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2018-08-15

江口圭一「十五年戦争小史」


十五年戦争小史

十五年戦争小史


(江口圭一「十五年戦争小史」、P.23)


日本がワシントン体制に順応する道を選び、それからの逸脱をおそれたことは、深い根拠にもとづいていた。


日本は前述のように広汎な満蒙特殊権益を保有し、南満州に強力な勢力範囲を設定していたのをはじめ、台湾・澎湖諸島を領有し、治外法権を設け、租界を持ち、陸軍を駐屯させ、海軍を派遣するなど、中国を半植民地的支配下におき、さらに朝鮮・南樺太(サハリン南半部)を領有し、南洋諸島を事実上の領土とする、世界有数の、またアジアで唯一の帝国主義大国であった。また海軍兵力では米英につぐ地位を保つ軍事大国として、東アジアの覇権を列強と争っていた。


しかし、経済的には日本ははなはだ劣弱な状態にあった。すでに触れたように国家総力戦は物的資源の莫大な消耗をともない、その消耗に耐えるだけの資源の確保が要請されるが、日本は石炭は一応自給できたものの、国家総力戦遂行上もっとも基本的な資源である鉄・石油をはじめ、非鉄金属類・ゴム・羊毛・綿花などはほとんど自給できず、もっぱら海外からの輸入に依存していた。しかも、これら原料の主な輸入先は帝国主義競争の当のライバルであるアメリカおよびイギリス領植民地であった。


(中略)


経済的な弱体と劣位にもかかわらず、日本がその実力以上の対外膨張政策を遂行したことは、国際金融における英米への依存を生み出した。近代の帝国主義を一般に特徴づけるのは資本の輸出であるが、日本の場合には、日露戦争の戦費の大きな部分を外債でまかなったのをはじめ、帝国主義的発展が外資の輸入に依拠してなされるという転倒した事態がみられた。


(中略)


日本は、以上のように、資源・貿易関係・国際金融を通じて、米英にたいして劣位におかれ、しかも、米英に深く依存し、その依存を軍事大国として存立するための不可欠の条件としていた。日本は一面では軍事力を世界の三強に列するまで発達させて米英と対抗しながら、他面で経済的には米英に依存し、その依存力(dependence)によって軍事大国として自立(independence)するという矛盾にみちた二面的な帝国主義であった。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.45)


しかし、事件(五・一五事件)のおよぼした影響は絶大であった。犬養内閣は満州事変について前内閣よりも軍部に格段と協力的であったが、犬養首相は事変の展開とともに台頭してきた軍部急進派を中核とする議会政治否認の動きには強く反対し、議会政治擁護を力説していた。五一五事件はこの議会政治擁護の中枢を直撃し葬り去った。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.48)


民衆の反応は、(一九三一年)一〇月二四日、国際連盟理事会で日本が完敗を喫したことで一変した。「国難到来」の強烈な危機感が民衆をとらえ、中国・連盟にたいする敵意・憎悪と日本軍将兵への感謝・激励とが一挙に噴出し、排外主義的・軍国主義的風潮がいちじるしいたかまりをみせた。


全国各地では、右の決議で日本の撤兵期限とされた一一月一六日にむけて、大小の規模の集会が開催され、「満蒙権益擁護」「連盟干渉排除」「支那膺懲」「在満将兵感謝」などの決議をおこなって気勢をあげた。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.54)


民衆の排外主義的な戦争支持こそ、政府の不拡大方針を屈折させ、対米協調路線からアジアモンロー主義的路線への転換を不動のものとした決定的条件であった。


(中略)


日本の民衆もまた国家的エゴイズムに深く囚われており、その侵略への協力・加担は、戦争指導者・為政者のそれとは異なる意味で、日本民衆の戦争責任を形成した。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.76)


満州国は発足にあたって、「五族協和」をうたい、「王道楽土」を実現すると称したが、その実態はこれらのスローガンとはかけはなれたものであった。


(中略)


