帰ってきたヴァファリン

完全に…忘れていました…。このブログのこと…。こういうブログを作ったということを…。さらにいえば「D」さんのことを…。思い出したのは合コンでの会話です。
「森(略)ってしってる?ネットの有名人なんだけど」
知ってる超知ってる超超知ってるとも言えずに私はにっこり微笑むことしかできませんでした。
「へえ、そんな人がいるんだ。面白いねネットって」
忘れていたのです。短い間でしたが彼には充実した時間を送らせてもらったというのに。学業バイトと忙しい日常にかまけている間に実に実に!3年もの間が過ぎ去っていました。恐る恐る例のサイト、例のスレッドを覗きました。懐かしさと違和感となんと言い難い苦いに気持ちとがごちゃまぜになった、もんにょりした気持ちに襲われました。あなたはそこにいたんですね。ずっとそこにいたのですね。変わらずに、何もかわらず、変えようとすらせずに、ずっとずっとそこにいたのですね。

わたしは変わってしまいました。2010年当時のことを思うと空恐ろしくなります。いろんなものが変化して、わたし自身がその速度に追いついていない。それに恐れと、同時に興奮を感じています。怖い、でも面白い。きっとこの先もっともっと面白いことがあるに違いない。新たな出会いがあるに違いない。
でも彼は変わっていない、多分この先ずっと変わらない変わろうという意志がない。それは哀しくて、わたしの理解をちょっと拒絶していて、この世界にはわたしとは理解しえない精神があるのだという、私自身の限界を教えてくれています。

飯沢耕太郎『私写真論』/筑摩書房

スーザン・ソンタグをはじめとして所謂「写真論」的なテキストはいくつか読んできたが、これほど撮影者―被写体の関係に踏み込んだテキストは初めて。これは恐ろしく刺激的な本である。『私写真論』とは掲げられているが、実際には飯沢耕太郎による四人の写真家の紹介、解説、批評である。四人の写真家達―中平卓馬深瀬昌久荒木経惟、牛腸茂男―のうち私が知っていたのは中平卓馬アラーキーこと荒木経惟のみである。彼らがどのような人物でありどのような写真家で、どのような写真を撮ったのか、ということについては本を読めばいい。共通しているのは彼らは生きるためにカメラを・・・写真を必要としたということだけ。それは職業的な理由というだけでなく、自分の主義主張をカメラを通じて表現するため、あるいは自分の存在理由として、自分と世界を繋ぐものとして、生きているとうことの確認のため・・・・・・かれらは写真家であり写真家として名を成した人物たちだが、いっぽうで「そうせざるをえなかった」人々である。
問題はつねに距離感だ。撮影者とカメラと被写体の。撮影者の顔、手、脚、あるいは匂い。写真にはあらわれない。しかし撮影者不在のその写真は、撮影者について多くのことをおしえてくれる。リラックスした笑顔を向ける子供。並んで神妙な顔でこちらをみている家族たち。情交の最中の女。不在どころの話ではない。写真を読むものは、撮影者の眼球に入り込んだにひとしい。あるいは脳みそにだ。
私も写真を撮る・・・しかし趣味でありアマチュアである。とても彼らと並べられるような存在ではない。写真にかける覚悟がそもそも違う。考え方もそうだ。
飯沢耕太郎はこの本のなかで大して私写真について論じてはいない。だがしかし紹介された4名の写真家はいずれも只者ならず、その作品なり生き方を追うだけで十分以上に私写真論しているのである。
ちょっとでも真面目に写真をとってみようと思ったアマチュアには必読の本だと思う。

養老孟司『臨床哲学』/哲学書房

ひさびさのハズレ本。時間を無駄にした怒りをどこにぶつけてくれようか。たいそうなタイトルがついているが内容は養老先生の日記帳レベルである。哲学とよべるレベルの話は出てこないし脳や医療についてもたいして踏み込まない。脳+医療+社会+哲学についての入門書的な読み方をするにはいいけれど、多少そっち方面の本を読んでいる人にとっては得るものがない。

ジル・ドゥルーズ、フェリックス・ガタリ『千のプラトー―資本主義と分裂症』/河出書房新社

ドゥルーズ追っかけの一環として読んで見た本。『アンチ・オイディプス』という本の続きらしいが、多分読んでなくてもあまり問題はない。カントの『純粋理性批判』なりベルクソンの『創造的進化論』なりといったいわゆる哲学論文を期待して読んではいけない。これは幻視の書である。資本主義や戦争や神経症に関係するいくつもの概念やイメージが次々と開示され、交錯していく。ドゥルーズは刹那のひとである。稲妻のように来たかと思えば通り過ぎてしまっている。読み手はその背中を追うだけで必死である。
難解な書籍である。繰り返し読むとイメージがつかめてくる。とはいえ半分くらいはドゥルーズガタリにからかわれているのか、それとも何か重要な意味があるのかわからないのである。それでもこの本は豊穣なイメージに満ち溢れて、読み手を惹きつけてやまない。
個人的には読むのがちょっと早すぎた。ドゥルーズの別の著作をもっとあたってから再度トライしたいと思う。

ジル・ドゥルーズ『差異について』/青土社

ドゥルーズベルクソン哲学の継承者でありその哲学をさらに推し進めた。ベルクソン哲学に顕著なのが事物の「質」への拘りだが、これは事物と事物の「差異」をも示していると捉えたのがドゥルーズの哲学である。「差異」こそドゥルーズ哲学の要である。この本はドゥルーズによるべルクソン哲学の捉えなおし―改めて近代におけるベルクソン哲学の射程の見直し―がテーマとなっている。短い論文である。が、正直いって苦労した。ベルクソンの文章は平易で用意周到、まるで傍らにいて歩調をそろえてくれているような優しさに満ちていたのに対し、ドゥルーズのそれはまるで稲妻のようだ。簡潔な最低限の言葉で紡がれる。彼の言葉を捉えたと思ったときには、もうずっと先まで進んでしまっているのだ。だから三度、四度の精読が必要だった。ドゥルーズベルクソンの系譜に連なる現代の哲学者である。これからしばらくはドゥルーズの著作を追ってみるつもり。