rentoの日記 このページをアンテナに追加

2010-01-22 女嫌い

女嫌い 02:30

というタイトル(原題)を見てきた*1。この映画、予告編を見たときから気になっていた映画で、どういうことかといえば、過去に起きた謎の失踪事件を調査するなかで徐々に真実があぶりだされるというミステリーといえる内容の映画で、その重厚な映像とあいまって、濃いシリアス・ドラマを予感させるのだが、そのいっぽうで、刺青をして、顔面リングだらけ(鼻輪までしている)の小柄な女が格闘シーンを繰り広げている。まあ捜査の過程で、怪しい富豪一族のなかにそんなぶっとんだ娘がいるという設定なのかとも思ったが、彼女は格闘能力だけでなくハッカーとしてもすぐれていて探偵役でもあるようだ。最近、衛星放送の深夜番組アニメの『エクシード』を放映していたが(みたことがあるので、テレビであらためて見ることはなかったが)、同時期のモーションピクチャー・アニメベクシル』とならんで、最近流行の格闘(美)(少)女が主役の映画という風情でもある)、これはつまりアニメB級映画に特有の設定なのだ。だとすると、重厚なミステリーの部分と、どうつながるのか、謎は深まるばかりだった。


すでに公開されているこの映画ミレニアム――ドラゴン・タトゥーの女』は、スウェーデンのベストセラー・ミステリーの映画化で、ミステリーにうとい私は、映画館の近くの書店で、この『ミレニアム』シリーズが山積みになっているのをみて驚いた。全部で6冊出ているこのシリーズが山積みされるとかなり圧巻で、読んでみようという気がうせた。ひとつの映画の原作が6冊。う〜んと、うなったが、実は映画は第一部、本にして上下二冊を扱っている。全部で第三部まで出ていて、各部二冊構成で、計6冊。映画の最後に第二部の予告編があった。調べてみたら、第三部までもう映画化されている。今日の夕刊にはこの映画評が載っていて「極上のミステリー」とあった。極上かどうか、私にはわからないし、というかミステリーの評価はいい加減なことが多いので(これについては明日書く)、正直いって、極上とは思わない。けれども評判はよいし、面白い作品だと思う。充分に楽しめた。続編が公開されたら見に行くことはまちがいない。


40年前に起こった失踪事件を解いてゆく物語だが、その過程でスウェーデン社会の暗部が明るみに出されてゆく(スウェーデンの現在はいうまでもないが、過去にもナチスに共鳴した人間が多くいたことには、さもありなんというべきだとしても、やはり驚いた)。優れた直感と地道な調査によって真相に近づいてゆくのはミステリーの王道。問題は探偵役なのだが、ひとりは『ミレニアム』という雑誌の編集長で、大企業経営者を告発したが、罠とわかり、裁判で負けて懲役を言い渡された中年男(離婚歴あり)と、子供の頃、母親を虐待する父親を殺した、その後、不良行為、犯罪行為に走ったらしく、日本風にいうと保護監察状態にあるが、探偵社で働き、有能なハッカーでもある、刺青、リング女。このどうみても接点のない2人が、どのようにして出会い、協力して事件を解決してゆくかががまさに映画の見所となるだろう。


彼女――名前はリスベット――は、単純な格闘・不良女ではない。後見人による保護監察下にあるというほど、複雑な過去をかかえているし、また、そのたくましい筋肉をみせつける肉体は、ある種の頼もしささえ感じてしまうのだが、しかし、彼女は、みかけほど、強くはない。最初のほうで、町のチンピラグループと激しい格闘を繰り広げて、腕っ節の強さをみせつけるのだが、その後、悪徳後見人の前では、弱みを握られているとはいえ、抵抗できなくなり、フェラからレイプまで、なすがままである。これでは普通の女以下の弱さだとあきれると、当然、その反動で、彼女は復讐をする。しかしスウェーデンの警察も馬鹿ではないだろうから、後見人に性的関係を迫られたといえば、なんとかしてくれそうなものだが、彼女の復讐行為は愚かで、ああいうかたちの復讐の方法(『イングロリアス・バスターズ』を思い出した)は、不合理だし、もちろん違法。見ている側も、そんなにすっきりしない。無用な暴力が行使されているとしか思えないのだが……。続編の予告編をみて、なるほどとわかった。この無用な暴力も、続編へのネタフリなのだ。続編では、後見人との関係が、ものすごく悪化して、彼女は再び窮地に陥るようなので。