満州国の実権を掌握したもとで、日本人は征服者・支配者として君臨した。大蔵公望(元満鉄理事・貴族院議員)は、三三年一一月の「満州視察報告書」で、


「一般に日本人の対満州国人の態度は頗る不遜であって、日本人に家を貸すと家賃を払はないものが多く、今では満州国人は日本人に家を貸すことを嫌ふ傾きが少なくない。・・・日系官吏は属官でも之を使用し、又新京に於ける主なる役所に於いては、其の食堂は日系官吏の手によって悉く日本人の経営を許可せられ、此の食堂に入ると食物は日本食、言葉は日本語で、全く満州国の役所とは思はれず」


と指摘した。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.110)


政府の「重大決意」と「挙国一致」の造出は、盧溝橋事件を好機として、一撃で中国を屈服させ、防共・資源・市場のために華北を制圧しようという日本の支配層の欲望の産物であり表現であった。一六日、近衛首相は米内海相にたいし、


「今次の問題解決と同時に、根本的に対支問題を解決するような談判を始めては如何と思う。・・・北支は満州国の接壌地帯なるが故に我が軍を駐屯せしめおるも、それよりも北支は経済開発の意味において、一層必要ありと思う」


と述べた。拡大派の田中軍事課長が、


「ただ盧溝橋事件の解決だけでは、いかにも物足らない・・・この機会に多年の北支懸案を片付けていきたいという考え方が閣僚間、とくに、総理の胸中から根強く去来し、それがために緊迫した事態の収拾が、むしろ、閑却せられる傾向がないとはいえない」


と業務日誌に記すほど、近衛内閣の姿勢は積極的かつ安易であった。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.132)


独ソ不可侵条約の成立は世界を衝撃した。とくに日本にとって、ソ連を敵とする軍事同盟の締結をめぐって一年以上にわたってドイツと交渉をつづけてきており、また、ノモンハン事件でソ連に重大な敗北を喫していただけに、そのドイツとソ連が手を結んだことは理解を絶する驚愕の極みであった。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.135)


ドイツの「電撃戦」の成功に日本は完全に眩惑された。日中戦争に行き詰まり、物資の不足が深刻化していた日本にとって、東南アジアを支配していた仏・蘭・英がドイツによって敗退させられたことは、仏印・蘭印などの資源を獲得するとともに、援蒋ルートを遮断しうる南進の絶好のチャンスが到来したものとみなされた。それのみでなく、ぼんやりしていると、ドイツによって仏印・蘭印が「独印」化されてしまうかもしれないという焦りさえ生じた。


政界では、ドイツにならう「新体制」が必要であるとして、枢密院議長・近衛文麿をかつぐ新党運動がおこされ、政党・近衛側近・軍部などがそれぞれの思惑から新党・新体制に絶大な期待をかけた。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.146)


独ソ戦争は日本にとっても予想外の不意打ちであり、第二次近衛内閣の対外政策を根底から覆すものであった。ドイツが独ソ不可侵条約を破って対ソ戦争を遂行したことは、日本が日独伊三国同盟の側に引き込もうとしたソ連を、逆に、三国同盟の敵側、すなわち、英米陣営の側へ追いやることにほかならなかった。日本は四国協商的構想を完全に崩壊させられたうえ、最悪の場合には米ソ両国を相手に戦争をしなければならないという重大事態に直面した。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.151)


アメリカの対日石油輸出の全面停止によって、日本は決定的な岐路にたたされた。日中戦争の成果を護持しようとすれば、南進を強行するほかないが、それはとりもなおさず米英との全面的な武力衝突とならざるをえない。米英との戦争を回避しようとすれば、南進を断念するほかないが、それはとりもなおさず中国からの全面的な撤収に連ならざるをえない。破滅を賭しても最後の膨張につきすすむべきか、ジリ貧の自滅に身をゆだねるべきか、破滅・自滅を免れうるだけの大譲歩と退却をおこなうべきか、日本はその選択を迫られた。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.156)


