なぜ「不毛」な「論戦」は終わらないのか
答え。
そういう方法でしか、「論戦」は行えないから。
そのひとつの例として、人文書では空前の売れ行きを示した「なめらかな社会とその敵」の論評を見てみよう。
著者の社会観・国家観は、ナイーブで古い。彼がなめらかな社会の「敵」と名指しているカール・シュミットのいうように、近代社会の根底にあるのは暴力装置としての国家であり、それは友/敵を区別して誰を殺すかを決める「決断」のシステムである。資本主義は暴力を所有権という形で標準化する制度であり、その魅力も危険も、それが「なめらか」ではなく、持つ者と持たざる者を峻別する点にある。
資本主義が不公正で不愉快なシステムであることは著者のいう通りだが、それは多くの人々の欲望を満たしてグローバルに発展してきた。
池田先生の「ぶっちゃけた」論建てで、明らかになる事柄がある。
それは、実は、書評を書いたほとんどの論者はこの前提に立っていて、実際の所「ユートピア」を論じるのは「副次的なもの」だったということである。
当然直接的な目的は、「自分の文章をできるだけ高く売る」ことだった。
その前提は、「まさか、この話を真に受ける人はいないでしょう」というもので、肯定でも否定でも論者は、論戦の相手が「本当に信じている」とは考えていない。要は化かし合いだ。
しかし、ではこの本を読み、論評を読んでいる人がそれを素直に信じている「愚か者」かというと、そんなことはなく、誰ひとりそんなことは信じていない。
とすると、「愚か」に「なめらかな社会」を信じたり、「本気」で論じている人は誰ひとりいないことになる。
「なめらかな社会」について、論じている人たちも、多分著者も、「愚か」にはそんなことを信じていない。
「愚か者」は誰ひとりいないのだ。
実は世の中の議論はすべて、「愚か者」はいないし、議論をしているひとたちのなかで、本気で相手や聴衆を「愚か者」だと思っているひとはいない。誰一人としていない。
ならば、そのような「愚か者」がさも存在するように振る舞うのはいかがなものか。
そもそも誰も信じていないことについて「論戦」することなど無意味で無益ではないか。
そう思うは当然だ。
しかしその結論は早計である。
これには2つの意味がある。
ひとつは、実際にカネが動くことだ。
カネとは、人間同士の関係が抽象化されたものだから、これは一種の動員力であり、「投票」と同じものだ*1。
その点では、カネと動員はコインの裏表である。
無論、誰もが「合理的」に行動している(と想定される)以上、動員されることを選んだ人間もまた、動員力を手に入れることを目論んでいるわけだが。
カネが動かない社会は、チャンスの存在しない社会である。これも、チャンスとリスクはコインの裏表である、といえる。
そしてもうひとつは、「共有できるモデル」の問題だ。
人間同士はテレパシーでも無い限り、意思疎通にあたっては、間接的なアプローチを取らざるをえない。
どういうことか。具体的には、時間と「モデル」が必要だ、ということだ。
人間は意思疎通を、無時間的・直接的には行えない。見解を述べるにせよ必ず時間が必要だ。
そして、見解を受け入れるに先立ってなんらかの「モデル」が必要だ。いったい何について述べているのか、前提となる包括的な概念を共有しなければ、どのようなメッセージも意味をなさない。「モデル」がない限り、それは雑音であり点滅であり痙攣でありそれ以上にはならない。
さて、さきの「論戦」で共有された「モデル」は、「自分は信じていないが、自分と他人が同意できるとしたら、この意見であろう」というものだった。
これが「他者の他者」だ。
いわばこれは、ケインズのいう「人気投票」、株の売り買いと同じ行為なのである。
「正義」とは、いわばひとつの銘柄なのだ。
どの正義にのるかそるか、それはあなた次第、ということだ。
正義に絶対性はないのである。
人は、<そのもの>を信じていなくても、「想像の共同体」すなわち「自分は信じていないが、信じる人はいるだろう」ということは信じる。
そこで重要なことは、それが唯一の他人との合意形成が可能な点なのだ、ということだ。
非合理的に思えても、ここにしか合意点はない。
「議論」はここにしか生じない。
「誰も信じていないからこそ、信じている『愚か者』を誰もが信じている」と言うこの構造。
これこそ、イデオロギーそのものだ。
さて、この構造のあり方をなんと呼ぶか。
ここでは、イデオロギーが空想ではなく、実際に「論壇」を作り出している。
逆ではない。
つまり、「合意形成できる部分の鞘当てをしている」という構造を支えているのは、「論戦」を「真理について争っている」と愚直に信じる「愚か者」の存在だ。
ブログ論壇で小馬鹿にされる「愚か者」、その想定こそが、構造を支える唯一の存在なのである。
これを「否定の否定」と呼ぶ。