事件そのものは、女性を性の道具としてしてしか扱わない、連続殺人鬼をあつかうことになるが(映画のタイトルも、そこからきている。つまり「女を嫌う男」というタイトルは、映画の犯罪の性質をずばりといいあてているメタファー的タイトルであるのに対して、「ミレニアム」とか「ドラゴン・タトゥーの女」というタイトル(どちらも国際的英語タイトル)は、作品の一部から印象的な部分をとったメトニミー的タイトル)、女性を嫌悪しレイプしては殺してゆく変態殺人鬼は、ある意味で、男性のミソジニー体質の極限形を示しているし、それはまた、彼女リスベットの父親もそうした屑男(「くずおとこ」あるいは「くずお」と読んで欲しい)であって、子供の頃から始まった彼女の戦いは、この女を憎む男を告発し社会的にも肉体的にも葬ることだった。そういう意味で、中年男と彼女とは、同じ敵を相手に戦ってきたことになる。


いっぽう中年男ミカエルトと彼女リスベットとの関係は、その対極にあって、深い信頼関係と相手への尊敬によって結びついている。彼は、彼女の身体能力と知的能力に驚嘆する。彼もすぐれた知力をもつのだが、彼女は、それ以上の洞察力をもち、さらには彼にはないコンピューター・ハッキング能力によって、彼のために、難問をつぎつぎと解決してくれ、またそれ以外の面でも援助してくれ、最後には命まで助けてくれる。彼女は、無愛想だが、彼には絶大な信頼を寄せてくれ、時に情にあついところもみせ、甘えてもくれる。彼女は、男性にとって、まさに理想的なパートナーといえる。そしてその女性ボディービルダーのような少年のような肉体。もう、惚れてまうやろー。


とびきり有能で、信頼のおける、頼もしい理想的な、またクィアな、女性パートナーというファンタジー(そんな人間は、男性であれ女性であれ、いないからファンタジーなのだ!)は、女性を人間扱いしない殺人鬼のミソジニックなファンタジーの裏返しというところもある。つまり、女性を蔑視する裏には、男性優位幻想にもとづく男性同盟的な面(この映画では、ナチスは、実際には同性愛者を迫害したにもかかわらず、同性愛的な男性同盟の基盤として表象されているようなのだが)があるとすれば、有能な女性、女性を超えた男性に近いクィアな女性へのリスペクトのなかにある異性愛を超えた同性愛的ファンタジーは、ミソジニックなファンタジーの対極でもあるし、またどこかで繋がっているともいえる。女性蔑視の旧来の同性愛と、女性との連帯を通して異性愛を超える同性愛は、同性愛という点で延長線上にあるかもしれないし、対極にある新たな同性愛のかたち、つまりクィアとしても考えることができるか、その実際の現れ方については、この映画を基盤にしてすすめることができる今後の課題であろう。


最後に、結局、この中年男は、たとえ事件を解決しても、判決どおり、6ヶ月後に収監される。気の毒に。監獄ではさぞやつらい思いをするのではと思ったのだが、いやスウェーデンの監獄、ショーシャンクの空の下とはわけがちがって、わからなかった――そこが監獄とは。まるでホテル。鉄格子はない。窓はなかったようだが、それしても独房というよりホテルの快適な一室のよう。そこでは、コンピュータをネットに接続することもできるし、本も読める。だったら、私のような人間は、仕事し放題ではないか。半年くらい収監してほしいものだ。スウェーデンだったら。そうすれば、かかえている仕事が全部片付く。そして面会は、各フロアのロビー。ガラスの扉を隔てて、話をするなんてことはなく、ほんとうにただのロビー。スウェーデン、すごい。


