血と肉は宮崎監督から、そして骨格は高畑監督から

こんな事をクドクド私が書くまでも無く、吾郎監督は百も承知だったでしょう。吾郎監督の「監督日誌」を読むと。

  • 「太陽の子ホルス」の様なシンプルで力強い絵にしたい

と終始一貫して書いています。過去の先人達の仕事をつぶさに追って行く時に、当然「高畑監督」の事も意識し、父:駿監督の作品との違いを理解し、自らの中で咀嚼しながら、道を探して行ったのだろうと思います。
そう思うと、巷では「駿監督」との事ばかりフォーカスされていますが、私は急に「高畑監督」との関係が気になりだしたのです。
吾郎監督が先のブログ以外で、高畑監督に言及したコメントは見た事がありません。しかし、「ゲド戦記」を観ると「非常に意識している」と感じるのです。

  • 言葉で言うべき事はきちんと言う
  • 実生活でも起こりうる不安を不安としてストレートに描く

まだ、高畑監督までの「上手さ」は無いかもしれませんが、「ポスト駿監督」というよりは「ポスト高畑監督」と言う方がしっくり来る。そして、それは決して不可能では無いと感じるのです。
今回の「ゲド戦記」では吾郎監督も「友の死」は扱いませんでした。恐らく、ラストのクライマックス「テルーの変容」のイメージを強くする為に、このシーンに集約させたのでしょう。
クモの腕の中で、テルーは次第に息が出来なくなり「ドサッ」と物が崩れ落ちる音を、アレンは背中に聞きます。あのアレンの一瞬の表情と「ああ、死んだ、死んだ、かーわいそう。」(この台詞は絶品、田中裕子にしか言えない!)とつぶやくクモ。
このシーンに「高畑DNA」を私は感じます。