reponの忘備録

「喉まででかかってる」状態を解消するためのメモ

「イリヤの空、UFOの夏」−「殉死」とは他者が排除された物語

非常に魅力に溢れ、最後まで一気に読まされた本。けれど、危険な物語だ。それは、最終的に「自己犠牲と殉死」そして「喪」の物語に収斂していくからだ。
「喪」の物語とは、「他者」が存在しない物語である。
セカイ系と言われる物語は「『私』と『世界』を媒介する『社会』的な位相が抜け落ちている」、と言われるが、それは「他者」が存在しない、と言うことであり、全てが自己完結している世界であると思う。


以下、ほぼ4巻のみの感想なのでここに書きます。
ネタバレ全開です。

はじめから死んでいたイリヤ、「弔い」としての逃避行

イリヤを連れて、出発の時も、逃避行の途中も、浅羽はずっと「逃げること」を考えていた、と思う。
自分より大きなもの、自分では抱えきれないと思える現実に、ビビっていた。
真由美に啖呵を切ってぶん殴られたときからそれは始まっていたと思う。
おばさんの家で榎本に「逃げるなら逃げたらどうだ」と言われたときには、もう既に気持ちは逃げていた。
逃げたい自分に無理矢理前を向かせようとして、無駄に体力を使い、ムダに精神を削り、結局線路で彼女に当たっていた。
「自分は弱い」この事実にどうやって全ての責任を押しつけていくか、プライドと折り合いをつけていく。イリヤとの逃避行を、そう総括することも出来る。


最後、ミステリーサークルで「良かったマーク」を書く行為は、弔い以外の何ものでもない。
弔いの行為はすでに逃げ出すときから、イリヤを取り巻く現実を知ったときから始まっていた。逃げ出したとき、すでに浅羽の中で、イリヤは死んでいた。浅羽にとっては、あとはどうやってイリヤを忘れるかだ。
現実は混沌としていて、美しさとは対極にある。美しい行為は、終わったあとの行為だ。彼岸の行為。


逃避行を始めたときに、戦争が始まったときに、イリヤの髪が白くなったときに、すでに浅羽の中ではイリヤは死んでいた。


タイロンデロンガの中で、浅羽が啖呵を切れたのは、日常で体力が回復したから。ここから逃げ始めれば、また同じ事の繰り返し。あの啖呵は、生きるための啖呵に繋がっていない。
だからあのエピローグは、浅羽の物語が、弔いの物語であったと言うこと。


この物語は、浅羽が<死んだ>イリヤを忘れるための長い長い物語だった。

はじめからすれ違いを約束されていた、浅羽とイリヤの「愛」

でも、それは愛なのだろうか?


浅羽が見ていたイリヤは、浅羽の自己満足からどれだけ自由だったのだろうか?
愛は、結局自己満足に過ぎないのだろうか?


浅羽にとってイリヤとの恋は、自己完結の物語。それは既に死んだ相手と紡ぐ物語。弔いの物語だった。


イリヤも、既に死んでいた。
浅羽との毎日は、非日常に過ぎない。日常は、死に直結する苦汁の日々。


なぜ、浅羽の「イリヤが生きるためなら人類でも何でも滅びればいいんだ!!」への答えが、「浅羽のために死ぬ」なのだろう?


それは等価ではない。


彼女も、結局自己完結している。


何故、「私は浅羽のために生きる!どうやったって生きる!世界が死ぬ?知ったことか!私が負ければ世界は終わりなんだろう?はは……っ!だったらお前らさ……もっと必死になれっ!私が生き残るために頭を絞れ!武器を出せ!自分たちが助かろうと人に願掛けする暇があったら、おまえら全員敵のコマセになって死ね!」と言えないのか?彼女も、「自身の死」を自身が受け入れる材料に浅羽を使っただけではないのか?無数の人々の「殉死せよ」という呪文に既に屈し、浅羽の言葉を、その呪文を受け入れる契機にしただけではないのか?


なぜ「がんばれ」と書き込まれた「千人針」の亡霊に何故屈してしまうのか。


浅羽もイリヤも、暗闇に目をこらしていた。実態があるはずの相手を見ずに。暗闇の中で、実際には自分の生み出した巨大な捉えきれない怪物を見、恐れおののいていた。何一つ実質的な行動を取れなかったのは、そう言うことだろう。

水前寺というトリックスター

僕は最後まで水前寺に期待していた。彼こそがトリックスターとして、窮地に颯爽と登場し、「死の観念」にとりつかれて無様な三文芝居を打っている奴らを笑い飛ばしてくれると思っていた。カリオストロ城で公爵にさんざん苦汁をなめさせながら、最後は颯爽とクラリスを奪い去ったルパン三世のように。


眉を寄せて深刻に生者に向かって「弔い」の儀式を行う連中。うなだれて、それを受け入れようとする犠牲者。無様な三文芝居!彼らが押し抱いているモノを笑い飛ばすことこそ、どうやったって必要なのだ。
最後の最後まであきらめない奴こそが「おはなし」では必要なのだ。
けれど水前寺は、最も重要な場面で消え、物語の最後でひょっこり姿を現す。その間の記憶はない。「乖離」だ。記憶を状況から切り離す。状況からの、もう一つの脱出法。

「たたかう」と言うこと

世界は美しくなんか無い。なぜなら、美しいものは死んだものだから。彼岸から見る以外に美しい景色なんて無いから。
世界は残酷だ。あたりまえだ。残酷な世界であがくのだ。でもその中で仲間をつくることも出来る。あがくことも出来る。
泥まみれの中で目をこらし、不敵に笑って自由に行動する。それが人間じゃないのか?人間性とはそう言うものではないのか?