あとやっぱりドラゴン・タトゥーの彼女。映画の終わりのほうで、金髪美人に扮装するところがあるが、ブロンドの髪はまったく似あわないし、そもそも美人でもなくなってしまう。彼女には、女性的な魅力はない。だがクィアな魅力は、惚れて…惚れてまう…やろ。でも彼女、実生活では2児の母親なのだが。

*1Män som hatar kvinnor(2009) たぶんMen Who Hate Womenという意味だと思う。

2010-01-16 注番号

注番号 03:22


日本人が書いたある本に、アメリカから短い序文が寄せられた。以前、もう20世紀のことになるが、その翻訳を頼まれて、訳出したことがある。短いものだったし、断る理由もみつからなかったから。


そしてその本が、今度は文庫になるということで、訳文をあらためて確認してほしいといわれて文庫本のゲラに目を通した。十年以上も前の自分の翻訳で、しかも、あまり上手いともいえないのだが、まあ、意味はとおっているので、仮名遣いの不統一を一箇所か二箇所直した程度のことはした。


いや、自分では下手だと思うのなら、訳しなおすくらいの気概がないと翻訳者とはいえないのではないかと非難されそうだが、実は、もとの原文は、タイプ原稿(のコピー)で、それはもうどこにいったかわからない。だから改訳あるいは新訳というのは不可能だし、またたとえ原文がみつかっても、こちらがあまり頑張りすぎて改訳しても出版社に負担がかかってしまうだろうと思い、そこそこにした。


それで終わりと思ったら、注番号がひとつ抜けているので、確認して、付けてくれといわれた。私がゲラで見落としたので、こちらの責任だが、文庫本になる前の本で確かめてくれれればいいのに、そんなこともしない編集者かとあきれたが、もとの単行本をとりだして、今回の文庫本のゲラで抜けている注番号を探した……。ない……。もとの本でも注番号がないのだ。ということはもとの本を出版するとき、編集者校正係も私も、注番号がひとつ抜けていることに気づかずに、本にしてしまったのだ。


著名な出版社である。こんなこともあるのか……。いや、あきれてばかりでは。注番号をつけなくてならない。もとのタイプ原稿を探すことはほぼ絶望的である。出版社に残っているのかもしれないが、編集者がかわってしまっているので、すぐにみつかりそうもない。困った。原注はあるのだが、本文の前後関係から注の入りそうな場所はわからない。


結局、どうしたのか。その原注で触れられている原書の該当ページをみるしかなかった。図書館で調べればいいと思うかもしれないが、事情があって、うまくいかず、結局、その本を購入した。そして該当ページを調べた。で、どの段落に入る原注かは理解できた。ただし原著者がどの場所につけたのかはわからなかったので適当につけておいた。適当とはいえ、その段落に入る注であることは、まちがいないので問題ないだろう。


正月そうそう、たいへんだったと思われるかもしれないが、該当ページ探しは、昨年11月の終わりから12月にかけておこなったこと。いま本ができかあがったが、私の名前は表紙には記載されていなので、どの本のことを言っているのかは、わからないはずだ。

2010-01-15 本務校で非常勤を

本務校で非常勤を 03:17

え、もう一度、確認させてもらいますが、

その人は、非常勤講師でありながら、授業を自分の大学でしたのですか。

授業のあと、その先生は学生をつれて駅の近くで夕食会をして

あなたも参加したのとのことですが、

あなたの記憶では、

場所は、あなたのいた大学ではなくて、

その非常勤講師の本務校に近い駅なのですよね。


もしそれがほんとうなら

非常勤講師の授業が本務校で行なわれていたら

非常勤講師でもなんでもないじゃないですか。

常識では考えられませんよ。


その先生のいうことでは、自分の授業は人気があって、本務校の学生にも

授業を聞かせてやりたい、あるいは本務校でも授業を受けたいという声がある、

だから、本務校で教室で授業をするから、

非常勤先で履修する学生は、その先生の本務校のほうに出向くようにと言った?


