2012-01-04
■[妄想]日本のリベラル 
- 作者: 白河桃子
- 出版社/メーカー: ディスカヴァー・トゥエンティワン
- 発売日: 2011/10/16
- メディア: 新書
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以前、白河桃子はブス山さんだと書いたが、そこまで書いて書いたのは日本におけるリベラル的な言説を支えている人々のかなり大きな部分が、白河桃子のような「ブス山さん崩れ」なのではないだろうか。
そもそも日本における「リベラル」の指し示す範囲は極めて広範囲で、一概には定義できない*1が、今私が言っているのは「庶民感覚」に極めて近いような意味での「リベラル」だ。簡単にいうとここで問題にしている「リベラル」とはインテリ層が言う「庶民感覚」のようなものだと言っていい。もっと簡単にいうと『報道ステーション』や『サンデーモーニング』の言っている内容だと考えてもらえればいい。そう考えると白河桃子が著書中で社会学者やNPOが言う事を世界の真理であるかのように崇めたてまつり、その発言を引用する理由がよくわかる。当然ながら『AERA』的な女性観は「リベラル」と非常に相性がいいからだ。
実際、ある時期まで「リベラル」を批判する事はタブーだった。だが、こうした「リベラル」は現在やや旗向きが悪い。様々なところで「リベラル」を標榜しているわりに既得権まみれだと批判されているからだ*2。それなりに目端の聞く人は「リベラル」と巧妙に距離を取りつつあるような気がする。その時に新しく現れる神がもし「ブス山さんの神」こと白河桃子だったらその時は笑うしかないだろう。
2011-12-24
■[近況]今日のフリートーク 
・コミックマーケットに参加します。ブースは「3日目 東地区 S - 05 a」です。
詳細はこちらを参照してください。
http://blog.livedoor.jp/chikumaonline/archives/53308101.html
■[DT]ブス山さんはどこに消えた 
伊集院光の深夜帯ラジオなどで頻出の概念「ブス山さん」。要するに「性格ブスな女(ルックスではなく性格である事に注意)」という意味で、一番イメージしやすいのは恐らく『ちびまるこちゃん』におけるみぎわさんなのだが、彼女らは一体どういう存在なのだろうか。そして、中学・高校の教室にはあれほどありふれた風景であった「ご高説」をぶつ彼女らは一体どこへ行ったのだろうか。
そもそも、我々がかつて生活していた「学校のクラス」とはどんな構造をもった場所なのだろうか。クラス内の力関係を説明した理論で一番著名なのが「スクールカースト」だが、ここではそこからもう一歩踏みこんでクラスについて考えてみよう。基本的に我々が暮らしていた学校のクラス内には以下にあげる4つのクラスタに分類される。すなわち、
・体育会系:不良―体制
・学級委員:まじめ―体制
である。不良―まじめというのは、クラス内における他の生徒に対する態度を表し、体制―反体制というのは学校の権威、クラス内の共同作業や教師に対する態度を表す。簡単に言えば、不良の人達は普段他のクラスの人間の言う事を聞かず、自分たちで勝手に行動したり他人をいじったり人達。反体制の人たちは文化祭や体育祭などの集団行動や教師の言う事に従わない人達のことである。スクールカーストのネタ元であるインドのカースト制がヴァルナ制とジャーティ制によって成り立つのと同様、スクールカーストにおいても、ABCのクラス分けとこれらのクラスタ分けによって成り立っている。つまり、ヤンキー内、ボンクラ内でABCが分かれるという形をとる。簡単に言えば、ヤンキーのAクラスが和田アキ子でBクラスが品川祐、Cクラスが出川哲郎みたいなイメージ。一方で、どちらかというと相対的な指標であるスクールカーストと違い、これらは学力や運動能力とは一切関係のない、どちらかというとその人本来の「資質」的な側面が強い。つまり学級委員資質の人はずっと学級委員資質なのだ。
さてここで問題になるのが、伊集院のラジオを聞いたり投稿したりするような人間は基本的にこのボンクラ資質の強い人間が多く、ブス山さんたちは基本的に学級委員的な人達なのだ。先程、これらのクラスタ内部でさらにABCのクラスが分かれる、と書いたが、ここで我々(って言っちゃうけど)がバカにしているのは恐らくCクラスのブス山さんなのだ。
