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2017-03-22 Japanese Association of Medical Sciences 1974 Symposium

1974年日本医学会シンポジウムにおける副会長 (大島研三) あいさつ

世界人口年にかこつけて日本医学会が開いたシンポジウム「初期発生」(1974年8月3-5日、箱根) での大島研三副会長 (当時) の終会あいさつ (一部)。いろいろヒドい。

挨拶
日本医学会副会長 大島研三
〔……〕
本年このような会を持ちましたのは,ことしが世界人口年であるということも1つの契機となってこのような会を持ったのでございますが,皆さま方専門家を前にして釈迦に説法ではございますが,世界の人口はきわめて速い速度で数が増大しつつある反面,質的には退化しつつあるというふうに考えざるを得ないのでございます.
 それは端的に申し上げれば,未熟児,早産児を問わず,早産したもののほとんどすべては産婦人科学の進歩で生かすと,またそこに多少の欠陥がありましても小児外科の進歩でその欠陥を取り除いてまた生かす.昔ならこれすべて死んでおった,自然淘汰されておったものがことごとく生を長らえまして,また私ども内科としては,小児科のみに見られたような諸疾患がわれわれ内科のほうにみな来てしまって,それがまた配偶者を得て子供をつくるということは,結局大きな日で見れば弱体がことごとく生存をいたしまして,それならば優良体はどうであるかと申しますると,これはむしろ社会の組織の問題でございまするが,御承知のように中学卒業生は,学力のいかんを問わず金の卵としてはなはだ高給を得る世の中であるのに反しまして,学力優秀,知能最もすぐれた者は,大学を卒業しても10年やそこらなかなか固定給が得られないという社会情勢は,勢い固定給が得られなければ配偶者を持つこともおそくなる.すなわち子孫を設けることは少ないし,そうでないほうの人はますます繁殖といいましょうか,数がふえていくということは,総体としてこれまた弱体をかかえるとともに人類の退化に非常な拍車をかけることになりつつございます.
 その上に世界の人口を調節するため受胎調節というものが行われますれば,必然的にそれは調節の普及度は知能指数とほぼ比例して普及するはずでございますし,また昨日来お話がありましたように,調節すること自体に,より優秀な子孫を設けることに対する反対の現象も十分に考慮しなければならないということでございますので,人類がより優秀な子孫を持つための本日のような研究,すなわち受精,その前およびそのあとと,人類がこの世に生を得る前後におけるいろいろな事実を深く掘り下げていきまして,そしていかにしたならばより優秀な子孫が得られるかというような基本的な研究をすることは,全く人口調節に対する両輪としてなくてはならない,きわめて必要な研究であると思っておる次第でございます.
〔……〕

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『日本医師会雑誌』74(8):944 (1975) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3356047


大島研三 (おおしま けんぞう: 1907-2008) は日本大学医学部教授、内科、特に腎臓学を専門とし、日本腎臓学会 の設立メンバーでもある。(参考: http://doi.org/10.2169/naika.91.1379 ; http://kotobank.jp/word/%E5%A4%A7%E5%B3%B6%E7%A0%94%E4%B8%89-1060279)

「そう〔=学力優秀〕でないほうの人はますます繁殖」とか「〔受胎〕調節の普及度は知能指数とほぼ比例」とか「人類がより優秀な子孫を持つための」研究が必要とか、なかなかすごいものがある。学会シンポジウムの最後のあいさつがこの内容で、異議が出た形跡もない。これが当時 (1970年代半ば) の医学界では標準的な意見だったと考えていいのだろうか? 旧優生保護法に基づく強制不妊手術を実際におこなっていたわけでもあるし。(→ https://matome.naver.jp/odai/2143486540700807701)

仮にそうだったとして、その後、医学の世界では何らかの反省とか総括があったのだろうか? あるいは、現在でも医学界ではこういう考えかたがふつうだったりするのだろうか?