いや、ほんとうに記憶は確かですか。それっておかしいじゃないですか。

その先生は人気がありそうだから、非常勤先でも本務校でも人気はあるでしょう。

でも、その場合、本務校の学生を非常勤先の授業にもぐらせればいいだけで、

非常勤先の学生を本務校に呼んでくるというのは、

言語道断、絶対にありえないことでしょう。


気は確かかといいたいです。あなたに。

いや自分の記憶が正しいというのなら、その先生に言いたい

気は確かかと。


だって非常勤先の大学で、その先生の授業の前の授業を履修する学生は、

本来なら、その先生の授業も履修できたはずなのに、

教室が勝手に学外になったら、続けて履修できなくなるじゃないですか。

ほかにも非常勤先の学生にとって不利益なことが出てくる。

そもそも非常勤講師が、非常勤先で授業をしなかったら、

非常勤講師ではないじゃないですか。


もう一度確認します。あなたはその非常勤講師の先生の授業に

感銘を受けて、その先生の本務校の授業をも聞きにいったということではないですか。


え、それはない。成績も出た。単位ももらった。しかも、その先生の

本務校で?

まあ、唯一考えられるのは、授業がバッティングしたということでは。

本務校の授業と非常勤先の授業が同じかほぼ同じ時間帯となってしまい

わかった時には、もう変更できなかった。

本務校で授業をしなかったら問題になるが、

非常勤先で授業をしなくても、なんとかなると思ったのでは?


いま私は非常勤先では出勤簿に判を押すのですが、

その先生のときは

出勤簿はどうしたのだろう。

まあ管理はかなりいい加減で、

まとめて押せないこともないか……


でも、ほんとうに記憶にまちがいない。

間違いなって。しかも、その先生は、授業中に

私の悪口を言っていた?

え?

まあ、その件は、パブリックエネミーである私にとっては

めずらしくないのですが、また聞くとして、

とにかく非常勤先で、休講が多いというのはよくあることとしても

そもそも授業せずに、自分の本務校で授業をして、

しかも、単位を出した。

これはほんとうなら、大問題ですよ。

交通費だって出ているはずだし。

非常勤先の学生に無駄な交通費を使わせているし。

よく非常勤先の大学も黙っていましたね。

口封じのために学生には皆に優を出した可能性もありますね。


調べる価値はあるでしょう。

2010-01-14 名駅

名駅 04:38


これは「な・えき」ではなく、「めいえき」と読む。


秘密のケンミン・ショーのスペシャルで、名古屋駅のことを名駅(めいえき)と言ってしまうのは愛知県民しかいなという、県民の秘密が披瀝されていた。まあたしかにそうだろう。名駅と聞いて、これが名古屋駅の略称とわかるのは、私のように名古屋出身(広くは愛知県出身)の人間しかいないだろう。


おかしいのは、「なごやえき」と「めいえき」では、1文字しか少なくなく、かな表記、あるいは発音上、略称といえるのかどうか疑問に思われるかもしれない。たしかにそうである。ただ、漢字で書くと「名古屋駅」から「名駅」となって、漢字4文字から漢字2文字となって、たしかに略称かもしれない。それにしても「なえき」ではなく「めいえき」である点は不思議である。


いわれてみると。番組では、名古屋を「名」と略し、発音も訓読みの「な」ではなく音読みの「めい」にする傾向は、昔からあって、たとえば名古屋城のある公園(それは私の高校の近くの公園でもあったのが)、それは「名城公園(めいじょう・こうえん)」と呼ばれていて、おそらく正式名称なのである。あるいはさらに付け加えると、大学名で「めいだい」というと、名古屋では「明治大学」の略称ではなく「名古屋大学」の略称なのである。