第三次近衛内閣→東条内閣成立の過程から確認されるように、第一に、駐兵問題の固執、すなわち、日中戦争の成果をあくまで護持しようとしたことが日米交渉を決裂させ対米英開戦を導いた最大の要因であった。その意味でアジア太平洋戦争は日中戦争の延長であった。


第二に、陸軍があくまで駐兵に固執したのは中国から撤兵=退却すれば「陸軍はガタガタになる」ことを恐れたからであった。その意味でアジア太平洋戦争は軍部がその存在と機構を護持するために国家・国民を道連れに遂行した戦争であった。


第三に、もし天皇・宮中グループ、近衛ら、あるいは、海軍が真に戦争回避をはかるのであれば、「朕自ら近衛師団を率ひ此が鎮定に当らん」(二二六事件)といった決意と気概をもって自ら事に当たるべきであったにもかかわらず、そうした行動をとらず、逆に最強硬の対米開戦論者である東条を首相に起用して戦争を回避しようとしたのは、奇策というにはあまりにも危険な賭けであった。その意味で、アジア太平洋戦争は天皇以下戦争指導者の無責任なあり方の産物であった。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.159)


ハル・ノートは、満州事変以来、東アジアで際限もない膨張をつづけてきた日本帝国主義にたいして、アメリカ帝国主義が全面的・根底的な対決にでたものであった。アメリカ帝国主義は日本帝国主義にたいしてアジアモンロー主義的路線とその獲得物を清算し、対米英協調の立場に回帰することを迫った。


しかし、同時に、ハル・ノートには「大西洋憲章」にもうたわれた反膨張主義・反ファシズムの理念が反映されていた。ハル・ノートはその意味でポツダム宣言の原型であり、ポツダム宣言はハル・ノートを発展させたものであった。日本は、二千万人以上の諸国民・民族と三一〇万人の自国民を死に追いやり、国土を焼土と化し、原爆まであびた挙句、ポツダム宣言を受諾して、ハル・ノートよりさらに広範な要求に服することとなる。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.170)


この作戦計画(※太平洋戦争の作戦計画)の重大な問題点は、戦争初期の作戦が計画されていただけで、初期作戦が終わった後の作戦の展望、長期戦化した場合の見通しが満足にたてられていないことであった。


(中略)


驚くべきことに、戦争勝利への明確な見通しがないまま、ヨーロッパにおける独伊の優勢をあてにして、大戦争の計画がたてられ、そのあやふやな計画に依拠して開戦が決定されたのであった。それはまさに無謀な「聖断」であり開戦であった。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.218)


マリアナ失陥につづくフィリピン戦の敗退に天皇や宮中グループは不安を不満をつのらせた。その結果、二月七日から二六日にかけて、平沼騏一郎・広田弘毅・近衛文麿・若槻礼次郎牧野伸顕・岡田啓介・東條英機が個別に戦局に関する所信を天皇に申し述べた。そのなかで二月一四日、近衛のみはとくに上奏文を用意し、「敗戦は遺憾ながら最早必至なりと存候」という断定のもとに、


「敗戦は我が国の瑕瑾たるべきも、英米の興論は今日までの所、国体の変革とまでは進み居らず・・・随て敗戦だけならば国体上はさまで憂ふる要なしと存候。国体護持の建前よりも最も憂ふるべきは敗戦よりも敗戦に伴ふて起ることあるべき共産革命に御座候」


と述べ、満州事変以来、戦争を推進してきた軍部内の「革新運動」の一味を「共産分子」ととらえたうえ、彼らを「一掃」して、「速に戦争終結の方途を講ずべき」であると主張した。


かつて青年時代に英米本位の世界支配秩序の打破を説き、首相としてアジアモンロー主義的な膨張政策を推進してきた近衛は、いまやその膨張政策の完全な破綻と大日本帝国の全面的崩壊の危機に直面して、宮中グループと軍部との相互依存的な権力分有状況を清算し、軍部排除=終戦=対米英協調への回帰という大転換を断行することによって、「国体護持」=天皇制の核心である天皇の地位・権能の保全と安泰と確保しようとした。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.232)