「卵子の老化」初出? (1974年 日本医学会シンポジウム)

http://d.hatena.ne.jp/remcat/20170322/hakone で引用した1974年日本医学会シンポジウムにおける副会長 (大島研三) あいさつのなかに「昨日来お話がありましたように,調節すること自体に,より優秀な子孫を設けることに対する反対の現象も十分に考慮しなければならないということでございますので」というくだりがある。このあいさつだけ読むと意味がつかめないのだが、これはたぶん、このシンポジウムでのふたつの報告 (美甘和哉「発生異常:細胞遺伝学的見地から」; 西村秀雄「発生異常:奇形発生学的見地から」) についての討論のこと。ここで大島がふたつの避妊法 (荻野式とピル) による発生異常の発生リスクについて質問している。

 大島:〔……〕荻野式調節というのは非常に日本で広く行われておると思うんですが,これを行うとつまり過熟卵が受精する機会,すなわち奇形をつくることが多いかどうかということを専門家のご意見として伺いたいんですが.
〔……〕
 大島:〔……〕将来ピルを日本で広く使われることになる可能性があると思いますが,これが危険が全くないものかどうか,あるいは何か警戒を要するかどうか,どなたかこの機会に教えていただくことができますか.
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『日本医師会雑誌』74(8):926-927 (1975) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3356047


これらに対する報告者の答えは、いずれも、これらの避妊法による発生異常のリスクはありえるが、確実なデータはない (これからの課題である) という内容である。

この後の一連の質疑のなかで、鈴木秋悦が「エイジング」ということばを使って、議論を拡大している。

 鈴木 (秋):〔……〕臨床的には,荻野式のリスクということは,卵胞内での卵子の過成熟ということではなくて,排卵後の卵の卵管内でのエイジングの問題に関連してくるんじゃないかと思います.
 私たちも家兎などを使いまして排卵し,後の時間の経過とともに卵管内卵子のエイジングのプロセスを電顕で見ていますが,それによりますと,まず核よりも細胞質に変化が認められています.結論的には,卵子の老化と卵胞内での過成熟は多少こまかいニュアンスのところでやはり違う面があるんではないかと思うんですが、もし美甘先生から何かご意見ございましたら…….
 美甘:いまの鈴木先生のお話で,“卵子の輸卵管内でのエイジング” とおっしゃった現象は私のいう “卵子の輸卵管内過熟” でありまして,遅延受精とも呼ばれる現象であります.古くから “overripeness of the egg” すなわち “卵子の過熟” と呼ばれて来たものであります.この状態の卵子は排卵後受精されないまま長時間卵管内にあって第2成熟分裂の中期以後の成熟過程を経ないで退行変性を開始したものであります.正確には,卵子は精子の侵入を契機に第2成熟分裂を終わって第2極体を放出したときはじめて成熟するものでありますから,ここでいう “過熟卵” は “過成熟卵” と呼ぶべきではありません.過熟という言葉が卵子形成終了後に起こる現象を表すような印象が強く,まぎらわしいことは確かであります.
 私が成熟濾胞内の卵子が排卵の遅延によって退行変性する現象を報告したとき “intrafollicular overripeness of the egg” すなわち “卵子の濾胞内” 過熟と呼び,従来知られた過熟現象もあらためて “Intratubal overripeness of the egg” すなわち “卵子の輸卵管内過熟” と呼び直して両者を区別したのであります.前者は germinal vesicle stage (卵核胞期) で留められた卵子の退行変性で,後者の輸卵管内過熟とは卵子形成過程の異なる時期で起こる現象として明らかに区別されるものであります.
〔……〕
 鈴木 (秋):〔……〕過熟というのはたとえ排卵の時期になっても,なお卵胞内に存在しているということにことばの意味をおつけになっているというふうに理解していたわけですが,もし vesicular stage であれば、当然これは immature ですので,1つの過熟という,成熟度のポイントを,やはり排卵の時期にすでに来ているのに排卵していないというところへ置くのが妥当じゃないかというふうに思いますので〔……〕
 美甘:いまの「過熟」の定義ですが、非常に気をつけて言う方は,overripeness ということばを使わないで,むしろ delayed fertilization (遅延受精) とか,delayed ovulation (遅延排卵) といった表現を使っております.誤解を避けるために「遅延排卵」「遅延受精」であらわしたほうがよいかも知れません.

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『日本医師会雑誌』74(8):928-929. (1975) http://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/3356047
文中の「濾」は、原文ではさんずいに「戸」の漢字であるが、機種依存キャラクタであるため、「濾」で代用したもの。
キッコー (〔 〕) のない3点リーダー (…) は原文どおり。

この鈴木質問が、現在までに私が収集している範囲ではいちばん古い「卵子の老化」の用例である。これ (1974年8月5日) 以前の使用例をご存じのかたは、ご一報いただけるとありがたい。

この質問では、「卵子の老化」とは、排卵から受精までの時間の経過による細胞 (質) の変性のことだった。今日の通俗化した用法にみられるような、母体の加齢に並行して起きる細胞数の減少や受精卵の染色体異常の増加を指しているわけではない。