なぜこんなことが起こるのか。
それは、我々がクラス内の反体制側にいるのに対して、ブス山さん達はクラスの体制側だからだ。つまり、文化祭や体育祭といったボンクラ達にとっては『北斗の拳』の再放送や『マリオカート』よりも価値が低いイベントに血道をあげる彼女らは我々にとっては敵でしかない。文化祭や体育祭の時には同じCクラスであるはずのCクラスブス山さんよりもAクラスのヤンキーの方が「反体制」という志を同じくしている分、わかりあえている場合すらある。元々クラス内で指導的な立場にあるAクラスブス山さんならまだしも、普段はイジられているCクラスブス山さんがそういったイベント時に張り切るのは耐え難い。つまりはそういうことなのではないだろうか。
そして、ブス山さんたちは成長後どこに行ったのだろうか。ここから先は私の想像だが、恐らくAERAや日経ウーマンを読んでいるのではないだろうか勝間和代や宮台真司的な「世界のリアル」をありがたがってる人達。そして、恐らく日本における「リベラル」のいくらかの部分は彼女らのような人達によって担われているのではないだろうか。
2011-07-14
■[幻想]「週刊メルマガクリルタイ」アーカイブ化のお知らせ 
High-end Magazine for Multi Cultural Personality(文化的多重人格者のためのハイエンド・マガジン)、奇刊クリルタイではこの度発行しているメールマガジン「週刊メルマガクリルタイ」の過去原稿をアーカイブ化し、ブログ形式で公開する事としました。
chikumaonlineと名付けたこちらのサイトでは、今後順次、「メルマガクリルタイ」の過去原稿をアーカイブ化させていただきます(過去ご寄稿いただいた皆様には現在、順次ご連絡を送付させていただいております)。今後は毎日21:00時ごろ1本ずつ原稿をアップさせていただきます(土・日はお休み)。本日は公開記念として、 21:00に通常更新原稿+23:00に書き下ろし原稿(「特別寄稿:ケータイ小説の源流は『目撃!ドキュン』(republic1963)」)を公開します。
「メルマガクリルタイ」もこれまで通り更新していきますので、chikumaonlineともども御愛顧のほどをよろしくお願いいたします。
2011-06-30
■[DT]「広義のDQN」と『ドロップ』 
昨日配信の「メルマガクリルタイ」において「広義のDQN」という概念を取り上げた。「広義のDQN」とは、文字通り「DQN(≒ヤンキー)ではないがDQN的なライフスタイルを送る人々」の総称。地方や郊外の都市に大量にいる。
・地元が大好き。生活、どころか人生におけるほとんどの時間を地元ですごす。
・ある程度不良っぽいこともするが、その消費の仕方はあくまでカジュアル的である
・「ガンダム」や「エヴァンゲリオン」などをカジュアルに消費する
・「仲間」が大好き
・「仲間」同士で互いの恋人を紹介したりする
彼らはヤンキーではない。だが、彼らは「DQN的」としか形容しようがない生活を送っている。というか、現在の地方都市において、ヤンキーというか、ヤンチャをしている人種はそれほど多くない。ヤンキーがダサいという認識は地方でも共有されており、私が子供のころ、公道で、あれほどかきならされていた「ゴッドファーザー愛のテーマ」も近年めっきり少なくなった。
「広義のDQN」とは、あらゆる文化のハイブリッドの場、いうなれば「文化のサラダボウル」である。「広義のDQN」に最も近い存在は、お笑い芸人の品川祐である。品川祐の佇まいとは、まごうことなきDQNのそれである*1。だが、品川はガンダムや鋼の錬金術師が好きだったりする。あらゆる文化をカジュアルに消費し、あらゆるクラスタを横断する存在、それが「広義のDQN」である。「広義のDQN」は色々なところにいる。例えばフジロックで、例えばコミケで、例えばコスプレ会場で。彼らにリーチする力を持ったコンテンツは強い。あらゆるヒットしたコンテンツは大なり小なり彼らにリーチし、彼らから支持を受けているのだ。郊外におけるパチンコ屋やTUTAYA、マンガ喫茶は彼らのコミュニケーションのための社交場、という側面を見逃してはならないだろう。