しかし「名古屋駅」という名前のJR私鉄地下鉄の駅はある。と同時に名古屋駅周辺の地名には「名駅」が正式名称として使われている。はっきりってへんなのだ。


名駅めいえき」といわれて、たしかに私には名古屋駅だとわかるのだが、私自身は、昔も今も、たとえばタクシーに乗ったら「名古屋駅まで」と言っているし、これからも言うと思う。タクシーの運転手に「名駅行ってちょ」あるいは「名駅、行ってちょーでゃー」などという名古屋人などいないと思う。いても、こてこての少数派では。


ただ番組を見てみると、「名駅めいえき」という言い方はかなり浸透していて、私のように自分で使うには違和感を覚えるという世代はすくなくなってきているようだ。


違和感。そう、たとえば東京で新宿までタクシーで行くときに「じゅく、まで行って」とえいば通ずるかもしれないが、普通はそんなことはいわないだろう。それを言ってしまっているのだ−−名古屋人は。それを地名にしているのだ、名古屋人は。「新年あけまして」という表現がまちがいであるという誤った考え方を受け入れる大方のバカ日本人ほど、名古屋人は馬鹿ではないと思うが、変であることはまちがいないだろう。

2010-01-08 ウルヴァリン

ウルヴァリン 04:31

ウルヴァリンといってもXmenの話じゃないし、昨年公開された映画の話でもなくレイモンド・ウィリアムズの話。


正月になってふとDai Smithのレイモンド・ウィリアムズの評判の伝記をまだ買っていても読んでいないことを発見。ぱらぱらとめくっていたら、第2次大戦中にウィリアムズが従軍した時の写真があった。この伝記はA Warrior’s Taleというサブタイルがついているが、ウィリアムズはたんに英国左翼の闘士というだけではなく、戦争中は兵士でありまさにウォリアーでもあった。


対戦車戦術というのはどういうものか全く知らなくて、想像でものをいうしかないのだが、戦車との距離が問題であって、距離ゼロの場合、つまり戦車に肉迫して、車体に昇って砲塔の昇降口をあけて手榴弾を投げ込むこと、さらには接近して火炎瓶を投げるというのが最接近戦闘だろう。接近するぶん危険な行為で、戦争映画には良く出てくるのだが、まあ、自殺攻撃に等しい。もう少し距離をとった戦闘となると、アメリカのバズカー砲に代表されるような携行ロケット対戦車兵器による攻撃があげられる。これもできるだけ接近したほうがよいが、まあ50メートルくらいで撃てる。しかし50メートルである。発見される前にロケット弾を発射できればいいが、その前にこちらがやられる可能性が高い。また外れたら、あとは逃げ回るしかないわけで、危険な戦闘だろう。


対戦車砲というのがある。背の低い、車輪突きの大砲で、発射する砲弾も、放物線を描いて目標を撃破するのではなく、低く構えて砲弾が地面に平行に直進するようにして打つ。しかし地球には重力があるから、いくら威力のある砲弾でも、地面に平行に直進するためには目標との距離が開きすぎてはいけないだろう。また初弾を外したら、次の砲弾を装填し発射する前に、戦車によってこちらが攻撃を受ける可能性も高い。


一般に砲兵隊は、最前線よりも後方に位地し、見えない敵に対して放物線を描くように砲弾を発射して味方を支援する。着弾点を確認した観測員から照準の修正がくる。そしてまた発射する。爆撃と同じで敵は見えない。ところが対戦車砲は、戦車を肉眼で目視できるほど接近あるいは待ち伏せして攻撃するのだから、かなり危険な戦闘を余儀なくされる。