「卵子の老化」その後

1974年の初出 時には排卵から受精までの時間の経過による変性を指していた「卵子の老化」概念は、そのあと、意味する範囲を拡大していくことになる。

“卵子のエイジング” という現象は一般にはあまりなじみのないもののようであるが,近年,心身障害児研究が活発となり,発生異常,染色体異常の成因としてしばしば取りあげられるようになった.現在,これらの研究で問題とされる卵子のエイジングとは,次の3種に分類できるが (Mikamo, 1968),すなわち卵子の形成過程でおこる卵子の質的低下,退行変性であり,いずれも受精能・発生脳の低下をもたらすとともに発生異常・染色体異常の成因となることが認められるものである.
(1) 母体の加齢に伴う卵子の退行変性
(2) 遅延排卵による卵子の濾胞内過熟
(3) 遅延授精による卵子の卵管内過熟
 一定のプログラムにしたがって進行する卵子の形成は,そのいずれの段階においても,許容範囲を越える長時間の滞留を強いられると退行変性を生じ,卵の正常発生能は次第に減退する.卵子形成には、本来その進行が停留するところがあり,また比較的停留しやすいところがある.第一成熟分裂前期の網糸期,排卵直前の卵核胞期,排卵直後の第二成熟分裂中期などはそのような段階で,前述の3種の卵子の退行変性が生ずるところである.

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美甘 和哉 (1976)「卵子のエイジングと染色体異常」(特集 老化:その生物学・医学的アプローチ) 『医学のあゆみ』97(9): 459 ISSN:00392359
(Mikamo, 1968) は "Intrafollicular overripeness and teratologic development". Cytogenetics 7:212-233. http://doi.org/10.1159/000129985

この論文では、美甘は「老化」ということばを使わず「卵子のエイジング」と書いている。これは『医学のあゆみ』97(9) の特集「老化:その生物学・医学的アプローチ」のなかの論文であり、特集を構成する41本の論文のほとんどが「老化」をタイトルにふくめているなかで、「エイジング」ということばをあえて使っていることには、何らかの意図があるかもしれない。ほかに「エイジング」をタイトルにふくむのは2件、「Aging」をふくむのが1件、「加齢」をふくむのが13件ある。「老化」にわざわざ progeria ということばをカッコ書きで添えている論文もある。私がたまたま参照した永田和弘・塩田浩平 (編) (2009)『医学のための細胞生物学』南山堂 (ISBN:9784525131210) では「細胞増殖が不可逆的に抑制された状態を細胞老化 cellular senescence, replicative senescence, chronical senescence と呼ぶ」(p. 202) と書いていたりして、専門用語として「老化」を使うにはややこしい事情がなにかありそうではある。

「卵子の老化」という文字列を論文中で使った例は、このさらに3年後になる。

 本稿では,卵子の異常については,とくに最近問題となっている卵子の老化との関連性を紹介したいと思う.
 美甘4〜6) は,卵子の形成過程で生ずる卵子の質的低下あるいは退行変性は、いずれも受精能,発生能の低下をもたらし,発生異常の原因となることを実験的にも証明し,卵子の老化の問題点として
(1) 母体の加齢に伴う卵子の退行変性
(2) 遅延排卵 (delayed ovulation) による卵子の卵胞内過熟 (overripeness)
(3) 遅延授精 (delayed fertilization) による卵子の卵管内過熟
の3点をあげている.

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鈴木 秋悦 (1979)「卵子の異常:老化との関連で」(臨時増刊号:性-2) 『代謝』16(202): 1463 http://ci.nii.ac.jp/naid/40002286853
(1) (2) (3) はいずれも原文では丸数字。
美甘4〜6) は前掲『医学のあゆみ』97(9):459-463 のほか、Experientia 24:75-78 と Mikamo K (1962) "Overripeness of the eggs in Xenopus-laevis Daudin" American Zoologist 2(4):541。


内容は上記の美甘の論とおなじであって、卵子形成中に「本来その進行が停留するところ」として (1)、「比較的停留しやすいところ」として (2) (3) があげられていると理解しておけばいいだろう。これらのうち (1) に関する説明はつぎのようになっている:

ヒトを含むほとんどの哺乳類の卵細胞は,胎児 (仔) 期後期にはすでに分裂増殖を完了し,第1成熟分裂前期の休止期 (resting stage) である網糸期 (dictiotene あるいは dictyate stage) にとどまった状態で排卵直前で再び成熟分裂が再開始されるまでのきわめて長い期間,卵巣内にとどめられているわけで,更年期に近い婦人の卵巣内の卵子は,若年層に比較して約3倍にわたる長期間,休止期のままにとどまることになる.この間,卵子になんらかの変性あるいは異常が生ずる可能性は十分に考えられる.