品川祐が作った映画『ドロップ』は我々のような存在からしたら最低の内容だが、『ドロップ』がなぜヒットしたのかというと、結局この「広義のDQN」感が極めてリアルなのではないのだろうか。『ドロップ』の主人公≒品川祐はヤンキーに憧れて私立中学から公立中学に転校するような「ヤンキーワナビー」だが、彼は、結局不良をファッション的に消費している。つまり、彼らが演じる「不良」とはあくまでも本気でないし、なんの痛みもないのだ(実際、彼らは劇中でどんな凶器で殴られてもピンピンしているし、どれだけとんでもない乱闘事件を起こしても何の御咎めもない)。「広義のDQN」とはあくまでもヤンキーを薄めた存在であり、本当に人生を踏み外すような事は、けしてない。そして『ドロップ』で中心に据えられているのはヤンキーたちとの「友情」である。
・・・という内容をもうちょい掘り下げて次号メルマガで書くつもり。
2011-06-29
■[近況]今日のフリートーク 
・今更のごとく須永辰緒(祝・フジロック出演決定)のアルバムを聴いている。ちょっとものすごいかもしれない。
- アーティスト: Sunaga t experience
- 出版社/メーカー: ジェネオン・ユニバーサル
- 発売日: 2009/12/02
- メディア: CD
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■[DT]「一億総非モテ時代」に生まれて 
2010年国勢調査の抽出速報集計結果によると、日本で最も多い家族形態は「一人暮らし」なのだという。5092万8千世帯いる一般世帯のうち、1人世帯は1588万5千世帯(一般世帯の31.2%)となり、これは2人世帯の1381万9千(27.1%)よりも多い。もちろん、死別もしくは離別等による単身世帯というのもあるだろうが、一方で同統計によると生涯未婚率(「50歳時」の未婚率)は17.2%。まさに、一億総非モテ時代の到来である。
確かに、一人暮らしがそれほど珍しくない、一億総非モテ時代に我々は生きているとして、問題は、我々はどうすればよいのか、ということだ。
この「じゃあ、どうすればいいの?」という問いに対して今、結婚や家族について発言している人々=婚活論壇の人々が主張する「多様な家族のあり方が認められればいいですね」という「家族多元主義」はあまりにも無力だ。なぜなら、「家族多元主義」は建前としてはこれ以上あり得ないぐらい正しいのだが、結局、「いま、ここにいるわたし」はどうすればよいのか、という事に対して全く答えていないからだ。ぶっちゃけ、婚活論壇の人々が主張する「家族多元主義」は、「要するにあなたたちが社会の比較的上流層にいるからそういう事が言えるんですよね?」と言いたくなる場合が非常に多い。だから、そういう人たちにはどうぞAERAあたりでご活躍ください、と爽やかなエールを送ることとしたい。だが、我々は結局のところ、どうすればよいのだろうか。
一つだけ言えることは家族を作るのか、一人でいるのか、なるべく早く決めることだろう。東日本大震災によって明らかにされた通り、一人でいることはそれなりにリスクである。一方で結婚することもそれなりにリスクではある。つまり、どちらがよりよい選択なのかということは蓋を開けてみないとわからない。人生は「実況パワフルプロ野球」のサクセスモードのようなものだ。我々は自分が主人公の一つの巨大なゲームをプレイしているにすぎない。その割に自分が伝説の勇者や世界を救う運命を担っていない事に絶望するわけだが、そう考えると、「婚活」というのも一種のゲームのようなものではないか。だが、そのゲームに乗る事が損か得かは恐らく、そのゲームの主人公が死ぬその瞬間になるまで誰にもわからない。「婚活」という言葉がいみじくも表している通り、「結婚」はすでに「皆が待っていれば自然にもたらされるもの」ではなく「自分から積極的に取りにいかないと獲得できないもの」になりつつあるのだ。っていうかもうすでになっている。
女性が「イケダン獲得競争」をずっと戦ってきたのと同じように、この先、男性もまた「婚活」という自由市場において戦わなければならなくなるのだろう。戦場で戦うためには「モテ」たいとかいってぐだぐだしている暇はない*1し、「自然な出会いが欲しい」と駄々をこねている暇はない。脱オタだろうが自己啓発で性格改造だろうが、必要ならばするしかない。一方で一生一人でいることを決断する事、それも重大で必要な決断である。我々は自分で自分のことを決断しなければならないのだ。それは我々がまさに望んだ事なのかもしれないが同時にそれは我々にとってこの上ない重荷なのかもしれない。


