rentoの日記 このページをアンテナに追加

2011-01-04

お詫び 19:15


The braggadocio of the mild-mannered man safely entrenched behind

his typewriter.

2010-12-23

お詫び 13:04


11月に裁判員制度に関する記事を掲載したところ、その記事について週刊誌からの取材を受けました。裁判員制度に関する私の見解に、関心をもたれたのかと思ったのですが、要点は、記事の中の表現が誹謗中傷まがいではないかということでした。この点に関して、考慮した結果、表現自体がきわめて不適切であったことを深く反省し、関係者の方々には心よりお詫び申し上げるとともに*1、そのような記事を読まれて不快に思われた方々にも深くお詫び申し上げます。当日の記事は、全文削除し、別の無関係な記事に差し替え、前の記事が読まれることがないように処理をしました。言論の自由とは違った次元での、まさに低次元の表現は、今後つつしむことを宣言いたします。

*1:関係者という曖昧な表現ではあるのですが、具体的に書くと、どの方なのかある程度特定できてしまうため、再度、迷惑がかかることを恐れてのことであり、このような曖昧な表現をお許し願えればと思います。

2010-12-22

トロン・テンペスト 10:25


今月見た映画のなかで、映画館内でまわりの人たちが明らかに泣いていると思われる映画はいつくかった。『Space battleship ヤマト』では若い人たちが泣いていたし、『酔いがさめたら家に帰ろう』でも慟哭できる場面もあった。『クレアモントホテル』でも、年配の女性観客が泣いていた。残念ながら、どの映画も、いい映画だとは思うけれども、私は泣けなかった。悲しい内容であることはわかるが、とくに涙ぐんだりもしなかった。


そのかわりに、ただのロードショー大作映画『ロビンフッド』で、泣いてしまった私はなんだろう。ただし、その正義のむきだしには、泣けるものがある。だから自分なりにもわからないわけでもないが、『トロン』で、泣いてしまうとは、私はただの情緒不安定なのか。いや、そうではない。不覚にも映画を見るまでは不覚にも気づかなかったが、『トロン レガシシー』は、シェイクスピアの『テンペスト』だったのだ。


前作『トロン』は、シェイクスピアとは全く無関係である。82年という古い映画を、今回、『トロン・レガシー』をみるために見直してみた。忘れていることのほうが多かったけれども、思い出しこともたくさんあった。一例だけあげれば、『トロン』の最後で、建物の屋上のヘリポートヘリコプターを待っているシーン。昔映画館で見たときのことを思い出した。ヘリコプターは上空から舞い降りるのではなくて、下方からいきおいよく上昇してくるのである――あの場面を思い出した。


あれから30年近くたってからの『トロン:レガシー』では前作にない親子の関係などがメインになってきた。そして驚くことがあった。構造がシェイクスピアの『テンペスト』に似ているのである。


この12月はジュリー・テイモア監督の『テンペスト』がアメリカで公開されたが、それはプロスペロを女性のプロスペラにして、ヘレン・ミレンが演ずるという、ジェンダーを変えた『テンペスト』で興味しんしんではあるのだが、それにくらべると『トロン:レガシー』版の『テンペスト』は、むしろオーソドックスな解釈をしている。

人物対応表:

プロスペロ    → ケヴィン・フリン/ジェフ・ブリッジス

キャリバン    → クルー/ジェフ・ブリッジス

ミランダ     → クオラ/オリヴィア・ワイルド

ファーディナンド → サム・フリン/ギャレット・ヘドランド

エアリル     → たぶん トロン

ゴンザーロ    → アラン・ブラッドリー/ブルース・ボックスライトナー

解説を加えると、

テンペスト』では、プロスペロは、もとミラノ公、ミラノを追われて地中海の孤島で娘と暮らす魔法使いだが、ケヴィン・フリン/ジェフ・ブリッジスもまたグリッドと呼ばれる電脳世界で養女と暮らし、またユーザーとして魔法のような超能力を発揮する。