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鈴木 秋悦 (1979)「卵子の異常:老化との関連で」『代謝』16(202): 1464 http://ci.nii.ac.jp/naid/40002286853


そのあと長い間、「卵子の老化」ということばが一般的に流通することはなかった。一般の人々の間にこのことばが広まったきっかけは、NHKが2012年に放送した「産みたいのに産めない:卵子老化の衝撃」ということになるだろう。このときには、またしても意味の変質が認められる。

 「卵子の老化を止める方法はない」
 取材した多くの医師はこう口を揃え、無力さを痛感していた。卵子の老化は女性にとって避けられない宿命であり、医療が超えられない壁でもある。
 「美魔女」や「アンチエイジング」といった言葉が飛び交う現代。巷にはいつまでも若々しい三十代、四十代の女性たちが溢れている。いつしか、若さは努力すれば保てる、老いは遠ざけられるものと考えられるようになっていた。しかし、「卵子の老化」は、最先端の医療技術をもってしても止められないという。
 なぜ卵子は老化するのか。それは卵子が、生まれたときからずっと体の中にあり、年齢とともに年を取るからだ。男性の精子が毎日つくられる一方で、女性の卵子は新しくつくられることはない。そのため、女性が年齢を重ねるほど卵子も老化してしまうのだ。
 卵子が老化すると引き起こされるのが、「質の低下」と「数の減少」だ。卵子の「数の減少」というと月経のイメージが強く、「月に一つ」のペースで少しずつ減ると思われがちだが、実は、それをはるかに上回るペースで減少している。
 卵子のもととなる細胞の数が最も多いのは、まだ母親の体の中にいる胎児の頃、妊娠二十週の頃で、約七百万個。それが赤ちゃんとして生まれるときにはすでに三分の一以下に減り約二百万個。初潮を迎える頃には、約三十万個になる。そして三十五歳頃には数万個にまで減少する。一つの卵子を排卵するために、約千個の卵子の元となる細胞が候補となるが、卵子となる一つ以外は全て無駄になる。そのため、一般的に思春期以降、卵子は月に約千個減ると言われる。つまり、「一日に数十個」のペースで減り続けている計算になる。
 卵子の数の減少は、ときに不妊治療の成否を左右してしまいかねない。不妊治療で体外受精を行うとき、排卵誘発剤という薬を使って、卵巣内の卵子を育てた上で手術で卵巣に特殊な管を刺し、できるだけ多くの卵子を採取することが、第一ステップとなる。二十代であれば、一回の手術で十個以上採れることが多いが、三十五歳以上になればその数は減り、四十歳を超えると卵子が採れないことも珍しくはない。卵子が採れなければ体外受精もできないため、子どもを産みたいという願いを断念せざるを得ない夫婦もいるのが現状だ。

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NHK取材班 (2013)『産みたいのに産めない:卵子老化の衝撃』文芸春秋 ISBN:9784163763606 p. 25-26


ここでは、もはや排卵の遅れや受精の遅れのことはまったく出てこなくなり、母体とともに卵子も年を取る、というレトリックが前面に出てくるようになる。このようなレトリックはこれ以前の講談社 (2011)『FRaU Body: 妊活スタートブック』(ISBN:9784063895759) や齊藤英和・白川桃子 (2012)『妊活バイブル』講談社 (ISBN:9784062727518) でも使われており、いわゆる「妊活」を特徴づけるものとなっている。

卵子は胎児の時期 (0歳未満) に作られているため、実年齢よりも1歳年上なのだ。そしてあなたと一緒に年を重ねていく。年を取れば、私たちの外見にもシミやシワが増えたり、体力や代謝が落ちるなどの変化が現れる。もちろん卵子も例外ではない。〔……〕
「今のところ卵子をアンチエイジングする方法は見つかっていません。ただ、肉体の老化に個人差があるように、卵子の加齢にも個人差がはあります。卵子に悪影響を与える過労や睡眠不足、過度なダイエットや太りすぎなどに注意して、健康なカラダを維持すれば、健康な卵子を排卵する能力はキープできます」(齊藤先生)

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講談社 (2011)『FRaU Body: 妊活スタートブック』ISBN:9784063895759 p. 20
「齊藤先生」は齊藤英和、つまり『妊活バイブル』第1著者と同一人物。

