みんな悪者探しに奔走している

これらのニュースに共通するひとつの「文型」があることに気づかれただろうか。
それは「お前が責任を取れ」という声だけがあって、「私が責任を取ります」という声を発する人がいないということである。
私たちの社会はいまそういう人たちがマジョリティを占めるようになってきた。
トラブルが起きるたびに「誰の責任か?」という他責的な語法で問題を論じることが、政治的に正しいソリューションだと人々は信じているようである。

なんでそういう風潮になるのか。身も蓋もないことを言っちゃいましょうか。うんとひねくれた答えを出してみましょうか。
自分ではないどこかに責任の所在があるという結論が出れば、自分は何もしなくてすむからですよ。誰か「自分が責任を取る」と言う人がいれば、あとはその人が全部やってくれるから、それを探し出しさえすれば自分のやるべきことはおしまい。だから自分以外の誰か、悪者になってくれる誰かを探すのに必死なんです。
ついでに、これは割りと昔からのことかもしれませんが、「責任をとる人」がいたとして、その人が「どのように責任を取るのか」についても無頓着な風潮があると思います。事故や損害がどれだけ回復し、どれほど再発の危険性が減ったかが「責任の取り方」に対する評価であるはずなのに、「責任をとる人」が「どれだけのコストを負担したか」「どれだけ労苦を負ったか」が問われるような風潮。極端な話、苦渋の面持ちで「申し訳ありませんでした」と頭を下げる姿を見て、それで全ての問題が解決したかのように感じて安心してしまう。実際には何一つとして終わってはいないのに、その後のことは自分の脳内から追いやってしまう人が多いように感じています。
はてなブックマークにこの記事をクリップしたときにつけたコメント「責難は成事にあらず」は小野不由美の「十二国記」シリーズに出てきた言葉ですが、この物語の主人公の一人である景王陽子───現代日本から物語の舞台である異世界にやってきた少女は、王位についた後、旧来の因習であった、王や高官に対して下位の者が行う伏礼をやめさせ、こう言い放ちます。

他者に頭を下げさせて、それで己の地位を確認しなければ安心できない者のことなど、私は知らない。
ISBN:4062551780

これは引責云々とは関係ない、通常の儀礼の話ではありますが、「他者に悪かったと言わせて、それで己は悪くないことを確認しなければ安心できない者」も多いようではあります。