 プロスペロは、ナポリ王の息子ファーディナンドと、娘のミランダとを結婚させようとするが、『トロン:レガシー』では、ファーディナンド役ともいえるサム・フリン(ギャレット・ヘドランド)は、ケヴィン・フリン(プロスペロ)の息子であり、20年ぶりくらいの再会を果たす。そして、ファーディナンド(映画では息子サムだが)と結ばれるのが、ケヴィン・フリン(プロスペロ)の養女ともいえるクオラ(オリヴィア・ワイルド)であり、彼女がミランダである。


ではキャリバンは誰かというと、ケヴィンがこの電脳世界で、自らを複製して作った分身のようなプログラムで、クルーと呼ばれている。彼もまた、ケヴィンの息子であるといえるが、こちらはユーザーであり神でもあるケヴィンに反旗を翻し、反乱を起こし、プログラムを集めて大軍団を形成し、人間世界に浸透してそこを支配しようと目論んでいる。


結局、ケヴィンは、サムとクオラという若いペアに、未来を託し、みずからの分身でもあるクルーと合体することで、クルーと自分とを消滅させて、グリッドと呼ばれる電脳世界が人間界を支配するのをふせぐ。諸プログラムの頂点にたち独裁的なクルーを、みずからの暗黒のものと認めたケヴィン=プロスペロは、クルーの野望をくじき、クルーと一体化することで、クルーを消滅させるが、それはまた自分が消滅することでもあった。ここには、《イドの怪物)=キャリバンに立ち向かい、それに焼き殺されることで、最終的には怪物も消滅させるというモービアス博士の――『テンペスト』を使ったいまひとつのディズニー映画『禁断の惑星』における――最期を彷彿とさせるものがある。


映画の最後は、人間界にもどってきたサムと、奇跡のプログラム=人造人間であるクオラが、一台のバイクで風を切ってゆく、そのふたりの顔が大写しになって終わるのだが、もうここまでくると、ああファーディナンドとミランダと、思わずにはいられなくなり、涙があふれてきた。


シェイクスピアの『テンペスト』はハッピーエンドながら、完璧な結末とはいいがたく、世代交代もスムーズには行われていない。新たな未来がはじまるというよりも、同じ古き悪が反復される感が強い。『テンペスト』――単独作では最後の作品であり、円熟した境地に達したシェイクスピアの未来のヴィジョンが、またみずからの演劇芸術への惜別の念とがまざりあいながらも、明示される晩年の作と思われている――は、ハッピーエンドとは限りなく遠い問題作でもあるのだ。


完璧なハッピーエンドと未来のヴィジョンを示すためには、プロスペロが、キャリバンを自分のものとただ認めるだけでなく、キャリバンを抱きしめて、ふたともども死ぬべきであったのだ。そうすればプロスペロの徹底した模倣者でもあったキャリバン、プロスペロひいては西洋の白人の醜く悪辣な面をすべて複写したキャリバンの、ある種の悲哀もまた、プロスペロとの死にを通して明確につたわったはずなのだが。


そして、若い世代の恋人たちも、新世代たるにふさわしい新たな可能性を体現すべきなのだが、『テンペスト』ではその片鱗はみえても、十全な開花を約束するものではない。ただ新世界的環境で育ったため、無垢と無知が合体したクレオール的な娘であるミランダに未来が胚胎することの示唆があるだけである。


いっぽう映画は、この可能性に賭けた。私たちが驚くのも、映画におけるこの強調である。映画は『テンペスト』におけるミランダの重要性を正しく認識している。ミランダ=クオラは、プロスペロに助けられた新種のプログラムである――助けられたという点、またサム=ファーディナンドを救い、ケヴィン=プロスペロのところに導いてくる点、クオラには『テンペスト』におけるエアリルの要素も含まれているが。しかもミランダ=クオラは、この電脳世界で生まれた新種の、奇跡のプログラムであり、クレオールでもあるのだ。しかも彼女は、クルーによるジェノサイドをまぬがれてプロスペロに救われたのであり、クレオールの彼女には、第三世界の女の面影もある。