大本営は(一九四五年八月)七日午後三時三〇分、「広島市は敵B29少数機の攻撃により相当の被害を生じたり。敵は右攻撃に新型爆弾を使用せるものの如きも詳細目下調査中なり。」と発表し、防空総本部は壕内待避が有効で、手足を露出しないようにし、「軍服程度の衣類を着用していれば火傷の心配はない」などと発表した。陸軍はその効果を軽視しようとし、原爆であることも認めたがらなかった。


しかし、八日、東郷外相は原爆に関する米側の発表について詳細に天皇に報告し、天皇はこの種の武器が使用される以上、戦争継続はいよいよ不可能となったので、なるべく速かに戦争の終末をみるよう努力せよと命令した。この結果、九日に最高戦争指導会議が開催されることとなった。この日、プルトニウム二三九を用いた原爆ファットマン - TNT火薬二万二〇〇〇トンに相当する - を搭載してテニアン基地を発進したB29・ボックス-カー号は、第一目標の小倉が目視照準不能であったため、第二目標の長崎に向かい、午前一一時〇二分原爆を投下した。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.237)


ソ連の対日参戦は、ソ連の仲介による戦争終結という日本の戦争指導者の幻想を打ち砕いた。とくに国体護持のため共産革命をなによりも恐怖する天皇以下、宮中グループのうけた衝撃は深甚であった。九日午前九時五五分、天皇は木戸内大臣にたいし「戦局の収拾につき急速に研究決定の要ありと思う故に、首相と充分懇談する様に」命じた。一〇時一〇分、木戸は鈴木首相に「聖旨を伝へ、此の際、速にポツダム宣言を利用して戦争を終結に導くの必要を力説」した。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.239)


(ポツダム宣言受諾における留保条件について)一条件か四条件かをめぐる対立は、天皇制ファシズムの国家権力を相互依存的に分有してきた宮中グループと軍部とが、その権力の滅亡の危機に直面して、それぞれに自己の存命をはかった死活の闘争の反映であった。宮中グループは、政府首脳の協力をえて、自らが依拠してきた天皇制軍部・軍隊を切り捨てることで、天皇制の核心である天皇の地位・権能の保全・安泰を確保しようとした。天皇・国家・国民を本土決戦に道連れにする決意であった軍部は、自らの機構・存在の保全・安泰が保障されないかぎり降伏に同意しなかった。


その軍部の首脳が一条件受諾を呑んだのは、ソ連参戦によって本土決戦という最後の活路を封じられたからであり、また、決定がほかならぬ軍部自身の権力の根元であり、最高・絶対の統帥者である天皇=大元帥によって下されたからであった。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.245)


連合国側からの責任の追及を免れたからといって、天皇裕仁の戦争責任が消滅したわけではない。天皇裕仁は、少なくとも、敗戦後の遅くない時期に、みずからの戦争責任について内外に謝罪を表明し、退位し、隠棲すべきであったろう。しかし、天皇はそのような行為をとらず、その地位にとどまりつづけた。そして、戦後三〇年をへた一九七五年一〇月三一日記者会見で戦争責任について問われると、天皇は、


「そういう言葉のあやについては、私はそういう文学方面はあまり研究もしていないのでよくわかりませんから、そういう問題についてはお答えが出来かねます」


と答えた。




(江口圭一「十五年戦争小史」、P.246)


日本国民の相当部分が、一五年戦争の災厄にもかかわらず、素朴かつ無邪気に天皇・皇室に敬愛の念を抱きつづけているのは事実である。しかし、天皇裕仁の戦争責任をめぐるあり方が日本国民の相当部分の心を大なり小なり傷つけ、天皇・皇室への不信感を大なり小なり形成してしまったこともまた確かである。そして前者の天皇・皇室に敬愛の念を抱いている部分をも含めて、日本国民の圧倒的大多数は天皇裕仁およびその後継者のためにみずからの身命を二度と捧げることはしないであろう。聖断による聖戦=天皇の戦争の終結とともに、日本国民の聖上=天皇への帰一と献身もまた終結したのである。

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