「肉体の老化」の個人差に対比されるのは、個々の卵子間の差ではなく、「卵子の老化」の 「個人差」 なのである! 個別の細胞がそれぞれ固有のライフサイクルを持つという発想はここにはない。ここで齊藤が「卵子」ということばで象徴しているのは、「健康な卵子を排卵する能力」のことであり、それは母体に帰属するものなのだ。

さて、NHK取材班の使ったレトリックでもうひとつ特徴的なのは、「数の減少」を卵子の老化 (の結果) にカウントしたことである。このレトリックは『FRaU Body: 妊活スタートブック』や『妊活バイブル』にはみられなかった。卵子数の減少についての記述は確かにあるが、それは「卵子の老化」とは別項目ということになっていた。NHK取材班は、これらをあえてむすびつけ、卵子の数が減るという現象自体を「卵子の老化」を象徴するものとして使いはじめる。そしてこれ以降、Baker (1971) などの論文に記載されたデータを改変して、20代から30代にかけて急激に卵子が減るかのようにみせかけたグラフが定番アイテムとして定着する。

代表的な例として、河合蘭による2013年の本『卵子老化の真実』のグラフをみておこう:

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河合蘭 (2013)『卵子老化の真実』文藝春秋 ISBN:9784166609062 p. 32


出典としてあがっている「Baker, 1971」は巻末の参考文献には載っていない。おそらく "Radiosensitivity of mammalian oocytes with particular reference to the human female" American Journal of Obstetrics and Gynecology 110(5): 746-761 だろう。タイトルからわかるように、これは放射線の卵母細胞 (oocyte) への影響についてのレビューである。生殖細胞の形成過程とかその数の変化とかについての研究ではない。ただ、先行研究を解釈するうえで最低限必要な知識についてレビューの前に1節割いており (生物学の配偶子形成の章にあるようなことが書いてある)、そのなかにグラフが出てくるだけである。細胞数が減ると妊孕力が落ちるとかそういうことも別に書いていない。データの性質や計算方法については何も説明がないので、引用先の論文 (成人のデータに関しては (Block 1952)) をみないことには、何をやった研究なのかということ自体がわからない。

ともかく、Baker (19721) のグラフは下記の画像のようなものである。河合のグラフとはほとんど一致しない。頂点の値もちがうし、プロットしている年齢位置もちがう。河合のグラフの横軸は「5歳」から「10歳」の間隔と「10歳」から「20歳」の間隔がおなじくらいになっていたりして、不審である。さらに、Baker のグラフは20代から30代の間はほぼ一定で推移するのに対し、河合のグラフではその期間に直線的に減少しているというちがいがある。(ここではとりあえずBakerの「germ cell」と河合の「卵子」はおなじものを指すと考えておく。)

f:id:remcat:20170322171135j:image

T. G. Baker (1971) "Radiosensitivity of mammalian oocytes with particular reference to the human female" American Journal of Obstetrics and Gynecology 110(5): 748 http://doi.org/10.1016/0002-9378(71)90271-7
注釈の Baker 3 は T. G. Baker (1963) "A quantitative and cytological study of germ cells in human ovaries". Proceedings of the Royal Society of London. Series B, Biological Sciences. 158: 417-433. http://doi.org/10.1098/rspb.1963.0055
Block 24 は E. Block (1952) "Quantitative morphological investigations of the follicular system in women: variations at different ages". Acta Anatomica. 14: 108-123. http://doi.org/10.1159/000140595


どうしてこのような改竄が必要だったのか。河合 (2013) を読むと、本文での説明にあわせてグラフを用意していることがわかる。

女性の卵子は、その女性が胎児の時に作られます (次頁 グラフ4)。作るのは「卵祖細胞」という細胞。卵祖細胞は、妊娠初期に約700万個もの卵子を作り、そこで消えてしまいます。
〔……〕
誕生時、女の子の赤ちゃんの卵巣には、長い休眠状態についている発育途上の卵子が200万個ほどあります。
〔……〕
 誕生後も卵子は、自滅して数が減っていき、思春期までに出生時の10分の1に減少。つまり、初潮を迎える時には、当初700万個作られた卵子はすでに20万個に減っているのです。そして〔……〕卵子は順番に長い眠りから目を覚まし、成熟のプロセスを再開します。

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河合蘭 (2013)『卵子老化の真実』文藝春秋 ISBN:9784166609062 pp. 31, 33