テンペスト』のなかで、薪運びという重労働を課せられるファーディナンド(映画ではこれはサムが投げ込まれるグリッド・ゲームとなる)に対して、ミランダは代わりに薪を運んでやると言って、重労働を平気で引き受けようとする(これは読んでいると誰もが驚くところである)。新世界の無垢な女としてのミランダはジェンダー役割に束縛されていない、ジェンダーフリーな存在なのだ。同様にクオラも、体をはってサムを助けるのであり、戦闘能力は異常に高い。しかもミランダと同様、父親の目を盗んで、ファーディナンド=サムに話しかけ情報を提供する。ふたつのジェンダーを往復し、父親に忠実ながら同時に若い世代にも忠実な二つの世代の女。彼女は、さまざまな境界を越える、越境者なのであり、映画ではさらにプログラムと人間との境界を越える(ここにさらに、クオラを演じているオリヴィア・ワイルドが、アイルランド米国二重国籍取得者であることを付け加えるべきかどうかは、わからないが)。


ドナ・ハラウェイのサイボーグフェミニズムは、前作の『トロン』よりも、新しい、というか、まだ古くなってはないと思うのだが、ハラウェイによれば、未来を築くのは、サイボーグとしての女性であり、このサイボーグとしての女性は第三世界の女でもあった。ハラウェイのサイボーグフェミニズム論が、映画『トロン:レガシー』のなかでは、その潜在的な可能性を、いよいよ実現するかに思われるほどの迫力をもってせまってくる。もし未来が、第三世界の女性によって担われることがないのなら、あるいは未来が、第三世界の女性の十全な活躍を約束しないような構造変化を遂げないなら、未来は現在と同じく地獄のむきだしであろう。映画のなかでサムは父親が電脳世界にとらわれている間の人間世界の変化について語るが、残念ながら、人間界の現在は、クルーに支配されている電脳界と同様、かんばしいものではない――ここに前作『トロン』から引き継がれている重要なテーマが反復される、つまり人間界と電脳界とが平行関係(内容的も、ヴィジュアル的にも)にあるという主題である。ユートピアは実現していない。ディストピアが人間界と電脳界に出現している。未来は、電脳界と人間界を往復した二人の若者サムとクオラ、つまりファーディナンドとミランダにゆだねられる。とりわけはじめて人間界にやってきた異物であるクオラの役割は大きい。映画の最後は、暗黒の電脳界を逃れた安堵と、未来の変革への期待と不安の入り混じった二人の若者の顔のアップで終わる。


トロン:レガシー』は、シェイクスピアの『テンペスト』が、実現できなかった、ハッピーエンドを実現させたといえるかもしれない。実現できなかったのはシェイクスピア時代のイデオロギー的制約ゆえにと、いえるかもしれない。ミランダには、男性間の政略と権力闘争のなかの一駒として使われる未来しかないようにみえる。彼女がジェンダーの枠を超え、男性と対等にわたりあえる可能性は、『テンペスト』の時代にはなかった。たとえ舞台のうえでは男装というかたちでの女性の活躍が実現していたとしても。


あるいはこうも言える。ディズニー映画が『禁断の惑星』と同様、『トロン:レガシー』においても意図的にシェイクスピアの『テンペスト』のアダプテーションを作成しようとしたのかどうかはわからない。むしろ『テンペスト』的物語構造を利用しているうちに、ミランダの可能性を偶発的に開花させてしまったのかもしれない。いずれにせよ、それは奇跡に近いすばらしいことだと、『トロン:レガシー』のケヴィン/ジェフ・ブリッジズのように喜ぶ準備はできている。そしてケヴィン/ジェフ・ブリッジズのように、この続きはまたいずれと告げる準備もできている。

2010-12-21

B47 03:51

文林堂の世界の傑作機シリーズは、新シリーズとなってからは、めったに買うこともなくなったのだが(とはいえロシア機のものは珍しいこともあって、たいてい購入しているが)、いま店頭に『ボーイングB47ストラトジェット』(No.142)(2011年1月1日発行とある)が出ていて、思わず手にとって、購入してしまった。


この号のあとがきにも書いてあったが、『戦略空軍命令』に登場するB47は、きわめて印象的だった。アンソニー・マン監督、ジェイムズ・スチュアート主演の空軍宣伝映画(1955年)。原題はStrategic Air Comannd「戦略空軍、戦略航空軍団」という、味も素っ気もないタイトルなのだが、日本でCommandを「命令」と誤訳したことをWikipediaで知った。『戦略空軍命令』となって、逆に味のあるタイトルになったのは皮肉である。