線路でとぼとぼと歩きながら、浅羽は、笑うべきだった。ニヤリ、と。イリヤに、何の根拠もなく、ニヤリと笑うべきだった。根拠なんて常に無いのだから。それで戦闘は継続だ。まだリングに立てる。
浅羽はヘタレだ。でも、ヘタレでも、ニヤリと笑うことは出来る。


でも、浅羽は、そうはできなかった。未熟だから。不安だから。成熟する前に、克服できない現実を背負わされたから。それは、あらかじめ失敗を運命づけられたたたかいだったのだろう。


状況は浅羽にとっても、イリヤにとっても、あまりにも残酷だった。

行動が主体を形成する

世界に根拠などはない。ほとんどの状況において、論理的推測など成り立たない。次にどうするか?その選択をするとき、人間は自分の足で立つ。主体が形成される。
「弱い自分」を、客観視して、どうしたら立ち向かえるのかを冷静に判断するしかない。
世界は混沌だ。暗闇だ。そこに投げ出されれば不安だ。しかし、目をこらせば見えてくるものがある。
結末はいつも決まらない。けれど、最悪の結末を怖がり、それより少し良いバッドエンドを、無意識のうちに目指していたのではないか?自身の内部の「全体性」への己の投棄。「現在」と地続きであると想定される「未来」へ向けた意図的な進行。
はじめから「ラクになろう」としていたのではないか?そういう「物語構造」をもっていたのではないか?

セカイ系」とは、あらかじめ敗北を約束された、弔いの物語

笠井潔が、「セカイ系」の物語には、「私」と「世界」の間にある「社会」が抜け落ちている、と指摘しているが(「『イリヤの空、UFOの夏 その4』/戦闘美少女と「イリヤ」」)、まさにそれは、自分も含めた若者像を示していると思う。組織されたことのない、本当の意味で仲間を持たない、孤独な個人の集まりの世界。そこでは始めから自分しかいないのだ。問題の解決にともに立ち向かう仲間はいないのだ。「愛」以外に寄るすべはなく、しかし「愛」はつねに/すでに失われた、決して現前化することのない経験として寄るすべがない。ひたすら自己完結の世界。ひたすらあきらめる世界。


セカイ系」の物語とは、死者を甦らせた物語だと思う。


ここにいるべき他者は居ず、ここに居るべきでない死者が居る。そして、その意図は無意識の中にあり、構造が意志として全てを推進させる。
一度きりの死を、物語は先取りさせ反復させる。そして、他者は抑圧され死者に取って代わる。


だからこそ、それに対して、物語の反復可能性を、反復出来ず、共有出来ないものとして捉えなければならない。


死者は死者として扱わなければならない。死者は語らない。死者に語らせているのは生者だ。
間主観性にただれきった世界で他者を感じることなく他者を他我として利用した結果が、この物語だ。


他人が居ない。自分だけなんだ。みんな言葉を交わしながら、実は鏡と話して居る。実は言葉は交わされていない。全て自分に対する確認だけだ。他我ではなく他者との関わり合いをコミュニケーションというのなら、ここにコミュニケーションなどは存在しない。全ては、呼び出された死者と、それぞれの個人の戯れの物語。それが、「セカイ系」の物語。


セカイ系」の間に挟むべき「社会」を、<再度>*1僕たちは見つけなければならない。

第三世界の浅羽たち

この、子どもに対する「『殉死』の教化教育」は、第三世界の子ども兵たちが居る社会では、社会単位で日常的に行われている。「社会」が破壊され失われてしまった、もしくははじめから存在しない世界では、「殉死」が家族全体の社会的ステータスになる。「恥の文化」における自己犠牲=二階級昇進だ。
すなわち、中間集団同士の差別が根底にあり、中間集団内の相互監視状況=中間集団ファシズムが存在していると言うことだ。
丸山真男が指摘しているように(「現代政治の思想と行動」)、太平洋戦争中の日本では、貧しい被差別部落の子どもたちが志願して兵隊になることで、その被差別部落の「天皇への距離」を縮め、、さらに殉死すれば格上げされるとして、現実における差別からの脱却を求めて自ら命を落としていった。全く同じ出来事が第三世界民兵組織やそれに対抗しようとする国家組織に於いて、組織的に行われている(「子ども兵の戦争]」P.W.シンガー)。

*1:それがつねに/すでに失われた現前化しない経験だとしても