対戦車砲は車輪がついていても、迅速な移動ができないし、不整地では移動すらままならなくなるから、戦車の車体(シャシー)のうえに砲台を載せたような自走砲が登場する。大きな自走砲はべつにして中クラスの自走砲は、基本的に歩兵支援である。歩兵に随行して、支援攻撃を加えるのだろう。当然、対戦車砲を戦車の車体に乗せたものが登場する。この対戦車自走砲あるいは駆逐戦車が第二次大戦中に登場するが、連合軍では、アメリカがM4シャーマン戦車に対戦車砲を乗せたものを完成させる。これが英軍ではファイアフライと呼ばれた戦車で外見はシャーマン戦車である。しかしこのファイアフライの砲では威力が不十分だったのか、さらに高性能で破壊力も高い自走砲(もしくは駆逐戦車)としてM10が登場する。これもM4シャーマン戦車のシャシーに対戦車砲を乗せたものがだが、砲の威力がまさっていた。


このM10は昔、田宮模型の古いもの、つまり昔なつかしいマブチ・モーターで動くプラモデルを作ったことがある。いまでは絶版。いまM10のプラモデルをつくろうとしたら、田宮の1/35はたぶん絶版だから無理だが、同じ田宮から1/48でM10が出ている。あと台湾のプラモデルメーカーAFVから1/35のモデルがいくつかまだ出ている。私はこれを通販で買うことにした。一応、美國(アメリカ)のM10と英國のM10の両方が販売されている。店頭在庫といったところだが。


昔、なぜモータライズ化されたM10のプラモデルを買ったのかというと、ひとつはシャーマン戦車とまちがえた(もともとシャーマン戦車のシャシーを使ったのだからシルエットはなんとなく似ている)、あるいはたまたまそのM10しかおもちゃ屋になかったからかもしれないが、よく憶えていない。しかしよく憶えていることもある。作っているときに不満だったのだ。砲塔に屋根がないというか覆いがなかったことが。そうM10はオープントップの対戦車駆逐戦車だったのである。


第二次大戦中、ドイツの戦車はどんどん進化して、最強の戦車軍団を形成するようになる。これに正面から太刀打ちできたのは、連合軍側ではソ連の戦車ぐらいで、英米の戦車は、歩兵支援はしてもドイツの戦車とはわたりあえなかった。それでも対戦車戦闘用の、防御兵器として対戦車自走砲が開発され投入される。それがM10である、しかし当時の歩兵支援の多くの自走砲がそうであったように、M10もオープントップであった。だから完全に自走砲扱いなのだが、同時に対戦車戦闘も想定されていたから、オープントップというのは、乗組員にとって、好ましいものではなかった。


オープントップは砲兵が360度見渡せるという利点があったが、しかし直撃をくらったら装甲が弱いので当然破壊されるものの、空中で砲弾が炸裂しただけでも、オープントップでは乗員はひとたまりもない。また混戦になると敵歩兵から手榴弾を投げ込まれやすいし、狙撃兵からも上から狙われやすい。自走砲でも、オープントップは、M10で終わりを告げる。M10の場合、オープントップという危険な状態で、乗員は、泣く子も黙る最強のドイツ戦車軍団とわたりあわねばならなかった。しかも敵戦車を目視してから、それも動く目標を目視してから攻撃するのである。私のような臆病者には、この任務はきつすぎる。危険すぎる。生きた心地がしない。レイモンド・ウィリアムズ、すごい任務についていたものだと驚く。


Dai Smithの伝記にはふたつのM10の写真がある。レイモンド・ウィリアムズが指揮官の将校として仲間の兵士たちとポーズをとっている写真の後ろにはM10がうつっている。このM10と終戦の際に整列している対戦車隊のM10とでは、砲身の先端のかたちがちがう。後者のほうはイギリスで独自に威力の大きな17ポンド対戦車砲をつけたもので、この型のM10はアキリーズと呼ばれたらしいが、対戦車砲に違いはあっても、ニックネームは同じだったという説もある。M10のニックネーム、それはウルヴァリンだった。