映画はジェイムズ・スチュアート扮する野球選手が、戦後、乞われて戦略空軍に入り、除隊するまで、そこで訓練をこなし幾多の任務を遂行するという物語。ポスターなどでは、野球のユニフォーム姿のジェイムズ・スチュアートの頭上を巨大なB36爆撃機がコントレールをひいて飛んでいた。


前半は、B29を二まわりくらい大きくしたコンヴェアB36爆撃機での任務。このB36が6発ターボプロップエンジンと2発の補助的ジェットエンジンで、高空を飛ぶ姿は、それだけで見るものを圧倒する迫力があったが、後半は、このプロペラ機の究極の姿でもあるようなB36から、優雅なジェット爆撃B47が主役となる――そう、この映画の主役はジェイムズ・スチュアートではなく、爆撃機なのだ。


後半のクライマックスは、ジェイムズ・スチュアートが、このB47でアメリカ本土から沖縄まで無着陸(横田基地に着陸していたかもしれないが)で太平洋を横断飛行するというもので、戦略爆撃機アジア方面への展開能力を見せ付けると同時に、物語では、B36搭乗時に負傷した首のせいで、ジェイムズ・スチュアートが操縦が困難に陥るという危機的状況を出来させ、見ている者の興味をつないでいた。


このB47は、巨人機B36の対極にある高性能ジェット爆撃機で、将軍が主人公に、格納庫にある最新鋭のこのジェット爆撃機をみせるシーンは、主人公でなくとも息をのむような、この機体の美しさを強調し、鋭い緊迫感すらあったことを覚えている。この映画のDVDが出ていないというのは残念だ。私はテレビでのこの映画を二回か三回は見ている。


と同時にB47については、たんに映画だけではなく、アメリカのテレビ番組でもよく見ていた。むかしアメリカ空軍が作ったか、全面的に協力したのかわからないが『フライト』という30分一話完結のアメリカ航空関係のドラマがあって*1、そこでもB47はよく登場した。とりわけ3人で運行するB47は、タンデムで並んでいる操縦士と副操縦士に、航空士/爆撃士が、航行中に、コーヒーなどをもってゆくのだが、座っている操縦士の腰のあたりに、ナヴィゲーターの頭が出てきて、つぎにおもむろにコーヒーカップを渡す場面などみながら、いったいこの機体の内部構造は、どうなっているのかと子供の頃、不思議に思ったことがある。


いまでは絶版だろうか、ハセガワから72分の1のスケールモデルが出ていた。古い製品なので、現在の目からみたら、物足らないかもしれないが、大きくて、部品も少なく作りやすそうだから、ディテールにこだわらなければ、あっという間に形になり、それに銀塗装するして、天井からぶら下げる(という昔懐かしい、プラモデルの飾り方)と、さぞかし楽しいのではないかと思う。


B47は、シンプルだけれども、なんともいえない美しさをもっている優雅な航空機で、迷彩塗装に身を包むことなのないそのシルヴァーメタルの巨体(B29と同サイズ)は、カラー図版でみるよりも、モノクロ図版でみるほうが見栄えがする。刀鍛冶がつくった、類希な、もう芸術品の域に達しているようなフォルムを誇る名刀、それこそが、兵器としてのB47を語るときにふさわしい比喩であろう。しかも、この名刀は、一度も人を切ったことのないまま、芸術品としての美しさだけを今に伝えているのだ。そう、爆撃機B47は一度も爆弾を投下しなかった。アメリカ空軍に愛する者を殺され恨みを持つものは世界中に数え切れないほどいるだろうが、その怒りも怨念も、このB47だけには向いていないのである。そういう意味でも稀代の名機であった。

*1:空軍ものだけあって、第二次世界大戦もの、朝鮮戦争もの、冷戦期つまり同時代ものと、三つの時代を背景にした実話にもとづくようなドラマを一話完結で放送していた。私は朝鮮戦争ものが一番嫌いだったが。

2010-12-20

市民ゲーム 15:25


学生などから、映画館に行っても眠ってしまったことを悔やんでると聞かされたとき、映画館に限らず、暗い劇場では、誰でも寝てしまうものだし、じっとしてみていたら、疲れていなくても、あるいはパフォーマンスが面白くなくても、寝てしまうことはよくあるのだが、映画館で、劇場へ行って、何回眠ったかというのは、その人が戦場で負傷したときにもらう勲章のようなものなので、記録して記念し、お祝いをしてもいいくらいだ。とにかくあまり気にしないことと、こんなことを述べている。


