえる自分を全部想定してゲーム木を作ったうえでミニマックス法で枝狩りするのが完全情報ゲームの基本だからな。
いや、正確に言うとちょっと違う。物語的な人生認識だと、「こうであったかもしれない自分」と「実際の自分」とのギャップが相対的剥奪感として不満を生むんだそうな。これに対して私のようなゲーム的な認識では、「こういう選択肢もあった」ことと「実際の自分のとった選択肢」とのギャップの方が強く認識されます。私の場合、これが「激しい後悔」としてフラッシュバックすることが頻繁にあります。「あっちを選んでればよかったー」って。これ結構辛い。でもね、後悔と不満とはかなり大きく違うんですよ。後悔はするけど、不思議と不満はたまらない。
とかいうことを考えてて思ったんですけど、人生を物語として認識するのって、基本的に「自分は○○である」っつう be 動詞の認識ですよね。元記事から引っ張ってくると「自分はこれこれこういう人間である」「自分は大学生で、社会学を学んでいる人間だ」とかだし、人生を物語に例えるときの「自分が主人公だ」てのもそう。これに対して私が人生をゲームとして認識してるのって、基本的に「自分は○○する」っつう do 動詞の認識なんだな多分。自分の行動としてどの選択肢を選ぶか。
これは「承認」の話にも絡むんじゃないか。電脳ポトラッチの 『真の愛の実現』という妄想 の話の中で「俺自身の価値を認めて愛してくれる女でなければやる気が出ない」てのが出てきてたけど、これも「俺自身」という be 動詞な存在・状態を承認してくれって話なんだと思う。対して私の場合はそういうことってあんまり求めない。私が誰かから愛されるとしたら、それは私という存在が承認されるだけでなく、「私がすること」つまり do 動詞な行為を承認されるという側面が大きいと捉えます。だから私は、愛を繋ぎとめようとするなら行動し続けるのが当然だという感覚。
でも、ギデンズがアイデンティティ論として定式化するくらいだから、世の中の人の圧倒的大多数は be 動詞な認識でいるんだろうなあ。過去の自分が○○で、その延長上に今の△△な自分があって、将来は□□な自分になって、てな感じの be 動詞な状態の連続という形でアイデンティティを捉えてる。一方私はそうじゃない。do 動詞の主語が自分であって、「過去も現在も未来も do する主語は私だったし私だし私であり続ける」てな主語意識が自分のアイデンティティになってる気がする。
ちなみに私にとってのこの do 動詞は、何もポジティブでマッチョな行動とばかりは限りません。誰かを認める(acknowledge)、誰かを赦す(forgive)、さらには何かに耐える(persevere)のも全部 do 動詞です。耐えるのだって自分が自分の意思で選んだ選択肢ぢゃからな。私には全部を捨てて逃げるっていう選択肢もある。でもそうしないで耐えることを自分で選んだんだから。もちろん「あのとき逃げてりゃよかった」って後悔することは多々あるよ。でも後悔によって自分のアイデンティティが揺らぐことは無い。
しかし何で私はそういう風に人生を捉えるように、ギデンズのアイデンティティ論から逸脱するような認識をとるようになったんだろうなあ。それは相変わらず謎のままぢゃのう。
あと蛇足だけど、マッチョな人が「こんな生き方もある」とかいう風に人生のオルタナティブを提示してウィンプな人を励まそうとするのって、おそらく人生を be 動詞で捉えている(と勝手に私が想像している)ウィンプな人にとっては、「こうであったかもしれない自分」を見せびらかされてるようなもので、逆に不満がたまるというケースもあるのかも。いや、私はそういう感覚が無いのでわかんないんだけど、ギデンズから論理的に演繹するとそういう考え方もできるよな、と。