雑記

 馬主が馬を買わなくなったら
 ファンが馬券を買わなくなったら
 
 のどっちが先か、両方同時に起こるのか、そこらへんはよくわからないけれど、馬主は、ファン(色んな層を含む)を大切に、馬券が売れるように貢献するべきなのだろうか。自分勝手に、好きな騎手を乗せて、好きなレースに出走させて。折角、自分で高いお金を出して馬を買って走らせる道楽を見つけたのに、そこでファンの声とかって裁きで縛りをかけられたら、自分なら「ならお前が自分で買って走らせろよ」って、かつての千葉すずのような態度をとってしまうかもしれない。


 「メイショウサムソンは、もはやファンの馬になったのだから、安易な乗り替わりはするな」という趣旨の読者投稿を週刊誌で読んで以来、競馬に対する熱意が冷めた部分があるのだが、馬主はファンを大事にする責任があるのだろうか。ファンには馬券を買わないという方法で、全くの無傷で済ます事が出来るという選択もあるのに、馬主はいかなる方法を選んでも批評を受ける立場にある。人の養育費より高い月に数十万のお金を払っているのに。それで勝つ可能性が高いと思われる選択を選べば「ファンをないがしろにしている」と声が上がる。


 最初に書いた「ファンがあってこその馬主」か「馬主に買われる馬があっての競馬があってファンがいる」のか。中央競馬の施行から50年余年経った今となっては、どちらが起源かは、大事ではないと思うが、どちらも欠けてはならない存在であるとはいえ、馬券の売上げを考慮するのは、主催者であるJRAの仕事であって、馬主にどうこう言うあれでもない。そんなあれだから「有馬記念に出るようにJRAから働きかけがあった」とか本当か嘘かわからない情報が流れたりもするのだろうが。


 最近は専ら、自分が勝手に色んなものを背負わせて、馬が走るのを見ている気が強くなったから、勝とうが負けようが、馬に責任はないし、関係者も悪くないし、自分が期待して損したという自己非難に向かっている。
 火付けの所にあった「大衆の競馬」から「お金持ちの競馬」の前者は、ハイセイコーオグリキャップのような競馬を指して、後者は、オイルマネーやら今回のケースを指していると思われるが、競馬が「お金持ち」のものでなかった時代ってのはいつか。いつの時代もお金持ちの道楽に庶民が勝手に賭け事を始めて、そこにルールが生まれていったとイメージしているが。ここで指された大衆が主導権を持った競馬とは何だろう。確かにダーレージャパンの生産馬が日本生産馬初の凱旋門賞馬やBC馬になれば、また表現しづらい感情が湧いたりするのかもしれないが、そこはチェルシーチェルシーみたいな感じになるのか。


 日本競馬の目指すべき姿ってのはどんなのだろう。馬券があんまり売れないけれど、文化の一つとして根ざして、大レースにはファンが押し寄せて、視聴率が50%を越えるみたいなものか、あるいは、馬券が山のように売れてWBSでマーケット情報の次に「明日の○○レースのオッズです」と紹介される未来なのか。そこまでの大きなデザインは誰も描いていないだろうし、誰も描こうとしないか。世の中に金が余れば馬が売れ、世の中に金が無くなれば、馬も廃れる。そんな繰り返しが続いていくのだろうとは思うが、それすらもどうなるかわからない。


 お金のある馬主様は、せっせと馬を走らせて、庶民の週末の娯楽を与えてくれる神様*1みたいなもんで、そんな人らに下人が文句を言ったら罰が当たりそうだ。そう思いながら、今週も自分の夢とか希望とかピンク色の欲望とか競走馬の背中に乗せて、走る姿を見守る。そんな感じで今を生きてる。

*1:JRAはお金持ちに馬主になりませんかみたいな営業をしてるんだろうか