サミュエル・ジョンソンの『ラセラス』に登場する賢人のように、他人はよいことをしゃべっていても、いざ、自分のこととなると、そうはいかなくなるのが、この私で、本日、映画館で寝てしまった。気にしないどころではない。気になりすぎる。ああ、お金を捨ててしまった。どうしてくれるといっても、悪いのは私だし、悔しいし、悔やまれるし、残念でならない。映画館で眠ったのは勲章だと、馬鹿なことを言うな。映画館で寝てしまった者の気持ちのわからない、おまえのような奴は、絶対にぶっ殺していやるといいたくなる――自分で自分を呪っても、意味がないのだが。


TOHOシネマズみゆき座で上映される映画を読み見ている。ロードショー映画ではない、インディーズ系映画でもない。まあB級映画なのだが、ちょっと高級な、でもB級である映画をTOHOスカラ座という大映画館の裏の倉庫のような(倉庫ではないが)で、みるのが好きで、仕事の帰りとか雨の日には、横の宝塚劇場を見ながら、チケット売り場に立っている。


映画は『ゲーマー』(原題はCitizen Game)。しかも、この映画の大音響、絶え間ない銃声と爆発音のなかで、ああ、なんと悔やまれることか、そんな大音響のなか眠っていたのだがから、あきれるわい。ほんとうにバカだ。どれだけ眠っていたのかわかならいが、眠気が去ったあとは、スクリーンに集中して、映画の内容を把握しようと努力をした。エンターテイメント系の映画の常だが、私のような居眠り組が、途中から映画をみても、全体の設定とか流れ、物語は、充分に把握できるようになっている。だから、映画の内容はわかった。最後まで見た。悔いは残るが、中身を把握できなかったということはない。


とはいえ、実際に、内容を詳細に文書化しようとすると、眠っていてわからないところもあり、やはり何かを見落としている可能性がある。そのため、あとは断片的に感想をだけを。


絶体絶命のときに、主人公がそれを逃れるシークエンスは、フィクションゆえのいい加減さはあるとはいえ、同時に、リアルであり、学ぶべきところは多い。肉体の筋肉ではなく、内臓というか内部も武器にしてしまうのは、『アドレナリン』から続いているものだろうが、すごいというか、実行できないが、学ぶべきところは多い。強力なシステム、難攻不落のシステムを崩壊させること、あるいは、そうしたものは崩壊するしかないことを、学ばせてもらった。そういう意味で肉体派アクション映画なのだが、近未来という設定もあって、IQは、偏差値はけっこう高い映画である(いいかたが曖昧なのは、全部語るとネタバレになってしまうから)。


とはいってもぶっとんでいることはたしかな映画だが。


映画のなかではつるされた男も出てきた。『ラスト・キング・オブ・スコットランド』で、人間の皮膚に金属の鍵つめを付けて吊るすという拷問は、初めてみる形式で、見た人は、びっくり仰天して、うちひしがれて帰ったとのこと(その頃、映画会でそれをみた。ただ私は当時に入院中で、映画会には参加できなかった。のちにDVDで見た)。


つぎ映画『ホースメン』で、殺人方法として、大掛かりな吊るす器具が登場してきた。吊るすイメージは、映画の最後まででてくるのだが、それとは別に、こうした人体を裸で、金属の鍵つめで吊るす変態儀式がアメリカであるらしく、アメリカの変態おそるべしと思ったことがある。


今回『ゲーマー』でも、近未来のナイトクラブで、人間が吊るされていた。方式は『ラスト・キング・オヴ・スコットランド』と同じ。ああ、吊るしているしていると、思わず、目をそむけそうになった。あれはたぶんほんとうに吊るしているのだろうから。


ちなみにこの吊るしは、日本にもすでに入っていて、それがはじまるとわかると退席するし、周りの人間もあなたは、これが正視できないでしょうから帰ったほうがいいと、人からも言われると、私よりも英語も日本語も上手い、ある人が語っていた。どこにでもいる変態。