10年ぶりに祖母が住む町を訪れた。


子どもの頃、夏休みに母親と一緒に行った同じ場所へ、当時の母より年を取った自分がいるのは少し不思議な気分だった。当時と違うのは、新幹線とローカル線ではなく、飛行機と車で移動していること。母に手を引かれているのではなく、自分が幼児の手を引いていること。そして何より、かつて祖父母や大叔父叔母夫婦が住んでいた広い家に今は誰も住んでいないこと。


敷地内のかつて呉服店だった場所は、棚とハンガーを残して空っぽになり、わずかに返品されていない服が下がっていた。店の主だった大叔父を囲み、近所の人が数名集まってお茶を飲んでいたスペースは、ただの薄暗がりになっており、ミシンのあった部屋にも人の気配が全くない。


店の中の畳敷きのスペースでは、祖母や大叔母、店を手伝っていた親戚同然のおばさん達が、人形や花飾りの作り方を教えてくれたものだ。ふと、ある夏の大雨の後、祖母や母たちが同じ場所で赤い布でたくさんの三角巾を作っていたことを思い出す。長い長い赤い布を正方形に切り、対角線でさらに切って三角にする。雨で崖が崩れた場所に旗を立てて危険を知らせるためだ。家の前の国道を渡ったところにある町役場に、当時、町長をしていた祖父が通勤していた。大量の赤い旗製作は、町役場から頼まれた仕事か、町長の妻によるシャドウワークだったのだろう。


玄関の下駄箱の上には、子どもの頃に見たのと同じ青緑色に金の模様の花瓶があり、壁にはちぎり絵のネズミが貼られていた。ちぎり絵は祖母の趣味だから、介護施設に入った3年前のネズミ年に作ったものだろうか。


約30年前は、夏休みになると叔父叔母やいとこ達が次々にこの家を訪れていた。多い時は4家族15人が入れ替わり立ち替わり。マメな祖母は客用のシーツに全て糊をつけ、パジャマや箸や子ども向けの遊び道具を用意していた。小学生だった私と弟は、家の目の前にある川に小さなバケツと網を持って行って魚を採ったり、店を手伝いにきてくれているおばさんに連れられて、農家に牛を見に行った。朝食はご飯と野菜のみそ汁に卵。昼食はパンだったけれど「日本は米が余っているから」と言って、祖父だけはいつもご飯だった。


家に最も人がたくさん集まるのはお盆の8月15日前後だ。奥座敷に位牌や飾り、お菓子を並べて提灯を飾った。30年以上前に遊び半分に覚えたお経の一節を私は今でもそらんじることができる。田んぼの間の道を歩いてお墓参りに行くと、いつも強力な蚊にあちこちを刺されてかゆかった。


当時子どもだった私も今や「おばさん」になり、あの頃、一緒に遊んだ小さないとこ達と同じ年ごろの、自分自身の子どもを連れている。身体の自由がきかなくなった祖母は老人ホームへ、大叔母は病院に入院した。祖父と大叔父はすでにこの世にいない。


空港から祖母や大叔母のいる介護施設や病院を訪ねるため、車で移動する途中、窓からは山と川とコンクリート採掘場と畑と、それから沢山の有料老人ホームと通所介護施設が見えた。付近の経済が年金と介護保険で支えられていることが誰の目にもよく分かる。


ちょうど旅行中に2012年度の予算関連法案が成立し、政治にできることは、痛みの先送りでしかないことをあらためて痛感した。都心で暮らし経済ニュースを見ていたならば、そこで感じるのはある種の怒りだっただろう。


しかし、実際にその支え手を失って崩壊しつつある地方経済を目の当たりにして感じるのは、世代間不平等への怒りよりむしろ無力感だった。30年の年月を経て私が失くしたのは、子ども時代の夏の思い出だった。そして、個人の喪失感や感傷を圧倒する速度で、日本の経済がどんどん崩れている。