「妊娠初期に約700万個」
「誕生時〔……〕200万個」
「初潮を迎える時には〔……〕20万個」

なんのことはない、河合のグラフは自分が文章に書いたことをそのまま図にプロットしているだけなのである。Baker の論文とは関係ないではないか。

さらに、思春期以降の部分。

「卵子が目覚めていく様子は、コップの中で、お砂糖か塩の塊が溶けていくのをイメージするとわかりやすいですよ」
 体外受精に長く取り組んでいる浅田レディースクリニック(愛知県名古屋市)の浅田義正院長は、そう説明してくれました。
 「卵巣に眠っている卵子は『原始卵胞』といって、今の超音波診断の技術ではまだ見ることができないほどとても小さな卵胞。それが、生理周期と無関係に、間断なく起きて来ます。若い人なら、1日平均30〜40個、つまり月に1000個くらいは、新たな原始卵胞が起きて育ち始めるんですよ。
 その小さな小さな卵子は、ほとんどがすぐに消えてしまうのですが、ごく一部のものは数カ月くらい生き続けて医師が目で観察できる大きさになります」
 3ヵ月目に入る頃には、最終選考に残った約1%の卵子の中から、いよいよ、排卵するたった1個の卵子が決まる時を迎えます。それは、卵巣の中でたまたま一番大きく成長したものが選ばれると考えられています。
 ひとつの卵子が決まると、他の卵子はすべてしぼんで、消えてしまいます。この仕組みにより、ヒトは基本的に複数の胎児を宿すことなく、1人ずつ出産します。
 では、この行程が年齢の高い人ではどうなるのでしょうか。高齢出産の人は若い人のように卵子の在庫数がありません。卵子は毎日起きてはなくなっていき、最後はほとんどなくなって閉経になります。ですから、高年齢女性では起きてくる卵子が少なく、従って最後の段階まで生き残る卵子もわずかとなります。
 若い人なら少なくても5個、多い人では20個近い卵子が最終選考に残ることができますが、高年齢の人はそこまで残りません。個人差や月による差もありますが、40歳くらいだと、若い人のおよそ半分くらいか、まったくなくなってしまうこともあります。
 それは、妊娠率も下がることを意味しています。「受精するのはたったひとつの卵子だから、質がよい卵子があれば数は不要では」という気もしますが、生命の自然淘汰の合格基準はとても厳しく、参加者が少なければ「該当者なし」になってしまいます。
 卵子がいよいよ本格的に少なくなると、身体は生理周期を維持できなくなります。卵子の在庫数が1000個を切ると排卵が起こらなくなり、月経も止まって閉経になります。

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河合蘭 (2013)『卵子老化の真実』文藝春秋 ISBN:9784166609062 pp. 35-36

この説明のポイントは、数の減少そのものではなく、減少分の減少 (つまりグラフの傾きが加齢とともにゆるやかになっていくこと) を問題にしていることである。若いうちは月に1000個くらいずつ使ってそのなかから最終的にひとつだけが排卵にいたるのに対し、年齢が高い人ではこの「選考」に加わる細胞の数が少なくなるというのだ。グラフでは、30代中ほどに点が打ってあり (「卵子の老化に悩みはじめる」というフキダシ)、そこから傾きがゆるやかになる。まさにこの解説に合致したグラフである。本文でこのような説明をしているところに、Baker 論文のような横ばいのグラフ (20代にはもうほとんど減少しなくなっている) を載せるわけにはいかなかったのだろう。

先に引用したNHKの書籍では、数が減るのがなぜ妊娠に不都合なのかはまったくわからなかった (不妊治療に不都合らしいことはわかる)。河合 (2013) が引用する浅田義正の説明は、そこのところをうまく埋めている。NHK取材班 (2013) には参考文献が出てこないのだが、「月に約千個減る」などの数値が一致していることからみて、河合が引用している浅田義正の説明とおなじ内容を指している可能性は高い。

さて、この浅田義正の説明についての根拠は、河合の本には示されていない。Baker (19721) のグラフでは20代後半以降はほとんど減少しなくなるのだから、Baker (およびそのデータ源である Block) の研究が根拠でないことは明白である (だからグラフを改竄する必要があった)。河合 (2013) の参考文献に挙がっている 浅田の本 を読めば書いてあるんだろうか?

その他、浅田義正の著作はいろいろある模様: http://ci.nii.ac.jp/author/DA11305622

履歴

  • 2017-04-18: Baker論文の年号の間違いを修正: 1972→1971 (2箇所)